ケの美: あたりまえの日常に、宿るもの

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (144ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103510727

作品紹介・あらすじ

「ハレ」そして「ケ」。日々の営みである「ケ」の中にこそある美を求めて。石村由起子、緒方慎一郎、小川糸、隈研吾、小山薫堂、塩川いづみ、柴田文江、千宗屋、土井善晴、原田郁子、松場登美、皆川明、柳家花緑、横尾香央留――14人の人気クリエイターが表現する、日々の暮らしの中に現れる美しさとは? グラフィックデザイナー佐藤卓のディレクションで話題となった「ケの美」展のすべてが一冊に。

感想・レビュー・書評

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  • デザインとして消えている故に、ある意味では完結性を帯びている

  • タイトルの「ケ」はハレとケのケ.ちょっとむずかしいけど漢字で書くこと「褻」という字です.ふだんぎ,日常といった意味がある一方で,わいせつの「せつ」も同じ字なのは,どちらも風俗に関わることと考えればなるほどと言う感じ.

    土井善晴氏の日常の食の佇まいの大切さに始まり,ふだんの美しさについてのコンパクトでぎゅっと凝縮された珠玉のことばが素敵な本でした.

  • 装丁も文章も、それぞれの品々も美しく好物です。

    展覧会またしてほしいです。

    冬の寒い日にぬくぬく毛布に包まり、静かなひとときを過ごすのにぴったりの良書です。

    土井善晴先生がお料理だけでなく、ものすごく文才がおありなことも驚きました。

  • 日常の豊かさとはなんだろうなと考えていると「ケハレ」によく出会う中でたまたま目についた1冊。

    さまざまなクリエイター達の思う「ケの美」や日用品とともに自分にとって日常とは何かをもっと考えさせられる。 

    土井善治さんはもちろんのこと柳家花緑さんや小山薫堂さん、千宗屋さんなどの言葉は自分にとっても良い気づきとなった。

    『しかし、一日の流れの節目でお茶を頂く時間は、(中略)特別な時間となる。つまり日常の中の非日常、ケの中のハレの時間だ』

    『喜びやワクワクが習慣になっている人は、また喜びやワクワクを引き寄せます』

  • 千 宗屋(お茶の方)
    ハレとケは対概念ではなぬ、各々がそれぞれの性格を複合的に内包している。日常で客を迎える、食事の際は家族一同で威儀を正して食をとるなど。ハレの時と場が存在していたはず。

    茶の湯もほとんどの人にとってはもはやハレ。
    自分にとっては茶の湯は日常。
    でもお茶をいただく時間は背筋を伸ばしお気に入りの茶碗を選び抹茶を漉しお湯を沸かし茶碗を温めお菓子を選び、と特別な時間になる。つまり日常の中の非日常。ケの中のハレ。
    新しい茶筅をおろす、新しい茶をあける、ときは晴れがましさと一寸の後ろめたさにいいようのない格別さがある。

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    ハレというのは気が引き締まることで、人間には時々そういうタイミングが必要なのかもしれない。
    式典でもいいし大事な会議でもいい、初挑戦する体験でもいいし新しく買ったものを卸すことでも。
    日常の中に、ケの中にも、そういったハレの日を作ると人は健康になるんだろうか。
    心地よい緊張感を伴って自分の意識を集中させる時間、そういう時間を忘れないようにすると、うまくサイクルが回っていきそうな気がする。

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    佐藤卓 グラフィックデザイナー
    橋本麻里 編集者


    佐藤)左右対称は人間で言うと身体の線対称で左右に腕があって、足があって、一対の目があって、ということ。植物や動物、昆虫もおおむね同様。

    橋本)生命がこの地球という環境に適応しながら進化する過程で必然的に備えるようになった性質なのだろう。だから対称の形は、生き物として健全であることを示す基準となり、異性を誘うことや同性との競争にも有利に働いた。そしてもっとも原初的な美の条件として、人類が認識するようになったのでは。その後でそれこそ織部の沓形茶碗のような非対称の造形に一歩進んだより高度な美を感じるようになったのでは

    佐藤)非対称の象徴は渦や螺旋がそう。水が穴に吸い込まれる時、髪の毛、植物や貝でも渦を巻きながら成長するものもあり、銀河も。つまり渦は左右対称を壊す形で。

    橋本)陰陽のように非対称のもの同士が補い合ってより完全な美を実現する。

    佐藤)そう考えると生命の中に元からインストールされている美の基本要素が何種類あるのか気になる。日本は左右非対称の美に恵まれていたのでは?

    橋本)例えば中国は広大な地域の言葉も文化も異なる民族の統治が必要なので、巨大な共同体で美の価値観を共有するためには完璧な左右対称で歪みがないとか、誰が見てもわかりやすく「すごい」ものがいい。一方で京都みたいな狭い地域での同質性の高い集団では「これ見よがしではない形で凝らした技術」とか「パッと見素朴だけど実はレアな素材」みたいなものをわかる人はわかるという方向でありがたがる。
    文芸でも雨夜に月を恋う、散ってしまった桜に満開の過去を思うとか不完全なリアルを人間の感覚や思考によって補いながら鑑賞する方により高度な美意識があるとする感覚が中世には育っていた。

    佐藤)左右対称が生理的に気持ちいいのはもうわかっているし分かりきっていることをやるのは野暮。魅力的な作品はちょっと外す方が粋だという価値観が多い。大量生産は左右対称の形が多い。

    橋本)それは認知コストを下げるため?大量生産・大量消費の商品は「いいものだ」ということをなるべく大勢の人が瞬時に判断でき、結果として手に取ってもらう必要がある。

    佐藤)そう。確率をあげなきゃ。

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    佐藤)
    偏ってたって面白ければいいけど、それだけを一生やっていく覚悟が要る。後で他のことがやりたくなった時いつのまにかできなくなっているから。どこへでも自由に行ける状態をキープしておきたいなら、やはり中庸という感覚を持っておいた方がいい。やりたいことをやっているのが自由だと若い頃は思うけど、知らず知らずのうちにものすごく不自由になっていることもある?

