このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年 (新潮モダン・クラシックス)
- 新潮社 (2018年6月29日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105910068
作品紹介・あらすじ
現代アメリカ文学の巨匠が遺した幻の作品群。目が眩むほどの生への焦燥と渇望――もうひとつの九つの物語。ああ、人生って、目を見開いてさえいれば、心躍る楽しいことに出会えるんだね――。「バナナフィッシュにうってつけの日」で自殺したグラース家の長兄シーモアが、七歳のときに家族あてに書いていた手紙「ハプワース」。『ライ麦畑でつかまえて』以前にホールデンを描いていた短編。長い沈黙の前に、サリンジャーが生への祈りを込めた九編。
感想・レビュー・書評
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訳者あとがきにあるように、非常に完成度の高い短篇が並んでいる。私がサリンジャーを好きな理由はある種の歪なポップさにあるので、こんなに洗練された小説も書くのかと少し驚いた。
サリンジャーらしいユニークな表現はありつつも、戦争が日常に影を落とす人々の営みは、儚くて脆い。台詞にはならない通低音としての虚しさがやりきれず、涙なしには読めなかった(特に「最後の休暇の最後の日」は胸が締め付けられるようだった)。
「ハプワース16、1924年」は、ファンにとっては嬉しい書籍化と思われるが、少し散漫な印象だった。 -
J・D・サリンジャーが雑誌に発表したままで、単行本化されていない九篇を一冊にまとめた中短篇集である。下に作品名を挙げる。
「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」
「ぼくはちょっとおかしい」
「最後の休暇の最後の日」
「フランスにて」
「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」
「他人」
「若者たち」
「ロイス・タゲットのロングデビュー」
「ハプワース16、1924年」
「他人」までの六篇が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に関連する短篇。中篇「ハプワース16、1924年」は「バナナフィッシュにうってつけの日」の主人公で、グラース家兄弟の長男にあたるシーモアが七歳の時にキャンプ地で足を怪我して動けない時に家族に書いた手紙の体裁をとっている。「若者たち」と「ロイス・タゲットのロングデビュー」は単独の話である。
「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールドが主人公。クリスマス休暇で家に帰ってきたホールデンはサリーとデートするが、ささいなことで諍いになる。「ぼくはちょっとおかしい」は学校を追われたホールデンが歴史教師の家を訪ねるごく短い話。二篇とも『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に同様の挿話が入っているが、別の短篇として読んでもおかしくない。もっと読みたいと感じたら『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでみるといい。
ジョン・F・グラッドウォラー二等軍曹、愛称ベイブは家に帰ってきている。その家を訪れるのが軍隊仲間のヴィンセント・コールフィールド。ヴィンセントは陸軍に入る前は小説家でラジオもやっていた。この日は、二人にとって出征前の「最後の休暇の最後の日」なのだ。ヴィンセントの弟のホールデンは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』以降に学校を退学して、陸軍に入ったものの、今は行方が分からなくなっているようだ。
第二次世界大戦中のアメリカの若者の戦争に対するナイーブな気持ちがストレートにぶつけられている。ベイブが父に話すことはホールデンに似てイノセントなものだが、自分の中にあるイノセンスをどう扱っていいか分からないホールデンとちがって、ベイブはそれを少し恥ずかしく感じながら、自分の意見として人に話すことができる。自分は戦争に行くが、それを全的に肯定しないし、帰還したら口を閉ざす。父親のように戦争で地獄を見て来たくせに「先の大戦では」などとは決して口にしない、と。
