ある一生 (Shinchosha CREST BOOKS)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (153ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901585

作品紹介・あらすじ

吹雪の白い静寂のなかに消えていった、あの光景。アルプスの山とともに生きた、名もなき男の生涯。雪山で遭難したヤギ飼いとの邂逅に導かれるように、20世紀の時代の荒波にもまれながら、誰に知られるともなく生きたある男の生涯。その人生を織りなす、瞬くような忘れがたき時間が、なぜこんなにも胸に迫るのだろう。80万部を超えるベストセラー、英語圏でも絶賛! 現代オーストリア文学の名手が紡ぐ恩寵に満ちた物語。

感想・レビュー・書評

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  • アルプス山麓で生き、死んだ男の一生を描いた本作。

    私生児として生まれた彼は、預けられた親戚の家で虐待を受け、一生足を引きずる大けがを負う。家を出て過酷な労働に従事しながら初恋・結婚・別れを経験し、第二次大戦で従軍すると、ロシアで6年間捕虜収容所での生活を余儀なくされる。
    ようやく祖国に戻ってきた彼はある偶然から山岳ガイドとして安定した収入を得るようになる。やがて年老いて記憶力も薄れてゆき、村人から狂人と見なされながら一人静かに息を引き取る。

    彼の人生をかいつまんで説明してしまうと、彼が不幸な人生を送ったのだと思われるかもしれない。しかし、本書を読んでも彼が不幸せだったとは感じないのである。

    彼の人生の中には、きらりと光るかけがえのない瞬間もある。初恋の相手、マリーと少しずつ心を通わせ、仲間の協力を得て一世一代のプロポーズをしたあの日。テレビでグレース・ケリーにときめき、ニール・アームストロングの月面着陸を見守った瞬間。年老いた彼に突然訪れた淡い恋慕。山岳ガイドとして観光客の喜ぶ様子を見守る日々。急に今いるところから飛び出したくなる衝動。

    人生は、単純に「幸せ」「不幸せ」と割り切れるものではなくて、悲しみや苦しみの中に喜びや楽しみがあり、またその逆もある。幸せとか不幸せなどというものは、自分の立ち位置を他人との比較でしか決められない人間が勝手に判断しているだけなのではないだろうか。

    私たちはまた、人生に意味を求めすぎてしまっているのかもしれない、とも思う。
    彼の人生は、まるで森で生息する木が環境に合わせて成長し、やがて枯れていくさまを想像させる。私たちが森の木の一生に何らかの意味を持たせようとしないのと同じで、人生というものもただ生きて死ぬ、というシンプルな事実が存在するだけなのかもしれない。

  • 再読
    ある一人の男の一生が描かれる。主人公エッガーは、理不尽な運命を嘆くことなく、黙々と自分自身の人生を生きる。

    エッガーを虐待していた養父との再会の場面では、養父に対し同情を感じると同時に、死を願う気持ちもあり、読んでいて胸にぐっとくるものがあった。

    人を愛しその人にふさわしい人間になりたいというおもいや、自身の卑怯さを恥じるエッガーのまっすぐな人柄が心に響く。

    山岳ガイドになるきっかけとなった、山で迷った夫婦と出会うシーンが好きだな。

    ヤギハネス、氷の女。ウンランカズラ。朝露に濡れた野原。暖かな陽光。
    初読のときよりも、しみじみした気持ちになった。また数年後に読みかえしたい。

  • 幼児期から過酷な境遇にありながら自分を憐れむことはなく、運命をあるがままに受け入れ、精一杯生きた一人の男エッガーの物語。妻の為、より過酷な労働による賃金の値上げを認めた上司が「人の時間は買える。人の日々を盗むこともできるし、一生を奪うことだってできる。でもな、それぞれの瞬間だけは、ひとつたりと奪うことはできない。」と話した言葉をエッガーはその時理解出来なかったが一生忘れない。
    働くことをやめ家畜小屋に住むエッガーの晩年の心境を
    「エッガーもまた、さまざまな希望や夢を胸に抱いて生きてきた。そのうちのいくらかは自分の手でかなえ、いくらかは天に与えられた。 手が届かない ままのものも多かったし、手が届いたと思った瞬間、再び奪われたものもあった。だが、エッガーはいまだに生きていた。そして、雪解けが始まるころ、小屋の前の朝露に濡れた野原を歩き、あちこちに点在する平らな岩の上に寝転んで、背中に石の冷たさを、顔にはその年最初の暖かな陽光を感じるとき、エッガーは、自分の人生はだいたいにおいて決して悪くなかったと感じるのだった。」と語る。物質的な豊かさを追い続け、「それぞれの瞬間」さえ感受できない人生に比べ、エッガーの煩悩に囚われない生き方は仏教の解脱者のように清々しい。

