大渦巻への落下・灯台 ポー短編集III SF&ファンタジー編 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (241ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102028063

作品紹介・あらすじ

ミステリ、ホラー、ゴシック小説など様々なジャンルで後世に多大な影響を及ぼしたアメリカ最大の文豪ポー。彼は他にSFやファンタジーの分野でも不朽の名作を多く残している。2848年、気球スカイラーク号での旅を描いた「メロンタ・タウタ」、サイボーグをテーマにした「使い切った男」、ディストピアについて描こうとした、彼の遺作で未完成作品「灯台」など、傑作全7編を収録。

感想・レビュー・書評

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  • 19世紀アメリカの作家ポー(1809-1849)の短編集。ミステリやSFというジャンルの源流とされる彼の想像力は、その時代社会の中でどこから産まれどのように育っていったのか。扱われている素材は、大渦巻、美容整形・サイボーグ、精神病院、人工知能、未来予測、人工楽園・・・。

    「大渦巻への落下」

    十代前半の頃に初めて読んだポーの作品集にも含まれており、訳は別とはいえ25年振りくらいに読み返したことになる。当時読んだのは子ども向けに訳されたもので、「黒猫」と「モルグ街の殺人」との間に挟まれ「メールストームの大渦巻」という題で収められていたと記憶している。子ども心に、大渦巻に襲われる中で弟が掴んでいたボルトを兄が奪いに来るときの形相を想像しては、他の如何にもミステリ風な二話とは別種のヨリ重い恐怖――極限状態に於いて剥き出しになってしまう、日常的な人間性の向こう側に隠れているエゴイズム・生の暴力的な在りように対する、恐らく初めての予感――に震えていた。

    今回の読後感はこれとは全く異なる。嵐と大渦巻に捕われ死を覚悟した主人公に訪れた奇妙な落ち着きの境地が興味深い。「・・・おれはこのとき、驚くべき神の御業を目のあたりにしながら、こんなふうに死ねるなんて何と壮麗であることか、自分個人の人生などというつまらないことに拘泥するとは何と愚かだったことかと、考えるようになった」。生への執着が余計なものとして振り払われたとき、「大渦巻そのものに対してふつふつと好奇心が湧いてきた」。このとき彼は最も純粋で冷静な精神状態で自然を観ていたのではないか。人間的な不純物が取り除かれたことで、非人間的・前人間的な清澄さで即物的自然の前に身を投げ出すことが可能になったのではないか。そのような状況下であればこそ、あれほど見事な科学的観察とそれに基づく科学的推論を為し得たのではないか。彼が漏斗状の大渦巻・その旋回速度・浮遊物の形状とその運動を観察しているとき、彼の船は海の上で自然の無軌道な暴力に翻弄されていながら、それでもなお彼の眼差しと彼の眼差す世界は客観的な静けさ――"無人"の静けさ――の中に浮かんで在るように感じられた。そうした人間的世界の外部――世界の"無人"性――を垣間見てしまった痕跡が、一夜にして真っ白になってしまった彼の毛髪ではないか。


    「使い切った男」

    科学技術の隆盛がついに人間の肉体美を再現することが可能であると見做されるまでになった最初の時代か。しかし、そのスミス准将の容貌には「奇妙にも名状しがたい雰囲気」「どこかしら四角四面に計算し尽したかのような雰囲気」があるとも書かれており、何ともいえぬ異和感が仄めかされてもいるように思う。現代的にいえば美容整形技術の一種ということになるのだろうが、描写から受ける印象は殆どサイボーグのようだ。確か第一次大戦後だったか第二次大戦後だったか、戦争中に顔を著しく損なった傷痍軍人が、美容技術として義眼や皮膚や輪郭など顔のパーツをつぎはぎしてもらっている映像を観たことがある。

    スミス准将をはじめ登場人物たちが、口々に科学技術の発展とそれが産み出す発明品の素晴らしさを讃えている。曰く「驚くべき発明の時代」「まちがいなく最高の時代」。そこから結末・オチへと向かっていく、星新一のショートショートにも出てきそうな雰囲気が懐かしかった。


    「タール博士とフェザー教授の療法」

    「狂気」「狂人」といったものへの関心は古くしばしば文学の題材にもなってきたが、かつてそれらは超人間的・神的なものと結びつけられて捉えられていたことがあったという(例えば「人間理性を超えた神の理性に接近した者」というように)。しかし、近代科学が人間の"内宇宙"たる精神世界をも研究対象として精神科学という領野を切り拓いて以降、「狂気」は"病理"と見做され、「狂人」に対して"治療"を施すべく精神病院が誕生した。この作品は、「狂気」が科学の対象として謂わば人間化された時代のものだといえる。

