暇と退屈の倫理学 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101035413

作品紹介・あらすじ

「暇」とは何か。人間はいつから「退屈」しているのだろうか。答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう――現代の消費社会において気晴らしと退屈が抱える問題点を鋭く指摘したベストセラー、あとがきを加えて待望の文庫化。

感想・レビュー・書評

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  • Kuma0504さんのブックリストでnaonaonao16gさんのレビューを再拝読したら興味を持って読んだ本です。
    お二人共ありがとうございます。
    熱い読書の時間を持つことができました。

    読んでいくうちに感じたことは、私は、今、現在は全く退屈していないと思ったこと。
    私は、今、仕事に就いていませんが、読書を毎日していてブクログに投稿していると退屈は感じられないです。
    退屈だと思う本はたまに選んでしまうことがありますが。
    逆に今、自分の本意でない仕事を持っていたら仕事中に退屈していたかもしれないとは考えました。
    恐ろしいことです。

    この本を読んでいる間中も全く退屈ではなく、どういう結末が待っているのかと思いワクワクしながら読みました。
    結論としてわかったことは、この本は本編を自分で”読む”という学ぶ過程そのものが大切な本でした。


    どういう本かと言うと、
    「資本主義の全面展開によって少なくとも先進国の人々は、裕福になった。そして暇を得た。だが暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。→暇のなかでいかに生きるべきかという問いがあらわれる」

    というような問いかけの答えを探っていく本です。
    以下に私はメモ書きをしますが、この本に興味をお持ちの方はそれは読まれないで、本編を読まれてみてください。読んでいく過程が大切な本だそうなので。



    ・これまでに人類は痛ましい労働に耐えてきた。ならばそれが変わろうとするとき、日々の労働以外の何に向かうのか?

    ・しかしパンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなくバラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

    ・大義のために死ぬことを望む過激派と狂信者たちらの人々は彼らを恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。

    ・食べることに必死の人間は大義に身を捧げる人間に憧れたりしない。

    ・幸福の秘訣はこういうことだ。あなたの興味をできる限り幅広くせよ。そしてあなたの興味をひく人や物に対する反応を敵意あるものではない、できるかぎり友好的なものにせよ(ラッセル)
    →頑張っている頃が一番幸せだったよね。
    →不気味な具体策を招き寄せるように思える。
    →社会が停滞したら戦争をすればいいと。

    ・退屈という気分が私たちに告げ知らせていたのは、私たちが自由であるという事実そのものである。

    一つ目の結論
    ・もうその実践のただなかにいる。大切なのは理解する過程である。本書を通読する過程を経てはじめて意味をもつ。

    二つ目の結論
    ・贅沢を取り戻すこと。<物を受取ること>とは、その物を楽しむことである。たとえば、衣食住を楽しむこと。芸術や娯楽を楽しむことである。

    三つ目の結論
    <動物になること>
    <人間であること>を楽しむ。
    食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は次第に食べ物について思考するようになる。
    美味しいものが何でできていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。
    映画が好きでいつも映画を観ている人間は次第に映画について思考するようになる。

    ・世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受取ることができるようになる。


    おまけ
    ・記憶の消化を手助けしてくれる者が現れたら人はその人と一緒にいたいと願うのではないだろうか。
    ほとんどの人は自分一人では消化できない記憶を抱え、その作業を手伝ってくれる人を求めている。ならば人間はその本性ではなくその運命に基づいて他者を求めることになろう。

    • まことさん
      naoちゃん。
      返信ありがとうございます。
      「動物になること」は今、407ページを再読したのですが、「動物はどこに行けば獲物が捕らえやすいか...
      naoちゃん。
      返信ありがとうございます。
      「動物になること」は今、407ページを再読したのですが、「動物はどこに行けば獲物が捕らえやすいか知っている。本能によって、経験によって、それを知っている」また、「ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。動物になることが発生する瞬間を待っている。そして彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。彼の場合は美術館や映画館だった」そのあたりではないかと思います。
      私も、ノートに殴り書きしたのを写してレビューにしたので、ちょっとあやふやでした。

      戦争についての描写は、現実化してほしくないですね。
      昔の戦争は確かにそういうものだった気がしますが、悪い革命はもう起きてほしくないですね。
      2022/04/11
    • naonaonao16gさん
      まことさん

      おはようございます!

      ご丁寧に引用ありがとうございます。
      作中にもありましたが、動物と人間を真っ二つに分けたかと思うと実はそ...
      まことさん

      おはようございます!

      ご丁寧に引用ありがとうございます。
      作中にもありましたが、動物と人間を真っ二つに分けたかと思うと実はその考え方を否定したり、あとはそもそも「取りさらわれ」の部分で混乱したり…があったように感じています笑
      つまり、難しい…!!笑

      自分じゃ理解しきれなかった部分も多いので、みなさんのレビューが楽しいです!
      2022/04/12
    • まことさん
      naoちゃん。おはようございます。

      確かに難しかったです。
      でも、現代の日本人の方だったせいか、難しすぎて、全然読めないほどではなく、この...
      naoちゃん。おはようございます。

      確かに難しかったです。
      でも、現代の日本人の方だったせいか、難しすぎて、全然読めないほどではなく、このくらいならちょっと頑張って読んでみよう!と思える範囲内かな。
      古い外国の哲学書は、私は、もう頭が固くて読めなくなってしまいましたよ。
      ん「取りさらわれ」なんだっけ?
      理解できたといっても、その程度なんですが。笑
      2022/04/12
  • このくっそ忙しい年度末のタイミングでなぜこんなにも頭を使う作品を選んでしまったのか。
    ただでさえ通常の読書の2倍はかかりそうなのに、そんなこんなで3倍くらいかかってしまった…
    「暇と退屈」について、全部で508ページ。
    人が「生きる」とはどういうことか。

    オードリー若林「國分先生、哲学書で涙するとは思いませんでした…」と、帯にある。
    たぶんだけど、泣くのはラストである。P477『傷と運命』だと思う。
    そこに至るまでは、とにかく「人が退屈することについて」語られている。

    わたしたちは、初対面の人と打ち解けるタイミングで、その人に尋ねる。
    「趣味はなんですか?」「休日は何をして過ごしているんですか?」
    わたしたちは仕事以外の時間を余暇にあてるけれど、その余暇ですることといえば、現代においてはすっかりカタログ化されており、もはやP29「労働者の暇が搾取されている」状態である。
    つまりわたしたちはすっかり消費社会の歯車の一員となっているのである。
    こういう風に掘り下げていくと、わたしたちは次に「消費社会」が気になってくる。
    すると次は、「消費社会」について語られるのである。
    (ここで映画『ファイト・クラブ』について多く語られているのだ!そりゃ観たくなる!)

