この地上において私たちを満足させるもの

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784104393091

作品紹介・あらすじ

戦後の房総半島からヨーロッパ、アジア、そして日本で。そこでは灰色の人生も輝き、沸々と命が燃えていた。あのとき、自分を生きる日々がはじまった――。縁あって若い者と語らううち、作家高橋光洋の古い記憶のフィルムがまわり始める。戦後、父と母を失い、家庭は崩壊、就職先で垣間見た社会の表裏、未だ見ぬものに憧れて漂泊したパリ、コスタ・デル・ソル、フィリピンの日々と異国で生きる人々、40歳の死線を越えてからのデビュー、生みの苦しみ。著者の原点と歳月を刻む書下ろし長篇。

感想・レビュー・書評

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  •  乙川優三郎さんの自伝的小説でしょうか。ドイツ・フランクフルト、パリ、スペイン・コスタデルソル、マニラ、タヒチの話。国内、製鉄所勤務、下落合・月島のアパート、御宿の終の棲家。胃癌の手術、心臓病。「この地上において私たちを満足させるもの」、2018.10発行、連作10話。パリでの女性画家武藤泰子と過ごした日々と自死後彼女の絵「パリでいちばん眺めのよい丘」をオンフルールで目にできたこと、編集者矢頭早苗急逝を看取ったこと、終の棲家で素直で勤勉な養女ソニアと猫の風子と幸せに暮らしたこと、これらが心に残りました。

  • 小説家が自らの人生を振り返る、という形での小説。人生のそれぞれの場面が、各章を構成している。その構成が飽きさせずにサクサクと読ませる。

    出生と労働争議の章については、自分が生まれる遥か前の時代について、まるでその空気感が伝わってくるようだった。
    海外を放浪する期間については、ある種の紀行小説のようでもあり、旅情を強く誘われた。
    後半の作家としての章は、静かながらも滾るような情熱を感じた。文字通り命を削って執筆にあたる主人公に、晩年のロールモデルを見た思いだった。

    とにかく文章が美しいと感じた。なんて円熟味のある文章。そして初見の単語が多くて、何度もオンライン辞書のお世話になった。
    正直なところ、タイトルだけで購入を決めたのだけど笑、他の著作も読みたいと思わされた。
    本当に贅沢な読書体験だった。

  • 前作「二十五年後の読書」で主人公の作家・三枝昴星が「完璧に美しい小説」を書きたいともがき苦しみ、書き上げた作品といういわば作中作。

    戦後の房総半島からヨーロッパ、アジアへと放浪した三枝の人生の最も輝いた季節をたどり、終の棲家である千葉・御宿で迎える老作家の最期までをとことん磨き抜かれた言葉で描き切った作品は、同時に、作者・乙川優三郎自身の自伝的長編でもある。

    「書くことは言葉との闘いである」という作者は文学を芸術といい、言葉は磨けば磨くほど洗練されていくと安易な妥協を許さない。
    身を削り、一文にこだわり、美しい文章を編んでいく苦悩が痛々しい。

    「一家をあげて働くことが生活なら、自分という人間を築くことが人生」と生きることを突き詰めてきた一生を振り返る「老い」の境地と、闘いを終えて迎えるその最期に万感の思いがこみあげる。

    はっとするような言葉、耳に痛い言葉に叱咤されながらの考える読書はまさに至福の時でした。
    まさかこれが本当に作者の最後の作品とならないことを強く願います。

  • まだ未読なら、対となる形で同時刊行された『二十五年後の読書』を読めば、本書の書評が小説の中で読める。
    どういうことかというと、著者(乙川優三郎)が創造した小説家(谷郷敬、筆名:三枝昂星)と書評家(中川響子)が登場する作品が『二十五年〜』で、本書はその作中にも登場する三枝の最後の作品ということになるからだ。
    面白いのは、『二十五年』が雑誌連載の作品だけど、『この地上〜』が書き下ろし作品である点。
    実際、作中にも『この地上』が谷郷の書き下ろし作品で、中川が脱稿を危ぶむほどもがき苦しんだ苦闘の産物として描かれている。

    小説家が自身の作品に小説家を登場させることは珍しくないだろうが、その作品を小説として発表するのは稀ではないか。
    ましてやその作品を小説上で書評までしてしまうというのは、過去に例があるのだろうか。