    そのような精神科学という眼差しを獲得した社会では、「何が狂気で何が理性なのか」「誰が正常で誰が異常なのか」と強迫的に問われ続ける。文中に現れる「正気の証明」という文句がそうした観念をよく表しているだろう。しかしこの作品を読んでいると、理性(正常)/狂気(異常)の区別が実は決定不可能であるかもしれないと、「理性」「正常」という自己意識には実は何の根拠も無いのかもしれないと、自らの日常性の根拠が掘り崩されていくような不安が呼び起こされるような気もしてくる。「精神障害者がまったくの健常者に見える時というのはね、じっさいには、いよいよ拘束衣を着せなくちゃならない時なのだ」。「そして案の定、ある晴れた朝に目を覚ますと、管理人たちはみな両手両足を縛られ、独房へ閉じ込められていた。そしてまさにその独房の中で管理人たち自身が精神障害者となったかのごとく監視していたのが、ほかならぬ精神障害者たち自身だったのさ」。このように「異常」を対象化して語ることでさも「正常」な主体の側であるかの如く振舞っている院長が、実はそこで語られている発狂した当の首謀者自身だったのだ。いま見えているコインの面は表なのか裏なのか。ポー自身がこの決定不可能性をどこまで痛切に受け止めていたのかはわからない。


    「メルツェルのチェス・プレイヤー」

    実在した自動人形のカラクリに関するポーの考察。一種の論文のようなもので、物語としての面白味はない。近年、チェスの世界王者を打ち負かした人工知能が開発されて話題になっているが、こうした人工知能とチェスとの結びつき・観念連合(巻末の解説では、SF映画『2001年宇宙の旅』で人間が人工知能を相手にチェスをする場面も例に挙げている)の謂わば起源となっているのが、この物語に登場する自動人形であるという。

    純然たる機械、非人間的な機械という観念は、一方では実現されれば素晴らしい発明であるとして期待されていながら、他方ではやはり不気味なものとしてイメージされているように思う。ポーが考察の中で、件の自動人形の内部に黒子が隠れている可能性を執拗に論証しようとしていることからも、それが読み取れるのではないか。

    なお文中に、現代的にいえばアルゴリズムの概念に相当する考え方が述べられているのが、興味深い。「算術的かつ代数的な計算というものは、その本質上、確定的でありゆらぐことはない。一定のデータが与えられれば、必然的に一定の結果が引き出される。そして与えられた問題は何ものにも左右されない確固たる手続きを経て、最終的な解答へ行き着く」。


    「メロンタ・タウタ」

    西暦2848年という未来世界に視点を置き、19世紀現在を批評する。こうした未来空想譚やユートピア小説では、しばしば作家が想像力を縦横に繰り広げるあまり、話者が饒舌となり殆どナンセンスに突き抜けてしまう感があるように思う。そのため話の流れを追うのが難しい。

    この過剰なお喋りの中に、アングロサクソン的な帰納法に則った経験論哲学を(アリストテレス以来の演繹法に則った大陸的な観念論哲学とともに)風刺していると読める箇所があり、興味深い。「そこへこれまで数百年間というもの、ホッグの思想[ベーコン以来の経験論]が熱狂的に受け入れられて来たがために、いわゆる思考のすべてに事実上の終止符が打たれた。真理というのは自身の魂だけに帰するものであるから、もう誰も真理を表明しなくなった。真理が真理として証明可能かどうかということは、このさい重要ではない。というのも、当代のつむじ曲がりの賢者たちにとって大切なのは、真理を獲得するための道のみだったのだから。彼らはその結末すら見ようともしない。「手段こそがすべてだ」と賢者たちは叫ぶ」。経験論哲学における価値・内実の決定不可能性。メタ・レヴェルへの退却。

    併せて、当時の民主主義体制に対する批判も。「なにしろ、普通選挙権なる制度がけっきょくは詐欺事件を触発して、いつまでもいくらでも望むだけの票数を獲得するのが、いっさいの防止も調査もされないまま可能となり、それを仕組んだ政党はといえば、そうした詐欺行為に手を染めようがてんとして恥じない悪党にきまっているということが発覚したのだから」。そして民主主義の堕落ののちに独裁者が出現することまでもが予言されている。


