アコーディオン弾きの息子 (新潮クレスト・ブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (576ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901660

作品紹介・あらすじ

僕の父はファシストとして人を殺したのか。現代バスク語文学を代表する巨編。カリフォルニアで死んだ幼なじみが書いていた「アコーディオン弾きの息子」と題された私家版の回想録。親友はどんな思いで故郷バスクを去ったのか。作家は遺された言葉を元に、少年時代からの二人の物語を紡ぐ。スペイン内戦から民族解放運動まで、波乱の近現代史を描き、美食だけではないバスクの真の姿を伝える長篇小説。

感想・レビュー・書評

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  •  僕の名前はホセです。でもみんなにはヨシェバと呼ばれています。
     僕の名前はダビです。でもみんなにはアコーディオン弾きの息子と呼ばれています。

    それから42年後の1999年にダビは50歳で死んだ。
    ダビとヨシェバはスペインとフランスに跨がるバスク地方のオババ村(架空)の出身で、成長したダビは、伯父のフアンからカリフォルニアのストーナム牧場を相続し、そこにヨシェバが訪ねてきていた。
    そしてヨシェバはダビの妻メアリー・アンから「アコーディオン弾きの息子」という題名のダビの手記を預かった。それはダビやフアン伯父さん、ヨシェバたちの言語であるバスク語で書かれていた。
    バスク語。使用する人は百万人にも届かない。自分がその言語を捨てれば、言語を衰退させて消滅させてしまうような言語。
    ダビの家族でさえ読めないバスク語で書かれたその手記は、ダビが遺した故郷オババ村の記憶だった。それは人生を変えるための儀式でもあり、二人の娘のリズとサラに、父親である自分がどんな人間であるかを知ってもらうために残そうと決めたものだった。

    <この本には、オババのアコーディオン弾きの息子が書き残した言葉が含まれている。彼自身の言葉と、僕の言葉、そして僕らと友情を結んだ多くの人々の言葉が。P29>

    ===

    この「アコーディオン弾きの息子」という小説は、バスク語で書かれた元本と、それを作者アチャガ自身が妻とスペイン語訳した本がある。(これはダビとメアリー・アンの関係にも似ている)
    今回の日本語訳は、バスク語から日本語への直訳と、スペイン語版の両方取り入れた折衷訳になり、変更点やニュアンスの違いを両方がはいっているということ。
    バスク語からスペイン語約したのは作者自身だが、スペイン語版にはいくつかの記載が削除されているらしい。例えば日本人に関する記載は削除されているらしく、それはやっぱり日本語版に入れなければね、というようことで、日本語訳者の金子さんがバスク語版から入れたらしい。
    (日本に布教に行ったザビエルはバスク系だという話、ダビたちが日本人労働者と出会った話。でもこの日本人労働者はいいように利用されたという気がしないでもない)

    そして小説としては何重もの構造になっている。
     ①最初の章はヨシェバ一人称。この物語がどういうものか。
     ②ダビの自伝を元にヨシェバが小説化したもの。ダビの一人称。この本の大部分。
     ③それらにヨシェバが書いた短編小説が差し込まれる。
     ④さらにダビが書いた小説も差し込まれる。
    ⑤ダビの一人称の語り。(ダビの書いた小説とは別)
    そのため、同じことを別の目線から語られたり、本人も知らないことは謎のまま残ったり、あえて書かれなかったこと語られなかったことがある。

    【かんたんな人物紹介】
    ❐ダビの家族
    ・父アンヘル。アコーディオン弾きであり、オババだけでなく県政にも影響力を持つ政治家。
    ・母カルメン 裁縫が得意で、オババ村では裁縫工房を切り盛りしている。
    ・伯父フアン(母カルメンの兄) アメリカにストーナム農場を持っていて、夏の時期だけオババ村の更に外れのイルアイン集落の農場に帰ってくる。
    ・妻メアリー・アン、娘のリズとサラ ダビが移住したアメリカのストーナム牧場で暮らしている。
    ❐オババ村でバスク語を話す”幸福な農民”たち
    ・伯父フアンの農場を預かる青年ルビス、その弟のパンチョ、木樵で後にボクサーになるウバンべ、少年サルヴァトル、初恋の女性ビルヒニアその家族たちなど。
    ❐オババ村の上級階級者の子供たち
    ・ホテル支配人の子供のマルティンとテレサ、医者の娘のスサナ、製材所経営者の息子で背骨の婉曲を持つアドリアン、そして製材所支配人の息子のヨシェバ。
    ❐教師
    ・教師レディン(渾名) 父親は共和国支持者として射殺された。
    ・理系教師セサル 政治活動に関わったために職を追われてオババに来た。ダビは、セサルの田舎教師としての顔と、厳しい過去を垣間見せる様子を「第一の目」「第二の目」と表現する。
    ❐政治関係
    ・ホテル支配人ベルリーノ。マルティンとテレサの父親
    ・デグレラ将軍 フランコ軍としてオババに駐留した将軍。ベルリーノとアンヘルは彼により取り立てられた。
    ❐共和国支持者たち
    ・ホテルの持ち主だったドン・ペドロ、ルビスの父エウセビオ、レディンの父を始めとして射殺された8人の男たち。
    ❐バスク独立運動家たち
    ・ヤコバ(組織での名前はパピ。昆虫学者)、アウグスティン(組織での名はトルクまたはコマロフ)、ヨシェバ(組織での名はエチェベリア)、ダビ(組織での名はラムンチョ)