    こんな風に、ある話題を掘り下げると、また掘り下げたくなるテーマが出てくる。
    わかりやすく言い換える、事例をあげる、歴史を遡る、など、話が掘り下げられ続けて508ページである。

    暇と退屈を考えるために、縄文時代の生活へ遡り、マルクス経済学をわかりやすく紐解いてくれる筆者。
    こんな風に哲学や古代史やマルクスについて学べていたら、わたしはもっともっと楽しく学べていただろうし、よくわかってなくても「ふーーん」であるとか「よくわかんないけど、まあ、いっか」で済ませることは激減していたはずである。
    筆者も冒頭で述べているではないか!
    P4「問題が何であり、どんな概念が必要なのかを理解することは、人を、『まぁ、いいか』から遠ざけるからである」と。

    ものすごい膨大な時間をかけて、ぺたぺたと異様な数の付箋を貼り付けた。それを辿ればこの本のまとめを作ることができるだろう。
    だけどそれは、この作品を「読んだ」つもりにはなるのだろうけれど「理解した」ことにはならない。
    P392「『分かった』という実感は、自分にとってわかるとはどういうことなのかをその人に教えるからである。(中略)だから大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひいては生きる術を獲得させるのだ」。

    わたしが高校時代に数学の公式を丸暗記して理解に至らなかったのと同様、それは理解とは言わないのだ。この、読みながら「理解する」、あるいは咀嚼する時間こそが至福なのであって、それはこの作品を手に取って読む他ない。

    この作品のすごいところは、物事を深く深く、ずっと深いところまで掘り下げて、学問の垣根なんてあっという間に超えて、回答が出るまでとことん掘り下げるところだ。
    「暇と退屈」を語るのに、哲学はもちろん、ゴミの分別の複雑さやトイレの設置などの生活革命、社会学、昆虫学、最後は脳神経科学に触れるなど、とにかく作者の知見の広さに圧倒される。

    全体を通して「うんうん」と思いながら読み進めたけれど、やっぱりわたしにはちと難しかったので、置いてかれた部分もある。
    だから、作者の提案通り、注なんて全部すっ飛ばした。わたしにはそれで充分だった。

    もう一つ、オードリー若林との共通点のようなものと言えば。
    彼のエッセイ『社会人大学入学人見知り学部卒業見込み』で「ネガティブを潰すのはポジティブじゃない、没頭だ」という名言があって、その言葉にはかなり感銘を受けたのだけれど、この作品で「暇と退屈」について掘り下げていくと「没頭」というものに対しての怖さみたいなのも知ることになる。そもそも人は、「暇でいたい生き物」なのか、「没頭したい生き物」なのか。

    以前読んだ『スマホ脳』では、様々なホルモン物質について触れられていたけれど、本作品では一切それらには触れられていない。だけど現代人は「暇と退屈」さえあればスマホを触るのが当たり前になってしまったわけだし、現代人の「暇と退屈」と、この作品の中で描かれている人間の「暇と退屈」とは性質が少し異なってくるのだろう、と思う。
    わたしは、この作品が痛みから目を逸らしていないこと、長いことを承知していること、最後まで読めば自分なりの理解ができること、など、多少難儀なことはありつつも最後まで芯を貫き通してるって感じが好きだ。そういう考え方の人のようで。苦難を受け止めつつ「まあ、人生ってそんなもんでしょ」って言いながら、颯爽と歩いている人のように思えてくるのだ。この作品そのものが、凛としててかっこよく生きてる人みたいな、そんな一冊に思えてくる。
    残りの人生で、またこの作品を読み返したいって時が来てほしい。わたしは自分の人生の中で、少なくとももう一度、このかっこいい人に触れたい。それまで、ずっとそばにいてほしい。醜いかもしれないけれど、それなりに楽しい、わたしの人生を、そっと見守っててほしい。

    • naonaonao16gさん
      まことさん

      こんばんは!
      コメントありがとうございます^^

      そうなんです、難しいけど、読み切ると非常に満足する1冊ですよね!
      このレビュ...
      まことさん

      こんばんは!
      コメントありがとうございます^^

      そうなんです、難しいけど、読み切ると非常に満足する1冊ですよね!
      このレビューきっかけで読んでもらえたのはなんだか嬉しいです!

      若林どこで泣いたのか問題ですが…
      なんだかそこしか思い浮かばなくて…
      わたしも少しグッときましたね、救われたというか。
      哲学って生きることについて考える学問で、最終的にそこに触れていて、それが人に刺さるかは別としてきちんと筆者なりの答えを述べているところがよかったです。
      2022/04/11
    • sinsekaiさん
      naoさん!読み終わりました…
      かなり長かったけど、かなり興味のある考察だったので意外とサクサク読めました。
      自分のレビューにも書きましたが...
      naoさん!読み終わりました…
      かなり長かったけど、かなり興味のある考察だったので意外とサクサク読めました。
      自分のレビューにも書きましたが
      遊動生活から定住生活
      「ファイトクラブ」
      環世界の3つの考察が特に面白かったです。

      naoさんが読んでレビューにも書いてある「スマホ脳」てのもかなり気になるので読んでみようかなぁ…
      2022/04/15
    • naonaonao16gさん
      sinsekaiさん

      こんばんは!

      環世界、わたしたぶんちゃんとは理解できてないんですよね。
      人はそこを柔軟に行き来できる、っていうのが...
      sinsekaiさん

      こんばんは!

