捨ててこそ 空也 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (541ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101211817

作品紹介・あらすじ

平安時代半ば、醍醐天皇の皇子ながら寵愛を受けられず、都を出奔した空也。野辺の骸を弔いつつ、市井に生きる聖となった空也は、西国から坂東へ、ひたすら仏の救いと生きる意味を探し求めていく。悪人は救われないのか。救われたい思いも我欲ではないか。「欲も恨みもすべて捨てよ」と説き続けた空也が、最後に母を許したとき奇跡が起きる。親鸞聖人と一遍上人の先駆をなした聖の感動の生涯。

感想・レビュー・書評

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  • 1回目だったから、さらっと読むつもりだった。でも、途中から泣けてしょうがなかった。
    昨年6月、立て続けて家族に不幸があった。
    それまでも仏教には折に触れて自分を見つめられる言葉を頂いてきたが、空也上人の言葉は、今の私にぴったりだった。
    もう一回最初から、きちんと読もう。そしてこの本に出てくる経典も声に出して読んでみよう。

  • 歴史小説を多く書く梓澤要による小説。平安時代に「南無阿弥陀仏」と唱える念仏を広め市井で活躍した僧侶、空也の一生を描いている。仏教いいじゃんと思わせる内容だった。

    以下ネタバレあり。
    印象的なのは、信心深くない人も多い中で空也が地道に社会事業を営み、それを経て空也を慕う人が増えていったストーリー。社会事業というのは例えば井戸を掘ったり、遺体を荼毘に付したり、食糧を配って回ったりすること。仏教関連の経典の書写事業もしていた。そうして人々の困りごとに応えていくことで付いてくる人や喜捨として寄付してくれる人が増えて、より大きな事業を営みより多くの人の困りごとを解決することができるようになっていった。

    役に立つ「宗教」というのが新鮮だった。こと「宗教」という枠だと ただそれだけでありがたいものだと思わなくてはならないような気がしていたので、いや役に立ってこそ信頼されるんだというストーリーの流れが新しく、共感できた。そして現代の仏教はどうなっているんだろうと気になった。

    とはいえ役に立ちたい、役に立たせたい、というのも我欲だから、それが本質ではなく、ただその人の因縁のままにすべきことをする、というのができることなのかなあと思った

  • 高校の教科書に載っていた「空也像」の写真、唱えた念仏が阿弥陀仏になったという姿が衝撃的で、大人になってから何度か六波羅蜜寺にも行った。
    市聖であることは何となく知っていたが、ここに描かれた空也は、もはやその呼び方では片付けてはいけない。
    もちろんすべてが史実ではないだろうが、母への想い、身分を捨ててからの喜界坊や猪熊との出会いが根本にあったのだな…
    この本を読んでいる間に、病に伏していた自分の母が亡くなり、読むのにとても時間がかかってしまったが、いつも空也様がお側に居たようで本当に救われる思いだった。
    なむあみだぶつ ありがとうございました。

  • ほぼ一千年前の時代を
    市井の聖「空也」を軸に
    描いた秀作

    作家さんの想像力は
    ほんとうに凄い
    これまでにも 何度か
    その思いは抱きましたが

    六波羅蜜寺のかの空也聖人の像が
    まさに息吹を吹き込まれ
    その「念仏」が聞こえてくる
    安時代の末期の混乱状況が
    リアルに描かれている分
    空也さんの吐息まで
    伝わってくる

    この作品に出逢ってから
    平安期の学習ができる
    学生諸君は幸いである

  • 「阿弥陀聖」、空也の生涯を描いた小説。

    「捨ててこそ」とタイトルにもあるように、空也は生涯にわたり、さまざまなものを捨てていく。
    叡山の貴族に奉仕する仏教とも距離を取り、「市の聖」「阿弥陀聖」として、利他とすべての人の苦しみを救うことに身を捧げようとする。

    現代人は「人を救う」ことに対し、ましてやすべての人を対象にすることを懐疑的になる傾向がある。
    むろん、私自身もその一人だ。
    それは作中に出てくる多くの人物が、彼に投げかける疑問の形で作品に取り込まれているような気がする。

    空也が看病した行き倒れの女が回復し、自らの生を確かめるために情交を求めてくる場面がある。
    (なんとなく、キリスト教の聖アントニウスへの誘惑を思い出さなくもない。)
    戒律と利他との間で激しく動揺した末に、戒律を守ろうとすることさえ、我執であり我欲だと考え、女の魂を救うことを決意する。
    仏教って、そこまで包容力があるものなのか?と衝撃を受けた場面だ。

    僧侶さえも俗人と同じで、生きているうちに、様々な罪を重ねていく。
    その罪を悔い、苦しむ中で、人の罪を許せるようになる
    あれほど苦労を重ね、激しい修行までした空也が、自分を虐待した母への愛憎に気づき、執着を手放したのは晩年になってからだった。
    本作ではそのような設定になっているのだが、最後の最後まで残ったものがそれだったというのは、なかなか重い話だ。

  • 【2022年23冊目】
    なんでこの本読んだのかと聞かれるとあれなんですけど、本棚にあったから…って感じなのですがこういう感じの本、初めて読んだかもしれません。小学生の時に歴史の人物の本は読み漁ってましたが…
    空也上人については表紙にあるように、口からなんか出してはる像の印象しかなくて、一通り読んだんですけど、「なるほど」みたいな感想しか出ませんでした…私が薄っぺらな生を歩んでいるがばっかりに。どちらかというと猪熊の一生の話の方が読みたいなとか思いました。いや、本当に感想が酷いな。

  • 読んでる間は空也上人が側に居てくださるような、何とも言えない穏やかな気分でした。また会えると思えたら、死もそんなに恐いものではないように思えるし。
    六波羅蜜寺にはまた行ってみよう。

  • 仏教を庶民に広げ慕われた空也の生涯。宮家の出というのは一説なんですね。空也の人となりを想像する大きなポイントです。もし事実なら安泰を捨てて人のために生きる人生を選ぶという、神の使いとも言える所業と考えます。また、将門との絡みはフィクションとのこと。当世代なのでどこかで何らかの関わりがあったと見て自然だけど、小説の中でかなりのインパクトはありました。
    クライマックスの大般若経供養会は盛大さが思い浮かぶ描写です。また、庶民とのささやかな絡みに一番心打たれました。

    捨てることで穏やかになれる境地に少しでも近づけたらと思います。
    空也像のある、六波羅蜜寺にお参りに行きます。

  • 仏教の教えが、よく分かります。
    仏教の教えはお坊さんだけのものではなくて、現代社会の中で忙しく働きながら、誰にでも心掛け一つでできる修業があるということがよく分かりました!
    いい本に巡り会えました。

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著者プロフィール

1953年静岡県生まれ。明治大学文学部卒業。1993年、『喜娘』で第18回歴史文学賞を受賞しデビュー。歴史に対する確かな目線と骨太のドラマを織り込んだ作風で着実な評価を得てきた。作品執筆の傍ら、2007年から東洋大学大学院で仏教学を学ぶ。2014年『捨ててこそ空也』で、第3回歴史時代作家クラブ賞作品賞を受賞。主な作品に『百枚の定家』ほか。

「2016年 『井伊直虎 女にこそあれ次郎法師』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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