チェルノブイリの少年たち (新潮文庫 ひ 9-2)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101132327

感想・レビュー・書評

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  • ぜひ読むべし!漠然としか事故の様子を知らなかったが、いかに大変やったかが良くわかった。

  • 1986年4月25日、あれからすでに四半世紀が過ぎました。今だからこそ、この本を読んで、事件の風化がないようにしていただければと切に願います。

    僕がこの本を手にするきっかけになったのは先日、この本が漫画になったものを偶然、読む機会があって、原作となったこの本がないかと探していたらあったので、読んでみる事にしました。現在、この本は絶版のようですので、よろしければ、というか、興味を持った方は何とか手に入れて、もしくは図書館かどこかで探していただけるとありがたく思います。

    この本に描かれているものは、フィクションという形をとっていますが、あのチェルノブイリ原発事故によって、引き裂かれた家族の運命を描いたものです。原発技師のアンドレー、妻のターニャ、長男のイワン。長女のイネッサ。彼ら彼女たちを中心として、チェルノブイリで災害に会った人たちの過酷な姿が描かれていて、今、原発事故の現場である福島で避難生活をおくっていたり、住み慣れたところや、わが子同然に育ててきた家畜や農作物を捨てて生活をしている方々のことを思わずにはいられませんでした。

    その中で僕が一番心に残っているのは上司の命令で、アンドレーが二度と生きて帰ってこれないと知りつつ、家族を守るために『人柱』として、何の防護服すら着ないで、事故現場で復旧活動を行っているところでした。結局彼は死んで、イワンやアネッサも放射線を大量に浴びたために、死んでしまいます。

    今、福島はどれくらいの情報が明らかになっているか僕には見当がつかないので、こういうものを参考にしてその後を類推するしかありませんが、過酷な運命が待っていることだけは容易に想像がつきます。その事実に僕はただただ暗澹とするばかりです。

  •  国家は必ず嘘をつく―――。より小規模な組織でも然り。人間一人ひとりは善良だとしても、それが寄り集まって、組織や国家という大きな共同体を形成した場合には、それが善良な国家、善良な組織である保証はどこにもない。人間一個人でさえ、たとえ善良な小市民であったにしても、自分の失敗や過ちや恥を認めるのに多少の勇気がいり、それらを過小評価しがちであるのに、人間の寄り集まりであるところの国家や組織が、その人間の性(さが)から逃れられようはずもない。むしろ、国家や組織といった共同体が自らの負の部分を嘘や隠蔽で糊塗する場合、それが巨大な功利主義に根ざしていることが殆どであるゆえに事態は一層深刻である。そしてその嘘が、国民のため、社会のため、パニックを起さないためというのだから、始末が悪い。

     『チェルノブイリの少年たち』を購入したのは、いつ頃のことだったろうか…。私が持っているこの九刷が平成七年(一九九五年)の発行であるから、出されてすぐに手に取ったとして、大学二回生の頃である。それから十六年間、私はこの本を購入して本棚にしまいこんだまま、一度も読まなかった。チェルノブイリ原発の事故は、当時十一歳だった私の眼にもとてつもなく衝撃的で深刻な問題だったし、原子力発電、あるいは原子力発電所というものに全然無関心だったわけではない。何と云っても、私の住む山口県東部には上関(かみのせき)原発建設予定地が存在し、もうかれこれ三十年にもわたって、住民が推進派と反対派に分裂して対立し、さらに反対派住民と中国電力が闘い続けていたのだから。ただ、なんと云ったらいいのだろう…。私は、そういう問題を極力避けて通るようにしていた。考えないようにしていた。大人たちのややこしい利害関係に首を突っ込みたくない、という心境だったのかもしれないし、チェルノブイリ原発に関して云えば、遠い遠いウクライナ地方の事故で、対岸の火事と呑気に構えていたのかもしれない。だが、この「考えないようにしている」という消極的行為も、私の、ひいては人間の悪いところであり、この致命的な欠点が国家や組織という、より大きな共同体において立ち現れてしまうと、起こり得る危機に対して、実は何らの予測も対策も講じていないという、極めて怖ろしい状態が現出する。

