消された信仰: 「最後のかくれキリシタン」--長崎・生月島の人々

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  • 小学館
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  • Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784093886215

作品紹介・あらすじ

新・世界遺産から黙殺された島があった!

250年以上も続いたキリスト教弾圧のなかで信仰を守り続けた「かくれキリシタン」たち。その歴史に光を当てようとしたのが日本で22番目の世界遺産となる「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」だ。

ところが、PRのために長崎県が作ったパンフレットからは、「最後のかくれキリシタンが暮らす島」の存在がこっそり消されていた。

その島の名は「生月島(いきつきしま)」。

今も島に残る信仰の姿は、独特だ。音だけを頼りに伝承されてきた「オラショ」という祈り、西洋画と全く違う筆致の「ちょんまげ姿のヨハネ」の聖画……取材を進める中で、著者はこの信仰がカトリックの主流派からタブー視されてきたことを知る。一体、なぜ――。

第24回小学館ノンフィクション大賞受賞作。選考委員激賞!

◎高野秀行(ノンフィクション作家)
「世界遺産の意義とは? キリスト教とは何か? 奥深い問いを投げかける作品だ」

◎三浦しをん(作家)
「いまを生きる『かくれキリシタン』たちの生の声が胸を打つ。綿密な取材に感動した」

◎古市憲寿(社会学者)
「『ちょんまげ姿のヨハネ』をはじめ、謎めいた習俗を紐解く過程が抜群に面白い!」

【編集担当からのおすすめ情報】
「かくれキリシタン」を描いた作品では、作家・遠藤周作氏の小説『沈黙』があまりに有名です。

“弱き転び者”に寄り添う作品を世に送り出した遠藤氏は、生月島で信仰を守り続ける人たちをどう見ていたのか。この点についても、著者は意外な事実を明らかにしていきます。

感想・レビュー・書評

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  • ネットで見かけて。

    長らく隠れキリシタンとして暮らしていた長崎の人々。
    明治時代になって、カトリックが再度渡来し「信徒発見」された後、
    カトリックに立ち戻った人々と、そのままの信仰を続けた人々。
    世界遺産として登録されるため「物証」が必要だという「ご都合」と本当の姿の矛盾。

    正直、「世界遺産」にはうさん臭さを感じているのでそこはどうでも良いのだが、
    信仰とはなにか、宗教とはなにかを考えさせられた。

    隠れキリシタンの変容してしまった、またイエス・キリストによる救済が理解されていない信仰は、
    キリスト教とはいえないと言われている。
    それであれば、禁教令により殉教し、長年独自のオラショを唱え、
    ちょんまげ姿の洗礼者ヨハネを拝み、組を組織し信仰を守った人たちが信じていたのは何だったのか。

    長崎純心大学の宮崎賢太郎教授は、
    そもそも日本のキリスト教はその伝来時から「一神教」としての教義が理解されておらず、
    信徒たちは「キリスト教徒」ではなかったと主張している。
    日本人が信徒となったのは、宣教師が持っているメダイのような〈呪物〉がほしかったからであり、
    もともと〈よくわからない秘密めいたもの〉有り難がる傾向のある日本人には、遠い国からやってきた神様のものだから、より効き目があると信じた。
    そして、その効き目のある、恐ろしい神様を捨てたらに祟られると思い、殉教し、また隠れキリシタンとなったと説明していた。

    筆者はその主張に納得してないようだったが、
    外から来たものを有り難がり、何かの基準でそれを自分のものとしてしまうという傾向は日本人の基本的特徴だと常々考えているし、
    また、〈よくわからない秘密めいたもの〉、奇跡だったり、聖域だったり、呪物だったりを信じることが信仰だと考えているので、
    祟りを恐れたかどうかについては異論があるが、基本的には賛成できる主張だった。

    信仰とは、理屈ではないことを信じること、宗教とは、理屈ではないことを主張する組織であること。
    今は失われつつある、隠れキリシタンとしての信仰は、
    例えローマ・カトリック教会という宗教団体に認められなくても「信仰」であることに間違いはない。

    生月島の地区のまとめ役の人が、
    「自分たちの続けてきた信仰が伝統のキリシタン。
    明治に来たのは新しい宗教で、”ローマ教会に戻る”という感覚はなかったと思います」と述べているが(164頁)、まさにその通りだと思う。
    それこそが信仰だ。
    誰が何と言おうと、自分の信じているものを信じる。
    そして、組という組織があって、行事という儀式があって、御前様を信じている隠れキリシタンは、
    極東の島で派生だったかもしれないが、生まれた宗教なのだ。

