- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104013081
作品紹介・あらすじ
野生の思考と小説家の言葉が響き合い、ゴリラとヒトが紡ぐ物語が、鮮やかに浮かび上がる。いざ、物語のジャングルへ……野生の眼を持つ霊長類学者とヒトの心の森に分け入る小説家。ある時は京都大学の研究室で、またある時は屋久島の自然の中で、現代に生きるヒトの本性をめぐって、いきいきとした対話が続けられた。野生のゴリラを知ることは、ヒトが何者か自らを知ること――。発見に満ちた知のフィールドワークが始まる。
感想・レビュー・書評
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好きな二人の対談なので興味深く読み進められましたが、結局何が言いたかったのかよくわからないまま読了してしまいました。
話題の中核にゴリラがいるので、どうしても山極さんから小川さんが話を聞きだすという感じになってしまうのも致し方ないですね。
何かテーマを決めているわけでなく、自由気ままに思っていることを言いあっているので、いろいろと新発見がありました。
頭に残った新知識:
・ゴリラやチンパンジーやオランウータンは"ヒト科"であること。
・九州最高峰の山はなんと屋久島にあった。
なるほどと思ったこと:
・信頼関係っていうのは、特別な相手をつくるということ。そのために自分の時間を相手に使ってもらうということ。
・子どもにとって一番幸福なのは、自分の食欲を満たしてくれる環境が整っていて、そこで自由に振舞えるということ。
・人間は変な生き物。造られたものによって、人間も人間関係も変えられてしまっている。
・霊長類学者は、人間を地球規模で数百万年の視点で見ている。
言葉の無い世界で起こっていることを"言葉"で説明するって凄いことですね。
上に「造られたものによって、人間も人間関係も変えられてしまっている。」と書いた時、一番にスマホが頭に浮かんだけれど、人間を変えた最大の発明は "言葉" ですかね? -
この本もフォローしている方のレビューを読んで面白そう!と思って借りてみた。
霊長類学者の山極寿一さんと小川洋子さんの対談集。
最後は、屋久島でのトレッキング対談…俄然、屋久島に行ってみたくなる。
ヒト科の類人猿(主にゴリラ)と人間が、進化の過程で枝分かれした後、人間は何を得て何を失ったか…というようなことが、一般人にも分かりやすく興味深く書かれている。
小川さんの質問や合いの手がこれまた絶妙で、我々目線で世界を広げてくださる。
人間の祖先は、自ら新天地を求めて偉大なる冒険に出たのかと思いきや、実は森から追い出されサバンナを放浪するしかなかった…というような話や、言語の獲得が、巡り巡って人間を縛る術になってしまっている…というような話など、初めて知ることばかり。
ゴリラのオスは、ゴリラのオスとしてのみ存在する。人間のオスはオスとしてのみ存在する事は許されず、色々な顔を持たなければならない。という話が印象的だった。
気の毒ではあるが、言語文化を有する人間の性であろうか…。
何年か前にイケメンゴリラ、シャバーニが話題になったけど、ゴリラのオスって、その佇まいから溢れるオーラがハンパない、人間、太刀打ち出来ず…。
一つ前に読んだ本が「脳科学者の母が認知症になる」だったのだが、脳と言語の話など、この本ともリンクする所があり、より深い読書となった。記憶がある内に読めて良かった。2020.4.13 -
◯とても良い本。面白かった。
◯言葉を駆使する小説家を聞き手として、言葉とは異なるコミュニケーションや世界を研究してきた最も自然に近い研究者との対談形式で進んでいく。
◯言葉や文字という完全であろうとして、その不完全さを強調してしまうツールに対して、動作によるコミュニケーションは不完全であるのに深く伝わるという構造が見られ、一種の言語に対する批判的な論調で進むのかと思っていた。
◯しかし、言葉の海と自然(ゴリラ)の森は、実は共通したものであることが語られていく。上記のようなつまらない二項対立で考えていた自分がいかに文字の世界だけに閉じこもっていたのかを知った。
◯読み終わってみると、なぜこの本が、この対談がセットされたのか気になる。狙いはなんだったのか。現在の科学至上主義に対しての一つの提言なのかもしれない「おわりに」で書かれている山極先生の言葉は重い。
◯小川先生が山極先生の本をしっかり読んでいて、鋭い質問をしてしている点が非常に好感である。いや、対談本だし、仕事だし、一応対談した後に文字で起こして確認しているのだから当たり前ではあるけれども。大変良かった。
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何ともインパクトのある表紙のゴリラ まず、このゴリラに釘付け
鼻をハート型に膨らませてこちらを睨んでいる
これは山極さんが山で2年間一緒に暮らしたというタイタスに違いない
26年ぶりにその山を訪れ対面すると、タイタスは、じっと見つめ子供返りしたように手を上にして仰向けに寝っ転がったそうだ
記憶を辿り、頭だけでなく体が昔に遡ったということらしい