    中川がカクテルを片手に『この地上』をどう書評しているか。
    題名は長く意外に感じ、冒頭は「上質な言葉が誘う美しい序奏」と評し、思わず余白に「絶妙」と書き込むほど。
    簡潔で、選び抜かれた文章に感じ入り、イタリアで客死した無名の画家を自身の病妻と結びつけ、長い題名の意味を知ったあとで、作家の復活は疑いようがないと結論づける。

    自分で自分の採点を出しているわけだから、よっぽど作品に自信がないと、こうは書けないだろうと思いつつ、自分の感想を加えると、確かに冒頭の一文は美しい。

    「南側の窓辺に立つと、庭木が風を教え、道の枯葉が消えている。朝から草は忙しく萌え、木々はのんびりと芽吹きはじめる。隣家の生垣をすり抜けて小鳥たちが呼び合い、芝の朝露を吸う。疎水のない土地で生きる彼らは賢く、人間の暮らしを見つめて水を撒く家を覚える」

    ただ難点を言えば、『この地上』は谷郷敬というより乙川優三郎の作品。
    当たり前と言えば当たり前の話なのだが、乙川優三郎とは違うテイストを期待したが、見事に裏切られた。
    「カメラのレンズを通して対象の美点を捉える」と評された谷郷のキャラクター造形は、乙川とどこに違いがあるのが区別がつかない。
    唯一、主人公と兄との関係性が、他の乙川の作品にないものを感じさせて期待したが、尻窄みに終わってしまった印象。
    ただ乙川優三郎の作品と考えれば、他の作品と甲乙付け難いわけで、なんで独立して発表しなかったのかなと恨めしい気持も。

  • 著者の自伝的内容なのか、外資系ホテル業より40代で執筆を開始した経歴と似た内容。

    疎開して農家になるも母は自由を求めて逃亡。
    兄は絵画の夢諦め農業を継ぎ、主人公は工場へ逃亡。
    紆余曲折あり諸外国での経験も礎に小説家に。
    晩年の執筆活動時に美しい作品に拘り寡作。
    そんなこんなの人生を送る。

    満足が主題かと思い読みすすめるも、価値観の話にも見える。
    確かに綺麗な文章ではあった。
    心乱され落ち着かされる内容。

  • 「二十五年後の読書」において、登場人物が史上最高の小説という作品が「この地上において私たちを満足させるもの」である。ちなみに両作とも乙川優三郎作品。つまり自分の小説が史上最高と自負する…ハードルあげまくるのである。

    読み手としたら「ほぉ、そこまで言うんやったら読んでみたろうやないかい」と蓮っ葉に構えてしまうのはしゃーないこと。でも…そんなハードルがない方が良かった。変に「史上最高」とか思わずに読んでいたら、もっともっとこの世界に素直に共感し入りこめていたに違いない。

    そんなこと言わずとも、そんなに構えずとも、この小説は美しい良い小説なのだから。

    主人公、高橋光洋の生涯を追うような形で短編形式で章立てする。すべての章はみっちりつながっているので短編小説としてではなく長編として読むべきだと思う。

    主人公の生きざま、そこに関わってきた人々、情景の描写が素晴らしく美しい。しっかりと選び組み立てた文章が読み手の心をしっかりとらえてくる。主人公や登場人物自体に否定を感じる部分があっても、小説としての魅力は損なわない。

    人間のバカさ加減や失望を読まされても、なお小説としては綺麗だし力が感じられる。こういうのって読書の醍醐味だと思う。並大抵の作家ではできないこと。

    後半、主人公が老いてからの人生の描写がたまらなく好き。彼にとっては「酒・ボサノヴァ・過去の生き様」があって穏やかに陽だまりで過ごすことこそ、表題の回答なのだろう。

    俺の残り人生…まぁ50年は絶対ないだろう、長くて30年。それも全盛期を終えて老化劣化していく残り火のような期間で、主人公のように表題の回答を見出せるだろうか?彼のような穏やかで満ち足りたエンディングを迎えられるだろうか?そうであるように願い、行動していきたい。

  •  連作の『二十五年後の読書』の作中作として登場する本書。その作品を読んだ書評家が、

    「もう怪しい魅力的な世界が骨格を持って立っている」
    「量産は考えられない薫り高い文章」
    「美しい日本語がつづいて、それに勝る言葉など見つかるわけなかった」