      環世界、わたしたぶんちゃんとは理解できてないんですよね。
      人はそこを柔軟に行き来できる、っていうのがいまいちよく分かってないです…

      今日は暇を謳歌したのですが、その時ずっと手にしてしまったのがスマホです。見過ぎないように制限かけてますが、やっぱり休みだとついつい長時間触ってしまって…スクリーンタイム見ると絶望して焦って凹みます笑

      「スマホ脳」是非読んでください。怖いです。
      また違った読書体験になると思います。
      2022/04/15
  • 夏休みのセルフ課題図書。この猛暑、「暇と退屈」を考えるには恰好の季節と言えます。家にいることに焦れて、刺激を求めて外に出たくなる。まさにこの気分を体感しながら知的好奇心を満たすことができた一冊でした。

    パスカルの退屈論を振り出しに、同時期に同じ危機感を抱いていたハイデッガーとバートランド•ラッセル。特にハイデッガーの退屈論の議論を活かしつつ、批判、修正を加えることで筆者独自の哲学を構築した思考過程の記録です。

    結論は「贅沢を取り戻すこと。つまり、人間であることを楽しむこと」ここだけ切り取ると意味不明で、誤解を招く虞もありますが、「暇と退屈」を考えることは、人生をいかに生きるかに関わることだと気付かされます。

    以下の興味深い考察は、結論を理解するヒントになるものであり、また、これから生きていく上での多くの気付きを得ることができました。

    ●人類史において、定住生活に移行する前の遊動生活をしていた狩猟採集民の浪費できる社会こそが「豊かな社会」である。遊動生活がもたらす負荷こそ、退屈とは無縁で、人間の持つ潜在的能力にとって心地よいものであったはずである。

    ●映画「ファイト•クラブ」が描く、暇はないが退屈している人間の姿。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。消費社会を拒否し、自滅するブラピ演じるタイラーすら消費社会を自己存続させるミラーイメージに過ぎない。

    ●ダニは①酪酸のにおい、②摂氏37度の温度、③体毛の少ない皮膚組織、から血液にありつく、三つのシグナルだけで作られた環世界に生きている。一方、人間は、環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈する。

    ●本当に恐ろしいのは、ハイデッガーのいう「なんとなく退屈だ」であり、多くは日常の物事に打ち込んで一時の安寧を得ているに過ぎない。本来の人間の生とは、退屈と気晴らしとが絡み合った、普段よく経験する退屈にある。


    本筋ではないですが、「新しい階級」を提唱し、仕事の充実への強迫観念の弊害に無反省な経済学者ガルブレイス、「歴史の終わり」という壮大な勘違いの議論をし、テロリストに憧れる者の欲望を煽るとされる哲学者コジェーヴ。二人の学者に対する筆者の怒りが込められた一文が印象的です。ハイデッガーもハンナ•アーレントも、思い込みや拘りからは逃れられない。学者の誤謬は時に罪深い、ということでしょう。

    • 傍らに珈琲を。さん
      harunirinさん、こんにちはー

      いいねを有難う御座います♪
      本棚にお邪魔させていただきましたら、京極堂シリーズがお好きとの事。
      國分...
      harunirinさん、こんにちはー

      いいねを有難う御座います♪
      本棚にお邪魔させていただきましたら、京極堂シリーズがお好きとの事。
      國分先生のこちらの本もお読みになられていたので、
      勝手に親近感がわいてフォローさせていただきました!
      2023/09/14
    • harunorinさん
      傍に珈琲を。さん、初めまして(*´꒳`*)
      こちらこそ、いいね!もフォローもいただき、ありがとうございます!
      丁度先ほど弔堂のレビューを拝見...
      傍に珈琲を。さん、初めまして(*´꒳`*)
      こちらこそ、いいね!もフォローもいただき、ありがとうございます!
      丁度先ほど弔堂のレビューを拝見していて、度肝を抜かれた直後でしたので、恐縮しております汗
      時代背景などにも知悉されていて、洞察に深みがあり、このレベルの読書に憧れます。
      京極堂シリーズは20年近く前に読んでいたので、本棚にもあげておらず、ブランクが長いのですが、いよいよ待望の「鵺の碑」もリリースされますので、再読の良い機会と思っております。今は姑獲鳥からじっくり堪能中です。とても間に合わない笑
      國分先生の著作も興味深く、他のものも読んでみたいと思っています。
      マイペースですが、よろしくお願いします!
      2023/09/14
  • 【感想】
    凄く充実した休日を送ったとしても、一日の終わりに「あぁ、なんだか味気なかったな......」と感じるときはないだろうか(私はディズニーランドの帰りでよくある)。自分が好きで行っているはずなのに、そして実際遊んでいる間は夢中になっているのに、振り返ってみればどこか薄っぺらい。かといって、それに代わる休日の過ごし方なんて思いつかない。夢中になれることを探し求めながらも、手を出したもの全てに体重が乗っていない感じがして、いったい自分の好きなものはどこにあるんだろうと自己嫌悪に陥る。
    そうした「振り返ってみれば退屈だった」という現象を、ハイデッガーは「退屈の第二形式」と呼ぶ。そして、これこそが人の心を豊かにするための「退屈」であると、彼は述べている。

    本書は、タイトルのとおり「暇と退屈」について哲学を行う書だ。暇と退屈が生まれた歴史や退屈についての定義を類型化しつつ、過去の哲学者たちが述べた「暇と退屈」の考察を深めていき、現代社会にはびこる「暇と退屈」という病理に、筆者独自の処方箋を出している。

    現代社会では、「暇と退屈」は悪だと思われており、それを解消するための「娯楽」に溢れている。しかし、そうした娯楽は所詮レジャー産業によって作られた暇つぶしであり、退屈を解消するための遊びがカタログのように提示されているだけだ。私たちが本当にやりたいことを汲んで作られているわけはなく、あくまで企業目線での「消費」が一方的に提供されるだけである。

    筆者は、第三者によって提供されたミッションで暇を埋めることを、「本当の幸福」とは考えていない。では、どこに真の幸福があるのか?
    ここで、筆者はハイデッガーの「退屈の形式」を引き合いに出す。

    ハイデッガーが述べた退屈は、次の3つである。
    第一形式:何かによって退屈させられること。
    第二形式:何かに際して退屈すること。
    第三形式:なんとなく退屈だ。

    このうち、第一形式は単純だ。シンプルに「やることがなく暇なとき」である。第三形式はやや複雑で、「生きていてなんとなく暇と感じる瞬間」である。言葉で形容しがたいが、誰もがなんとなく体験したことはあるだろうから、感覚はつかめるだろう。