    【バスク地方、バスク語】
    現代のスペインとフランスに位置にあり、バスク語が使われる。
    バスク地方の歴史は古く、独自の言語や文化を持っているのだが、スペインのフランコにより支配されて自治権を奪われたりバスク語を禁じられたりした。
    少数民族というと、今にも失われそうな文化を継承しているように思えるが、
    文化も言語も暮らしも時代とともに変わっている。
    バスク語使用者は現在は100万人程度。うしなわれかけてはいるが、新しい社会に対応した言語や生活様式になっている。

    【ダビの政治信条の変化】
    平穏な田舎の上流階級にあったダビは、成長するにつれて父アンヘルが共和国主義者を密告し、殺害に関わったということを知るようになる。
    さらにダビの好きな伯父さんであるフアンは反ファシストで、追われる人たちを家の隠し部屋に匿ってきた。
    ダビにとって、父はフランコ政権のファイスト側の人間であり、親しい伯父のフアンや、ルビスを始めとする大好きな農民たちは反ファシストだった。
    それが成長するに従いダビの政治心情や政治活動に影響を及ぼすことになる。
    ダビをずっと苦しめていたのは
     <ダビ、このことについてどう思う?自分の父親は人殺しだと思うか?>
    という問いだった。

    そしてダビが一番好きな人間である”幸福な農民”のルビスがフランコ政権に殺されたことにより、ダビはバスク開放の過激なテロ行為に手を染めてゆく。そしてかつて伯父フアンが「行き場がなく命を狙われた友人たち」を命がけで匿った隠し部屋に、自分たちが誘拐した政敵たちを閉じ込めるという使い方をするようになる。

    ダビが遺した手記は娘たちに父親を知ってもらうためのものなんだが、
    少年だったダビは父アンヘルが「自分の政治信条ではなく友人に誘われてファシストの仲間になった」「政治信条が違う相手を殺した」ことに大変反感を覚えるのだが、ダビ自身も「友人に誘われてテロ行為に関わった」「政治信条が違う相手と戦うために爆弾テロや拷問に関わった」ということになるので、この手記を娘が読んだらちょっと複雑にならないか‥と思うのは、私がのんきな日本人だからだろうか‥

    【”アコーディオン弾きの息子”という呼名について】
    ダビの父アンヘルはアコーディオン弾きだったのがフランコ軍に協力したためオババ村ばかりではなく県にも影響力を持つ政治家になった。息子のダビにも政府の記念式典やパーティでのアコーディオン弾きの仕事を継がせたがっている。
    ダビはまだ子供の頃は父親からアコーディオンを習っていて、8歳のダビの「ぼくはアコーディオン弾きの息子と呼ばれています」という言葉も平和な田舎の村の平和な家族の象徴だったのだろう。
    しかしダビは、父アンヘルがフランコ反乱軍に味方して、共和国支持者たちをオババ村で射殺した事件に加担していたことを知りる。そして過去を知る木樵たちはダビを「アコーディオン弾きの息子か」と、少し侮蔑を込めて呼ぶ。
    ついにダビは、父に逆らいフランコ政権関連の記念式典でのアコーディオン演奏を拒絶する。
    オババ村を出たダビは父の名字を捨てて母の旧姓を名乗る。

    しかしそれでもアコーディオンは結局手放さなかった。
    すると彼が遺した手記の題名「アコーディオン弾きの息子」は、結局消せない自分のルーツ、自分がしたテロ行為への自戒、そしてやはり家族への愛情(父アンヘルとは一応和解?する)なども含まれているのだろう。

    【ダビの後半生と、遺したかったもの】
    アメリカに渡ったダビは、スウェーデン系アメリカ人のメアリー・アンと出会い結婚し、娘のリズとサラも生まれる。
    バスク出身のダビと、スウェーデン系のメアリー・アンが、第三国であるアメリカのストーナム牧場で家庭を作っている。
    彼らが使う言語は、英語、スペイン語、そしてダビと伯父フアンが話すバスク語。ダビはがスペイン語で書いた手記はメアリー・アンが英語にして出版していた。
    最後にダビが遺したバスク語の「アコーディオン弾きの息子」はメアリー・アンも読むことができないため、ヨシェバに託した。
    ダビはバスク語を少しでも娘たちに伝えたいと思ったのだが、多分ほとんど伝える事はできなかったのだろう。

    【ダビの手記】
    ダビの遺した小説は自伝の「アコーディオン弾きの息子」の他に、
    伯父フアンが、ドン・ペドロを匿った「オババで最初のアメリカ帰りの男」と、
    短編の「テレサ」「アドリアン」(それぞれオババ村時代の幼友達)がある。このあとも自分に関わった人々の短編を書いてゆくつもりだった。
    しかしテレサとアドリアンってたしかに幼馴染だけれど、オババ村での付き合いであり政治信条も違う、ある意味ダビにとってはそこまで心を許せる相手ではなかったと思う(なお、テレサはずっとダビに恋していて、一瞬付き合いかけるが決定的な別れが来て、それも過ぎたらまた穏やか幼馴染として別れるのだが)
    なぜダビにとってもっと親しいであろうルビスやヨシェバを先に書かなかったのだろう?大事な相手は後で書くつもりだったのかな。