     私がこの本をようやくのこと読んだのは、福島第一原子力発電所で重大な事故が起こった後だった―――。

     物語は、チェルノブイリ原発が爆発事故を起こした一九八六年の四月二十六日深夜から始まる。主人公となるのは、チェルノブイリ原発の近隣地区・プリピアーチに住むセーロフ一家。父アンドレー、母ターニャ、十五歳の息子イワン、そしてようやく十一歳になったばかりの娘イネッサの四人家族である。父であるアンドレーは、チェルノブイリ原子力発電所の古参の職員で、彼ら一家が住んでいるアパートは、その住人全員がチェルノブイリ原発で働く職員家族であった。アンドレーは、世界一の原子力発電基地を目指すプリピアーチの住民として、かつ、チェルノブイリ原発の設計から運転作業にいたるまでを監督してきた真面目で誠実な職員として、誇り高く生きてきたし、その誇りを胸に愛する家族を養ってきた。その、自分にとって誇りと自信の源であった発電所が、何の前触れもなく、深夜の一時二十三分、大音響とともに爆発し、火柱を立ち上げたのである。

     深夜の事故という事情もあったのかもしれないが、もの凄まじい火炎が吹き上がっているにもかかわらず、セーロフ一家を含む職員アパートの住人が避難するのには、かなりの時間を要した。彼等は軍人の指示のもと、避難用バスに乗る手続きをさせられ、そのバスも夜明けになってもなかなか到着せず、結局、自家用車で避難できる者は、家族ごとに車に乗り込むことになった。けれどもそれは、逃げたい場所へ、逃げたい速度でめいめいに散らばってよいということではなく、軍用トラックに先導されての、のろのろとした逃避行であったのだ。自家用車を持たない住人は軍用トラックや、やっと到着したバスに詰め込まれて出発する。この爆発事故から朝方までの数時間で、アンドレーの車には得体の知れない灰が降り積もっており、地面には今にも死にそうな鳥が転がっていた。

     避難の大行列は軍部の統制下に置かれており、何ぴとも、その行列から抜けることは許されないようであった。その間にも娘のイネッサは頭痛と不快感からぐったりとし始め、息子のイワンも視力を失いかけている。人々は、肌に刺すような痛みを覚え始め、若い母親が抱えている乳児の中には吐血している者もいる。農地を見やれば、羊の死骸―――。そんな中で、軍人に追い立てられ、家族とともに避難せざるを得なかったアンドレーは、急遽、チェルノブイリ原子力発電所に引き返すことになる。彼の上司であるコリヤキンの命令であった。アンドレーを含む十三人の幹部職員は、さらに十人ほどの部下を招集し、合計百数十人の決死隊となって原子炉の処理に向かうのである。セーロフ一家は引き裂かれるようにして、父のアンドレーを奪われ、そしてそれは、本当に今生(こんじょう)の別れとなってしまったのだった。上司のコリヤキン自身は事故現場には赴かず、避難者のバスに乗り込んで、軍のやり方に不満や疑問を投げかける者、都合の悪い情報を口にする者を見つけては圧力をかけていく。

     悪夢のような出来事を次々に体験していくイワンとイネッサ。発電所から命からがら脱走し、現場の真実を皆に教えようとしたニコライ・アレクサンドロフが見せしめのために銃殺され(おそらくその妻も)、二万人以上いる避難者は途中から大人と子供に分けられてバスに分乗することになり、イワンとイネッサは母ターニャとも引き離されてしまう。実は、百キロ四方に飛散した高濃度の放射性物質や有毒性ガスの中を、避難する彼等はせいぜい二十キロ程度しか移動できていないのだ。次第に血液が破壊され、体中に内出血による紫色の斑点が浮かぶ。脱毛する者も見受けられるようになってきた。急激に衰弱していく自分の肉体を目の当たりにせねばならない恐怖を避難者たちは味わい、それを必死に噛み殺す。途中に設けられた検問所では、健康状態の把握と称して当局のための名簿が作成され、症状ごとに人間を分類している。イワンとイネッサの兄妹は、ここでさらに別々のバスに乗せられ、異なる病院に収容されてしまうのであった…。彼らの行く末には奇跡もハッピーエンドも用意されてはいない。

