緑の天幕 (新潮クレスト・ブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (720ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901776

作品紹介・あらすじ

ソ連とは一体何だったのか? ロシアを代表する人気作家の大河小説、ついに完訳! いつも文学だけが拠りどころだった――。スターリンが死んだ一九五〇年代初めに出会い、ソ連崩壊までの激動の時代を駆け抜けた三人の幼なじみを描く群像劇。近年ではノーベル文学賞候補にも目される女性作家が、名もなき人々の成長のドラマを描き、強大なシステムに飲み込まれることに抗する精神を謳いあげた新たな代表作。

感想・レビュー・書評

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  • 5冊の驚嘆すべき本:現代の古典リュドミラ・ウリツカヤ - ロシア・ビヨンド
    https://jp.rbth.com/arts/79745-ulitskaya

    ウリツカヤ 『緑の天幕』 (沼野恭子研究室)
    http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/nukyoko/2012/02/post_85.html

    前田 和泉 | 研究者 | 研究活動 | 東京外国語大学
    http://www.tufs.ac.jp/research/researcher/people/maeda_izumi.html

    リュドミラ・ウリツカヤ、前田和泉/訳 『緑の天幕』 | 新潮社
    https://www.shinchosha.co.jp/book/590177/

  • ほぼ一か月、ソ連の歴史の本に寄り道したりしながら少しずつ読み進めていたので、読み終わった翌日に「あれ、もう『緑の天幕』の登場人物の“その先”がない」と気が付いて寂しくなった。連続ドラマやアニメが終わってぼんやりしてしまうことを「○○ロス」と呼ぶが、しっかり『緑の天幕』ロスになってしまった。

    いちばん強く感じたのは、人間はひとりひとりかけがえがない、しかしとても小さくて弱い存在だということ。本書に登場する多くの人たちが、いろいろな、まったく劇的ではない理由で死んでいく。それぞれの人生にあった出来事と思い出は語られず、その人とともに消滅する。ここに人間に対する新しい観点は何もないが、ただそういうものだということが現実味をもって迫ってきた。

  • 幼馴染のイリヤ、ミーハ、サーニャを軸に、彼らと交わるたくさんの人生の断片から、ソ連の二十世紀後半という一つの時代を描いた長い物語。
    数々のエピソードを通して、その国その時代の大きな流れが静かに押し寄せてきた。
    時間をかけて読めてよかった。

    反体制運動に関わる人もそうでない人も、様々な思いがあってそれぞれ生きている。
    多くの人が文学を愛していて、それが拠り所になっているのがとても印象的だった。
    その下地を作った、子ども時代にシェンゲリ先生と文学ゆかりの場所を巡る〈リュルス〉活動をしていた頃が一番よかったな。

  • 時代は、スターリンが亡くなった一九五三年から、亡命詩人ブロツキーの亡くなった一九九六年までの四〇年あまりの間。幼なじみの三人の少年、イリヤ、サーニャ、ミーハを中心に、その家族や友人、師など多数の登場人物(一体何人いるのだろう)そして作家や詩人の声が網目をなす大河小説。


    感想を書くのが難しいが、書ける部分だけでも記しておきたい。
    オーリャのイリヤへの執心がとまどいを感じるほど強く描かれているようにおもった。
    ミーハの自死が悲しかった。
    うまく言葉にできないけれど「退役した恋」が印象的だった。

    ウリツカヤは、「ソーネチカ」と、こちら「緑の天幕」で二冊目。他の作品も読んでみたいとおもった。

  • 「おまえバカじゃないのか?これ以上悪くなんかなりようがないだろ!」(P9)

    1953年スターリンの死から始まって、1996年1月28日までの人間模様が描かれる。

    主要な登場人物は3人の男子、イリヤ、サーシャ、ミーハ。彼らは良き先生に出会い成長していく。彼らを軸に蜘蛛の巣のように張り巡らされた人間関係が描かれる。物語は時計の針が行きつ戻りつ、閉じられた物語に違う扉が取り付けられまた開かれる。彼らの若さゆえの情熱から生じる軽率な行動は希望と絶望をもたらす。