    問題は、第二形式の退屈である。これは、「気晴らしをしているのに、なぜか退屈な瞬間」である。パーティに参加して楽しいひとときを送ったのに、どこか退屈だった。ディズニーランドを散々満喫したのに、終わってみれば何だか味気ない。退屈を埋めるための気晴らしを行っているのに逆に退屈してしまう現象は、かなり理不尽な感情となって私たちを襲ってくる。

    気晴らしが気晴らしにならないのなら、もう「退屈」をどうしようもできないんじゃないか、と思うかもしれないが、実際その通りなのである。筆者は、「人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整のなかに生きている」と述べ、「退屈することは人間の宿命である」という結論に至っている。退屈と区別のつかない気晴らしの中で、われわれは延々と生きているのだ。

    身も蓋もないことを言ってしまえば、人生は死ぬまでの暇つぶしでできている。であるならば、退屈を前提としてない人生なんて存在しないし、人は退屈に似た気晴らしの中で生きるべきだ。そして、その気晴らしがより有意義で濃い体験となるよう、モノを味わうための訓練をこなすのがいい。また、一つの興味ある気晴らしにどっぷりと浸かることで、それ以外の退屈が入り込む余地がなくなり、よりディープに物事を楽しむことができる。

    結論を知れば、「なんだ、結局一生懸命生きようってことじゃないか」と思ってしまうかもしれない。だが、娯楽がただの「退屈の裏返し」と知った今だからこそ、人生の見方を変えることができる。人生を死ぬまで続くレースと見るのではなく、死ぬまでの自己満足の総体と見れば、寄り道も増え、より豊かな景色に出会うこともできるだろう。

    暇と退屈は、間違いなく人生を豊かにしてくれるのだ。

    ――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    1 暇があろうとも、本当に好きなことをしてはいない
    人間は豊かさを目指してきたのに、実際に豊かになったら不幸に感じるのはなぜなのか。
    「ゆたかな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、たしかにその余裕は余裕を獲得した人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもかなわなかったことではない。産業があらかじめ準備したカタログによって、「好きなことを与えてもらっている」。
    現代で暇を得た人々は、何が自分の好きなことなのかわからず、その暇をどう使っていいかわからない。では、人は暇の中でどう生き、退屈とどう向き合うべきなのか?

    ――人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。


    1 気晴らしにひそむ倒錯
    パスカルは、「おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるそのなかに本当に幸福があると思い込んでいる」と言う。
    ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではなく、気晴らしが欲しいだけである。それにもかかわらず、人々は欲しくもないウサギを手に入れることに本当に幸福があると思い込んでいる。欲望の対象を欲望の原因と取り違えているのだ。そして、その事実に思い至りたくないがために、わざわざ負荷(茂った林の中でのウサギ狩り)や苦しみ(汗水垂らしながらの登山)を自らに課し、熱中できる騒ぎを求めているのだ。

    退屈に耐えられず気晴らしを求める人間とは、苦しみを求める人間のことにほかならない。

    ラッセルは「幸福論」の中でこう結論している。
    ――幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味をひく人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。

    しかし、本当にそれでいいのか?現代社会では、熱意を持って取り組むべきミッションが外側から与えられる。それを幸福と言ってよいのだろうか?


    2 暇と退屈の歴史
    定住によって、人間は退屈を回避する必要に迫られるようになった。遊動生活では移動のたびに新しい環境に適応する必要があり、感覚が刺激される。しかし、定住生活では、かつて十分に発揮されていた人間の能力は行き場を失う。まさに退屈である。

    ここであらためて「暇」と「退屈」を定義してみよう。
    暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり、暇は客観的な条件に関わっている。
    それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。
    この2つは明確に区別される。暇なのに退屈ではないときと、暇ではないのに退屈なときも存在しうるのだ。

    かつて、有閑階級、要するに「ひまじん」階級は、周囲から尊敬される高い地位にあった。暇とは余裕であり、余裕とは裕福にほかならなかった。あくせく働いたりしなくても生きていける経済的条件を手に入れていた人にとって、暇はステータスシンボルであった。
    ステータスシンボルであるため、有閑階級は暇を見せびらかしたい。では、どうすればよいだろうか?単に暇であることを人に見せつけることは難しい。そこで、彼の暇を目に見える形で分かりやすく代行してくれる人間集団が登場する。使用人集団である。
    有閑階級はきれいな身なりをして、自分たちに多大な費用がかかっていることを示す。使用人集団は、調度品の維持など、生活するには大して重要でもない仕事を熱心に行い、主人に仕える。これが「閑暇の遂行」である。

    だが、19世紀末から20世紀頭にかけて、有閑階級が凋落した。暇の見せびらかしの代わりに現れたのが、ステータスシンボルとしての「消費」である。
    有閑階級の伝統をもつ者たちは、暇を生きる術を知っていた。彼らは品位あふれる仕方で、暇な時間を生きることができた
    それに対し、新しい有閑階級は暇を生きる術を知らない。彼らは暇だったことがないから。伝統を持たないから。よって、暇になるとどうしたらいいか分からず、暇に苦しみ、退屈する。

    こうして現れるのがレジャー産業だ。レジャー産業の役割とは、何をしたらよいか分からない人たちに「したいこと」を与えることだ。レジャー産業は人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。


    3 浪費と消費の違い
    必要の限界を超えて支出が行われるときに、人は贅沢を感じる。ならば、人が豊かに生きるためには、贅沢がなければならない。

    ここで、浪費と消費の区別について考えてみたい。
    浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提である。
    浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である。そして贅沢は豊かな生活に欠かせない。
    浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。

    一方で、消費には限界がない。消費は決して満足せず、止まらない。
    それはなぜか?消費の対象が物ではないからである。人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念論的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。

    余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。


    4 ハイデッガーの退屈論
    ハイデッガーは退屈を3つに分けた。
    第一形式:何かによって退屈させられること。
    第二形式:何かに際して退屈すること。
    第三形式:なんとなく退屈だ。

    ①第一形式(何かによって退屈させられること→暇で退屈している)
    (例)次の電車まで4時間あるけど、やることがない......。気晴らしをしても全然時間が経たない......。
    このとき、のろい時間によって私達は「引き止め」られている。近くにある駅舎や時刻表は、私達に何も提供してくれない。言うことを聞いてくれない。何もすることがない「空虚」の中に放置されないように、気晴らしを行う。