     この小説の結末はひどく恐ろしい。母ターニャは子供たちから引き離されたあと、キエフに住む姉夫婦のもとに身を寄せながら、イワンとイネッサの行方を追うが、どれほど手を尽くして調べても、最早彼らの居所はわからない。子供たちは忽然と姿を消した。姉夫婦は無頓着なのか、テレビで注意喚起の対象となっている汚染されているかもしれないパンやミルク、野菜を平気で口に運んでいる。ターニャは、過酷な避難を体験したものとそうでない者との意識のあまりの違いに、愕然とするのであった。そんな平静を装うキエフの街にも、眼に見えない放射性物質は、しんしんと降り注いでいる。

     『チェルノブイリの少年たち』を読んでいくと、現在、我々日本人が福島第一原発の事故について直面している問題や不安といったものが、すでに記されていることに気付くはずである。例えば、福島第一原発を中心とした同心円状に区分された被災地域。あれにしたって、(本当にそういう区分で間違いないのか? 本当にそんな風に満遍なく放射性物質は拡散するものなのか?)と疑問に感じた国民は多かっただろう。ヒロシマ・ナガサキに投下された原子爆弾の、爆発直後における瞬間的被害の拡大状況ならば、ああいった図で問題ないが、長時間あるいは長期間にわたってジワジワと放出される害毒に対して、あんな同心円を当てはめるのは本当は間違っているのだ。事故後かなりの日数が経って初めて、我々は、放射性物質が集中的に溜まる「ホットスポット」という言葉を耳にするようになったが、実のところ、本書にはすでに、そのことについての記述がある。

     このような場合、灰は平均的に全面を覆うのではなく、気流と気流が交錯して生ずる細い流れに沿って、ある地点へ集中的に降りつもる。それが丘陵の起伏による温度差と組み合わさり、一ヵ所に驚くほど大量に降下する。(36頁)

     「風向きが変った」というニュースがソ連当局から発表された瞬間、キエフに第三の変化が訪れた。チェルノブイリ原子炉から噴出するガスが、こちらの方向に流れていることを知らされた市民のパニックは、今度こそ衝撃的なものだった。果たしてあのメーデーの日に、風はこちらに吹いていなかったのだろうか。どうやら今日までの当局の発表が、とんでもないトリックだったらしいことに人びとは気づいた。いま当局が発表している言葉が、ようやく現実の状況を伝えはじめたのだ。(148頁)

     福島第一原発のような全世界に発信されるほどの未曾有の大事故を経験したのは、確かに我々日本人にとっては初めての経験であるかもしれない。しかしながら、この作品を読めば、今から二十五年前に同じような経験をしている人々が、受けた放射線量や民族こそ違え、存在したことを、はっきりと思い出せるのである。我々は日本政府から発せられる情報を鵜呑みにするばかりではなく、類似する事故について書かれた本を読むことで、医療におけるセカンド・オピニオンのように、今回の福島での事故を考えることが出来たはずなのだ。あの同心円図はおかしい、もっときちんと各地域の放射線量を、観測地点を大幅に増やして観察し、それに基づいて作成した分布図を公表したほうがいいのではないかと、より早い段階で声を上げられたはずなのである。

