せいめいのはなし (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101262314

作品紹介・あらすじ

「お変わりないですね」と言っても、実は「お変わりありまくり(、、、、、)」――。生物が生きている限り、半年も経てば体を構成している原子はすっかり食べたものと入れ替わる。絶え間なく入れ替わりながら、常にバランスがとれているという生物の「動的平衡」のダイナミズム。内田樹、川上弘美、朝吹真理子、養老孟司、好奇心溢れる4名との縦横無尽な会話が到達する、生命の不思議の、豊かな深部!

感想・レビュー・書評

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  • 著者と内田樹氏、川上弘美氏、朝吹真理子氏、養老孟子氏の4人との対談。

    2009年頃の雑誌に掲載された原稿を編集されたものなので、それぞれに12~13歳、年を取っている。当時20代だった朝吹氏も現在は30代、養老氏はもう80歳を越えておられる。

    今も変わらないのかもしれないが、当時の対談者は皆、非常に若々しいという印象だ。知的な会話の中に、なぜか無邪気さのようなものが感じられた。

    著者の福岡伸一氏は、ルドルフ・シェーン・ハイマーの研究に敬意を抱いており、同氏の提唱したダイナミック・ステイトという概念を進め、「生命とは動的平衡にある流れである」という定義をした人である。

    この「動的平衡」という概念そのものが、非常に興味深い。自分の体を構成する細胞は、時の経過とともにすっかり別のものに入れ替わる。つまり、少し前の自分と同じ自分はいないのだという。「お変わりない」どころか「お変わりありまくり」だという。

    自分の体に閉じた話でなく、自分を構成する原子は、地球上の他の物を構成する原子とも入れ替わっているのだという。そういうことを聞くと、一時として同じ自分というものはなく、自分という存在そのものが怪しくなってしまう(笑)。同時に、周りの人すべてに親近感がわいてきたり、自然を大切にしなければという気持ちが起きてくる。

    著者の「動的平衡」というタイトルの本や、「生物と無生物のあいだ」という本をもう少し突っ込んで読んでみたい気がする。

    本書を出すにあたって、著者はバージニア・リー・バートンの「せいめいのれきし」という絵本が常に脳裏にあったという。そのオマージュとして、著者が特に選んだ4名と「生命のあり方や記憶の変容」などについて語り合ったのが本書だそうである。どうして「せいめいのはなし」と仮名タイトルなのかはこれで分かった。

    さて、この4名の対談が編集されている理由は、この4名こそが、著者・福岡伸一氏の色々な姿を引き出してくれたからのようである。各々の対談における著者の姿は、どれとして同じ顔ではなく、自分で気づくことのなかった新しい自分をも発見させてくれたという趣旨のことを述べている。

    この本の対談の内容は、まさに著者・福岡伸一氏の動的平衡状態を示したものだそうである。
    確かに4人とも刺激的に、福岡氏の異なる一面を引き出していた。

    この4名について、著者は「あとがきにかえて」の中で、「自由でかつ正直な人」という共通点をあげていた。確かに、この4名の発想は自由であり、自身に正直で、対談中のお互いの主張の中にも、特別な遠慮もなければ、強引さもなく、根から真実を探求したい者同士の弾む会話であった。

    内田氏は、「動的平衡」の対話からのインスピレーションで人の経済の営みに共通点があると発想を飛ばした。トロブリアンド諸島の「クラ交易」の話は面白かった。

    川上氏は、高校の生物の教師を経て小説家になられただけに、「細胞」の話のところなどとても面白かった。細胞は周囲の細胞とのコミュニケーションで自身の働きを決めていくというところなど。万能細胞という印象しかなかったES細胞について、「自分探し中の細胞だ」とか、「ガン細胞と同類だ」とかは衝撃的だった。

    朝吹氏は将棋好きということで、羽生氏の将棋対局の話から、局面の多元的な可能性の話へ行き、そこから量子力学の多元世界への話へ行ったりする。

    ”マクロの世界(望遠鏡の世界)とミクロの世界(顕微鏡の世界)が等価に見えフラットに見えることに自分の存在価値がある”なんていう発言を20歳代でできる凄みみたいなものさえ感じた。