この本は、霊長類学者で京大総長の山極寿一さんと作家の小川洋子さんの3回に渡る対談をまとめたものである
山極さんは、「ゴリラは人間の鏡である」という
人間の模範であるということ、人間の本当の姿を映し出すものであるという二つの意味で
この本は、ゴリラの生態や習性から人間や人間社会に考えを及ぼすことがねらいであろうが、単純にゴリラの生態や習性がおもしろかった
⚪︎ゴリラのオスは大人になると、背中が白くなる(シルバーパック)
そのオスのリーダーを中心に数匹のメスと子供の核家族
⚪︎複雑なコミュニケーションの方法をもっている
⚪︎二種類の歌を持っている
一人でいる時孤独を紛らわせるための美しいハミング
みんなで食べている時、合唱するシンギング
⚪︎キングコングでおなじみの胸を叩く動作ドラミングは、自分の 意思を相手に危害を加えずに紳士的に伝える方法で、戦いの宣 言ではない
⚪︎体のハンディを悲しんだり卑屈に思ったりは絶対しない。今ある自分の体を十二分に使って、できることを楽しむ
⚪︎小さな動物と楽しいルールを作り上げて長時間遊べる 等々
人間が手に入れた『言葉』というものは、もともと違うものを同じ価値基準でまとめあげてしまう危険性を孕んだ狡猾なものだと山極さんは説く
言葉の網ですくい切れないものがあふれている世界に、つい最近まで人間は他の動物と共存していた
言葉に頼れば頼るほど、それ以前に獲得した豊かな世界から離れていく。それは生物としての人間にとってあまりにももったいない損失ではないかとも
さらに山極さんの警告は地球の生態系を壊し、生命を操作し、新しい生物まで作り出した人間や地球の未来にまで及ぶ
確かにこのお二人が屋久島の森を歩いておられるところを読むと現代の人間社会の失ったものの大きさに気づかされる気がする
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本書の著者の並びを見ただけで「おおおおっ!」と興奮してしまいました。
『科学の扉をノックする』(集英社)や『世にも美しい数学入門』(筑摩書房)で、科学者の先生たちと知的で穏やかな対話をされてきた小川洋子さん。
そんな小川さんと霊長類学者であり京都大学総長も務める山極先生のお話だもの、これは間違いない。
講演会で、研究室で、そして屋久島の森で。
霊長類学者と小説家の対話はゴリラを軸に進みます。
想像していた以上に社会性が高くて賢いゴリラの生態に驚きつつも、彼らを鏡することで見えてくる人間の姿にドキリとさせられます。
自分自身のこと、子育てや他者との関わり…美しい銀色の毛に覆われたゴリラの背中から、学ぶことばかりでした。
ゴリラの本を読んだ、というよりも、人間の在り方の本を読んだような読後感。
以前、津村記久子さんがエッセイの中で"『ダーヴィンが来た!』をビジネス書を読むように真剣に見る"というエピソードを書いていらっしゃいましたが、本当に動物たちはたくさんのことを教えてくれるなぁ、という思いを噛みしめて読了。 -
熊の生態について調べてら、ゴリラのタイトルの背表紙に小川洋子さんの名前をみつける。
手にとって開いてみたら、あの小川さん、霊長類学者の山極寿一さんとの対談本でした。
しかも京大の総長もしてたとか。
小川さんが聞き手に回って山極さんが幅広い知識を屈して畳み掛けてくる。人脈も豊かで話題も豊富、上に立つ人は政治的にも立ち回りに長けているから、小川さんが山極さんをボスゴリラと表現していたこで了解しました。
印象に残ったことは
言葉を使うとゆうことは効率よく都合のいいように整理しなおすとゆうことだとゆう山極さんの言葉。
なるほど、似て非なるものもひとまとめにされてしまう危険があると言うことか。南に行きたいけど、南南東位なら同じ方角で片付けられてしまったら遭難してしまうかもってことだな。
小川さんの
言葉では置き換えられないはずの人間の心を言葉で表現しようとする矛盾。不可能を自覚することがまず必要で、孤独とか楽しいとか内面を規定する言葉を用いるより、人の微妙な目の表情、着てる服、ものの食べ方とゆう外面に現れるものを描写したほうが小説の言葉として生きてくるとか。
なるほどって思いました。
ゴリラの生態とかは知識として勉強になりました。
そんなところかなっw -
京都のとある
街角の学生さん相手の「タイ料理屋」さんで
お昼ご飯を、山際さんと一緒にいただいたことがある。
山際さんはタイ・ナンプラーラーメン
私はトムヤンクン・セット
どちらも780円だったと思う。
その時に
最近に観た「映画」のお話しを
させてもらった
細かなことはほぼ忘れてしまったけれど
日本ではない
異国の文化に触れることは
やはり興味深いものですねぇ
というお話が印象に残っている
それと
あぁ そういえば
と どんな話題にも
興味深いお話を持ってこられて
博覧強記とは
山際さんのような方を言うのだな
と印象を強く持ちました。
小川洋子さんとのこの対談集で
その時の 口調とトーンを
思い起こしながら
興味深く読ませてもらいました
小川洋子さんの
「単にゴリラの気持ちを代弁できるではなく、
脳のコントロールに支配されない
人間の肉体に刻まれた記憶を読み解ける」
そんな人が山際寿一さんという
表現がなんともお見事!
