屋根裏の仏さま (Shinchosha CREST BOOKS)

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  • Amazon.co.jp ・本 (171ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901257

作品紹介・あらすじ

20世紀初頭、写真だけを頼りに、アメリカに嫁いでいった娘たち――。その静かな声を甦らせる中篇小説。百年前、「写真花嫁」として渡米した娘たちは、何を夢みていたのか。厳しい労働を強いられながら、子を産み育て、あるいは喪い、懸命に築いた平穏な暮らし。だが、日米開戦とともにすべてが潰え、町を追われて日系人収容所へ――。女たちの静かなささやきが圧倒的な声となって立ち上がる、全米図書賞最終候補作。

感想・レビュー・書評

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  • わたしたちは船に乗って写真でしかしらない夫に会いにアメリカに渡ったの。わたしたちは13歳で、37歳で、海を初めてみて、山の手で育って、漁師の娘で、お父さんは顔も知らない人で、お姉さんは売られて、でもあのまま家にいたら結婚できなくて、ずっと腰を曲げて田んぼの仕事をするなら写真だけの相手と結婚するほうが良かったの。わたしたちは長い船旅で気分が悪くて、夫の写真を見せあって、そして海から出てきた鯨を見たの。びっくりした、まるで仏さまの目をみたようだったわ。

     日本から労働のために米国に渡った男たちの写真花嫁たちの囁き声のような中編小説。
     小説の語りは「わたしたち」で、多くの移住日本人女性たちの小さな声が積もってゆくように聴こえる。物語は1900年代初頭、写真花嫁たちの船旅から始まり、アメリカ中で労働者となり、第二次世界大戦の日本人強制収容所に移住させられて「いなくなった」となるまでの20年以上に渡る。

    読書会課題本の関連本として読みました。参考ページ
    https://note.com/michitani/n/n369ad0a2dfdb?magazine_key=me352ff536670

    物語の関係する事柄の年表
    ❐1909年:アメリカが労働目的の移民を禁止する。しかしすでにアメリカにいる労働者は家族を呼び寄せられるので、写真花嫁制度が行われた。
    ❐1920年:日本政府が写真結婚を禁止
    ❐1924年:アメリカ政府が各国からの移民の年間受け入れの上限数を決める。(排日移民法)
    ❐1941年:ルーズベルト大統領による日系人の身元確認、強制収容所送りのためのリスト作成
    ❐1942年2月下旬より:日本人移民、日系アメリカ人への強制立ち退きと、強制収容所への移住命令
    ❐1962年:著者のジュリー・オオツカ生まれる。父は日本からの移住者、母は移住者二世。母方の祖父(移民一世ですね)は敵性外国人として逮捕されている。祖母は叔父と母をつれて強制収容所で暮らした。

    米国についたわたしたちは、見合い写真の夫は20年以上前のもので、銀行員でも商人でもなく、農園労働者で、白人の召使で、自分と結婚したのは労働力が欲しかっただけだと分かったの。
    わたしたちは、農園の労働者として、白人お屋敷の女中や子守として働いたわ。夫が博打で稼ぎを失ったり、労働者から関係を迫られたり、白人旦那様の子供を妊娠して首になったり、近所のアメリカ人に襲撃されたりする。わたしたちはこの混乱と敵意に満ちた土地で生き続けながら思う。<わたしがここにいることを知っている人はいるのだろうか。P37>

    わたしたちはたくさん子供を持ったけれど、失う事も早かった。夫や子供が死ぬこともある。わたしたちは子供たちにすべてを教えてきた。<悪事を働くよりは悪しき病に苦しむほうがまし。受け取ったものはすべて返さなければならない。P82>
    でも、子供たちは日本語しか話さず念仏を唱えるわたしたちを恥ずかしく思っているの。

    それでも子供たちはアメリカの学校で友達を持ったし、わたしたちのお店や農園は軌道に乗り、年をとった夫たちは柔らかくなってきたわ。いまでも日本のお母さんたちの夢は見るけれど、死んでしまったわたしたちのために念仏も唱えるけれど。