    個人的には、養老氏との対談が一番面白かった。いいおじさん同士が、まるで昆虫少年のように無邪気に語り合っていた。昆虫の「擬態」の話では、二人とも完全に心解き放たれた自由自在のオタクに変身している(笑)。

    しかし、ともに生命探究の科学者として、現代科学のアプローチに対し、鋭い視点を決して失っていない。「科学的な見方こそがこの世の真実」というような現在の風潮に対し、次のような点で科学は真実の一側面を見ているだけだと警告的なメッセージを発していた。

    ・人間の脳は秩序をに持ちたがる。それゆえ事実を合理化してしまう。
    ・人間の意識は止まっているものしか扱えない。事実は動きあるものであっても、静止させてパターン化してとらえてしまう(連続的な動きである「渦」も止まって見えてしまう)。
    ・現在の教育は「言語能力の強化」の要素のみが強く、結局「言葉」が「実在」を支配してしまっている。

    こういう視点は、すべて「動的平衡」の概念をとらえた視点なのだろうと思う。養老氏は、おそらく福岡氏が「動的平衡」を提唱し始める前から、「動的平衡」の信奉者だったと言えるだろう。

  • 生物学者の福岡伸一の対談集。
    対談相手は、内田樹・川上弘美・朝吹真理子・養老孟司の4人の方。最後に福岡伸一の対談の振り返りが加わった構成。
    内田樹の本はかなり多く読んでいるのだけれども、川上弘美、朝吹真理子の本は読んだことがなく、養老先生の本もそんなには読んでいない。対談の面白さはいくつかあると思うのだが、語っている人をある程度知っていて、その知っている人が、例えば他の著作との関係で、あるいは、他の著作を読んだ読者が感じた「その人像」との関係で、何を語るのかを知ることも大きな面白さだと思う。
    そういう意味で、4人の対談相手のうち、3人について、ほとんど知らない人であったので、本書を非常に楽しくは読むことが出来なかった。というか、この本を読んでから、そういうことに気がついた。

  • 福岡さんの唱える生物学の考え方の中心に、「動的平衡」というのがあって、それは、一言で言うのはむずかしいのですが、本書の裏表紙の文言を拝借すると、「絶え間なく入れ替わりながら、常にバランスがとれているという生物のダイナミズム」ということになります。たとえば、生物の細胞は、食べたものの原子が、あるものは脳に入り、胃の細胞になり、肝臓の細胞になり・・・、というようにまばらに入れ替わり、それが半年もするとすべての細胞が入れ替わっていたりする。なのに、ぼくらは別人にはならないし、記憶がすべてなくなったりも顔がまるで違うようになったりもしない。それは、前後左右上下の細胞が、あたらしく入れ替わってきた新入りの細胞に対して、「きみが入ってきたところはこうこうこういう役割でね」という情報をやりとりし、それにともなって、新入りの細胞がまるで空気を読むかのように、元にいた細胞と同じ役割をするものになるからだそうです。それで、そういうのを「動的平衡」と言っていました。その「動的平衡」を拡張して経済や社会に合わせて考えてみたりもしていますが、そのへんは著者自身も言っている通り、簡単にあてはめていいものか、との批判もあることでしょう。小説家である川上さんや朝吹さんとは、小説や言葉についての話がありましたし、養老さんとは一層深い、意識や言葉についての話がありました。そのなかでも、タモリさんを考察した養老さんの話はおもしろかったです。最後の5章目は著者によるあとがきに似た「まとめ」的な文章でした。気をつけたいことがひとつあって、それは時間に関する考え方で、生物学者である著者の福岡さんは、時間なんていうものは実存しないもので、たとえば便宜的な尺度のようにとらえているふしがあります。でも、科学雑誌の『ニュートン』などを読んでいると、時間というものは実際に存在していて、それは空間と関係があったりするんですよね、「時空」といっしょくたにして言われる通りに。ぼくも勉強が足りていないので、詳しくここでは説明できませんが、たぶん、宇宙論だとか最新の物理学だとかでは、時間というものは実存するものだとされていると思います。このあたりこそ、WEB検索で調べてみるのも手ですね。つまりは、すごくおもしろい発想と生物学的に裏打ちされた考え方で意見を述べられている著者なのですが、その範囲として「生物学的見地」というエクスキューズを、はんなりとでも考えておきながら読むといいかもしれないです。否定するわけじゃなく、全肯定するわけでもなく、そういう留保をたまに持ちながら、著者の言葉に耳を傾ける(実際は文字を目で受け止める)のがよいのでは、と今回、感じました。