    【歴史上と、小説内の年表】
    小説では年代や語り手が入り混じっているので、年代順に並べてみました。
    ❐1936年-1939年 
    ・歴史:スペイン内戦。左派の人民戦線政府(反ファシズム、ソビエト、メキシコ、欧米知識人が協力)に対して、フランシスコ・フランコを中心とした右派(ファシズム陣営。ドイツ、イタリア、ポルトガルが協力)が反乱を起こす。
    1939年にフランコが戦争終結を宣言し、独裁政治を樹立した。
    フランコ政権の政党”ファランヘ党”が完全なファシスト体制への転換を目指した。
    スペインは同年に国際連盟を脱退し、第二次世界大戦では中立を宣言。
    フランコ独裁時代にはバスク語が禁止された。
    ・小説P281〜「オババで最初のアメリカ帰りの男」の章:1936年の武装蜂起でオババ村に進軍したのはデグレラ将軍だった。ファイストのベルリーノとその友人のアンヘルはデグレラ将軍傘下に入る。彼らはオババ村で射殺された共和国支持者の事件に関わっていると思われる。
    フアンは、オババ村のホテル支配人ドン・ペドロ、ルビスの父エウセビオを隠し部屋に匿いフランスに亡命させた。なお、アメリカに牧場を持てたのも、ドン・ペドロからの謝礼金による。

    ❐1957年
    ・小説P13〜:ダビ、ヨシェバ、8歳。オババの小学生。

    ❐1960年代− 
    ・歴史:バスク紛争 スペイン・フランス両国からのバスク地方の独立を目的とした武装闘争が行われる。過激な運動を行ったのは合法組織である「バスク祖国と自由」(通称ETAーエタ)。

    ❐1962年
    ・小説:ダビ、ヨシェバ、13歳。オババの上流階級の子どもたちがドノスティア地方のラサール中学に通うことになる。
    しかしダビが関わりたがったのは、上流階級者ではなくて村の農民たちとだった。とくにフアン伯父の農場を預かっているルビスは、ずっとダビにとって一番好きな人間であった。<幸福な農夫>であるルビスやその弟のパンチョ、木樵で後にボクサーになるウバンべたちと一緒に過ごすことを望んでいた。
    小説内でもルビスはかなり魅力的に描かれる。田舎の農民だが、美男子で意思が強く、誰にでも隔てないが余計な立ち入りはしない。
    物語の最初から、彼が若くして死ぬことが明かされている。その死の真相はダビやヨシェバの小説で語られてゆく。

    ❐1965年頃
    ・小説 オババでの記念式典で、ダビは父アンヘルの代わりにアコーディオンを弾くことを拒絶する。ダビが初めて自分の意思をはっきり表した。

    ❐1970年
    ・小説P337〜:ダビは、ホテルでのアコーディオン弾きの息子の仕事を父アンヘルから引き継ぐ。
    そのホテルでダビたちが起こした騒動のため、政府に対する反乱を疑われる。
    反乱のリーダーと疑われたルビスが殺される。
    ダビは反乱メンバーを隠し部屋に匿う。そしてそのまま彼らの仲間になったらしい。
    ・小説P453〜「八月の日々」の章:ダビやヨシェバは反ファイスト運動に関わり爆弾テロなどの過激な運動も行い、一時は収容されていたという過去が明らかになる。

    ❐1979年 
    ・歴史:バスクに自治権が与えられる。

    ❐1983年
    ・小説P43〜:ダビはすでにアメリカに渡っている。メアリー・アンと出会って恋に落ちる。

    ❐1985年 
    ・小説P449など:ルビスの死をめぐる裁判が行われたらしい。ルビスは1970年に政権側の兵士たちからの拷問により殺されたが、事故死として片付けられていた。
    それが死後15年たち殺害者たちへの裁判が行われたというのは、バスク自治権などにより政治情勢の変動があったということ?

    ❐1999年 
    ・歴史:ETAがバスク独立運動の武力闘争再開宣言
    ・小説P14〜:ヨシェバがアメリカのストーナム牧場へダビを訪ねる。ダビ50歳で死去。

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  • <mother tongue>という言葉がある。「母語」という意味だが、「母国語」という訳語もある。真ん中の「国」だが、ほんとうに必要だろうか。半世紀も前のことになるが、高校の修学旅行で南九州を旅したことがある。市の方針で行き先が隔年で北九州と南九州に割りふられていた。仲間の間では「長崎」の入る北九州の方が人気だった。当時、宮崎は新婚旅行のメッカだったが、高校生にはサボテン公園など興味がわくはずもない。

    たしか鹿児島だったと思う。トイレ休憩でバスが止まったので、老婆が果物を売りに来た。窓越しに話しかけられたのだが、声は聞こえるのに何を言っているのか全く理解できない。あれには驚かされた。同じ日本であっても、最南端の地まで来ると言葉はまるで通じないのだ。あの言葉が老婆の「母語」なのだ。そこには「想像の共同体」である「国(ネイション・ステーツ)」の入る余地がない。

    教科書やテレビで「標準語」や「日本人」が「刷り込み」ずみで、何の疑いもなく自分は日本人で日本語を話していると思っていたが、何のことはない、百年前なら老婆と私は国もちがえば言葉もちがう異郷の人だった。日本版「南北戦争(Civil War)」の結果、南が勝つことでベネディクト・アンダーソンいうところの「想像の共同体」である「日本」という国家が誕生する。正確には「日本」ではなく「大日本帝国」だったが。