    ②第二形式(何かに際して退屈すること→暇がないが退屈している)
    (例)お呼ばれしたパーティーが素晴らしく、会話も弾み、本当に楽しかったのだが、振り返ってみたら、何だかよくわからないが退屈した感じがあったよなぁ......。
    パーティーや私の行為のどこかに気晴らしが存在するのではなくて、実は、そこでの立ち振る舞いの全体、ひいてはそのパーティー全体、招待そのものが気晴らしであるのだ。私たちはこのパーティーや自分の振る舞いのどこかに気晴らしがあるものだと思い込んでいた。しかし、そうではない。実は気晴らしを探していたその場所そのものが気晴らしだったのである。

    主体の際している状況そのものがそもそも暇つぶしである。暇つぶしとしての工夫に満ちたその状況のなかには、特定の退屈なものなどありはしない。何もかもがおもしろいものに仕立て上げられている。だから、会話も人々も場所も退屈ではなく、それどころかまったく満足して帰宅したのである。

    第二形式において私達は、気晴らしと区別のできない退屈を感じる。そこでは、自分が空虚のうちに置かれようがどうでもよくなる。こうして、私自身のなかに空虚が生育してくる。外界が空虚であるのではなく、自分が空虚になる。
    実は、第二形式は、ウィンドウショッピングやSNSなど、私達の生活においてもっとも身近な退屈だ。生きることは、それに臨みつづけることである。

    ③第三形式(なんとなく退屈だ)
    (例)通りを歩いていて、ふと「なんとなく退屈だ」と感じる。
    このとき、退屈に耳を傾けることを強制されている。気晴らしはできない。否が応でも自分に目を向けること、自らが有する「自由」への可能性に目を向けるよう仕向けられている。

    私達が日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃れるためだ。同時に、第二形式のようなパーティーも、「なんとなく退屈だ」という感覚を払いのけるために考案されていたのである。第一形式と第二形式の退屈は、どちらも第三形式が発端となって生まれたものである。


    5 生物はそれぞれに独自の時間軸を持つ
    環世界:ゾウの時間とネズミの時間が、寿命という観点から見れば長さ・速さが違うように、生物の時間感覚は同一ではない。すべての生物は別々の時間と別々の空間を生きている。人間の頭の中で抽象的に作り上げられた客観的な世界ではなく、それぞれの生物が、一個の主体として経験している具体的な世界のことを「環世界」という。

    人間も独自の環世界を生きているが、人間は、他の生物と違って、容易に環世界の間を移動できる。
    たとえば宇宙物理学について何も知らない高校生でも、大学で四年間それを勉強すれば、高校のときとはまったく違う夜空を眺めることになろう。作曲の勉強をすれば、それまで聞いていたポピュラーミュージックはまったく別様に聞こえるだろう。鉱物学の勉強をすれば、単なる石ころ一つ一つが目につくようになる。
    それだけではない。人間は複数の環世界を往復したり、巡回したりしながら生きている。たとえば会社員はオフィスでは人間関係に気を配り、書類や数字に敏感に反応しながら生きている。しかし、自宅に戻ればそのような注意力は働かない。子どもは遊びながら空想の世界を駆け巡る。彼らの目には人形が生き物のように見えるし、いかなる場所も遊び場になる。しかし学校に行ったら教師の言うことに注意し、友人の顔色に反応しながら、勉強に集中せねばならない。人間のように環世界を往復したり巡回したりしながら生きている生物を他に見つけることはおそらく難しいだろう。

    環世界を容易に移動できることは人間的「自由」の本質なのかもしれない。しかし、この「自由」は環世界の不安定性と表裏一体である。何か特定の対象にとりさらわれ続けることができるなら人は退屈しない。しかし、人間は容易に他の対象にとりさらわれてしまうのだ。
    するとハイデッガーの退屈論を次のように書き換えることができるはずである。
    ――人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから、なにか一つにひたることができず、退屈するのだ。


    6 「決断」は必ずしも正しい結果を生まない
    ハイデッガーは、「退屈するなら決断し、自由の可能性を発揮しろ」と言う。しかし、それは狂気の奴隷(決断のため、目をつぶり、周囲の状況から自分を故意に隔絶する人)になることにほかならない。決断は思考を停止させる。決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは楽で心地よいからだ。

    人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整のなかに生きている。しかし、何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。そのときに、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る。

    すると、人間の「正気」は、退屈の第二形式を生きることではないか。退屈と区別のつかない気晴らしの中で生きることで、人の心は豊かになる。

    それまで自分が生きてきた環世界に「不法侵入」してきた何らかの対象が、その人間を掴み、放さない時、人はその対象によってとりさらわれ、その対象について思考することしかできなくなる。その時、人はその対象によってもたらされた新しい環世界のなかにひたる他なくなる。つまり、「動物となる」。これができるのは第二形式の人間だけだ。第三形式=第一形式に逃げ込んだ人間は、考えることの契機となる何かを受け取る余裕はない。


    7 結論
    ①暇と退屈の倫理学を「通読」した上で、読者がそれぞれ暇と退屈との付き合い方を発見していく。
    ②贅沢を取り戻す。消費ではなく浪費する。浪費するためには、物を受け取れるようにならなければいけない。例えば衣食住を楽しむ、芸術や娯楽を楽しむ。そのように楽しむ、味わうための訓練を重ね、モノを享受し思考することである。色々なモノを楽しめるよう、自己を訓練することである。
    ③楽しむことは思考することにつながる。さまざまな環世界を移ろうのではなく、一つの環世界にひたり、なにかの対象に取りさらわれているとき(=動物になっている)とき、人は退屈ではなくなる。

  • まず一通り読んで、とにかく面白く夢中になった
    が、レビューが書けない
    大事な結論部分がまったく残っていないのだ
    一体何を読んだのか?
    そう何故なら結論に向かう過程の各トピックが面白すぎたからである
    哲学はもちろん、考古学、歴史学、人類学、経済学、政治学、社会学、心理学、精神分析学、文学、生物学、医学など様々な学問の分野がこれでもかー!と乱立しておりもう好奇心の毛穴が開きっぱなし!…となってしまったからである
    (資本主義からダニの生態まで…いや〜実に面白い)
    とにかく丁寧な説明と、飽きさせない内容である
    さらには各哲学者への批判、反論に留まらず、そこから視点を変えて新たな考えを導こうとするやり口も面白い
    暇と退屈以外が面白かったりする(笑)
    とはいうものの結論付までしっかり認識したいと思ったので結局2回読むハメに…