    でも日本人はだんだん差別され、襲撃され、そして大統領が日本人全員に通告を出した。
    来るべき日に向けてわたしたちは準備をする。襲撃されても、首になっても、抵抗してないけないって夫たちはいう。<抵抗することの唯一の方法は、抵抗しないことだ。P63>
    そんな夫たちは密告されて姿を消し、病気の子供は病院に置いたまま、わたしたちは立ち去らなければいけない。<笑っている仏さまを屋根裏の片隅に置いてきたが、仏様は今でも、まだそこで笑っている。P131><この世のものにあまり執着してはいけませんよ。P122>

     物語は、日本人の「わたしたち」が去っても語り継がれる。

    わたしたちは日本人がいないことに慣れてしまった。家には日本製の食器、日本人の犬、日本人の家を手に入れた。わたしたちは日本人がどこでなにをしているのか知らない。知ろうとしてはいけない、忘れて進まなければいけない。
     終盤の「わたしたち」は、アメリカ人でもあり、ずっとそこで暮らした日本人たちの想いがまだ残っていて、体は何処かに連れ去られてもその想いが語り続けているのかとも感じた。
     最後の一文の<わたしたちが知っているのは、ただ、日本人たちはどこか遠くのある場所にいて、
    たぶんこの世ではもう二度と会えない、ということだけだ。P157>は、今の私達が、聞かず知らないままにしている多くのものに当てはまる。
     この物語を発表した時に著者には多くの当事者たちからのお礼が届いたと言います。語れなかった、聞いてくれなかった、そんな想いが長い年月を経てやっと言葉になった、読んでいるのだけれども聴いている、過酷だけれど囁くような、胸に迫るような語りでした。

  • 米国の移民法の規制により、家族以外の呼び寄せが禁止されていた1908年から1920年までの間、先に移民となって渡米した日本人男性が日本人の妻を得る為、写真を送り、お互いに了承後、日本で入籍を済ませた花嫁を米国に呼ぶ「写真花嫁」(picture bride)という言葉があった。物語はその花嫁たちを乗せた船の出航から始まり、1941年の太平洋戦争により強制収容所に収監されるまでの日々が描かれる。主人公は個人ではなく、不特定の女性の「わたしたち」が様々な土地での過酷な体験を語る。
    上陸後初めて会った夫写真よりずっと年を取り、聞いていた財産もなく、移住労働者施設を渡り歩き土地を耕す。
    「鏡は片づけた。髪はとかさなくなった。化粧を忘れた。仏さまを忘れた。神さまを忘れた。ふるさとの母に手紙を書くのをやめた。体重が減ってやせ細った。月経が止まった。夢を見るのをやめた。求めるのをやめた。わたしたちは、ひたすら働いた。それだけだった。「ある日、タマネギ畑のまんなかにすわりこんで、あたしたなんか生まれてこなければよかった、と言った女の子もいた。子どもらをこの世に産み落としたのは正しいことだったのだろうかと、わたしたちは思った。子どもらにおもちゃひとつ買ってやるお金さえ、あったためしがないんだから。」
    20年程かけて必死に働き築いた家屋や商店、田畑などは強制収容により失うこととなる。
    「夫とともに、何列も木の並ぶわたしたちのブドウ園を最後にもう一度歩き、夫は最後の雑草を一本抜かずにはいられなかった。わたしたちのアーモンド園の垂れた枝に支柱をあてがった。レタス畑で虫がついていないか調べ、返したばかりの黒い土を手に一杯すくった。わたしたちのクリーニング店で最後の洗濯をした。わたしたちの食料品店のシャッターを閉めた。自宅の床を掃いた。荷物を詰めた。子どもらを集め、そしてすべてのバレーのすべての町と沿岸沿いのすべての市から、わたしたちはいなくなった。」