    イソップ物語にある牛を羨む蛙のように、腹ならぬ領土を拡張させていったあげく戦争に敗れて「大」と「帝国」がとれ、ただの「日本」になる。それが不満で戦前の日本こそが真正の日本だと思いたがる人々がいて、ちょっとまともなことを言うと「反日」扱いを受けるこの頃だが、彼らのいう「反日」とは「反日本帝国主義」をつづめたものだと定義付けたらどうだろう。ずいぶんすっきりするのではないか。

    閑話休題。属する国家の言語と人々の使用する母語に齟齬のある民族がある。ピレネー山麓の仏西国境を跨ぐ位置にあるバスク地方の人々がそれだ。作者のベルナルド・アチャガはスペイン領南バスクのギプスコア生まれというから、まさにバスク人である。小説では山の中にある桃源郷のように描かれるその地方はオババという架空の名に変えられている。そのオババ生まれの語り手が語る少年たちの交流と、成長する過程で知ることになる土地が抱える過去の悲劇が物語の中心である。

    一九九九年九月、カリフォルニア州スリーリバーズから小説は始まる。ストーナム牧場を経営するダビが死に、幼なじみで一番の親友であるヨシェバが、過去を回想する。ダビはオババで生まれ、伯父の経営する牧場で働くために渡米し、メアリー・アンと知り合って結婚し、二人の娘を持つ。ダビは小説を書いており、それは完成していたが、少数言語であるバスク語で書かれていたため、大学で翻訳を教える妻にも読めなかった。

    メアリー・アンはオババの図書館に寄贈するため、限定三部の一冊をヨシェバに託す。作家であるヨシェバはロンドンに帰る機上でそれを読み、メアリー・アンに感想を伝えるとともに、単に翻訳するだけではなく、語られていない部分を自分が書き足し、一冊の小説として完成させたい意思を伝える。メアリー・アンの同意を得て書かれたのが、この『アコーディオン弾きの息子』という小説である。表題はダビの小説の原題をそのまま冠している。

    ダビ自身の手になる過去の回想は男友だちや女の子との出会いと別れを描いた抒情的なものだが、ダビが愛してやまない伯父の牧場があるイルアインという山間の村には、父の時代、土地に住む九人の村人が銃殺されるという過去があった。フランコがバスク地方の独立を恐れ、バスク語を禁止したため、反対運動が起き、それは後にテロも辞さない「バスク祖国と自由」(ETA)という過激な運動に引き継がれることになる。

    ダビの父、アンヘルは親フランコ派であり、母の兄で牧場を経営する伯父ファンはそれを憎んでいた。ダビはイルアインでの農村の生活を愛していたが、父はアコーディオン弾きを継がせたがった。ダンス・パーティー会場のホテルが、その昔アメリカ帰りのドン・ペドロからアンヘルの仲間のベルリーノが奪いとった曰くつきのものだった。殺されかけたドン・ペドロを匿ってフランスに逃がしたのが若い牧童のファンだったのだ。

    素朴な農民の生活と稀少なバスク語を愛するダビは、運動に熱心ではなかったが、彼の暮らす伯父の小屋は自由主義や共産主義に熱を上げる若者たちの隠れ家にぴったりだった。ダビが知らぬ間に、彼の夢のアルカディアは、フランコ独裁政権をめぐる戦いの戦場に姿を変えていたのだ。後にそれを知ることになるダビの苦い思いが、その間の経緯を小説の中から省いていた。ヨシェバがその後を書き継ぐことで、皮肉なことに小説は厚みを持つことになる。

    反面、書き手がちがうという建前なので無理もないのだが、ダビの筆になる牧歌的な村で暮らす若者の青春群像と、ヨシェバによる地下に潜って活動する部分との間に若干しっくり噛み合っていない感じが残る。作者が同い年なので、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの歌が出て来たり、マックィーンが『パピヨン』撮影のためアリ・マッグローと町を歩いていたり、黒いビキニ姿のラクエル・ウェルチが話の中に登場したりするのが懐かしかった。惜しむらくは、表記が「ラケル・ウェルチ」。若い訳者はご存じないようだが、そのポスターが映画『ショーシャンクの空に』で使われるほどの人気女優だったのですぞ。

  • 翻訳家・金子奈美さんに聞く『アコーディオン弾きの息子』の世界 | Peatix
    https://hispajplit3.peatix.com/

    『アコーディオン弾きの息子』(新潮社) - 著者:ベルナルド・アチャガ 翻訳:金子 奈美 - 鴻巣 友季子による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
    https://allreviews.jp/review/5059

    金子奈美氏(バスク文学研究者・翻訳家) | New Spanish Books JP
    http://www.newspanishbooks.jp/interview-jp/jin-zi-nai-mei-shi-basukuwen-xue-yan-jiu-zhe-fan-yi-jia

    ベルナルド・アチャガ、金子奈美/訳 『アコーディオン弾きの息子』 | 新潮社
    https://www.shinchosha.co.jp/book/590166/

  • 人生を真剣に受け止める物語。

    それぞれの人に、それぞれの社会に、それぞれの世代に痛みや苦しみがある。

    こうした痛みや苦しみは、世代に共有される、集合的無意識のごとく葛藤となってこころに沈む。

    同時に、こうした集合的な苦しみは、個人的な苦しみ、個人的無意識とも重なるものでもあるような気がする。

    すなわち、親世代と自身の世代、自身の世代と子の世代といった、エディプス(エレットラ)コンプレックスとしての葛藤形成と、世代的・集合的な葛藤は相互に関係しあうものだと考えられる。

