- Amazon.co.jp ・本 (315ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103732068
作品紹介・あらすじ
昭和天皇の側近・松平康昌と米国中枢部の接点に位置し、GHQを介さないチャンネルの要にいた、一人の男。流暢な日本語、人懐こい風貌、そして情報を嗅ぎ分ける類い稀な嗅覚…。戦後歴代宰相の懐に食い込み、機密情報をワシントンに送り続けたC.パケナムとは-。虚実が錯綜する、その全貌を追う。新発見の日記を手がかりに、占領下の知られざる「点と線」に迫るノンフィクション。
感想・レビュー・書評
-
トマス・コンプトン・パケナム、終戦後の占領期に「ニューズウィーク」東京支局長を務めた一人の民間人。
偶然に、彼が遺した日記を入手した著者は、コンプトン・パケナムが単なる特派員ではなく、宮内省の幹部(松平康昌)を通じて日本の皇室と繋がり、当時公職追放されていた鳩山一郎や岸信介といった後に首相となる大物政治家とも懇意の仲であったことを知ります。
一方で、「ニューズウィーク」本社の外信部長の役にあったハリー・カーン(後にダグラス・グラマン事件において贈賄計画に関わったコンサルタントとして名前が挙がることになる人物)を通じてワシントンとも繋がり、トルーマン大統領の特使として訪日し、後にアイゼンハワー政権の国務長官となるジョン・フォレスター・ダレスの情報源になっていたことも明らかになります。
パケナムの日記には、来日したダレスを鳩山と引き合わせた件りなどが生々しく記されています。
終戦翌年の1946年に東京に赴任したパケナムは、マッカーサーの占領政策を批判する記事を書いたことでGHQに睨まれて一旦は日本から追放(再入国拒否)されますが、1948年末にはワシントンの後ろ盾を受けて東京に再赴任します。
ちょうど冷戦が始まるという国際情勢の変化の中、米国の占領政策が方針変更され始めた時期と重なります。
マッカーサー解任から講和条約締結・独立といった一連の流れの中で、パケナムは裏ルートでの日米政界の橋渡し役を務めていきます。
そんなパケナムの出自が、日本生まれの英国人であったというのがまた面白いところです。
パケナム家は元はアイルランドの貴族の系統。
コンプトン・パケナム自身は、神戸の在日英国人商人家庭に生まれ、第一次大戦では英国軍に従軍し、米国に移民して大学の教員や音楽ライターの職を経て、「ニューズウィーク」のジャーナリストとして再来日を果たします。
生涯に四度の結婚をし、最後の妻は日本人のオペラ歌手。
伯父は、日露戦争で英国の幹線武官として司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも登場する「ペケナム大佐」であることも明らかになります。
著者は、日米英の血縁者や文献を隈なく調べ上げて、コンプトン・パケナムの数奇な人生を紐解いていきます。
1957年にパケナムが急死した際に「ニューズウィーク」誌に掲載された彼の死亡記事に記されたプロフィールにも事実と異なっている点が多くあることが明らかになります。
終章で、多磨霊園に眠るパケナムのもとを著者が訪れる件りには感慨が溢れていて感動的です。
それにしても、このような名もなき民間人が、日本の戦後の行く末を左右する占領期の政策決定に深く関わっていたという事実には、日本人としてやや複雑な思いも湧いてきます。
パケナムのような数奇なプロフィールを持つ人物がもしいなかったとしたら、日本の戦後はまた違ったものになっていたのでしょうか。
さらに言えば自分のような戦後世代からするとついつい軽視しがちな占領期という期間が、戦後日本を形作る上で決定的な時代であったことを改めて思い知らされます。
在日米軍や沖縄の問題を考えれば、この時代に為された政策決定が、今日的な問題に繋がっていることを否応なく意識させられます。
公職追放解除も、朝鮮戦争も、講和条約も、日米安保も、けっして必然ではなかった。
何か一つ歯車が狂っていたら、まったく異なる戦後日本が実在していたのかもしれません。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
昭和天皇、宮内府式部官長 松平康昌の皇室側が時の首相吉田茂やマッカーサーをバイパスして、『ニューズウィーク』東京支局長パケナムや外信部長ハリー・カーンを通じてワシントンと皇室外交を非公式に行っていた当時の様子を伝えている。巻末に参考文献がかなり列記してあったので、もう少し詳しい内容を期待していたのだが物足りなさを感じた。
-
『象徴』天皇による、確固たる意志だけではない、実効性を伴った戦後日本の政治工作を、丁寧に検証していて、興味深い内容でした。
昭和天皇をフリーメーソンに入会させる動きがあったなんて、全く知りませんでした。 -
敗戦直後の数年間,昭和天皇が政治的に動いていたとの記述だが,パケナム自身が著者の克明な調査により経歴を偽っていたことが確認できたことから,彼自身の日記の信憑性も考えておく必要がある.でも,戦後の首相や要人とのつながりが日本の戦後史を変えていったことは否めない事実だと感じた.