  • アメリカの日系人の小説はいくつか読んでいるのだが、この本は、文学的に見ても価値の高い作品だと思う。
     普通はある一家を中心とした物語になるものだが、ここでの語り手は「わたしたち」。
     写真花嫁としてアメリカに渡る船の中から物語が始まるが、まだ初潮もないロウティーンから、結婚したり出産したこともある30代まで、北海道から九州まで様々な地域の女性たちがそれぞれの思いを「わたしたち」として語る。
     アメリカに着いて、写真とは全く違う夫に失望しながら、差別と労働に耐え、子を産み、育て、収容所に消えていく。一人一人違う声がひとつとなってメロディーを紡ぎ出すように、それぞれのの生き方の細部をないがしろにすることなく、それでいて日系人の、とりわけ女性たちの抗うことのできなかった運命の大きな流れを描き出している。近くで見ると、小さな色の点に過ぎないが、離れて見るとひとつの大きな絵になっているスーラの絵にも似ている。描き出された絵は印象派のイメージとは違っているが。
     一番打たれたのは最終章。ずっと日本人女性たちだった「わたしたち」が、日本人の雇い主だった、隣人だった、顧客だった、クラスメイトだった、白人たちに変わっている。この章が、この作品を大きく、豊かなものにしている。
     最後に作者がアメリカで出版されている日系人を描いた本に謝辞を述べているが、ほとんど知らないことを恥ずかしく思う。日本で翻訳されたものもあったはずだが、大々的に宣伝されたり話題になったりはしていない。それは同じ日本人としてどうなのか。国が貧しかったため異国に渡り、差別され、日本人であるがゆえに収容所に入れられた人々のことを日本に住む日本人自身が、アメリカ人より切り捨てているのではないか。
     日本に住む日本人が「わたしたち」となってこの本を読まなければならないと思う。
     翻訳家の岩本正恵さんが50歳の若さで亡くなったこともこの本で知った。『世界の果てのビートルズ』とか、素晴らしい小説だと思えたのは、日本語が良かったから。遅ればせながらご冥福を祈ります。

  • 送られてきた写真と身上書だけを頼りに見知らぬ男と結婚を決め、日本から海を渡って米国へ嫁いだ娘たち。

    主語(主人公)をすべて「わたしたち」にして、三等船室からさわさわと娘たちの声が聞こえるようにして物語は始まる。
    わたしたちは港に着き、迎えに来た夫は、写真よりずっと年寄りだったり醜男だったり、貿易商や銀行員ではなく貧乏人だったりすることを知る。そうして、日系移民としての苦労の多いわたしたちの人生が幕を開ける。
    そっけないほど淡々とした語り口の「わたしたち」の言葉が重なり重なりしていくうちに、全米に散らばったわたしたちそれぞれが積み上げていった人生がゆるやかに繋がる。
    リフレインのように連続する短い文章の奥に、実は深刻なドラマもあることもうかがえるが、そこはさらさらと通り過ぎる。そうしているうちに読むわたしも「わたしたち」の中に溶け込んでいく。わたしもまた、若くて無知で貧しかった「わたしたち」のひとりになって、海を渡り、子を育て、子を産まず、きまじめに仕事をし、春をひさぎ、夫を愛し、夫を憎み、夫を裏切り、友を作り、愛人を作り、年をとり、人生を作っていく。
    同じ船でやってきて、それぞれの場所でそれぞれの人生を紡いだ「わたしたち」は、だが、戦争によって日系人収容所という同じ場所に追い立てられ、石を積むように作りあげた暮らしを、突然手放さざるを得なくなる。

    この本の魅力を伝えるのはとても難しいので、つい言葉が長くなる。少しでも気になった方は、ぜひ読んでほしい。160頁ほどで、すらすらと読める本なのに、深い深い余韻を残す。いつまでも「わたしたち」の声が耳に残る。

    この本は、岩本正恵さんが翻訳が未完のまま世を去られたので、小竹由美子さんが後を引き継いで完成させたものだという。訳者もまた「わたしたち」だ。
    本編を読了後、小竹さんによるあとがきを読み、一生懸命こらえていたものがわっとあふれ出た。電車で読んでいたので、上を見て涙をこらえねばならなかった。

  • アメリカに移民文学は多数あれど、日本人のものは少なかったのではないか。この端正な翻訳は素晴らしいし意義がある。
    戦前、写真だけを渡されて海外に渡った花嫁がWWⅡで収容所に連行されるまで。冒頭とラストの文章に胸打たれる。そして「わたしたち」として個を持たない彼女たち、控えめで大きな声を持たない女性たちが、異国で思いも寄らぬ運命に巻き込まれ思わずあげる小さな「声」に耳を澄ます。