     加えて本書には、事故以来、日本人の多くが感じ続けているのと酷似する憤りが、そこかしこに書かれていることにも注目したい。

     「これが」と、ターニャはようやく口を開いた。「私たちの信じてきた世界一安全な発電所だったのね」 烈(はげ)しい怒気がこもった最後の言葉だった。根拠のないことではない。夫のアンドレーから、絶えずそう聞かされ、実際、つい昨日まで、事実がそれを実証してきた。誰もがそこに信を置いていた。これほどおそろしい落とし穴があると、アパートの住人の誰が予測できただろう。(11頁)

     この別離の会話が、どの家族にも一瞬のうちに流れた。上司のコリヤキンが慌しく歩きまわり、残忍にも家族の腕をちぎるように引き離していったからである。その姿を見て、ターニャが叫んだ。
    「あの偉い連中は、こういう時には原子炉のなかに入らないんだわ。命令だけして、あとは自分の家族と夕食をとるのよ!」(34頁)

     ストレリツォフたちには、彼らの言い分があった。いきなり原子炉が爆発し、たった今まで住んでいた所から立ち退けと言われても、羊と牛はどうすればよいのか。朝早くから床を出て、来る日も来る日もこの動物たちに水をやり、餌を与え、毛並をそろえ、出産に立ち会い、精も根も使い果たして育てあげてきた。その動物たちは、彼らにとってわが子であり、分身と呼んでもよい。それをすべて放り出して退避しろ、と軍隊が叫んでいるのだ。銃口を突きつけながら。
     畑はどうなるのだ。これもまた、日が昇る前から野良に出て、雪や霜と戦いをくり返し、作物の日誌をつけ、種を選び、肥料をまき、あるいは土にさりげなく目をくれ、指のあいだに泥を握りながら感触を確かめてきた。今年こそは実れよ、と叫びながら地面を掘り起こし、凍てつく寒さのなかを走りまわるように働き続けてきた。
     この人たちにとって、牛や羊は動物ではなく、畑の作物も植物ではなかった。学者風情(ふぜい)がそのように呼び捨てることを許さない、ストレリツォフたちの生命そのもの、彼らの人生そのものであったのだ。(84頁)

     現在、日本で起きていることは、世界に、或いは歴史に目を向けてみた場合、既に誰かが経験したことである。原子力の平和利用や原子力発電における安全神話の盲信。英雄を作り上げて、ともすれば彼らには名誉しか与えず、その英雄と呼ばれる人々の背後に隠れて、安全な場所で利益を貪る人間がいるという構図。酪農や農業・漁業はもちろんのこと、暴走した原発によって生業(なりわい)を失い、これまで懸命に築きあげてきたものも、将来の展望も一気に打ち砕かれてしまった人々の苦悩と絶望。これを見た限り、人類は過去の経験から何も学ばず、同じ過ちを何度も繰り返しているとしか思えない。

     そもそも歴史を鑑みるに、人間は永遠に、絶対に壊れないものをこれまでに一度だって作り得たことがあっただろうか。器物にしても建築物にしても、人間が作るものは、時間の経過とともに傷み、破損し、風化していく。遠い過去に作られた物が現存している場合でも、それは、作られた当時の状態を万全に保っているとは云えない。補修に補修を重ねて、もしくは、再建に再建を重ねて、存在しているはずである。”形あるものは、いつか壊れる”などと警句を発していながら、それでは何故、原子力発電所だけが絶対安全と云い切れるのか。考えれば考えるほど、なぜ原発のみが永久不滅の施設のように賛美され、人々もそれを信じてしまうのか、私には解からない。人間というものは、死という滅びの道から逃れられない宿命を負っている。生まれれば必ず死に、生まれたということは、そこからすでに自らの死への道が開かれているということである。人間存在に永遠だとか無限というものは、はなから与えられておらず、人間は、いつか死ぬ、いつか終わるという有限性の中でしか生きられないようになっているのだ。その有限性に束縛されざるを得ない人間が、どうして原子力に関してだけ、永久に稼動し続けるものを、絶対に安全と断言できるものを創造することが出来ようか。いまだ人類は、自らの身体においてさえ絶対性も無限性も獲得できてはいないのだ。相対性と有限性しか持ちえたことのない人類が、原子力を扱うということに、私は禍事(まがごと)めいた誤謬(ごびゅう)を感じるし、そこはかとなき恐怖を覚える。