    この物語はバスクの物語だ。

    内戦、ゲルニカの虐殺、フランコ総統独裁。

    ナショナリズム、イスパニア国家主義、WWII後の発展主義。

    主人公の父は、この動乱期にあって裏切りや利己主義によって地位を得ている。

    主人公は成長に伴う自立欲求とともに、父が動乱の最中にやった事に直面化してしまう。

    前近代的な日常が濃い日常の中を<第一の目・口>で見て、話し、受け入れ難い暗部や高邁な理想を<第二の目・口>で見て、話す。

    この感覚はきっと土着の、日常の言語であるバスク語と、「公用語」であるスペイン語、そして欧州大陸人特有の多言語学習によって得る仏語・英語等々、言葉を使い分けるという感覚があるからこその表現なのかもしれない。

    主人公個人的の孤独感や疎外感を感じ取れる。
    物語前半ではアッパーミドル階級でありつつ、木樵や農民たちと過ごす事も多い。

    物語中盤以降では、友人達や見知った仲のひとたちと徐々に、どこか距離が置かれる。

    バスク民族運動への参加も、どこか成り行きから同調するようだ。

    決して受動的という訳ではない。
    父親とその世代への反抗心、自身が信じる善良さは一貫している。

    しかし、ものごとの決定に至るプロセスがリアルだ。

    こうかもしれない、あぁかもしれないと悩みつつ、行動してゆく。

    この悩みは国や人が違ってもきっと同じなのだろう。あの時こうだったら、という後悔だってある。

    P.424『「人生はごく真剣に受け止めるべきよ。わたしたちは数えきれない可能性があると思うものだけど、そうじゃないわ。テーブルに並べられたカードを一枚取ることはできるけど、二十枚は選べない。三枚だってわからないわ」』

    強い言葉だ。

    しかし時として、多くのひとは人生をごく真剣に受け止める勇気はないのかもしれない。

    主人公は悩みつつ、しかし人生を真剣に、良い事もそうでない事も真剣に受け止める。

    この本は「人生をごく真剣に受け止める」物語なのかもしれない。

    この物語に書かれたバスク人たちと、いまの日本の青年期世代は似ているのかもしれない。

    プレモダン的日常が未だに色濃く残り、大戦の亡霊が地縛霊のように憑いた権力構造、その構造に基づいた歪な発展主義から抜け出せない。

    そこで主体的になれず、受動的というより流されるだけで精一杯の日常を過ごす人たち。

    もっとも、いまの青年期世代だけでなく、かつて青年期だった人たち、つまり60〜70年代に若者だった世代も同じなのかもしれないが。

    今なお、バスクとスペイン(イスパニア)の間には断絶が広がっているのはあまりにも有名だ。

    スペイン政府とETAの対立も9.11前後、世界中で「テロとの戦い」或いは非対称戦争というムーヴメントがおきた時期に危機が高まって少なくない人たちが命を落としたことはリアルに生々しい記憶として覚えている。

    日本にだってマイノリティは存在する。アイヌ民族や沖縄人はその代表だ。

    それぞれに特有の言語がある。

    もっといえば日本人だって、言葉や文化、料理とか日々の営みは東西南北みな一致ではない。

    東日本・西日本なんていう大きな括りではなく、同じ県のなかだって言葉や生活が違うことばかりだ。

    散々プレモダン的と蔑んだ後だけども、モダンな国家主義として、国民国家としての日本・日本人という画一性は、発展主義が成熟した社会では息が詰まる事も多い。

    もちろん、スポーツで日本代表がどこかで頑張れば嬉しくなるし熱い気持ちにもなる。

    外国人観光客が日本すごいとか言ってるのを見ればなんか気持ち良くもなる。

    しかし、それはあくまで代表的・象徴的なものであって、記号ではない。

    そこに全人格を同一化させる必要もないし、それを誰かに押し付ける必要もないと思う。

    善い感情も、悪い感情も、象徴的な感情も個人的な感情も、どちらも大切にすることが人生を真剣に受け止めることだとも思う。

    そんなことを考えてしまう。

    そしてこの偉大な作品を翻訳した金子奈美先生崇拝である。

  • 読み応えのある良い作品に出会えた。

    残酷で、優しくて、哀しい。
    この長い物語を読み終えるとき、もっとこの世界に触れていたいと思った。
    人は生まれる時代や場所を選べないのだと、悲観でも諦観でもなく思う。
    バスクの農村オババで生まれたダビ、そして友人たちはその時代をどう生きたのか。
    痛ましい記憶と向き合い綴られる回想録。

    ダビが農村世界に愛着を感じたように、私も《幸福な農夫たち》に親しみを覚えた。
    素朴で慎み深い人びととの日々は、とても生き生きと魅力的に語られる。
    しかし平穏な日々は続かない、いつまでも何も知らない少年ではいられない。
    過去からのメッセージで夢から目覚めたダビは父親への疑念を抱いたまま成長し、友人たちもそれぞれに変わっていく。
    次第に不穏な気配は色濃くなり、最愛の友人は惨たらしい暴力により失われ、ダビ自身も暗い影に絡めとられてしまう。