    「アルンハイムの地所」

    自然であれ芸術であれおよそ美という観念は、不可避的に不調和へと投げ込まれ引き裂かれてしまっている現存在たる人間がその不調和からの回復を試みようと縋りつかずにはおれない――そしてついぞ完全なる回復には到り得ない――、強迫観念のようなものであると思う。調和は、常に遡及的に、則ち既に失われたものとして、見出される。内的な場所であれ外的な場所であれどこかしらに拵えられた自閉的な人工空間において、現実世界の中で毀損された全体性を回復すべく、在るべき調和の再現前を強迫的に求めているのが、美を求める人間の実情であろうと思う。調和の回復という実存的な事情を前提としない純粋芸術というのは在り得るのだろうか。

    「じっさい、造園術こそは想像力が新奇な美のかたちを無制限に結合してみせるのに最もふさわしい領域にほかならない。ここで結合される諸要素は、圧倒的に有利な条件を得て、地球上最高の栄光に輝く」。「すなわち自然の原初的意図に従うならば、地表はいとも精妙に構成され、人間の美と崇高とピクチャレスクをめぐる感覚を全ての点にわたって満足させるものができあがっていただろう。ところが、よく知られる地質学的変動が起こって形態と色彩分布が異常をきたしたために、原初的意図のとおりには立ちいかなくなった。そして、まさしくそうした形態と色彩分布を修正し再配置することにこそ、芸術の魂が潜んでいるのだ、・・・」。「ひとまず人類の地上における不滅こそが原初的意図だったと考えてみたまえ。さすれば、地表の原初的配置が人類の幸福な境遇に――それもまだ実現せず計画段階の境遇に――見合うように為されたことがわかる。地質学的変動は、人類がそのあげくに破滅的な境遇へ立ち至る運命への準備段階なのだ」。

    江戸川乱歩『パノラマ島奇譚』はこの作品の影響下に書かれている。なおルネ・マグリットもこの作品からイメージを得て同名の絵を描いている。


    「灯台」

    本書では未読。

  • 桃山学院大学附属図書館蔵書検索OPACへ↓
    https://indus.andrew.ac.jp/opac/volume/1127161

  • 大渦巻きへの落下は、面白かった。はらはらした。
    灯台は未刊なのか、これで終わりなのか。これでおわりが
    良いなあ。考える余地があるし。
    使いきった男は、ラストにびっくり。
    タール博士とフェザー教授の療法は、びっくりというか、
    考えさせられた。
    チェスとメロタタウタとアルンハイムは面白いのかそうでもないのか自分にはよくわからなかった。

  • かなり昔の作家だと思うが、本当に今読んでも遜色ない作品だなぁ、と感じた。
    そりゃ当然、今の時代の作品の方が洗練されていはいるが、その洗練具合が思った以上に少しで、この時代から文学作品というのは(もしくはエドガー・アラン・ポーが)凄かったんだな、と思った。
    特にミステリー編は、流石に奇をてらったトリックはなかったものの、これでエドガー・アラン・ポーはミステリーの開祖なのか、とちょっと衝撃。

  • ポーのSF物短編7作。他の短編集に比べ、SFだけ、好みの分かれるところ。一文が長く難解で、読みづらいものもあった。2020.11.17

  • 7作の短編が収録されているが、面白かったのは最初の2作のみ。表題作と「使い切った男」の2作。他はどうにもこうにも理屈っぽくて、何が面白くて何を目的にして書かれたものだか理解できなかった。半ば義務感でようやく読み終えた感じだ。
    ただひとつ理解できたのは、ポーってかなり理詰めの人なのだな、ということだった。

  • ◇ 大渦巻への落下
    地球空洞説を背景にして、極地でのアドベンチャー。

    ◇ 使い切った男
    あの人はね……っ、というところで毎回話題が変わって。
    実はサイボーグだった、というオチ。
    コメディみたい。

    ◇ タール博士とフェザー教授の療法
    精神病棟における、管理者と患者の交代劇。
    中井英夫みたいだなぁ。

    ◇ メルツェルのチェス・プレイヤー
    小説というよりは考察。

    ◇ メロンタ・タウタ
    未来から原題を皮肉る。これはよくわからなかった。

    ◇ アルンハイムの地所
    庭哲学。

    ◇ 灯台
    灯台守。

  • まず読みづらい。そして(一般的な意味での)SFを期待して読むと肩透かしを食らう。

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