  • ツイッターでオススメされていた本。
    大戦前のアメリカへ、未来の伴侶の写真だけを頼りに海の向こうへ渡った「写真花嫁」の物語。
    異国の港に降り立った瞬間から、想像だにしていなかった現実に声もあげることも日本に帰ることもできずあっけなく処女を奪われてしまう。
    苦しみのなかで雇い主からも主人からも存在も忘れ去られ、あるものは死を選びあるものは抵抗することすら選べぬままに農園で働き続ける。
    それぞれの生きていくことの苦しみやつらさが、「わたしたち」という語の反復で淡々と流れていく。それは沸騰する怒りではなく、名を持って生きることへの諦めと、それでも掴んだ子どもや農園の果実たちに傾けられる愛情が重なり合って流れていく日常的だ(それでも、「お母さんのようには絶対なっちゃいけないよ」なんて、何て悲しい言葉なんだろう)。
    息を潜めて慎ましくあることを骨の髄まで染み込ませた彼女たちやその社会を待ち受ける、大戦時の強制収容。
    胸が圧しつぶされるように、悲しみが自分の心に反響する。

  • 労働力としてアメリカに渡った男達と写真結婚で海を渡った女達の
    「わたしたち」という一人称複数で語られる物語

    写真とはまるで違う男達
    手紙で書かれていた裕福な生活のかけらもない過酷な労働
    通じない言葉
    同化を求められ消えていく文化
    発音しづらい名前は変わり、身体だけを求められる夫婦生活

    その中で小さな思い遣りの芽生えたり、子を授かったり、浮気をしたり、逃げ出したり、彼女たちの赤裸々人生が叙事詩のような言葉で紡がれる

    戦争という抗えない渦に巻き込まれ築きあげた全てを置いて収容所へ向かうわたしたち

    日常の中で刻々と迫り来る立ち退き命令に侵食される恐怖から逃れようとする淡々とした描写が、今のわたしたちの生活にも重ねられそうな現実感を持って迫ってくる

    移民、難民を拒絶しようとする風潮もある現代に「わたしたち」の立場に立つことで想像できることがあると思った

    向き合わないとわからない痛みを想像する術の一つとなる本だった

  • 訳者あとがきで、小竹さんがルグウィンの書評を紹介して、詩のようなだと述べているのだけど、まさに。
    写真花嫁として、会ったこともない夫のもとへアメリカに渡った"わたしたち"が、異国で疎外され、苦労し、戦争という嵐に巻き込まれるさまを細切れのたくさんのシーンで描きとる。
    CMで色んな家族の写真をスライドショーにして流したりするのがあるけど、あれに似ている。
    会ったこともない家族。見たことのない場所。車のある風景…うちには自家用車があったことなんてないのに。それでもあのムービーに感じる郷愁。
    この小説にはぼんやりとした総体としての不安と疲弊とそれでも優しい風や笑い声がある。

  • 「わたしたち」の視点で語られる体験は、静かな口調で頭の中をかけめぐる。読み進めるうちに、少女たちがさざめく音に飲み込まれそうになった。表紙のような柔らかい雰囲気を残しつつ、激情をも含む不思議な力を持つ本。最初の1ページの引力が忘れられない。

  • 写真を頼りに、海を渡った日本女性たち。夢と期待を持っていたが、現実は写真と違う夫、過酷な労働、そして差別。
    何とか生き延びた者たちは、戦争の前に暗い影を落とす。
    一人の人物にスポットを当てず、終止「わたしたち」と複数の人物を主役に見立てている。ステージに立つ何人もの女優たちが、こちらに向かい語りかけているような錯覚を覚えた。
    「わたしたち」が去った後、「彼ら」(アメリカ人たち)が「わたしたち」に成り代わり展開していくさまも興味深かった。
    なお、この作品は2014年に急逝された岩本正恵さんが、最後に手掛けていた翻訳作品であることを付記しておく。

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著者プロフィール

1962年、カリフォルニア州パロアルトに生まれる。父は戦後渡米した一世で母は二世。イェール大学で絵画を学び、コロンビア大学大学院で美術学修士号取得。二人の弟は弁護士と政治哲学及び倫理学講師。2002年、大学院在学中に書き始めた本書でデビュー、注目を浴び、アレックス賞、アジア系アメリカ人文学賞を受賞。2004年、グッゲンハイム奨学金を受ける。2011年、二作目の『屋根裏の仏さま』を刊行、PEN/フォークナー賞、フランスのフェミナ賞外国小説賞、ドイツのアルバトロス文学賞ほかを受賞、全米図書賞最終候補となった。

「2018年 『あのころ、天皇は神だった』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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