    記憶を辿るままに自然に語られたような文章から浮かび上がる情景は、心に染み、広がる。
    バスクも時代背景についてもよく知らずに読み始めたが、どんどん引き込まれていき、内戦や当時の情勢など興味深く調べながらじっくりと読み進めた。
    (作者経歴と時代背景については、あとがきに訳者による簡潔で親切な補足があったので、こだわりのない方は先にさらっと目を通すと読みやすいかもしれない。)

    特に気に入ったのは「蝶のトランプ」。
    さり気ない調子で綴られた短い文章の中に、たくさんの想いが詰まっているのを感じた。

  • Bernardo Atxaga "Soinujolearen semea"(バスク語)
    映画化のタイトルは "El hijo del acordeonista" かな(スペイン語)。
    他に "The Accordionist's Son" と出てくる(英語)。

    大江健三郎と中上健次が指し示してくれ、筒井康隆が背中を押してくれた、ラテンアメリカの文学に高校当時入門したが、
    再入門するような思いで、いまスペインに向っている。
    本来ならスペインの歴史自体を学ぶべきだろうが、ラテンアメリカのスペイン語圏、ポルトガルと合わせてイベリア半島、そしてスペインの中の異文化バスク。
    田舎へ。周縁へ。
    ビクトル・エリセ監督作「ミツバチのささやき」が大好きで、ギレルモ・デル・トロ「パンズ・ラビリンス」も好きで、しかしこの2作の風景は、闘牛とかフラメンコとかいうスペインのイメージとは違うなと感じていた……要は北部や山間部の寒々とした荒涼に惹かれていたのだと自分なりに考えていたとき、
    第7回日本翻訳大賞の候補に本作がなっていると知った。
    たぶんラジオのアトロク。
    文学賞はえてして大賞以外のノミネートを知る機会が少ないものだが、ノミネート作にもきちんとスポットを当ててくれたラジオの作り手に感謝しかない。
    そしてさらに背中を押してくれたのが、ポッドキャスト番組「文学ラジオ空飛び猫たち」。感謝。

    消滅言語になりかねなかったバスク語について(今は何とかバスク全体の人口の約三割に相当する100万人近くにまで話者数を増やしつつあるとか。だいたい富山県や秋田県の人口くらい)、
    翻訳の苦労について(バスク語版をもとに、しかし作者自身によるスペイン語訳もあるので適宜そちらも参照し、違いがあるので、いわばいいところどりをして日本の読者に開陳したとのこと)、
    フランコ政権による分断について(密告への恐れ。あ、「ミツバチのささやき」の「沈黙」「声をひそめて」だ。日本の戦争直前の特高警察など取り締まりも)、
    今回初めて知ったが、ETA〈バスク祖国と自由〉について(状況は現在も進行中。日本でかつてあった学生運動と過激派について。親世代と子供世代もギャップも。押井守とか山本直樹とか「サスペリア(2018)」とか)、
    などなど切り口はいくつもあるが、延々書くのは辛いので一点に絞るなら。

    語りの構成が後半に効いてくる、小説としての巧みさ。
    今はアメリカで農場を経営するダビが、翻訳家の妻にも読めないバスク語で手記を書く(いいワインと悪いワインが混ざらないように)。
    バスクに住む作家のヨシェバが、ダビの晩年を一緒に過ごし、死後妻から託される。
    それをヨシェバは、ただ翻訳するだけではなく、自分の記憶も混ぜて翻訳する……という枠物語があって、本編が始まる。
    まとめると「作中に二人の作者及び語り手が存在すること、すなわち小説全体が主人公ダビの回想録を彼の友人ヨシェバが書き直した本と設定されている」(訳者金子さんの論文より)。
    ヨシェバが望むのは「個人が消えていく」ということ。
    〈だが、時がたちまちすべてを一つにすることだろう。木の肌の色も輪郭も一体化し、あとに残るのは<ここに二人の友達が、二人の兄弟がいた>と伝えようとするただ一つの彫刻だ〉
    ダビという人物がいてこういう経験をした、別個にヨシェバという人物がいてこういう経験をした、と書き残すのは手記としては簡単だ。
    が、この小説では以上の枠物語を設定することで、ダビの経験とヨシェバの経験とが(もっと言えば父アンヘルと伯父フアンとアメリカ帰りのドン・ペドロが)、過去、個々に確固として存在していたと同時に、亡くなっていくことで「一体化」して、しかし消えずに残っていく、という物理的には不可能な現象を、文章上で達成している……!
    「信頼できない語り手」ものであることは早々に予想できるが、その仕組みがまさかトリックとか事実の隠蔽とか思い違いではなく、「個人は消えゆくが何かが残る」という感触につながる……これは初めて読んだ。
    作者は運動に参加したことがないというが、おそらく、あり得たかもしれない自分(ダビ)を、あり得る自分(ヨシェバ)と補完関係で描くことで、こういう効果が得られたのではないか。(プロローグとエピローグの円環構造も)
    でもこの効果って、考えてみたら何も極端なことをしているわけではなく、文芸本来の目的に近いよね、とも思う。
    凄い小説だというときの「凄い」を何とか分解すればこんな感じか。
    (ダビの娘ふたりが、もう少し成長してお父さんが書いた手記の翻訳を読むとき、一体どんな感想を持つのか……その前に妻メアリー・アンがどう読んで、どう娘に紹介するのか……色々考える。)