  • アルプスの山で一人で暮らすアンドレアス・エッガーは、ある日瀕死のヤギ飼いの老人と会う。エッガーの背中でヤギ飼いは言う。「死は氷の女だ。ただやってきて奪って去ってゆく。残されるのは暗闇と寒さだけだ」


    アルプスに暮らす一人の男の人生を静かに語る中編小説。
    アンドレアス・エッガーは私生児として生まれ、引き取られた親族の農場主からは暴力的な扱いを受けるが、それにより心身は強靭となり、やがて独立した。
    その後の人生は、危険な労働、つらい別れ、戦争捕虜としての長年の収容生活があったがそれらをただ受け入れて生きた。
    生涯忘れられない恋もしたし、自分の労働の痕跡が誰かの役になっていると感じたこともある。
    彼の人生は長かった。多くを望まなかった。失っても奪われてもただただ受け止めた。彼の人生は長寿であり一瞬でもあった。

    人生の最後で雪山でついに女と出会う。氷の女か、妻か。彼女に向かって「話したいことがたくさんある。とても信じられないぞ。この俺の長い一生の話だ」と呼びかける。
    その数カ月あとに彼は死んだ。
    その人生では自分で叶えた希望もあったし、天から与えられたものもあった。叶わなかったこともあったし、奪われたものもある。
    しかしアルプスの山の冷たい石、暖かい春の光に触れたときには、自分の人生は大体において決して悪くはなかったと思うのだった。
    激動の20世紀を生きた一人の男の物語が静かに語られる。

  • 読ませようという気があるのか、と言いたくなるタイトル。原題が<Ein ganzes Leben>だから、直訳だ。すべてが、ここに集約されている。削りに削りまくった、飾り気とか色気とか、そういうものが一切ない、必要最小限度のもので成立している長篇小説。長さすら削られている。幼い頃、オーストリア・アルプスのとある山村にやってきた、何者でもない一人の男の一生を、三人称限定視点で突き放すように描いたリアリズム小説である。

    アンドレアス・エッガーは、一九〇二年の夏、遠い町から馬車で運ばれ、山までやってきた。四歳くらいだった。母を亡くした私生児で、義理の伯父に引き取られたのだ。伯父はエッガーを労働力としか考えておらず、粗相をすると折檻が待っていた。八歳のころハシバミの枝を削った鞭で打たれ、左足の骨が折れた。伯父が医者代を惜しんだせいで、折れた足は元に戻らず、一生引きずることになった。

    しかし身体は頑健で逞しく育ち、子どものころから大人並みに働いた。「だが緩慢だった。ゆっくり考え、ゆっくり話し、ゆっくり歩いた。けれど、どの考えも、どの言葉も、どの一歩も、その跡をしっかり残した。それも、その種の跡が残るべきだとエッガー自身が考える場所に」。十八歳になった誕生日の翌日、鞭打とうとした伯父に反抗し、「失せろ」と言われ、家を出る。

    障碍者ではあったが、エッガーは、よく働き、要求は少なく、ほぼ何も話さず、どんな仕事も引き受け、確実にやり遂げ、不平は言わなかった。何をさせてもうまくやれた。食事へ行くことは稀で、行ったとしても一杯のビールと蒸留酒を注文するだけだった。ベッドで寝ることは滅多になく、藁の中や屋根裏、家畜小屋で眠った。二十九歳の年、貯まった金で森林限界のすぐ下にある干し草小屋つきの傾斜地を買い、小屋に手を入れ、そこで暮らした。