  • すごく興味深い話ばかりだった。

    内田樹と養老孟司の話は理知的で飲み込まれ、川上弘美と朝吹真理子の話では、文芸と生物学的要素の意外な話に感心させられた。

    自分は文系要素が強いので、理系目線で世界を見ると、こんなにも世の中って壮大なのかと驚かされる。

    でも、理系だ、文系だと切り分けていなくて、
    何度も考え方を変えさせられて、世界が広がった。

    養老孟司との対談が特に面白かった。
    擬態の話から始まり、人間の認識の話や、言葉の話、時間の話、情報の話…。

    言葉に呪詛性が戻ってきているという話で、ネットが現れたことの大きな変化の一つが、言葉の問題なんだろうなと思った。

    言葉とそれを表す現実が一致していると思い込んでいるけれど、本当は言葉はそれを表すだけであって、一致しているわけではない、というのは記号論の話にも通じていて興味深い。

    結局、人間が世の中をどうみているかであり、認識の問題になるんだろう。
    実は人文系だけではなくって、数学も科学も、人間の個人的な興味関心から出発しているんだと思うと、膨大な知の積み重ね、時間の流れに感動した。

    もしかしたら、『動的平衡』を先に読んでおくべきだったかもしれないが、この本だけでも十分に理解できる。

  • 福岡伸一と内田樹、川上弘美、朝吹真理子、養老孟司の対談集。福岡さんは専門である生物学を、対談者は各々の専門や興味関心をそれぞれ語り、生命は文学にも建築にも経済活動にも繋がるのだなと思った。擬態、子供時代が長いことの利点、記憶のはなしが面白かった。自分の細胞は常に生まれ変わっているので、自己同一性を保持するために記憶がある。でも、その記憶も一瞬ごとに書き換えられている。だから人は何かを書き残す。わたしが本の感想を書くのも、自己同一性保持のためなのかも。

    p20
    マウスをミクロのレベルで分けていくと、結局は炭素、水素、窒素などの微粒子の集まりに過ぎない。植物性でも動物性でも食べ物は、分けていくと最終的には粒子の集まりとなる。この粒子の固まりが粒子の固まりを食べると、粒子同士が交じり合ってどこに何がいったかわからなくなる。

    p21
    マウスが紫色の食べ物を食べたときに、目に見えない形で非常に重要なことが起きていたのです。すでにマウスを形作っていた原子が代わりに体の外に抜け出ていた。つまり、「生きている」ということは、体の中で合成と分解が絶え間なくグルグル回っているということなんです。その流れこそが「生きている」ということ。

    p23
    自分の体は自分のものだと思っていても、自分の体は自分のものではない。半年もたてば、自分の体を構成している原子はすっかり食べたものと入れ替わっています。早い遅いはあっても、爪や髪、皮膚が新陳代謝されるように、骨の中味も脳細胞の中味も心臓の細胞の中味もすべて入れ替わっています。

    p30
    原子の総量は、古代からいままで、多少の増減はあったにしても、一定で変わらない。実際、原子はグルグル回っているわけです。あるときは私の体の一部ですし、あるときは小さなテントウムシの分子だし、あるときはそれが土の中でミミズになる。それが海の藻屑になったり、鍾乳洞の岩の一部になったりするかもしれないけれども、結局グルグル回っている。

    p32
    タンパク質をつくり出す方法は非常に精妙で、素晴らしいですが、たった1通りしかない。なのに、壊す方法は、私たちがいま知っているだけでも10通り以上あり、それ以上あるかもしれない。細胞の中のタンパク質が酸化したり変性さたりして、使いものにならなくなったから壊しているのではなくて、できた端からどんどん壊しているのです。新品同様でも何でもかんでも壊していく。
    一生懸命に壊すのは、壊さないと新しいものが作れないからです。それから、壊すことによって捨てるものがあるからです。細胞の内部にたまるエントロピーを捨てているのです。宇宙の大原則はエントロピー増大の法則というものに支配されています。エントロピー増大の法則とは、秩序あるものを秩序なきものにしようとする動きで、その動きの方向にしか時間が流れない。エントロピーは、正確には物理学的プロセスとして、物質の拡散が均一なランダム状態を目指すことですが、無秩序あるいは乱雑さの尺度といってもよく、一生懸命に机の上を整理整頓していても、2、3日でグチャグチャになってしまう場合にも使えます。