    誰がどうなるのか、というより「この国は、歴史は、どうなってしまうのだろうか?」という、時代のうねりを感じつつ読むことができました。

    ロシアでは2010年発行。こういった物語が今も書かれるということ自体に感動を覚えます。そしてこの物語は、あの土地でしか生まれないのだろうとも思います。

    ウリツカヤの未訳作品も翻訳されることを期待しています。

    <後書きから>
    「訳者あとがき」…ウリツカヤは1943年生まれ。理系出身。サミズダートの非合法文学を読んでいたことが発覚、1970年に解雇。その後文筆業へ。

  • 『「死んだのよ!何寝てるの、このバカ!起きてよ!スターリンが死んだのよ!」「発表があったのか?」父は前髪が額に貼りついた大きな頭を起こした。「病気だって言ってた。でも死んだんだよ、絶対そうよ、死んだのさ!私の勘がそう言うんだよ!」それからまた訳のわからない叫び声が続き、その合間に芝居じみた問いかけが差し挟まれるのだった。「ああ、何てこと!一体これからどうなるの?私たちみんなどうなっちまうの?どうなるのさ?」父は軽く顔をしかめて乱暴に言い放った。「何叫んでるんだ、おまえバカじゃないのか?これ以上悪くなんかなりようがないだろ!」』―『プロローグ』

    これまで読んだリュドミラ・ウリツカヤの「ソーネチカ」や「それぞれの少女時代」や「子供時代」や「女が嘘をつくとき」のような作品を十冊ほど集めてばらばらにし、一つ一つの断片を他の断片と丁寧につなぎ合わせたらこんな本が出来上がるような気がする。ただしその縫い糸の辿る道筋は単純ではない。時に素早い並み縫いの運針で一人の人生をさっと駆け抜けるように辿ったかと思えば、ある時には返し縫いのように同じ場面を何度も繰り返しなぞってみせる。同じ話が相対する二人の視点から語られたかと思えば、背景の点描のように描かれていた人物が急に前景となって物語の裏側を語る。繰り返し登場する人物は多いが、彼らが物語の主人公であるとは言い切れないし、それぞれの人生が全て語られる訳でもない、小さな端切れを集めた寄せ布細工の物語。しかしそこで語られている主題ははっきりとしている。歴史の流れは俯瞰の視点で解釈される必然の流れなどでは決してなく、個人の決断はそんな歴史の必然の下で決まるものではない。逆にばらばらのちっぽけな人々の細々とした小さな決断が幾つも重なり合うことが、大きな変化を生み出してゆくのだ。そんなことを改めて読み取る。

    例えば「あの本は読まれているか」で描かれるパステルナークとその愛人の物語のように、時代の変化を誰かの行動や言説からの視点で物語ることへの誘惑は大きいが、ウリツカヤはそういう時代のアイコンのような登場実物を描かない。パステルナークを始め数多くの文化人の言葉は引かれているけれど、それを発した人ではなく飽くまで受け取った人の物語として時代の変化を描こうとしているのだと思う。

    『アリョーナはミーハと顔を見合わせた。自分たちは単なる町の片隅ではなく、歴史の中で生きているのだ……。二〇年前にはパステルナークがこの通りを歩いていた。そして、一五〇年前にはプーシキンが……。そして僕たちもここを通ってゆく、いつまで変わることのない水たまりをよけながら』―『イマーゴ』

    他の作品でも同じ印象を受けたけれど、ウリツカヤの作品の登場人物たちの声は決して大きくはない。大きくないどころか生活している筈の世界ではほとんど声を上げることがない。そして時折声に出して語ることは心の中で思うことと同じとは限らない。それは主人公たちが生きる社会を覆う重石のようなもののせいだが、そんな抑圧された人々が、国家権力という顔のない相手を前に屈しながらもしぶとく生き抜く様が常に描かれる。国家権力は全体主義という有無を言わせぬ正義を人々に強い、個人の顔をのっぺらぼうにしてゆく。国家権力とは時にたった一人の為政者のことを指すようでもあるが、しかし全ての責任が一人の個人に還元される訳ではないということも作家は痛いほどに理解しているように思う。一つの体制が転覆しても次の体制が必ずしも全てを解決する訳でもなく、虐げられていた人々が救済される訳でもない。結局のところ誰が為政者であろうとも、個人の自由な意思を許容すればするほど社会全体を維持するために投下される資源が増加してしまうことは避けられず、全ての為政者はすべからく一つの単純な価値観に基づく全体主義の引力圏から逃れられない(多少の軌道半径の大小はあるとはいえ)。つまり、スターリン以降のソビエト連邦を舞台にしたこの壮大な物語は、1956年以降のハンガリーの物語でもあり、1968年以降のチェコ・スロバキアであってもおかしくない。そしてそれは彼岸の出来事と割り切ることは出来ない、そんな思いがひたひたと忍び寄る。