さすが 文学者ですね。 -
人間って何だろう?という大きな問いをめぐる、ゴリラの研究者・山極先生と、小説家・小川洋子さんの対談。
言葉の無い世界の専門家と、言葉だけで世界を構築する専門家、という組み合わせだけでももうワクワクする。
テーマが大きくしかも対談なので、内容は多岐にわたり、何か一つに絞って感想を書くことは難しい。なので、とりあえず、二度読みして付箋貼ったとこをピックアップしてみる。
①ゴリラは自分の体のハンディを悲しんだり、卑屈に思ったりは絶対しない。
ゴリラの世界に「過去」は無いらしい。だから、死者を悼んだり、その恨みを晴らそうと戦争を起こしたりしないし、自分の子を殺した相手とも交尾して繁殖する。けれど、26年越しに再会したゴリラのタイタスはちゃんと山極先生を覚えていて、子どもの頃に返ったかのような反応を示したらしい。「言葉」は記憶と物語のための強力な装置だけれど、どうも言葉だけがその機能を持っているのでは無いようだ。身体的な記憶?ゴリラの世界にはそういうものがあるのだろうか?子殺しをするゴリラの気持ちや、再会した時のタイタスに起こっていたことは山極先生にもまだ分からないそうだ。
②ハゲとデブは子どもウケのため。
ゴリラは歳を取れば取るほど女子どもにモテる、というのは山極先生の別の著書での指摘。で、ここではそれに加えて、一体何がオトナのオスの魅力なのかが語られていて、それはハゲとデブらしい。そういえば、娘の通う幼稚園でも年配のでっかいおじさん(運転手兼用務員さん)が子どもたちに大人気だ。ハゲてはないけど、お腹が出ているらしい(娘情報)。園には若い男性の先生や、実習生の男子大学生もいるけど、運転手さんほどの人気者にはならないみたい。なるほど、それって本能的なものなんだなぁ。
③言葉を持たない相手に言葉を映し出すと、書くべきものがくっきり見えてくる。
これは小川洋子さんの談話。そういうことかー、と腑に落ちた。この本の一つ前に『ミーナの行進』を読んでいたので、余計に納得いった。
小川さんは、言葉では描けないものを言葉で描こうとしていつももがいている、ともおっしゃっていて、それは若松英輔先生や登美彦氏もたびたび書いていること。おそらく、どんな書き手も同じことを思っているのではないのかと。で、小川さんの場合は動物を一種の媒体(巫女?よりまし?)のようにして、言葉ならざるものを言葉の世界に織り込んでいこうとする、という作法をとっているのだろう。今後の小川作品の読みに活かしていきたい。
④言葉はもともと違うものを同じ価値基準でまとめあげるというタブーを犯している。言葉を使うというのは、世界を切り取って、当てはめて、非常に効率的に自分の都合の良いように整理し直すこと。
養老孟司先生も、何の本だったかで同様のことを指摘されてたなぁ、と。自然界に同じ物は二つとないし、同じことは絶対に繰り返されない。それを同じだ、と言い張るのが脳だ、というのが、確か、養老先生のお話だったかと。
そして、言葉で整理することの暴力性について。これは常々、自分にも人にも話していること。言葉という必要悪と付き合っていくときの、非常に重要な戒め。「ことほぎ」は「寿ぎ」「言祝ぎ」であると同時に「呪言」でもある。岡野玲子さんも『陰陽師』で「名とは呪さ」と晴明に言わせている。
⑤人間の身体感覚はまだある程度は森の中にいる。
『スマホ脳』でもほぼ同様のことが指摘されている。また、『ヒトの目、脅威の進化』では人間の視覚は森の暮らしに適応するように進化していることが指摘されている。
本書では、散歩の大切さを山極先生は説いている(ベストなのは森の散策らしい)。多和田葉子さんやハラリ氏、アンデシュ・ハンセン氏も、とにかく知識人の方々はよく散歩される。山極先生によると、人類は長い距離をゆっくり歩くように進化したらしいから、身体感覚を大切にしてやると知的にも活性化するってことなのかな。だとすると、スマホは控えめに、ということになるな。歩きスマホ、だめ、絶対。
小川洋子さんが挙げている『ナチスのキッチン』、ブクログで検索してもヒットしない。河合隼雄学芸賞を受賞した書籍なのだけど、なぜ?ブクログさん、もちょっと頑張って。