    p35
    流通している富そのものはどんどん増えているのです、富を自然から収奪する方法は19世紀から比べれば格段に進歩したし、多様化しましたから。人類が享受できている富の全体は増えているのに、人々が貧しくなっているのは、富が一部分に集中しているからですよね。人口の1%が富の40%を独占している。

    p41
    体積比で大まかにいうと、大気中にいちばんたくさん含まれている元素は窒素で、これが80%弱、その次に多い酸素が20%強です。足してほぼ100%で、ほかはもほとんどもう余地がない(笑)。
    3番目に多い元素はアルゴンときって0.93%ほどで、二酸化炭素は4番目、たった0.035%しか含まれていない。でも、産業革命前の数千年間はこれが0.028%だった。それがじわじわと上がってきたのは、確かに産業革命以降、人間がものを燃やすようになってからです。

    p51
    世の中は因果関係がありすぎて複雑で見えないのではなくて、もともと因果関係がないことが多い。原因が結果を生むのではなくて、結果と原因はたえず逆転し、相補関係にあって、どちらが先でどちらが後か特定できない。

    このいまいましい花粉症はどうして起こるのか。体内の細胞がパスをし合っているところへ、まず、花粉が細胞に取り付きます。次に、細胞から周りの細胞に「ヒスタミン」というものがパスされて、「外敵がやってきたよ」と教えます。そうすると、周りの細胞は表面にアンテナみたいなものを出します。これは「ヒスタミンレセプター」というものでそこにヒスタミンがはまり込んでいく。それに応答する形で細胞が反応を起こし、鼻水が出たり、くしゃみが出たり、涙が出たりする。これは、できるだけ早く花粉を洗い流そうとする、けなげな免疫系の反応なのです。
    この反応が過剰に起こるのが花粉症なのですかま、反応自体はそもそも自然なものです。これを止めるために機械論的に考え出されたものが、医者がくれる「抗ヒスタミン剤」です。抗ヒスタミン剤とは、実はヒスタミンまがいのものでして、似て非なるものなので、飲むとヒスタミンレセプターに貼りついて、ここを占拠してしまいます。偽物なのでそこから先の反応は起きず、レセプターだけがブロックされる。さて、スギ花粉が到来し、ヒスタミンが細胞間に放出されても、先客がいるのでこの反応が遮断される。つまりパスをが遮断されるので、細胞と細胞の相互関係も遮断され、花粉症が和らぐ。これが抗ヒスタミン剤のメカニズムです。機械論的には、因果関係を遮断すればめでたしめでたしです。
    しかし、私たちの唐橋
    機械ではなく、動的平衡にあります。欠落があれば、それを埋め合わせすべく絶え間なく動いており、ピンポイントで介入があれば、それを排除しようとする。押せば押し返してくるし、沈めようとすれば浮かび上がってくる。ですから、抗ヒスタミン剤によって、この経路を遮断され続けたら、細胞は逆の反応をします。

    まず、受け手の細胞は、ヒスタミンがなかなか届かないのでヒスタミンレセプターをたくさん作ります。ちょっとでもヒスタミンが来たらすぐに感知できるよう敏感になっていく。一方、送り手の細胞は、いくらヒスタミンを送り出してもなかなか届かず、相手からの応答もないので、もっとたくさんヒスタミンを作る方向に動く。こういう状態のところに花粉がやってくると、ヒスタミンを作る細胞は、抗ヒスタミン剤を飲む以前よりもむしろ敏感に反応するがゆえに大量のヒスタミンを出ししまう。抗ヒスタミン剤でブロックされているところにはいかないのですが、さらにたくさんヒスタミンレセプターが作られているために、これらが一斉にヒスタミンに反応して、ますます激しいくしゃみや鼻水、激しい涙を出すという逆説的で、過酷な状況に陥る......。
    つまり抗ヒスタミン剤を飲めばその場は和らぐのですが、飲めば飲むほどますます花粉に敏感な体質に導かれてしまうのです。
    動的平衡で考えると、因果関係かま逆転してしまうのです。抗ヒスタミン剤を飲むことで、花粉症が治るのではなく花粉症になりやすくなるという逆転が起きている。