    その頃がエッガーのいちばん幸福な時代だった。山小屋で寝付いている山羊飼いを助けに行ったのに、雪の山で見失うという事件が起きたのがその頃だ。背負い籠に縛りつけたはずの山羊飼いが、自分で縄をほどいて飛び降りたのだ。途方に暮れ、漸く村に帰ってきたエッガーは暖を求めて食堂に入った。そこで、新入りのマリーという女と出会う。それが二人のなれそめだった。

    エッガーはマリーに結婚を申し込むのにふさわしい男になろうと、当時村でロープウェイの工事をしていた<ビッターマン親子会社>を訪ね、そこで働くことになる。誰よりもこのあたり一帯に詳しく、高所作業を得意としたため、工事用の穴をうがつ場所に最初に足を踏み入れる男になった。やがて、マリーと結ばれ、二人はエッガーの小屋で暮らし始める。しかし、幸せはそう長く続かない。雪崩が村を襲ったのだ。

    総じて時間の順序に従って書かれているのに、冒頭に置かれた章には、エッガーの記憶としていくつかの思い出が断片的に挿まれている。それが、映画でいえば予告編になっている。山羊飼いの死についての考え、その直後のマリーとの出会いは、まさにエロスとタナトス。その後の<ビッターマン親子会社>が初めて村にやってくる場面、そして、初めての雪崩との遭遇。村の子ども達に「びっこ」と囃し立てられ、氷柱で応酬する場面。本編で出会うたび、ああ、あれだ、と気づかされる。

    少し昔のことになるが、どの地域にも、一人や二人、共同体からはじかれたように、独りで暮らす年寄りがいたものだ。何かの不幸があって、家族と別れ、長い独り暮らしを強いられながら、気質のせいか、境遇のせいか、共同体に馴染めず、追いやられはしないものの中には入り込めない孤独者が。頑是ない子どもたちは、そんな人たちに向かって情のないひどい言葉を投げつけていた。小説を読んでいて思い出した。これは、そういう立場にある人の視点で描かれた小説ではないのか、と。

    厳しくも美しい自然の中にあって、村の人々とは確かな距離を保ち、ほとんど襤褸と言っていい最低限の衣服を身に纏い、野生児のように暮らす主人公を、親しい人々を除けば、自分たちとは異なる存在として見ていたのだろう。エッガーはそれでもかまわなかったし、気にもしていなかった。ただ、マリーを失った後はしばらく立ち直れなかった。

    山岳を主たる舞台とする小説として、山の自然の美しさが描かれる一方で<ビッターマン親子会社>の仕事は手つかずの自然の中に人工を引き入れることである。ロープウェイは観光客を村に引き入れ、スキー場が次々と作られ、夏は山歩きの人が村にやってくる。なかには、山歩きのガイドを務めるエッガーに、「君にはこの美しさが見えないのか」と説教を始める者まで出てくる。誰よりも山を愛しているエッガーに、偶々やってきた観光客が口走るこの台詞に強烈なアイロニーを感じる。

    質朴で寡黙な男が、黙々と人生を送るうちに、世界は彼を一人置いて別なところに進んでいた。そして、その世界こそ我々読者が暮らしている世界なのだ。現代社会はエッガーのような暮らしを好んでする者を異端者扱いしてはばからない。そして、既にエッガーは周囲からそういう目で見られていた。川遊びの少年が三十代のエッガーに「びっこ」と呼びかけたのは、当時から村人が彼をそう呼んでいたことを物語っていたのだ。

    世界は、エッガーの眼が見ているような美しいものではなくなった。人は自分のまわりに美しい孤独をおいておけなくなった。今では孤独に価値などない。群れたがり、衆を頼んで、我々はどこへ行こうとしているのか。激動する時代のさなかにあって、時々は振り返ってみることが必要ではないだろうか。我々は何を失い、代わりに何を得たのだろう、と。そんなことをしみじみと感じさせてくれる一服の清涼剤のような小説である。