    ところで全体を彩る「明るさ」についても。
    ネット上で読めるあらすじからは重苦しさを感じるが、実際読んでみると最初から最後まで、どこか明るい。
    オババの光溢れる描写もそうだし、ビラ撒きのユーモラスなドタバタや、しっとりとしたラブコメや、アメリカでの晩年も。
    ダビ、晩年というには享年50という短命で、思うことも多かったろう。
    しかし故郷での少年時代、青年期の活動、故郷を離れても妻子に恵まれ、さらに死を前にして少年期青年期の友人と語らうことで清算できた。
    これははっきりと幸福じゃないか。
    「この牧場で過ごした日々ほど楽園に近づいたことはなかった」と墓碑銘を書いたり、「なぜ、幸せになるために必要なすべては、私から遠く離れてあるのだろう」というヘッセの引用をしたり、引き裂かれているように見える。
    ダビの死そのものはこの小説の中で直接描かれない。
    プロローグとエピローグではっきりわかるだけ。
    しかし変な表現だが「甘やかな諦念」に満たされて亡くなったと思いたい。
    ジョン・ウィリアムズ「ストーナー」のように。

    劇的ではない。起承転結はない。あえて排除されている。対人関係も浮かんでは消える、落着しない、取り留めない、索漠としたもの。
    その代わりに語りの仕掛けがあり、人の生を多層的に描く。
    時々、写真とか、蝶のトランプとか、凄まじく喚起力の高い「絵」が登場し、読み手の感情を揺さぶりまくる。
    全体として訴えてくるのは、ローカルこそがユニバーサルだ、と。
    大江や中上が言っていたのはそれだし、具体を描くことで抽象を読者に訴えるという点では文芸全般の話でもある。

  • とっても良かった!
    バスクの背景を何も分かってなかった自分ですが、
    これは暗い時代背景の中でも、子どもたちは退屈な少年時代をなんとか楽しめないかともがき、大人は、子どもたちに夢を見ながら生活している。
    そういう普遍的なものが描かれていたのかなと思いました。

    ダビ、ルビス、ファンおじさん、メアリー・アン、ヨシェバ。。
    バスクへの郷愁と憧れと、まだ傷のいえない内戦の歴史と。。
    彼らを想い、この本とともにあった数日間、とても充実していました。

    アコーディオン弾きの息子と呼ばれた少年ダビ、
    彼と彼らの生涯を綴った自伝的な小説が、この本の中心となっている。
    その、ダビが亡くなった1999年から物語は始まる。

    友人ヨシェバは、ダビがバスク語で綴ったこの本を、訳してくれるようにと、妻のメアリー・アンから頼まれるのだ。
    ダビはこの本をオババ(バスクの架空の地)の図書館に納めるのを目的に書いているけれど、これをヨシェバが訳し、彼の主観も入ることで、完全な彼らの物語になってゆく。

    ダビは、リストを持っている。
    それは愛する人たちのリスト、また、内線で殺されたオババの人たちのリスト。
    蝶のリスト、オババの美人コンテストのリスト。

    父アンヘルはオババの町の名士であり、アコーディオン弾きでもある。その息子と呼ばれることへのダビの複雑な想いが一貫してこの本の中に青春の闇としてある。父はファシストで、友人へのリンチや、オババの殺された人たちのリストに加担しているかもしれないのだ。

    ダビは故郷を愛し、バスクの地を守りたい。
    母の兄で、牧場主であるファン叔父さんを尊敬している。
    ファン叔父さんの馬の世話に来る農民の子どもたち、とりわけルビスは心から信頼のおける友になってゆく。。

    ダビがファン叔父さんの牧場に逃れ、そこで出会ったメアリー・アンとのストーリー、オババでの子ども時代、青春時代、大学に進学するころには、バスク解放運動がさかんになり、ヨシェバと共に地下活動に入り上からの命令のままにテロを起こしていく。。

    時代背景が壮絶すぎるけれど、この本がとても好きなのは、ダビの青春時代を共にした友人たち、(街の子たちも、農民の子たちも)彼らの青春のエピソードが輝いていて、可笑しくて魅力たっぷりなところ、本当に虜になってしまう。

    またダビが書いた小説の中の、「オババで最初のアメリカ帰りの男」にも凄みがある。

    バスクが守られ、独裁政権も廃止され、彼らが楽園を得ることを一緒に夢見ながら読み進める。
    あっという間に!

    音楽も素敵に響く。
    ヒッピーな時代には クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの「スージーQ」
    そしてアコーディオンなら、シャンソンの名曲「パダン・パダン」これは泣ける。

    バスクの美しい蝶を指す言葉、ミリチカ。

    まるで私の思い出みたいに深くこころに浮かぶバスクの豊かな自然。

    平和すぎる時代に生きてしまったので、このくらいパンチのある人生を体感できる読書って、まったく凄いなあと思う。

    なんだか好きだったのは、
    ポルノ雑誌の事件で及第になったダビが、大学進学の認定試験のために、もともとフランス語の家庭教師だったムッシュー・ネストル(レディン)とセサルが教師になり、製材所で教えて貰うことになった、あのカルメンとのエピソードがとてもいいなあと思う。母カルメンは、ダビを信頼しているし、遠くの学校まで苦労して通うこともなくなり、また近所の子供たちも数名一緒に学ぶようになる。この自由な勉強への姿勢がすごくいいのと、レディン、彼はヘミングウェイとは友人だとか言っていて、みんな疑っているくせになんだか好かれていて、
    最終的には子どもたちの先生になれたことを、レディンが1番嬉しそうにしているてころとか、それを子どもたちも一緒に喜んでいるところとか、真の教育の現場を垣間見るような幸福感があった。
    後にレディンは本当にヘミングウェイと友だちだったのかもわかりますww
    こういう些細なエピソードがすごくいい。元々、フランス語をホテルで習うのが嫌だったとか、セサルのおかげで政治活動に加担していくようになる…とか
    物語は盛りだくさん!!