そのベイブは「フランスにて」で、ドイツ兵と戦っている。くたくたに疲れた今夜は塹壕を掘る力が出ない。死んだドイツ兵が使っていた塹壕は狭くて血で汚れていたが、毛布を敷いてそこで寝ることにする。その前に妹のマティルダからの手紙を読む。国に残したてきた恋人の様子や町の人々のあれこれが書かれている。「お願い、早く帰ってきて」と口に出し、そのまま眠りに落ちる。短いスケッチだが、戦場の夜を必要十分に描いている。
「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」の主人公はヴィンセント。ジョージアの雨の中、トラックに兵隊を三十三人のせて、ダンスに向かうところ。ホールデンはヨーロッパ戦線から無事帰国した後、今度は太平洋で戦闘中行方不明になっている。ビンセントはダンスの相手をする女性が四人分足りないことを気にしている。誰を下ろすか、どうやって決める?命のやり取りはないが、滅多にない楽しみの機会を奪うのは上官である自分だ。命令を下す者の孤独が胸に迫る。兵たちとの会話の間もホールデンのことが頭から離れない。タイトルは除隊したら書こうと考えている作品名のリストの一つ。
「他人」は除隊したベイブが妹を連れてランチをとりマチネを見るつもりで街に出たのに、ヴィンセントの恋人の家を訪ねる話。ヴィンセントはヒュルトゲンの森で戦死していた。ベイブは友人の恋人にその最期を、嘘偽りなく語る責任があった。迫撃砲にやられる死とはどういうものか。迫撃砲は音がしない。突然落ちる。最期の一言などない。サリンジャー自身がヒュルトゲンの森で実際に目にした事実だ。酷い死を語るベイブに花粉症のくしゃみをさせ、マティにヴィンセントの思い出を語らせることで、明暗のバランスをとっている。
「ハプワース16、1924年」はサリンジャーにとって最後の作品。雑誌発表時に酷評され、それ以降筆を執っていない。しかし、ある出版社からオファーを受けて単行本化寸前まで行ったというから、結局実現することはなかったが、作家自身は愛着を持っていたのだろう。訳者あとがきによれば「難解」な作品だそうだが、そうは思えなかった。七歳の子どもが書く手紙か、という批判は当たらない。グラース家の子どもはみな「神童」と呼ばれたのだから。なかでもシーモアは特別だ。
キャンプの中で浮いている自分とバディが、どれだけ不快な目にあっているかを訴える手紙なのだから、内容的に楽しいものではない。ユーモアは塗されているが、かなり苦味がある。性的関心の芽生えについてもけっこう触れているので、こういうところがお気に召さなかった人がいるのではないだろうか。ヴェーダンタ哲学が作家を壊したなどというのはいちゃもんのようなものだ。『ナイン・ストーリーズ』の「テディ」はシーモアの前身と考えられているが、そのテディの方が余程ヴェーダンタ哲学について詳しく語っている。
兄弟たちによって、伝説的存在にまで高められてしまっているシーモア。その神童のありのままの姿を見せたい、と考えたのは兄の手紙をタイプ原稿に打った次兄のバディだ。作家であることからバディはサリンジャー自身と重ねられることが多いが、おそらく作家自身も、複雑にして猥雑なシーモア像を描きたかったのだろう。家族に対する愛にあふれ、自分の好きな作家、作品について誰はばかることなく目いっぱい書きまくっている。それまでの作品にあった抑制を欠いていることが批評家たちの受けを悪くしてしまったのだろう。しかし、これも間違いなくサリンジャーだ。読めてよかった。
後の二篇にふれる余裕がなくなってしまったが、どちらも短篇として他の作品に引けを取らない。最後に訳だが、みずみずしい文章で、サリンジャーの訳として申し分ない。ただ、一つだけ注文をつけたいのが、原文で「ベシー」と「レス」とされている二人の呼称を「母さん」と「父さん」に変えてしまっていることだ。グラース家の兄妹は母親をベシーと呼ぶ。それは前からそうだったし、別にいけないわけでもない。訳者が気になって仕方がないからと言って勝手に変えるのはどうかと思う。訳自体はとてもいいので残念だ。 -