    p55
    ぼくたちが「原因は何か?」と言い出すのは、たいてい原因がよくわからない話なんです。なんだかよくわからない話に限って、ぼくたちは原因について熱心に議論する。というのは、原因というのは結局確定できないから、仮説を立てる人は言いたい放題なんです。だから、ぼくは、原因について議論するのは時間の無駄のような気がするんです。

    p57
    「原因は何か?」という構文で推理を開始したら、あとはたぶんどんなものでも原因に擬すことが可能になるわけだから。原因を問うのは時間の無駄だというのは、どれもほんとうらしいから。そんなことをするより、とりあえずすでに起こってしまったことはしょうがないと放置して、「このあとどうなるのか」を問う方がいいんじゃないかなとぼくは思うんです。

    p63
    GP2というのはヒスタミンレセプターと同じように、細胞の表面に顔を出しています。消化管の食べ物がやってくるほうに顔を出している。いったいそこで何をやっているのかがわからなかったのですが、食べた物の中に入っているたくさんのばい菌を捕まえて、体の中に持ち込み、免疫系に「こんなばい菌がやってくるから、きちんと準備して免疫反応を活性化させなさい」という、犯人引渡し人のような作業をしているというのが、GP2の役割だとわかってきたのです。

    p93
    では、記憶とは何か?星が線で結ばれてはじめて星座に見えるように、脳細胞の回路に電気が流れて記憶が再現されているのですが、脳細胞の回路は細胞の常としてたえず再編されているので、かつて流れていた場所のこの辺りかなという周辺を電気が流れているだけです。つまり昔の記憶がそのまま再現されているのではない。むしろ記憶とはその瞬間瞬間で新たに作られているもので、蓄積されていたものが甦るのではない、と考えた方がよいのです。

    p96
    ただ、記憶が不確かだと、自分の同一性や、来し方、行く末をクロノロジカルに考える上では、とても不安です。記憶の地層を作ることは、「動的なものをとどめたい」という不可能な願いだと思います。字に書いたり、縮刷版の新聞記事を並べるような感じで記憶を整理しようとすることは、生命が瞬間的な現象であることに対して、抗っているのだと思います。

    p98
    しかし、実際はサンドイッチを重ねるように地層が分かれていたわけではなく、連続する時間が流れている中に、横からミルフィーユのように線を入れるように、人間が勝手に切断して各部分を分け、名づけているだけなのです。

    p106
    毎日、立場や意見が変われば、人の同一性が疑わしくなります。

    p156
    代謝で考えたら、生まれたときにぼくの身体にあった分子で、いま残っているものはまったくない。

    p161
    だいたいが『動的平衡』は、冒頭からして「意識の問題」と「記憶の問題」です。(中略)
    説明を加えておくと、この本では、意識や記憶の問題を解体しながら、食べ物や細胞、ミトコンドリアから病原体までを動的のキーワードで説明しています。先ほどもお話ししたように、身体のあらゆる組織と細胞は、中身が入れ替わって作り替えられていますから、数ヶ月前の自分とは分子的な
    実体としては別物です。分子は外の環境からやってきて私たちの身体を「通り抜けていく」ようなものです。正確にいうと「通り抜ける」べき容れ物さえも、一時的に分子の密度が高くなっているおぼろげな部分でしかない。「通り過ぎつつある」分子が一時的に身体を形作っているだけです。
    つまり、分子的な身体は「流れ」でしかない。その流れの中で、私たちの身体は変化しつつもかろうじて一定の状態を保っています。それを「生きている」という。シェーンハイマーはその特異なありようを「動的な平衡」と名づけました。だから、「生命とはなにか?」という問いへの解は、「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」。言い換えると、可変的でサステイナブルであることを特徴とする生命というシステムは、物質的な分子という構造基盤にではなく、この流れに依拠しているということです。

    p199
    突然変異とその自然淘汰にもとづくダーウィニズム

    p200
    さすがのアメリカでも遺伝率には意味がないという本が出たくらいですもんね。遺伝性がどれくらいあるかなんてよく言いますけど、環境を変えたらまったく無関係になってしまいます。