    ここまできたらこちらもガッツリ備忘録を残したい

    好きなことは何か
    何が楽しいのかわからない
    労働者の暇が搾取される時代
    暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか

    ■暇と退屈の現理論
    パスカル
    (「人間は考える葦である」の人だ)
    人間は部屋でじっとしていられない
    退屈に耐えられないから気晴らしをする
    追い求めているもののなかに本当の幸せがあると思い込み、自分を騙す
    例)ウサギ狩り、賭け事
    熱中できなくては気晴らしにならない
    退屈する人間は苦しみや負荷を求める
    →人間は変態である(笑)

    ラッセル
    「幸福論」
    退屈の反対は快楽ではなく興奮
    楽しいことなど求めていない
    熱意をもって取り組める活動が得られれば幸福になる
    著者の反論
    不幸への憧れを生み出す危険がある(革命や戦争など)
    →ISに若者が各国から集まってしまったのもこういうことだろうなぁ

    スヴェンセン 
    ロマン主義のせいで退屈が生まれた
    平等や普遍性より個性、異質性を重んじるロマン主義的な気持ちを捨てるべき
    著者の反論
    それは諦めること?
    退屈をロマン主義に還元する姿勢は支持できない

    ■暇と退屈の系譜学
    人間はいつから退屈しているのか

    遊動生活から定住生活へ変わった(定住革命)
    遊動生活の新しい環境に適応する負荷と時間が軽減された 
    定住により文化を発展させたが、同時に絶えざる退屈との戦いをも強いられた
    大脳に適度な負荷をもたらす別な何かを求める
    退屈を回避する必要に迫られるようになる
    →生きるだけで精一杯の生活からゆとりが当然生まれる そりゃそうだ

    ■暇と退屈の経済史
    暇…客観的な条件
    退屈…主観的な状態

    暇の中にいる人間が必ずしも退屈するわけではない
    資本主義が高度に発達し人々は暇を得た
    余暇という権利
    自由と平等の達成
    しかし彼らは自分たちが求めていたものが実際には何であるのかわかっていなかった
    今を生きる術を持っていなかったために右往左往した

    ■暇と退屈の疎外論
    贅沢とは何か?
    消費社会は退屈と強く結びついている
    消費と浪費
    ■浪費…必要を超えてものを受け取ること 
    浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である
    浪費はどこかで限界に達する(満足する)
    ■消費…消費には限界はないし満足をもたらさない
    消費の対象がものではないから
    人はものに付与された観念や意味を消費する
    商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されるから(生産者が売りたいと言うものしか市場に出回らない)
    消費は贅沢などもたらさない
    消費には限界がなく永遠繰り返される
    退屈は消費を促し、消費は退屈を生む
    →資本主義の恐ろしさだ

    例)映画「ファイトクラブ」←そんなふうに観なかったなぁ…

    ■暇と退屈の哲学
    そもそも退屈とは何か
    ハイデッガー(ハイデガー)
    「形而上学の根本諸概念」より
    ①何かによって退屈させられること=受動系
     はっきりと退屈なものがあって、それが人を退屈という気分のなかに引きずり込む
    例)早く列車が来て欲しいのに、ちっとも来ない
    →わかりやすいシンプルな退屈

    ②何かに際して退屈すること 
     何が特定のものによって退屈させられるのではない
    よくわからないが退屈してしまう
    退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合う
    気晴らしと区別できない退屈
    例)気晴らしのためのパーティーで何故か退屈してしまう(TV、映画、ゲームも然り)
    →よくありますねぇ 退屈退治のためにしたことが何だか退屈に感じてしまうやつ

    ③なんとなく退屈だ
    すべてがとうでもよくなって全面的な空虚のなかに置かれる
    外から与えられる可能性がすべて否定される
    →これ辛いヤツ!悶々としてしまう…

    反転の理論
    あらゆる可能性を拒絶されているが故に、自らが有する可能性に目を向けるよう仕向けられている
    ハイデッガー
    ここから人間は自分の可能性を示される
    それは「自由だ」
    自由がある故に退屈する
    退屈するということは自由である

    著者は分析は見事だか納得はいかないという

    ■暇と退屈の人間学
    ハイデッガーは人間だけが退屈であると考える
    動物は退屈しないのか?

    人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈する
    動物はほとんど移動しない
    ※環世界とは…すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え
    何か特定の対象にとりさらわれ続けることができる人なら退屈しない
    逆に動物はひとつの環世界にひたる能力をもつ
    →時々動物が羨ましくなる!

    ■暇と退屈の倫理学
    決断することは人間の証しか?

    人間は普段②の何かに対して退屈と感じ生きている
    これこそが退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのもの
    そしてこの②の状態が苦しくなり何かに飛び込むべきではないのかと感じ、①や③に逃げ込む
    つまり故意に無関心になり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む
    それが好きだからやると言うより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る
    →若い頃、よく陥ったなぁ…

    しかし逃げ込まず、考えることの契機となる何かを受け取る…という希望もあるのだ
    そう関心を持って新しい環世界へ移動したり、創造したりできるのだ

    ■結論(著者の)
    通読し自分なりの理解する過程が大切
    そして消費ではなく浪費により贅沢を取り戻すこと
    限界が来たら満足できるのだから
    いつまでも終わらない消費は満足が遠のき退屈が生まれる
    そして受け取るものを楽しむこと
    衣食住を楽しむ、芸術や芸能、娯楽を楽しむ
    これには訓練が必要だという
    パーティーだって楽しむことができるのだ
    訓練は日常生活でできる
    そして楽しむことは思考することにつながる
    さらには退屈と向き合う生を生きていけるようになれば、他人に関わる事柄を思考することができるようになる



    ふぅ
    一見理解できるのだが心底理解するのは難しい
    よくあるわかった気になるヤツだ
    暇と退屈…
    これも何だか記号的象徴に感じてきた
    実際、別に暇もないし退屈もしていない
    でも何かそういうことじゃないのだ!
    なにかをやってるから良い…わけじゃなく…
    言語化できないが少しわかった気がする
    そして個人的見解としては
    ・毎日丁寧に生きよう
    ・物事を自分の頭できちんと考えよう
    言葉にすると簡単で陳腐なのだが、本当に真剣に実行するのは結構難しい
    そして忙殺されるような生活では難しい