-
日本の戦後のアメリカの日本の情報を収集するために活躍した人。こんな人がいたのは知らなかったので興味深かった。あまり戦後史の本は読まなかったけれど今の状況の基本になっているんだからもっと読むべきだと思った。
-
(2011.06.29読了)(2011.06.16借入)
新潮社のPR誌『波』を読んだ神さんが興味を持って、「借りてきて!」というので借りてきた本です。この本を読みながら、マッカーサーがどうだとか、昭和天皇がどうだとか、白洲次郎がどうだとか、吉田茂が、鳩山一郎が、岸信介が、・・・。知らないことが多かったようで、しきりと感心しながら読んでいました。
ということで僕も読んでみました。傑作ミステリーを読むのと同じぐらい興味深く読めました。この本の主人公は、英国人ジャーナリストのコンプトン・パケナムです。ニューズ・ウィークの記者として、アメリカ占領下の日本にやってきて、アメリカに記事を送るだけでなく、マッカーサーを飛び越えた日本とアメリカの橋渡しもしていたようです。
コンプトン・パケナムが日本に来て、住む場所を探していた時に、住む場所を紹介した人の後ろに昭和天皇がいたのではないかというのには、ビックリしてしまいました。
朝鮮戦争が勃発し日本にも軍隊を持たせ、かつ、アメリカ軍の駐留もできるようにするには、マッカーサーと吉田茂では、どうにもならないと判断し吉田茂の後を任せることのできる人物として、鳩山一郎や岸信介をアメリカ側に引き合わせる工作をしたのも、パケナムということです。
鳩山、岸、等は、戦犯容疑者であったり、公職追放の対象者であったために、それを解除するためには、講和条約の締結によって、日本の独立を取り戻す必要があったということで、全面講和ではなく、単独講和を選んだということになります。
後先になりますが、物語の発端は、パケナムの日記が著者の手に入ったことです。日記を読み解き、パケナムがニューズ・ウィークに送った記事を読み、関係者の公文書記録をつきあわせて行くことによって、アメリカ軍の占領下における日本とアメリカ政府の思惑が浮かび上がってくる様は、なかなか興味深いものでした。
1945年から、1957年ぐらいまでのアメリカによる占領秘史が興味深く読める本として、お勧めです。類書を何冊か読んでみないと、なかなか理解は難しのかもしれませんが、きっかけを作る本としては、実にいい本だと思います。
著者は、追いかけついでに、パケナムの生い立ちを調査して、パケナム自称の経歴と、実際との違いを明らかにしてしまいました。神戸に生まれ、多摩霊園に眠っています。日本語が話せました。日本文化にもよく通じていたようです。
●鳩山一郎・公職追放(10頁)
戦後初の総選挙が行われたのは、敗戦の翌年、1946年4月10日であった。鳩山一郎率いる日本自由党が第一党に躍進し、これによって、鳩山内閣誕生が確実になった。ところが、鳩山に組閣の大命が下るわずか数時間前、突然、連合国軍総司令部は鳩山一郎の公職追放を発表した。
(ずいぶん簡単に政治介入をしてたんですね。)
●恋文横丁(122頁)
渋谷駅のハチ公の銅像前から道玄坂に向かうと、文化村通りに挟まれた三角地帯がある。当時、三角地帯の路地の両側には、雑多な店がひしめき合うバラックの商店街が並び、これが闇市場だった。「恋文横丁」と呼ばれる一角もあり、進駐軍兵士を相手にする女性が、アメリカ本国へ帰った相手へ送る英文の手紙を代書する恋文屋もそこにあった。
●ダレス(127頁)
ジョン・フォスター・ダレスといえば、戦後日本の国際社会における枠組みと立ち位置を決めたアメリカ人として、マッカーサー以上に影響力を持つ高官であった。
●吉田茂の考え(133頁)
1950年6月
「日本は、民主化と非武装化を実現し、平和愛好国となり、さらには世界世論の保護に頼ることによって、自分自身の力で、安全を獲得することができるのです」
●マッカーサーの考え(137頁)
1950年4月
「マッカーサーは沖縄を極東の軍事戦略拠点として確保することを前提に、日本本土にはアメリカ軍の基地を置くことに反対していたのである。彼は、米国は沖縄とフィリピン、そして信託統治下の島々に軍隊を配置すれば、日本をいかなる脅威からも守れると考えていた。」
●講和条約後へ(150頁)
共産主義による革命で天皇制が脅かされることを何よりおそれた天皇は、アメリカ軍の駐留が必要であることを誰より痛感していた。もとより、天皇にとって自らの命より、天皇制存続こそが最重要なのである。
●ワシントンへのチャネル(151頁)
(渋谷区)松涛町の家にしろ、天皇の料理人にしろ、細部にいたるまでパケナムをいかに利用するか計画を練ったのは、松平(康昌)の一存だったというより、じつは裕仁天皇だったのではないかと私が考えるのも、あながち的外れとはいえないであろう。
●吉田茂の考え(199頁)
敗戦国の窮状ではとても軍備などにかける予算がないことも吉田は実感していた。まして、近代兵器を装備した大部隊など日本には経済的負担が大きすぎる。そこで日米安全保障協定を結ぶしか戦後日本の立ち行く方法はないこともよく考慮していた。
一方、ダレスのいう大型再軍備を進めれば、朝鮮半島の戦地にその部隊の一部を派遣するよう米軍から圧力がかかることを吉田は憂いた。日本軍を再び朝鮮、さらには中国の地へ送れという過酷な要求である。
●鳩山内閣(226頁)
1954年12月10日、第一次鳩山内閣成立
「ソ連、中共とも仲良くしたい。それをアメリカが心配するには及ばない」
●日ソ協定(231頁)
ダレスは日本を公然と批判することは控えたが、対ソ交渉に対する日本の態度には気をもんだ。ダレスが恐れたのは、ソ連が千島列島のどれかを日本に返還すれば、米国は沖縄基地を含む琉球諸島の返還要求に合うのではないか、という懸念だった。米国の国益上、沖縄を手放すことはありえない選択だった。
●日本の政治家(236頁)
決断力がなく、党利党略に走るばかりで、意味不明な発言しかしないのが日本の政治家のほとんどである。
☆青木冨貴子の本(既読)
「目撃アメリカ崩壊」青木冨貴子著、文春新書、2001.11.10
「FBIはなぜテロリストに敗北したのか」青木冨貴子著、新潮社、2002.08.30
(2011年7月5日・記) -
(要チラ見!)