     この記事を書いている折も折、二井関成(にい せきなり)山口県知事閣下が、上関原発建設予定地に関して、公有水面埋め立て免許の延長申請を中国電力側が申請したものの、それを認めないとの決断を下した。原子力エネルギーについての国の方針が定まっていないから、という、少々含みを残した理由ではあったが、今まで推進してきた事業を一旦凍結し、従来とは異なる政策へと方向転換することは、非常に勇気の要ることで、そこを乗り越えて新たな決断をしてくれたことに感謝したい。慣れきってしまっていた物の考え方や生き方を変える、疑問を感じることなく進んでいた道から踵(きびす)を返すというのは、実に容易なことではない。しかし、山口県という本州の端っこの土地が本来的に備えている、中央に立ち向かう力、変革を志向する原動力といったものを、このたびの原子力問題を考えるうえでもう一度、再認識し、発揮することが出来たら、一長州人としてこれにすぐる喜びはないと感じている。県知事閣下の英断を嬉しく思う。

     ただ、そうは云いつつも現段階では、オセロゲームの黒白(こくびゃく)を争っているようなもので、いつ何どき、この判断がひっくり返されるか分からない。私個人は、上に挙げた誤謬性から脱原発の立場であるが、原発推進派の人々ももちろんいるし、地域ごとに原子力発電に依存する割合も異なっているから、事は非常に難しい。むしろ、山口県が上記のごとき判断を下せたのは、上関原発が「建設段階」であったからだとも云えるのである。これが、はや建設完了しており、発電所として稼動していたら、県知事閣下も同じ判断が下せたかどうか。したがって、現在、運転休止中の原子炉を再稼動させるか否かの問題について、その炉が置かれている地域の市区町村長や首長が苦慮していることも、そして電力面でも歳入面でも、原発への依存度が高ければ高いほど、再稼動させたいと考える立場の人が多くなるのも理解はできるのである。

     けれども考えて見てほしい。福島第一原発のように、チェルノブイリ以来、全世界を動揺させ、驚愕させたこれほどの大事故を起こしておきながら、その事故を受けてヨーロッパ各国が脱原発路線に移行しつつある情勢の中で、ヒロシマ・ナガサキの原爆であれほど酷(むご)い被曝に苦しめられながら、今また、自国に抱え込んだ原子力によって被曝の危機に直面しているという最中に、まだ、原発をどうするかで国が迷走するみっともなさ。「日本はそれでも原子力を虎の子のように崇めるのか」と全世界から嘲笑されることの不利益を。

     ヒロシマ・ナガサキの経験を経て、日本人は、原子爆弾の恐ろしさと戦争の惨(むご)たらしさ、平和への希求を国際社会にずっと訴えかけてきた。そのメッセージの強さ、全世界の人々に向けて語るべきことがあるという強味は、確実に日本の財産の一つになっていたはずである。それがどうであろう。今回のことで改めるべきは改め、踵を返すということが出来なかったとすると、ヒロシマ・ナガサキでのメッセージもきっと矛盾を孕むことになる。そうして、日本は、筋の通ったメッセージさえも発信できない国として顧みられなくなることは必至である。国際社会というものは、国際競争力の強い国や経済成長の著しい国、資源の豊富な国ばかりを尊重しているわけではない。日本のように、リーダーがコロコロ替わり、資源に乏しく、経済的にも不安を抱える国が、それでも何故、諸外国の人々から愛されているのかといえば、日本それ自体が特異な文化や国民の資質、思想、提言といったものを有しているからである。何ものにも代えられない独自のメッセージを持ち続けているということが、国際社会において日本が尊重される所以(ゆえん)ではないかと私は考えている。だからこそ、このたびの事故をきっかけに、これまで培ってきた日本の財産さえも毀損(きそん)することのないように、日本は、日本国民は立ち回らなければならないのである。