    『シェンゲリ先生は多民族的な血筋で、ジョージア人の名字を持ち、ロシア人として住民登録されていたが、実はロシア人の血は少しだけだった。他にドイツ人とポーランド人の血も混じっていた。ジョージア人の祖父はドイツ人女性と結婚し、二人が一緒に学んでいたスイスでヴィクトルの父ユリウスが生まれたのである。ヴィクトルの母クセニャ・ニコラエヴナの家系も負けず劣らず異国情緒に溢れていた。彼女の父親は、ポーランド人流刑囚とユダヤ人女性(専門教育を受けた最初の女性准医師のうちの一人)を両親に持ち、司祭の娘と結婚したのだが、この司祭の家系がロシア人なのだった。(中略)シェンゲリ先生には、何か一つの民族に属していることを誇りに思うという感覚が全くなかった』―『新しい先生』

    大切なのは、誰かがこちら側とあちら側という線引きを行い色を塗り分けようとする時に、意図されていることを嗅ぎ取る柔軟さを持ち得るか否か。その意図は明確な意思を伴っていることもあれば、無意識の選民思想から発することもある。つまりそれはあからさまな悪意に端を発するというよりも、悲しいかな人間の性[さが]に由来するものなのだろう。けれど人間が人としての顔を完全に失ってしまうことも滅多に起こらない。プラハに侵攻した戦車の兵士は民衆の声の前にうな垂れて動けなくなり、ウクライナの町でも民衆の説得に応じて引き返す戦車もあった。しかし、そんな個人が集団として動くとき、それがどんなモノであるにせよ大儀が組織を動かし、大儀に支えられた正義が銃の引き金を弾かせる。銃殺刑において、複数の銃口が死刑囚に向けられるのは個人としての心理的な負荷を軽減させる為でもあろうけれど、集団による行為が正当性を担保するからでもある。そんな罠に陥らないようにするには、世捨て人のように世間との交渉を断って生きていく他はないが、それでも社会性というものは執拗に人の人生を規制しようとする。言論は、多かれ少なかれ、独裁体制における統制にしろ一見民主的な社会におけるポリティカル・コレクトネスにしろ、何らかの意図によって統制される定めにあるように思える。しかし希望はあると、ウリツカヤは作中の人物の一人に語らせてもいる。人々の自由意思を完全に排除することができないように、言葉は物語の中で生きてゆく。できることならそんな言葉たちを間違わずに読み取れるような読者でありたいと心から願う。

    『彼はとりたてて特別なことを話すわけではなかったが、いつも話せる「ぎりぎり」のことを口にした。過去だって決して現在よりよかったわけではないということを、シェンゲリ先生はずっと前から理解していた。そんなことは当たり前だ。どんな時代であれ、それに飲み込まれることなく、そこから逃れ出なくてはならないのだ。「文学っていうのは、人間が生き延び、時代と和解するのを助けてくれる唯一のものなんです」とシェンゲリ先生は教え子たちに言って聞かせた』―『〈リュルス〉』

  • ご時世を踏まえ手に取ったロシアの小説。読みながら自分のロシア文学の素地の無さに嘆く。私にもっと教養があれば本書を存分に堪能できたろう… しかしそれでも社会主義体制下で営まれる人々の悲喜交々(崇高さ&しょーもなさ)を楽しむことができた。