    あと今も理解しきれていない「自分の中の夢中になっていること」が、実は現実逃避ではないのか…⁉︎
    本書を読むと本当に好きなことなのか分からなくなってきてしまうのだ
    本当に好きなこととの違いはなんだろう
    これについて分析していきたい
    自分の中の哲学的課題

    ああ、何年後かに再読した時、何を考えどう感じるのだろう…

    • まことさん
      ハイジさん。こんにちは♪

      何も残らなかったとおっしゃりながら、2回も通読されて、これだけのレビューを残されるとは凄い!
      さすがハイジ...
      ハイジさん。こんにちは♪

      何も残らなかったとおっしゃりながら、2回も通読されて、これだけのレビューを残されるとは凄い!
      さすがハイジさん!
      ハイジさんの「自分の中の夢中になっていること」が現実逃避ではないのか?
      と言う問いかけも響きます。
      私、本当に、読書が好きなのか??と思うときあります。
      他にやることがないから夢中になっているのかな~(^^;と思うときも。
      自分のレビューに書いたこととは違いますが…。
      2022/05/07
    • ハイジさん
      まことさん こんにちは!
      面白かったですね(^ ^)
      こちら!

      そうなのですよ
      長年やっている趣味に対して、一時あまりにも夢中になり過ぎて...
      まことさん こんにちは!
      面白かったですね(^ ^)
      こちら!

      そうなのですよ
      長年やっている趣味に対して、一時あまりにも夢中になり過ぎて…今に至るのですが、よくわからなくなります(笑)
      意地になってる部分もあるのかな?と…

      2022/05/07
  • 「ブルックリン・フォリーズ」を書店のベンチで読んでいた日に、合間で哲学特集コーナーの棚にあって数ページ立ち読み。数年後思い出したところ文庫版が発売したばかりだったのでコチラを購入。

    暇も退屈も知っているようで理解できてはいない。
    ハイデッガーを中心に様々な哲学者の考えに触れながら退屈とは何かについて紐解いていく旅のように感じた。結論だけを読むのではなく、その読書の旅を通じて感じることに重きをおく考え方に励まされる。
    実際、途中の説明に出てきた「浪費と消費」について考えるうちに、書店で本を買うにも「この本を買うことで満足する(消費)」なのか「本を読み得たいものがあるため買う(消費)」なのかを意識したり生活の中で頭をよぎった。

    人間は新しいことが現れると危険かと警戒してストレスを感じ、同じことの繰り返しで安心しつつ暇すぎてまた退屈でストレスを感じる面倒で面白い生き物。などとぼんやりとは思っていたが、丁寧に言語化されていて感動した。

    別の物語について書かれた本の中で、物語は「平和状態→事件→解決による平和状況への回帰」と書かれていて「安心だが退屈→何かに夢中になる、危機を感じる興奮状態→慣れて安心だが退屈」という流れと通じるものがある。
    人が物語を読む理由の一つは、退屈から脱する疑似体験をしている(よくある言葉だけど)のだと納得した。

    「退屈を感じること」の原因の中に「楽しむことの訓練不足」があることにも共感する。これが丁度本を見つけた時に「ブルックリン・フォリーズ」で感じたこととも繋がる。誰かに伝えるために話を盛るわけでもなく、ただ生活に楽しみを見つけようとする行為は続けていきたい。

    暇と退屈について、過去の哲学者達の考えを参考にしながら退屈の正体と対処についての姿勢を教えてくれる本だった。また自身の身近な悩みについて哲学者達が、語っている、そして少し間違えている部分を知れて身近な存在に感じた良い本でした。
    「退屈」を感じ何か心を動かすものを待つだけではなく、狙いを定め行動しないと常に「今」という時間を逃し続けてしまうのでは無いか?とも思いました。

    (メモ:途中何度か図示して整理しながら読み進めた。)

    • ikezawaさん
      「暇と退屈の倫理学」を読み結論の一部について考えたことをメモする。
      退屈に対処するには、楽しむ為の感覚を高める訓練が必要であり没頭することが...
      「暇と退屈の倫理学」を読み結論の一部について考えたことをメモする。
      退屈に対処するには、楽しむ為の感覚を高める訓練が必要であり没頭することが対処となる→「没頭できる何か」を待ち構える状態を意識した時、無理やりこじつけて楽しみを見つける「何にでも興味を持つ(持たなくてはならない)強迫観念」に取り憑かれた状態にならないか?バランスを取らなくてはいけないような気がしている。

      ①消費と浪費
      消費:限界が無い、他者が関与
        食べたことを誰かに伝える満足
        例:承認欲求
      浪費:限界がある、自分のこと
        物理的に食べれる限界の満足
        例:食欲

      ②夢中に見える人
      夢中に見えるはずなのに惹かれないのは何故か?→拘りに縛られて窮屈に見える。本人は溺れているようで泳いでいるだけ。
      惹かれる人は何故か?
      →やりたいことを悩みながらも自由に動いているように"見える"(そういう部分だけ見せられている)人、見えているだけで自由かは別。

      ③行動へ
      全てのことに興味を持ち「楽しむ」ように意識を向ける訓練をした場合に弊害があるのでは無いか?何かを汲み取ろうとする姿勢が、深読みしすぎたり誤った認識をしてしまわないか?