     と絶賛する。
     作者自身でハードルを上げておいて、どんな小説になっているか楽しみに読んだ。構成として、『二十五年後~』と似て、作家である高橋光洋を軸に、戦後から現代に至るまでの日々を、千葉の生家の暮し、家庭崩壊、製鉄会社での社会生活と企業の闇、そして漂泊の日々を経て作家としてデビューして、文学を生み出す苦労を綴る。
     著者の半生がギュッと詰まったかのような内容だった。個々のエピソードは創作であるかもしれないが、場面場面で考えたこと、触れた人の言葉は、ひょっとしたら実体験に基づくものなのかと思わせる。

    「逃げ場がないということがすでに結論なんだ」
    「読書の意義は共感することよりも自分とは違う人間を見つめることにある」
    「これから冒険に出ようという人間が用意された道を歩かされるほどつまらないこともなかった。」
    「老いても精魂を傾けることがあるのは幸せだ」

     こうした言葉を並べただけでも、作家の人生が俯瞰できるようだ。

     姉妹作『二十五年後の~』のほど、浮ついた感じが少ないのは、戦後の混乱や家庭崩壊など重く暗い前半の影響か。途中、海外の国々を渡り歩くあたりは、気楽なデラシネな暮らしが、やや鼻につくし、さまざまな国での体験がぶつ切りで、「だから何?」と中だるみしがちだが、本作はそれが見事に終盤に回収されていくから、なるほどと膝を打つ。
     
     とはいえ、ボクサーの登場するクダリは、沢木耕太郎ほど描写は巧みではないし、その他のエピソードもややとってつけ感がなきにしもだが、まぁまぁ、それなりに、やられた感はあったか。
     そういえばエンディングの味付けも、どことなく沢木著の『春に行く』っぽかったかな。既視感のあるものではあったが、これはこれで見事に綺麗な終わり方だったとは思う。

     でも、結局、連作の片っぽ、『二十五年後の~』のほうの存在意義は、あまり感じられなかったな。本作だけを読んだのでも十分だった。

  • 美しい文章、そして硬質な世界。
    戦後から現代まで続く物語は、その時代背景もあってか渦巻いている。でも冷徹。そこがいい。
    作家自身を彷彿とさせる主人公に想像を膨らませる。
    作家を生み出す人生経験、作家の抱える感情や業を垣間見るようで、興味深かった。
    しかし、この彼は『二十五年目の読書』の谷郷が創作した人物なのだということに思い至り、絡まる構造が醸すぐるぐるとした不思議な感覚に囚われる。
    これは、響子と谷郷の、そして彼の妻とのことが書かれている部分なのだろうかとか、二冊を並べて読み比べたくなってしまう。そして、ラスト。
    彼は、この地上において満足したのだろうか。
    この読後感。響子もこれを味わったのだろう。
    これが、自分と浅からぬ関係のある男が到達した作品なのだとしたら・・・そんなことを考えてしまう。

  • 書き下ろし

    乙川優三郎の時代小説ファンとしては、書かなくなったわけ、その後のフィリピンものへの移行の背景を推測できる作品で、納得がいった。

    乙川文体が好きなファンには、『二十五年後の読書』とともに、取れだけ呻吟して生み出されていたのかを思わされる。

    自伝的な作家の歩みがどこまで私小説的なのかわからない。疎開して住み着いた千葉でのくらし、工場勤務、パリで出会った女性画家の芸術への姿勢と死、フィリピンでの生活、居候した一家との交流、帰国してからの著作活動、伴侶となった優秀な編集者との生活と死別、フィリピンから来た友人の孫娘を養女にした老後。持病の心臓病での死は理想なのかもしれない。

  • 最後まで読んでしまった
    残念

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著者プロフィール

1953年 東京都生れ。96年「藪燕」でオール讀物新人賞を受賞。97年「霧の橋」で時代小説大賞、2001年「五年の梅」で山本周五郎賞、02年「生きる」で直木三十五賞、04年「武家用心集」で中山義秀文学賞、13年「脊梁山脈」で大佛次郎賞、16年「太陽は気を失う」で芸術選奨文部科学大臣賞、17年「ロゴスの市」で島清恋愛文学賞を受賞。

「2022年 『地先』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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