     過疎地の人々の横っ面を、札束でひっぱたくようなやり方はもうやめて、オセロ盤上の黒白を取ったり取られたり、それを繰り返しながらでも良いから、徐々に、原発に頼らずに済む社会を形成していくほうが、最終的には日本人の為になるのではないだろうか。フクシマの事故を教訓に、日本は新たな再生可能エネルギーへの取り組みを世界に先駆けて始動した、と胸を張って云えたほうが、それがまた良い財産となりうるのではないか。

     『チェルノブイリの少年たち』はドキュメント・ノベルなんだそうである。あまり聞かない言葉だが、プリピアーチの街にセーロフ一家が実在したわけではないということだろう。だが、チェルノブイリの事故後には、この小説に登場するセーロフ一家と同じような末路を辿った数限りない家族がいたであろうことは想像に難くない。そしてそれは、二十五年前のウクライナ地方に限ったことではなくて、原子力発電所を有する世界中の都市ならどこでも、ひとたび事故が起きれば、こういった家族が生み出される可能性を持っているのだ。「あの偉い連中は…」と、ターニャが叫んだことを、我々日本人が今叫んでいる。「畑や動物をどうするのか…」と、ストレリツォフが苦悩したことを、福島第一原発の周辺地域の人々が今、経験している。我々一人ひとりが、セーロフ一家になるかもしれないということを肝に銘じて読むべき作品である。

    目次
    運命の金曜日
    大草原の惨劇
    第二夜の訪れ
    危険地帯からの脱出
    孤独な少年
    検問
    病棟
    捜索
    キエフの空の下
    イワンの脱走
    チェルノブイリ現地の真相


                                  福島第一原発事故のあと読了。あまりにショックで日付を控えるのを忘れた。

  • 原発の話も他人事じゃないと思った

  • 純粋にこわい

  • (2014.03.19読了)(2011.11.03購入)
    -ドキュメント・ノベル-
    【東日本大震災】
    単行本は、1988年2月に太郎次郎社より刊行。
    東日本大震災で、福島原発事故が起こるまでは、チェルノブイリは、遠いよそのできごとだったのですが、いまや身近な話になってしまいました。
    本の題名から、チェルノブイリの原発事故によって放出された放射線を浴びた少年少女が、放射線を浴びたことによって徐々に身体的影響が現れ、健康がむしばまれて生活している様子を描いたものかと思っていました。
    読んでみると、もっとすさまじいものでした。
    ドキュメント・ノベルとなっていますので、多分こんなふうなことだったのだろうという推測に基づいて書かれた物語です。
    チェルノブイリの原発事故に始まって、事故から一カ月までのことが書いてあります。

    【目次】
    運命の金曜日
    大草原の惨劇
    第二夜の訪れ
    危険地帯からの脱出
    孤独な少年
    検問
    病棟
    捜索
    キエフの空の下
    イワンの脱走
    チェルノブイリ現地の真相

    イワン 主人公・15歳 原発の爆発を肉眼で見たので、二日後に失明
    アンドレー・セーロフ 父親・発電所職員 消火作業で原発へ
    ターニャ 母親 脱毛
    イネッサ 妹・11歳 昏睡状態