    詩や文学や音楽や歴史等の芸術を様々な日常に絡めて時代や人生を紡ぐ作家の筆力に唸らされ、改めてロシア文化の分厚さと重厚さに圧倒される。

    あとがきで紹介される作者のインタビューにて、
    「時代に勝った者などいません。拷問やラーゲリに心を折られなかった者たちは、野心や私欲や嫉妬に打ち負かされました。それは集団的な罪、集団責任であって… 私に分かるのは誰も裁くことなどできないということです。…ソヴィエト的人民とは、従順かつ臆病で尊厳に欠けた、怠惰で好奇心のない人間のことです。」
    日本にいると西側の論理ばかりが聞こえ、ロシアを断罪するような意見を言うのはとても簡単だ。しかし、私達は白黒付けられるような立場にいるのか、比較的自由な時代に生きながらも、目や耳に飛び込んでくる情報に対して無防備(従順)かつ思考が怠惰に陥っていないか自問すべきではなかろうか。

    帝政時代から現代に至るまで、厳しい言論統制下にあるロシアの人々にとって、文学こそ自分自身の頭で物事を思考し自由になれる拠り所であるからこそ、自由が当たり前の国では生み出すことのできないものが生まれるのだろう。

  • イリヤ、サーニャ、ミーハ3人の少年の生い立ち、成長を中心とした物語、その1人イリヤと学友オーリャの書き表しが多くを占めるのは、イリヤの個性が突出してソ連という時代背景から波乱万丈という生涯が輝きを放ち著者に最も訴えたからだろうか。
    3人が兵役に適性を欠いた事が彼らにとって幸運だった。
    3人とも家族環境やシェンゲリ先生を中心としたリュルスの活動で思春期の彼らの思想や理念、哲学が育まれ、自分に正直に生きた人生だったと思う。
    登場人物が多く関係をつかむのが難しかった。

    あの強権的、独裁国家の共産国ソ連という国で、そこには思想や言論、見聞、読書、広報、文化等に制限された困難な状況において、この小説は人々はどう生きたかを伝え、共にその時代を生きた著者が抗う人々に寄り添う共感が伝わり温もりを感じる。

    ブレジネフ時代を知る者にとって、強固なソ連がはてなしく続くものと思っていたが、それから10年もせず崩壊するとは分からないものだった、人が造ったものはいつかは終わりが来るという事か。

    時に話題になったジョージ・オーウェルの「1984」や、ソルジェニーツィンの「収容所群島」も物語れ、懐かしく読んだ。
    確かソルジェニーツィンが来日し写真週刊誌「FOCUS」に掲載され記事を読んだ事が思い出される。

    著者はノーベル文学賞受賞者の有力候補らしい、はたして選出されるだろうか。
    700ページに及ぶ大小説、大分読み終えるのに日数を要したが、読んで良かったと思える本となった。

  • やっと読了。
    目に負担をかけたくなくて、休み休み読んでいたら、
    案の定、時間がかかってしまった。720頁。

    こちらの知識が足りず、きちんと理解できたとは言えないけれど、
    すごいものを読んでしまった。圧巻。

    また、ゆっくりとまとめたいところ。
    とりあえず、今は自分にご苦労さんを♫


    ◆2.25追記◆
    危惧していた、ロシアのウクライナへの軍事侵攻が始まってしまった。
    地下鉄構内へ避難し、恐怖に震える人たちの姿は辛い。

    本書を読みながら、何とか避けて欲しいと考えていたのに・・・
    とにかく穏やかな形での収束を願うばかり。

    本書について、一読しただけでは語れそうもないし、
    どこから語り出したら良いかもわからない。
    (とりあえず中断)

    ◆2.27追記◆
    以下ブログ「旅と、本と、おしゃべりと・・・」に感想をアップしました。
    https://blog.goo.ne.jp/mkdiechi/e/7fa558106b43b3a30e114c3ae366df0c

  • ソ連70年。
    そこに暮らした市井の人々が織りなすタペストリー。

    美しい少年時代から、苦悩をはらむ青年時代を経て、
    重苦しい抑圧に怯え抗う大人たちへ。

    ロシアの広大さ、深さ、そして長い冬がまるで目の前にあるようなぶ厚い700ページ。
    人物関係図を乗せなかった新潮社は、きっと「悔しかったら自分で作れ!」「2度読め!」って言ってる。

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