- Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104669073
作品紹介・あらすじ
境界とはなにか、よそ者とは誰か――。土地に寄り添い描かれる、迫真のドラマ。地方都市に暮らす宇田川静生は、他者への深入りを避け日々をやり過ごしてきた。だが、高校時代の後輩女子・蜂須賀との再会や、東京から移住した木工職人・鹿谷さんとの交流を通し、徐々に考えを改めていく。そしてある日、決定的な事件が起き――。季節の移り変わりとともに揺れ動く主人公の内面。世間の本質を映し出す、共感必至の傑作長編。
感想・レビュー・書評
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簡潔で強く美しい文体。北風に揺れる冬枯れ木立の様な宇田川が、蜂須賀が、たまらなく哀切で愛おしい。地方と都会の二元論だけでは説明できぬ街、人々の生活。雄弁に語らず何も仕掛けず誰にも深入りせず地元に住み続ける宇田川の静かな観念こそが、現代の哲学そのものなのかも。#絲山秋子
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舞台は高崎市を中心とする、群馬県。
出身地が近いため、
「あーねー」「そーなん」「行ってみるか」などの方言を懐かしく感じた。
群馬を観光した気分も味わえて、行ったことがなかった楽山園や七輿山古墳も行ってみたくなった。
ところどころ、ツボに入る部分があり
クスクス笑いながら読んでいたのだけど、
一般的には笑える小説ではなく、
主人公の宇田川が無意識にほくほく笑っているのと似た状態だったかもしれない。
全体として描かれているのは、
地方、そこに住むひと、よそから来たひと、いちど外に出て戻ってきたひと、
その微妙な関わり。
地方育ちだから、外に出ていく人に対して負けたような気持ちになるのとか分かるなあと思う。
よそ者が起こしたトラブルについて、
なかったことにするのは薄情なのか、どうなのか。
主人公のいうように、最低限の気遣いにも思うし、
私の地元だとずっと「よそから来たあいつはひどかった」とか言われていそうな気もしたし。
この辺は自分では答えが出なかった。
でも
感情は体力を使うという話とか
不謹慎という人たちに対する思いとか
共感するところが多くて、読んで良かった。 -
ずっと地元にいる私にとって、色々と考えさせられた作品。
1回でも"外"に出たことがある人間から、「自分はどう思われているんだろう?」と気にしてしまう。"ここにいる"と決めたのは、自分なのに。
私は、「好きか嫌いか」ではなく、「好きか無関心か」で生きている。好きだったものが、気づいたら無関心になっていた時。
学生時代にあんなに仲が良かったのに、今は連絡先も知らない友達。とてもお世話になった先生なのに、偶然会っても知らない振りをしてしまう自分。ひどい事件や大きな災害の映像が流れていても、どこか他人事のように感じてしまう現実。薄情者だなぁ、と思う。 -
神主という職業を継ぐ事を宿命づけられている男を通じて、地方の閉鎖性と居心地の良さ。
都会への憧れと地元への執着。狭いコミュニティーの中での立ち回りの難しさがテーマです。
これといった山場があるわけではないのは純文学なんで当たり前なんですが、純文学が苦手な僕もなぜか絲山さんには惹かれるものがあります。
この本もテーマ程陰鬱な空気は無くてとても淡々としています。
神主という仕事自体がレアで、この本を見ると、それだけでは生きていけず他の仕事をしなければならないのに、縛りだけは多く、時間的に拘束され続ける職には就きにくい。そりゃ鬱屈もするわという感じです。
「薄情」という言葉は僕の胸にも刺さります。自分自身薄情だという自覚がありまして、一部の人以外には心の中が非常に冷淡な気がします。
さて、この薄情という二文字、非常にパワーのある言葉で、もし色々な人からこの言葉を投げかけられたら相当へこむでしょう。嫌ですよね薄情って言われるの・・・。
この主人公が色々な事に無関心であるところを薄情と表現しているのかと思ったら、そういう訳でもないんですね。最後まで読むと色々な事に薄情は含まれていて、情って何なんだろうかと少々考えてしまう本です。 -
これを書ける絲山秋子は本当にすごいと思う。
もう自嘲なんていらないのだ。
薄い毒で死ぬほどみんなやわじゃない。 -
いつもの事ですが、絲山作品の感想には悩んでしまいます。
・言いたい事は掴み切れないけど、しっかり読まされる。
・どこが良いのか判らないけど、なんか「良い」と感じられる。
まあ、困ったものです(笑)。
純文学的主人公の宇田川。跳ねないんです。
何かが起きた時にそれに反応して動くのではなく、衝撃を吸収してボタリとその場に一旦落ち、独白が始まる。その後おもむろにズルズルと別の方向に流れ始める。
ちょっと凝り過ぎかなと感じられる文章表現とともに、如何にも文学賞受賞作品という感じの作品でした。
(第52回谷崎潤一郎賞受賞作品です) -
よそ者ってなんだろう。Uターンで戻って来たヒトは戻ってきた瞬間にそこの者になるのか。何年そこに住んでいたらよそ者じゃなくなるのか。
地方都市のそのまた中心ではないところに住む人たちの、よそ者に対する感情の複雑さ。受け入れ親しく付き合っていたとして、けれど完全に同化はさせない微妙な感情の溝。少したどればだれか知り合いにたどり着く縁の中で生きている人たちが使い分ける「内側のヒト」と「外側のヒト」への「情」の、その濃度。けれどその「よそ者への薄情さ」は実は情の薄さではない、という、これまたなんとも複雑な。
もともと他人と深く濃く付き合うことが苦手な人にとって、その情の濃い土地で生きていくのは苦しいモノだろう。けれどそういう付き合いを避けて生きて来た(と思っている)宇田川も、決してその情を拒否しているわけではなく、その濃さに自分を合わせ切れていないだけのような。なまじ東京で学生生活を送ったばかりに都会での軽くて薄い付き合いの心地よさを知ってしまったのだろう。たんなる都合のいい身軽さ無責任さ、なのだろうけど。
そんなかれが、都会から来て住み着いた木工職人の自由さへの憧れと嫉妬を自覚し、得体の知れない喪失感やあるようでないような居場所と未来への漠然とした焦りを飲み込むことでその場所で生きていく自分を受け入れていく。かれにとってあるいみリハビリ期間だったのかも。
ヒッチハイク少年との出会いは偶然のようで、あるべきときに起こる必然のようで。
そしてタイトル。誰が薄情だったのか。 -
日常。
爆発的な何かが起こるわけでもない。
ただ、その日常の中で、変わっていくもの、変わらないもの、が心の変化に繋がる。
当たり前にそこにいる人は、当たり前にずっとそこにはいない。
今日は、当たり前じゃない。 -
よく分からないまま話が進行した
最後に自己理解についてちょっと考えさせられたような気がする