    ●農村(84頁)
    いきなり原子炉が爆発し、たった今まで住んでいた所から立ち退けと言われても、羊と牛はどうすればよいのか。(中略) それをすべて放り出して退避しろ、と軍隊が叫んでいるのだ。銃口を突き付けながら。
    ●出血(88頁)
    楽に半数を超える人間が、体のどこかに異常な出血を起こしていた。ある男は耳に、ある女は歯ぐきに、ある子供は全身に、不気味な出血が見られた。なかでも内臓の出血が最も顕著で、これが彼らの衣服を汚していた。それを我慢し続け、誰もが他人に気づかれないように必死で隠していたのである。
    ●医師団(91頁)
    いろいろと体に苦痛が出ているはずだが、それはまったく心配ない。医師団が解析したところ、一時的な症状であることが分かっている。手当ての方法さえ誤らなければよい。したがって、この検問所で指示を受けた者は、忠実に、医師の言葉を守って欲しい。
    ●白血球の減少(122頁)
    誰もが、白血球の著しい減少を示していた。造血組織に致命的な影響を受けた子供は、すでに全身が蒼白な状態となり、免疫作用も失って末期的な発熱症に突入していた。
    ●事故見物(186頁)
    多くの住民が原子炉の爆発現場を見ようと自動車を走らせ、死の雲がすっぽりと包む中に突っ込んでいった。信じられないことだが、放射能について何も教えられたことがなかった彼らは、まるで花火か火事でも見るように、燃えさかる原子炉を眺めていた。
    ●死者一万五千人(189頁)
    事故のあと移住したウクライナの原子力技術者が語ったところによれば、彼の友人(複数)が、キエフの二つの病院で働いていた。この友人たちは、「事故から五カ月の間に、少なくとも一万五千人のチェルノブイリの被害者がこれらの病院で死亡した」と訴えていたという。

    ☆関連図書(既読)
    「恐怖の2時間18分」柳田邦男著、文春文庫、1986.05.25
    「食卓にあがった死の灰」高木仁三郎・渡辺美紀子著、講談社現代新書、1990.02.20
    「チェルノブイリ報告」広河隆一著、岩波新書、1991.04.19
    「ぼくとチェルノブイリのこどもたちの5年間」菅谷昭著、ポプラ社、2001.05.
    「朽ちていった命」岩本裕著、新潮文庫、2006.10.01
    「福島原発メルトダウン-FUKUSHIMA-」広瀬隆著、朝日新書、2011.05.30
    「原発の闇を暴く」広瀬隆・明石昇二郎著、集英社新書、2011.07.20
    (2014年4月29日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    1986年4月25日深夜、巨大な爆発音がウクライナの闇に轟いた。チェルノブイリ原子力発電所で重大な事故が発生したのだ。何万人もの人々が住み慣れた街を強制避難させられていった。体じゅうを放射能に餌まれた彼らはどんな運命を辿るのか?今なお世界中で影響が残るあの原発事故の被害を、避難の途中バラバラにされていったある家族をモデルに描く迫真のドキュメント・ノベル。

  • なんとも言葉にならない。絶版のようだが、今こそ読まれるべき本。
    (母の本棚を整理していたら、あった。私は買って読まない本だな。母はこれを読んで何をどう感じたのだろう。感じたことを、どんな風に、周りの人に伝えようとしたのだろう。)

  • 1986年4月25日深夜、巨大な爆発音がウクライナの闇に轟いた。チェルノブイリ原子力発電所で重大な事故が発生したのだ。何万人もの人々が住み慣れた街を強制避難させられていった。体じゅうを放射能に餌まれた彼らはどんな運命を辿るのか?今なお世界中で影響が残るあの原発事故の被害を、避難の途中バラバラにされていったある家族をモデルに描く迫真のドキュメント・ノベル。

  • 先週、『We』171号で話を聞いた古橋りえさん主宰のへのへのもへじ文庫へ行ったときに借りてきた一冊。裏表紙にある「ドキュメント・ノベル」というのが、ドキュメント?ノベル?と思ったけど、読み終えて、ドキュメント・ノベルというのが分かる。1986年の4月、チェルノブイリ原子力発電所の事故が起こったあとのことを、「誇り高い発電所の職員」で、「一点の曇りもない自信を抱いて、設計から運転作業のすみずみに至るまで監督してきた男」アンドレー・セーロフとその家族をモデルに描いた小説。視点の中心はアンドレーの息子・イワン。