    医学的なことは、ほかの分野の人ではなかなか気づかない場合が多い。あたかも人格や性格のように書いてしまう前に、多少は医学の常識を持っておいたほうがいいんじゃないかと感じます。個性とか性格とかその人に固定したものがあるという考え方は、もちろんあってもいいんですけど、個性なんてどんなものかわかったものじゃないし、環境次第で変わるものです。

    p220
    もともと、ガン細胞は自分の細胞なので、何かをやっつけようとすれば当然、正常な細胞もダメージを受けるし、取り除こうとしても幾つかは残ってしまうということが、ガン治療の難しさになっているわけです。

    p229
    時間は物事の変容としてしか捉えられないし、時間は、何か時計とかカレンダーとか、実在するようなものとしてあると、私たちは思っていますけれども、本当は時間なんてどこのもないんです。

    p238
    生物学的には、「私」というものの物質的な実態というのは、絶え間のない交換の中にあるので、少しずつ変容している。それは指紋だろうが網膜や虹彩だろうが記憶だろうが、徐々に変容されて、いまつくり直されているものです。

    DNA鑑定やら網膜の走行パターンの違いやらで別人であるということは、ある程度言明できる。でも同一人物であるということは結局、確率的にしか言えません。そういう意味で、本当に私は「私」であるという本性を言い当てることはできず、常に指紋や記憶といった属性でしか自分というのは規定できないのです。

    p239
    人間というのは、そのあまりのはかなさゆえに、動的なもの、揺らいでいるもの、流れゆくものにあらがいたいのでしょう。そこに文学のよりどころもあるのではないか。つめり「書きとどめる」ということは、それぞれの時間に錘をつける、ということです。これは歌人の永田紅さんの言葉ですが。日記を書いてその日一日に錘をつけるわけだし、随筆なのか小説のかたちで書くのか何かを書き残すことによって、流れてゆく一瞬一瞬の状態、そのときに立ち上がった自分の思いや記憶をとどめようとする。

  • 私は福岡先生の書く本が大好き。
    内容は濃いのに読みやすくて、面白い。
    福岡先生の少年心も感じられる。
    きっとこの人は本当に少年のように純粋で、優しくて、思いやりのある人なのではないかな…なんて想像してしまう。

    作中、養老先生との対談があるけれど、その時の会話がなんとも面白い。
    2人とも少しシニカルで、でもドリーマーで、正論。
    いつか2人に会ってみたいなぁ。

    この本読んで改めて、私は理系専攻してよかったなと思う。また大学に入ってお金にもならない研究をしたいと思う。
    でも世の中はそんなに純粋にはいかない…
    結局はお金が必要。それが悲しいところ。

    理系出身と聞くと、とても安心する。
    だって彼ら彼女らは大抵みんな愛おしい変人だから。類に漏れず私も。

  • "この世界の隠された秩序を私だけは見える、と気づいた時、あるいはある種の符合を悟った時、崇高さを感じる瞬間があり得ます"

    "崇高さに惹かれるのは、やはりある秩序への愛でしょう"

  • 何か掴めたような気がしたら即座に、いや、やっぱそんなこたあねえて感じで、言葉で瞬間を切り取る商売をしてる人がやりだすと、ならこれ全部与太話かよっていうツッコミは当然あるでしょう。
    なんもわからんのだから謙虚に生きよう(死のう)てことなのかなあと思った。
    ただ強い影響力を持つ諸氏が具体的な事象に対してこうした意味の発言をすると、上から目線だとか極論暴論だという批判が出るのも免れないかなあとも思う。
    ちなみにその与太話はさすがにどれも面白い。

  • 動的平衡 絶え間なく要素が変化、更新しながらもバランスを維持していること。
    人は、自分がずっとこのままだと思っているが、実は細胞が死んで、新しい細胞が生まれながら、自分を保っている。確かにそうだな、とおもう。
    そんなことを、養老孟司さんなど4名の人と対談しながら考えていく。

  • f.2022/2/6
    p.2014/10/31

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著者プロフィール

福岡伸一 (ふくおか・しんいち)
生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。2013年4月よりロックフェラー大学客員教授としてNYに赴任。サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著書多数。ほかに『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命と食』(岩波ブックレット)、『フェルメール 光の王国』(木楽舎)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)など。

「2019年 『フェルメール 隠された次元』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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