  • うーん長かった。この手の話の大まかな展開は推測できるわけなので、あとは詳細がどれくらいぐっとくるかになるんだけれど、詳細の記述の濃淡が自分の期待と真逆だった。なんでもない幸せいいね、でもそれはわかるからいいよ飛ばしても、というのと、えっそこそれだけで済ますの? バスクの情勢とか関係者にありがちな感情わかってないわたしがいけないの? の2パターンに振れがちで、小説の世界をのびのび楽しめなかった。

    退屈だったのは主人公と妻のなれそめ。物足りなかったのは主人公の地下活動への参画と転向の背景と父と子の和解。主人公、中途半端に無作為の人なんだよな... えっそこでなんもしないの? っていうことがそこここであって、読後感はテジュ・コール『オープン・シティ』でした。最終的に語りの抒情性にむかっ腹が立ってしまうアレです。

    複数言語が飛び交う語りのスタイルは面白かったけど、母語が失われていく悲しさ、民族のありよう、楽園の喪失、全部入れたらぼわっとしちゃってない? 編集できてなくない? という気持ち。でも広く読まれており映画化もされているということなので、わたしが良い読み手ではなかったということで。

    • 淳水堂さん
      なつめさんこんにちは。

      ダビとヨシェバの自伝で、「この手記には、ダビの娘たちを傷つけるものはなにもない」ということで書かれているため、...
      なつめさんこんにちは。

      ダビとヨシェバの自伝で、「この手記には、ダビの娘たちを傷つけるものはなにもない」ということで書かれているため、地下活動とか、過激テロとか言いたくないことは隠してるかんじですよね。
      しかしダビは、友達に誘われて過激テロに加わったてるわけで、娘たちが読んだらちょっと複雑にならないか‥と思ってしまう…。
      2021/04/11
    • なつめさん
      淳水堂さんこんにちは。隠せば傷つかないと考えるのは親心なんでしょうけどエゴでもあると思いました。娘たちもわたしのようにもやもやしてしまうので...
      淳水堂さんこんにちは。隠せば傷つかないと考えるのは親心なんでしょうけどエゴでもあると思いました。娘たちもわたしのようにもやもやしてしまうのでは?という気持ちです
      2021/04/12
  • 長かった(そこか)
    本書がバスク語で書かれ、さらに「死んだ友人のバスク語の手記を発刊する」という内容であり、言語と地域・文化の結びつき含め、バスク語小説の翻訳という点では価値がありそうだ。
    …とはつまらない感想だが、実際、最後まで読むのは消化試合。幸せな時代の描写は長く、政治活動に関しては食い足りなく、終始、主人公が魅力の薄い傍観者的に感じてしまった(すまん)前に同じような感想を持っている方(なつめさん)がいらっしゃって、完全に同意する。
    仕事関係の本が並び自分らしくない本棚になってきたところにやっとクレストブックで挽回しようと思っていただけに残念。

  • スペイン内乱から、フランコの独裁時代のスペイン、バスク地方のオババという架空の村を主要な舞台とし、ファシストに味方したアコーディオン弾きの父と、政治的な信条でその父と対立しアメリカに移住した叔父、その間で外の世界を知りつつも、バスクという自分の故郷に断ちがたい愛情を感じながら生きたダビという青年。彼はフランコ政権に対する抵抗活動をする中で故郷を追われてアメリカの叔父のもとで伴侶を見つけ、一生を終えるが、その間に自分の生きてきた村での生活や、そこで起きた事件についての自伝的な物語を妻にも読めないバスク語で書き綴っていた。
    その遺稿を彼のオババでの友であり、抵抗活動における同志で、今は小説家となったヨシェバがバスク語を翻訳して「アコーディオン弾きの息子」という本として出版したというのが本書の設定。
    スペインは第一次大戦後、ナチス・ドイツの支援を受けたファシスト勢力がクーデターを起こし、内乱が勃発。当時の共和国政府を支援するため外国人の義勇軍、国際旅団にヘミングウェイが参加したり、この内戦を戦う兵士を撮った写真でロバート・キャパが一躍有名になるなどした。
    内戦は最終的にはファシスト勢力の勝利に終わり、フランシスコ・フランコ将軍の独裁が始まった。
    フランコ政権は内乱終結後も抵抗勢力を徹底的に弾圧し、この小説の舞台であるオババという村のあるバスク地方もその例外ではなかった。
    バスク地方の言葉であるバスク語は、そもそもが欧州の他の言語と関係性を持たない特殊性のある言語であったが、フランコ政権によってその使用を禁じられた。
    その様な歴史的背景が、この小説の舞台であり、バスク語で書かれた遺稿を翻訳したという設定がされている背景だ。
    小説自体も、そういう時代の趨勢に飲み込まれていく若かった時代の苦悩や悔恨を描いている。

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