    読み始めると途中でやめられず、借りてきた日に読んでしまった。

    深夜に爆発したチェルノブイリ発電所を前に、アンドレーの息子・イワンは恐怖心を爆発させる。「本当だ。嘘じゃない。爆発しちまったんだ。もう駄目だ。何もかも終りだ。みんな叫んでるぞ。俺は全部見てたんだ」(p.10) アンドレーの妻・ターニャは激しい怒気がこもった言葉を吐く。「これが、私たちの信じてきた世界一安全な発電所だったのね」(p.11)
    朝になって(爆発からすでに何時間も経っている)、世界一の原子力基地をめざしてきたプリピアーチの町から、ようやく避難の車が数珠つなぎにうごきはじめる。イワンの妹・イネッサはその車のなかですでに身体に異変が出始めていた。

    10キロほど先の農場で、アンドレーたち重要な13人とその部下たち百数十人は、爆発した原子炉の処理にあたる突撃残留組として選びだされた。ほどなく、その決死隊と家族とのあいだを上司が引き離してまわった。

    アンドレーの妻・ターニャはこう叫ぶ。
    「あの偉い連中は、こういう時には原子炉のなかに入らないんだわ。命令だけして、あとは自分の家族と夕食をとるのよ!」(p.34)
    その叫び声で、アンドレーは決死の覚悟を抱く。「自分がまだ"偉い人間"でなくてよかった、若い男たちを死地に赴かせて自分だけが生きているぐらいなら、いっそ死を選んだほうがよい、これでよいのだ」(p.34)と。

    決死隊が、折り返し原発にむかって戻っていった直後、避難してきた生後8ヶ月の子が息をひきとった。避難していくうちに、羊たちが死んでいるのと行き会い、イワンの両眼は見えなくなった。その先で、ターニャと、子どもたちは離され、さらにイワンとイネッサも別々の病院へ収容される。

    イネッサは、一緒に入院していた子どもたちと同じように、赤い斑点の浮きあがった腕になり、口から血を吐いて死んだ。いちどは同室の少年たちと脱走をこころみたイワンも、苦しくなり、体が自分のものではないように力が入らなくなり、死んだ。

    子どもたちがすでに死んだことも知らず、二人をなんとか探し出そうとする母のターニャ。自分の忘れられない記憶を思う。
    ▼夫はチェルノブイリで働いていた。ターニャ自身もそれを誇りにしていた。
     何とおそろしい職業だったのだろう。自分は、なぜそれに気づかなかったのだろう。このような結末は分っていたはずなのだ。あるいはイワンとイネッサに今日の不幸をもたらしたのが自分たちだったかも知れないと思うと、ターニャは気も狂わんばかりに、自分を責めたてた。
     しかし、ターニャが知っている以上に、この原子炉事故は重大な意味を持っていたのである。
     犠牲者はイワンとイネッサだけではなかった。大地に根を下ろした"死の灰"が静かに襲いかかったのは、全世界の子供たちであった。(pp.175-176)

    チェルノブイリの事故が起きたとき、私は高校2年だった。死の灰がとか牛乳がとざわざわしていたことをぼんやりとおもいだす。

  • チェルノブイリ原発事故のことをほとんど知らなかったので、読んでみました。

    読んでいて本当に衝撃的でした。
    今だからこそぜひ読んでもらいたいです。
    チェルノブイリの事故は20年以上も前のものですが、集結したように見えて、地球に影響を与え続けていることにもぞっとしました。

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著者プロフィール

京都府生まれ。1986年、京都府立大学文学部卒業。
1991年、大阪市立大学大学院臨床心理学分野後期博士課程(単位取得退学)。2006年、ISAP (International School of Analytical Psychology), Zurich修了、ユング派分析家。
現在、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授、北大阪こころのスペース代表、臨床心理士、公認心理師。

共著書に『キーワードコレクション カウンセリング心理学』、『現代社会と臨床心理学』、『心理療法ハンドブック』、『心理臨床大事典』ほか。共訳書に『ユングの世界』。

「2021年 『セラピーと心の変化』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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