    デッサンはインプットしてアウトプットするの繰り返し。精神的なものがどうしても出る。慣れてくるにつれてコツが分かりよく見ないで描くようになる。小手先になる。だから「俺はちゃんと見てないぞ」ということに自覚的でいなければならない。
    デッサンは自分の中身が外に出る。体調の良し悪し、悩み、どれだけ律していても。人にもバレるから身体検査を受けているようなところがある。

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    引っ掛かりがない、意識が向かない滑らかなのがケ。心地よいことを意識されてすらいない。
    失ってから気づくみたいなことはケを失った時にみんな思うんだろう。
    ハレは失った時にぽっかりと穴が空くような喪失感はあまりなさそうな気がする。終わった安心感ほっとする気持ち、達成感とかかな。
    ケは馴染んでいてハレは目立つ。

  • 日常を流れるように過ごす中で、ふと自分の心を明るくするような自分だけの「ケの美」をゆっくり考えることができる素敵な本だった。

    ケの中の美がある境界線を超えてしまうとハレになる気がしていて、その境界線を探るのもまた面白く、難しいものだと感じた。

  • デザイナーの佐藤卓が2017年にキュレーションした展覧会の図録。日常生活に新たな提案を続けるクリエイター14人が考える「ケの美」を提示することで、毎日当たり前に繰り返される日常生活と、その中に潜む美について考えようというもの。出品者の中に最近気になる人がいて読んでみた。正直、展覧会部分はふーんと読み流す感じで、それぞれの道のプロなので、それぞれのケがあるよねというくらいの印象。

    でもそれらがあったからこそなのか、最後の佐藤卓の対談が際立って面白かった。
    豊かになった社会では、ハレとケの境界が曖昧になっていく。最近では「プレミアム」とか「自分へのご褒美」みたいな言葉が氾濫してしまって、多くの人が、自分にとってのケがどこにあるかわからなくなってしまう。ハレの「日」以外、ハレの「時間」以外の、等身大の自分を支えてくれるものは何なのか。繰り返すあたりまえの日常、その行為や道具に潜む「美」を見つけ出し、語ることを通して、自分自身をデッサンする、という提案だったのだなと理解した。
    このデッサンという行為についての佐藤氏の話がとても興味深く、自分自身に足りないもの、というか今やらなければいけないと無意識で思っていたこと、を気づかせてもらった気がする。僕は絵も描けないし日記をつけるのも苦手だけど、いろんな本を読んで「自分に」起こる変化や気づきを、デッサンしたいと思っていたのではないか。読んだ本がどんな内容だったか、よりも、読者としての自分が何を感じたかを通じて、その本がもつ力を再認識しようとしている気がする。それは同時に自分のこころをデザインすることではないか。……いや違うかあ、と結局自分のケの美に至れずにいる。

  • ケの美、これに気づけたら日々は楽し
    土井善晴さんの汁物はなんでもあり。食パンが味噌汁に入ってても、不思議とゲテモノ感がない。

  • いつでも走り出せる。ニュートラルな状態で私もいたいと思う。
    普遍と独自のちょうど良いを探す。って演技にも似てる。

    そうか、町おこしのアートに対するコレジャナイ感はハレ様のものだからだったのかも。生活に溶け込むケの方が美しさだと勝手に思っていたから。
    もはや「景色」や「環境」の一部になるアート…素敵。

    便利になっていくと、自分化できる道具がなくなり、道具が自分に合っているのかいないのか、其れが身近に存在していて心地いいのか悪いのかの感覚が鈍る。確かに100均に囲まれて暮らしたいと積極的には思わないかも…

    デザイン=モダンデザインと思われがちなの分かるけど、じゃあ何だろう。デザインって。

  • 本書が提示する「豊かな生活」像をまえに、あまりにも自分のいまの暮らしぶりが相異なると痛感させられる。それで乏しい財力を理由に途方に暮れたり、あるいは「恵まれない」生れにひどく腹を立ててみたりして、そうしてあとで悲しくなって。

    ものを慈しみ愛する感受性は、お金でも血筋でも購えない。
    「ハレ」だけが美だろうか?

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著者プロフィール

佐藤卓
妖怪収集家。1996年、山形県生まれ。宮城県在住。大学在学中にブログ『宮城妖怪事典(仮)』を開設。県内各地の民話や郷土史に眠る妖怪を発掘し、その魅力を広めるために活動中。本事典の表紙イラスト担当、妖怪掛け軸作家「大蛇堂」氏の個展『宮城の妖怪展』(2020年、2021年)には情報提供を行い、同イベント中の対談トークショーにも出演した。

「2022年 『日本怪異妖怪事典 東北』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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