    • 淳水堂さん
      abraxasさんこんにちは。
      最近登録した本にabraxasさんのレビューがあるものが続いてました^_^
      海外小説は良いですよねえ。
      ...
      abraxasさんこんにちは。
      最近登録した本にabraxasさんのレビューがあるものが続いてました^_^
      海外小説は良いですよねえ。
      また良い本に出会いたいです。
      2020/02/21
    • abraxasさん
      淳水堂さんこんばんは。
      けっこうかぶってますね。
      海外小説のいいものというのはそうなるんですね。
      まだまだいい本に巡り会えると思ってい...
      淳水堂さんこんばんは。
      けっこうかぶってますね。
      海外小説のいいものというのはそうなるんですね。
      まだまだいい本に巡り会えると思っています。また、どこかで出会えると思いますよ。
      2020/02/21
  • 自分のできる精一杯をして人生を生ききるってこういうことを言うんだな、という内容。伴侶との短くも幸せな時間の描写がとてもいとおしかった。
    日頃私はあくせく働いているけど、時々この本を思い出して自分を見つめ直したいです

  • 本物の小説とは、このような一冊を言うのだろう。
    歴史に名を残すような人間ではない、名もなき一人の男の「ある一生」。

    目の前にある過酷な生活、残酷に奪いさられる愛すべきマリーとの時間、孤独な男エガーが
    ただ淡々と力強く与えられた人生を終わらせていく。

    どんな厳しい現実にも無駄に抗う事無く、自分に与えられた生きて行く時間をただ、ただ、生きる。
    強さの中に感じる哀しみも小さな幸せ。(エガーにとっては小さくはないが)

    天から与えられた命の期限を生ききるとは、こういう事なんだろうな。

    エガーの純粋で不器用な愛と、目の前にある苦難を
    その瞬間、瞬間を「生きる」姿は無駄な物に囲まれ、無駄な思考と有り余る現代の豊かさで生きている私には
    輝いて見えました。

    素晴らしい小説でした。

  • ゆっくり考え、ゆっくり話し、ゆっくり歩く。
    しっかりとその足跡を残す。

    古いものが死ねば、新しいもののための場所ができる。

    人の時間は買える。人の日々を盗むことはできるし、一生を奪うことだってできる。
    でも、それぞれの瞬間だけはひとつたりとも奪うことはできない。

    人生とは瞬間の積み重ね

    負った傷あるいは負わされた傷、負わせた傷は抱えて生きるより他ない。

    氷の女に会ったことはないけれど、あの冷たさがどういうものか、わかる。
    冷え切った身体に流れる涙はとても熱い。

  • どんな運命も受け入れて生きていく。
    エッガーの淡々とした日々の中で、プロポーズした時の火文字の描写や氷の女の描写が非常に美しく際立つ。
    老いと死が切々と迫る中でもエッガーが決してたじろがないのは、自分とともに生き、愛した妻がいたからなのか。

    「彼らは結局のところ、自分の後をついてよろよろと歩いているのではなく、なんらかの見知らぬ、飽くことなき憧れの後を追いかけているのだという確信を深めていった」

    違和感のなく揺るぎない翻訳がすばらしかった。

    第6回日本翻訳大賞最終選考作品

  • どの一生も「ある一生」にすぎない。

    なんで生きるんだろう。
    その疑問をもつことはいつか消えた。
    生きることに意味はない。

    なんで生きるんだろう。
    その神秘に身をあずける「瞬間」だけがある。
    答えはいらない。

    なんで死ぬんだろうも同じ。
    意味はない。
    答えはいらない。

    ただ生きて、ただ死ぬ。
    そのあいだに「瞬間」だけがある。

    あえていうなら、生きて死ぬために、生きる。

    生きると死ぬ、そのあいだのすべて
    一生の、そのあいだのすべて

    その神秘に身をゆだねた、幸せな読書。

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著者プロフィール

1966年ウィーン生まれ。俳優として活躍する傍ら、2006年に小説『ビーネとクルト』で作家デビュー。本作で一躍人気作家となり、最新作『一生』(2014年)でグリンメルスハウゼン文学賞受賞、同英語訳は2016年ブッカー国際賞の最終候補作になった。

「2017年 『キオスク』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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