サリンジャーの単行本初作品。雑誌に発表されただけだったもの。単行本に登場した主人公たちや、その家族たちが登場する。
懐かしいサリンジャー。ファンにとっては、嬉しい作品集。
後書きにもあったが、「ハプワーズ16、1924年」わかりにくかった。 -
表題作ほかめちゃくちゃ順調に読めてサリンジャーってこんな楽勝だったっけと思ってたら最後の「ハプワース」でボコボコにされた いやふつうに長くない?封筒パンパンじゃない?早熟すぎない?終わる終わる詐欺すごくない?いや、長くない?(最初に戻る)
7歳にして頭の回転が人智を超えて愛情深いのか振り切れて残酷なのかそもそも人間じゃないのかの境界に立ち存在していること自体が家族をもボコボコにしそういう自分の引力をぜんぶ理解した上でめちゃくちゃに愛してるよ!!なんて書きなぐるような人はそりゃあ自殺するのかもしれんと思った(シーモア)
でも何冊か持ってるサリンジャー訳書のなかではずば抜けて読みやすくて、翻訳だけでこうも違うのかと驚いた だってサリンジャーはひとりしかおらんのやで ひとりしかおらんサリンジャーが訳者ごとに別人みたいになって本を出してるんやで 翻訳はすごい -
★2はフェアじゃないかもしれない。
何故なら好みの問題だから。
『ハプワース16、1924年』は、
ずっと読みたかった作品だったが絶版になっていたため入手できず、
去年ようやく別フォーマットで再販されたことで入手可能になった、
とても思い入れのある作品。
私はグラース一家のサーガが好きで完読したかったのだ。
しかもこれは私が大好きな(恋をしていると言ってもいい)シーモアの話だ。
本当なら同じ新潮文庫で欲しかったので、文庫が出たら書い直すかも。
なんだけどなー。
ちょっと、私にはだめだった。
賢しい子供の自意識満載の長ーい独白。
というフォーマットが。
サリンジャーはティーンエイジャーの多感な思いの表現が得意な人なんだけど、
だからこそシーモアの繊細な、危うい姿も描けるんだけど、
なんだけど、
私は子供や若い子の自意識が苦手でいらいらしてしまうのだ。
実はそれ故基本的に私はサリンジャーが苦手なのである。
でもグラース・サーガは例外だったので、
私にとって最後の1編を、
こんな風に感じてしまってとても残念。
『ライ麦〜』が好きな人にはいいのかも。
あと、グラース家の子どもたちは親を名前で呼んでいたと思うのだけど?
それはグラース兄弟の自立性・賢さを表現する大切な一要素だったはず。
こういう小さなところが、全体の印象に影響を及ぼすのよ。
翻訳って大事。
他の短編も私の苦手なホールデン系で受け付けませんでした。
完全に好みの問題です。
すみません。
ところで、サリンジャーの小説は、戦争というものを抜きには語れない。
登場人物はすべてが楽しい年頃なのに何となく影を感じるのは、
サリンジャーの戦争体験によるもの。
戦争の描写が一切なく(従軍するなどの表現はあるが)、
その体験の影響を表現しているという点では、
サリンジャーは上手な作家だと思う。
でも、この一冊は収録作品がなんとなく全体的に似ているんだよなー、
というのも低評価の一つです。
あとで読み直して評価変えるかもだけど。 -
素晴らしい本がいつの間にか出版されていた。あの、サリンジャーの本として刊行されていない短編をより合わせたもので、キャッチャーインザライのホールデンやグラース家の物語の断片が収録されている。短編で読むホールデンもすごく心が締め付けられた。その後、キャッチャーインザライという長編小説に収斂していく物語ではあるが、一場面一場面が輝いていた。そして、ホールデンは大人になったら軍隊に入って行方不明になってしまうんだね。サリンジャーの中では死すべき主人公として設定されていたようであまりに悲しい。8遍は楽しく読んだが、ハプワースだけはどうしても読めたもんじゃなかった。こんな支離滅裂な手紙、とてもじゃないけど最初から最後まで読み通すことはわたしにはできなかった。一応、大工よ〜ももう一度読もうと思っているけれど、後期のサリンジャーの筆致が精彩を失っていく過程を見るのは辛い。
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