      ●絶えず考え続ける状態(関心を持ち続け、面白さを見出せるか?無理矢理ではなくちゃんと無理そうならスルーする判断も)を意識する。

      ●そして"好き"を認識する。
      (他人から無意味と思われるようなことで、誰かに強要さていないこと、刷り込まれていないと思えて自発的にしている行為、見ているモノ、食べているモノを見つめ直す→本編中の"贅沢"に該当するのでは?)→没頭の足がかりとなるはず。

      追記:本の感想を残すことも誰にも求められているモノでは無い。読んだモノを自分のものとし、忘れてもいいようにする矛盾しているように思える行為。

      ④現在を逃す感覚について
      実家で親と生活をしていた時、現在子供と休日に遊んでいる時に、退屈ではないが"自分の創作の時間を取りたい"や本が読みたい等、やりたいことを気にして目の前の事に気が向いていなかったりテキトーになっていたりすることがあった。しかし、心のどこかでこの瞬間のように誰かと時間を共有出来るのは今だけなので優先しなくてはいけないと思っており、結果的に二兎を追い両方をすっきりしないまま逃していた。
      "今に向き合うこと"を意識して過ごすように心がける。
      (SNSを見過ぎていて、目の前の宿題から目を逸らす行為も同様)
      2022/04/07
  • 様々な視点から、暇と退屈について論じている。
    身近にある退屈は自由な状態であるから訪れるという、よくよく考えれば、私でも気づけることがある。

    例題として挙げられている、電車を待つ人の話は、うんざりするほど空いている時間に対してどう行動するか著者と共に読み解くものだ。読み進めていくと、違う視点に変化し、新たに考えていく。そして前回までに得た知識を洗い出し、違いを解く。
    著者の説得力が凄まじく、力強い。時にハイデッガーに対して違和感を感じるや否や、自身の考えをこれでもかと展開し、読者を唸らせる文章で違和感の正体を突き止めていく。そこで読者を置き去りにすることはなく、非常にわかりやすい説明をしてくれる。
    暇と退屈という、日常にありふれたことをここまで惹きつけるものに昇華させた著者の努力に頭が下がる。

    なぜ人は退屈するのか、退屈の発生根拠や存在理由そのものを記した「暇と退屈の存在論」を、楽しみに待っています。

  • 青山ブックセンターで文庫本で売上一位になってたので目について、「暇と退屈の倫理学」ていうタイトルにもかなり興味を惹かれて、帯に書いてあるオードリーの若林のコメントで買うしかないと思い
    購入に至りました。

    哲学なんて読む機会がほとんどないので
    どんなもんかとちょっと不安でしたが
    かなり読みやすく、わかりやすい考察でサクサク読み進める事ができました。

    遊動生活から定住生活の考察

    「ファイトクラブ」を例にした考察

    環世界の考察
    などとても興味深い考察で「暇と退屈の」根源や
    歴史的な考察、生物学的だったり様々な視点で
    語られるので、より深く「暇や退屈」について
    理解できた(つもり…)になれた気がします!

    この本の結論として書かれてますが、
    「人間が人間らしく生きることは退屈と切り離せない。」と言っている通り
    人間には切っても切り離せない「退屈」
    まさに退屈しのぎに読んでみるのもいいかもしれません!

    • sinsekaiさん
      いやーなかなかの拗らせ環世界を生きてますな…

      気圧とかではなくて、一日中ゴロゴロしてると
      なんか頭が痛くなったり、腰が痛くなったりと
      調子...
      いやーなかなかの拗らせ環世界を生きてますな…

      気圧とかではなくて、一日中ゴロゴロしてると
      なんか頭が痛くなったり、腰が痛くなったりと
      調子悪くなるので、なるべく出掛けてブラブラしながら孤独のグルメをしてます!
      2022/04/15
    • sinsekaiさん
      ちなみにディーン&デルーカのフレンチアップルパイを温めてもらって食べるのがオススメです!

      チェリーパイ今度食べてみよっかな
      ちなみにディーン&デルーカのフレンチアップルパイを温めてもらって食べるのがオススメです!

      チェリーパイ今度食べてみよっかな
      2022/04/15
    • naonaonao16gさん
      拗らせ…笑

      あーなるほど、うちのばあちゃんも昼寝したりゴロゴロ横になると頭痛くなるとか言ってたような…
      ベッドが目に入るとゴロゴロしてしま...
      拗らせ…笑

      あーなるほど、うちのばあちゃんも昼寝したりゴロゴロ横になると頭痛くなるとか言ってたような…
      ベッドが目に入るとゴロゴロしてしまう面倒くさがり人間には羨ましい限りです
      孤独のグルメいいなぁ…

      あれ?前にチェリーパイおすすめされたような?フレンチアップルパイの間違いだったのかも!
      2022/04/15
  • 知識人が暇と退屈について何百年も前から議論を続けていたことに驚き。
    革命時代や大戦前後でも、暇な人は暇だったんだな。
    人間がこんな贅沢な悩みに頭を抱えるのも平和ボケした現代くらいまでだろうと思っていたが、案外 絶滅寸前までやっているかもな。
    すべての人が暇を語れるほど余裕のある暮らしをしているわけではないという罪悪感が、読書中なかなか消えなかった。

  • 何年かぶりの再読

    初読の時は、
    「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり映画館に行ったりするのか」の問いに答えたドゥルーズの言葉「私はとりさらわれる瞬間を待ち構えているのだ」にやられた。とにかくそれに尽きる。
    その後何度もこの言葉を思い出した。ドゥルーズ大好きだし。私もとりさらわれるために書店や映画館や美術館に足を運んでいるのだなと何度思ったことか。

    で、今回の再読では、「昼間は漁師でも夕には評論家になる」というマルクスの言葉、これこそ、人間の持つ環世界移動能力だよねということを再認識。いや、「再」じゃないから発見?
    そこから発展して、平野啓一郎の「分人主義」の考え方もやはり同じ側面を表現しているなと思ったり。
    「ワークライフバランス」が大事っていうけど、マルクスがとっくに言ってたんだなあ。マルクスって、今のロシアや中国を見たらどう思うんだろうか。

    さらに、「決断することは気分は快適になるが、思考停止になる」というハイデッガー批判も、初読の時にはスルーしたところ。「決断」を重視したハイデッガーだからこそ、後にナチズムへの決断を生んだのだなということもよーくわかった。エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」で述べたように「ゆるぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることによってひとはその力と栄光にあやかろうとする」のであるなら、ハイデッガーはこの決断によってナチスドイツに傾倒していったのだ。

    さらに、「人間であることを楽しむ」ために「動物になること」がどれほど重要かも。
    ハンナ・アーレントも言っている。「全体主義の下では、芸術自体を目的として楽しむことは許されない」と。「動物になれる」こと、夢中になれることは幸せだ。

    再読はいいよ、と先達が教えてくださっているにも関わらず、新しい本が読みたい気持ちが強いのでなかなかチャンスが無いが、やはり再読こそが読書なのかもしれない。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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