    明治になって「信徒発見」したローマ教会がどれほど感動したかには、胸が熱くなる。
    だが、悪いが、いまだ日本は「暗黒の島」であり続けている。
    もしかしたら、生月島の人たちが信じている中江ノ島の聖水、
    昭和になってカトリックと隠れキリシタンと拝み比べをした聖水を、
    「奇跡の泉」として認めていたなら、
    暗黒にも薄日が差していたかもしれない。

  • 高野秀行さんが選考委員をつとめる(三浦しをんさんも)小学館ノンフィクション大賞受賞作。期待通り非常におもしろかった。「隠れキリシタン」とか「オラショ」とか、なんとなく知っているつもりでいたけれど、こういうことだったとは。丁寧な取材を積み重ねたうえで、とてもわかりやすく書かれていて、これぞノンフィクション!という一冊。

    キリシタン弾圧については、遠藤周作「沈黙」によるイメージが大きい。あの凄惨な弾圧を耐えて生きのびた信者たちが、再び日本にやって来たカトリックの司祭らによって「発見」された逸話はよく知られている。

    その影に、カトリックとの合流を拒んで、独自の信仰を守り通してきた人たちがいたとは知らなかった。過疎地の人口減少もあってその信者はどんどん減り、公的にはほとんどなかったことにされているという。これには世界遺産選定にむけた動きも絡んでいて、なかなか生臭い感じもする。

    しかしまあ、この信者の方たち、隠し納戸にマリア像を据えつつ、仏壇をおがみ、盆には先祖を拝み、地域のお宮さんの祭にも参加するそうだ。「すでにキリスト教とは関係ない」と断ずる方がいるのも、まあ当然だろう。でも、これっていわゆるフツーの日本人の姿でもある。

    一体、信仰ってなんなのだろう。なにかしら人を超越したものの存在を感じて、それに対してこうべを垂れる、素朴な気持ちと、ある特定の神や教義を信じることの間には、どれくらいの隔たりがあるのだろうか。制度宗教にはどうもなじめない気持ちがあるが、あらためてそうした疑問でいっぱいになる。

    筆者がルポするのは生月島という小さな島だが、ここで行われてきた独自の行事は、何かの宗教によるものと言うより、小さなコミュニティでの「しきたり」に近いような気がした。先祖の霊を弔い、たたりを恐れ、これまでずっとそうしてきたからという理由で、煩雑でお金もかかるさまざまな行事を守ってきたのだろう。そういう雰囲気は、田舎生まれで今も田舎に住む身にはよーくわかる。現実的にはもう限界なんだろうし、わたしはそれを一概に悪いことだとは思わない。ただ、なかったことにしてはいけないのは確かだ。そんなことを思いながら読んだ。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/719518

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/719518

  • 沈黙を読もう読もうと思っていて、その前に少し知識をつけておこうかな〜と読んだ一冊
    隠れキリシタンに興味があり今年は内容を調べたいと思っていたので私の中で、関連本第一弾

    沈黙を読んでから読めばよかったと後悔
    内容は丁寧に、不明なところは不明なまま
    とても読みやすかった

    世界遺産というカテゴリに入ることで観光地としては利益を生む、歴史にも名が残りやすいというメリットもあると思う
    ただ、やはり観光地化することでそこで大切に営まれていたモノは翳ってしまうのかなと改めて思った
    どちらがいいというのは観光客でしかない私が決めることではない

    ただ、ページは忘れてしまったが
    祈りの場所をなくしてしまうのは保存と言えるのだろうか
    世界遺産は建造物のリストだから祈りなどはまた別の無形文化遺産?に登録していくのだろうけど
    何かに登録しなければ価値を見出せないのは私を含めとても悲しいことだなと思う

    最後あたりに書いてあった大浦天主堂が観光地化し、近場に祈り用の天主堂が作られたの記述を見て
    安藤忠雄氏が設計した大阪の光の教会を思い出した

    人々の祈りの場を、祈りをしない一般人が押しかけることで本来の意味を失ってしまうのはどうなのかな

    隠れキリシタンが信仰しているものはきっと信仰を続けてきた人たちにしかわからない

    このまま消えていってしまうのは悲しいが、我々部外者が残して欲しいからといって信仰を強制するのも違う気がする
    国が残したいからというのもまた違う

    消えていくことも美しい
    悲しいがそういう信仰があった、弾圧されていたが神仏習合しその当時の生活スタイルにあった形で残っていたという事実がどこかに残っていれば嬉しいなと思う

    いつか生月島に行きたい

  • 東2法経図・6F開架:198.2A/H71k//K

  • かった長崎県生月島。生月島のかくれキリシタン信仰の現状を描きつつ、やがでかくれキリシタンとカトリックとの微妙な関係へと焦点が移っていく。最初は単にかくれキリシタンに対する興味本位のルポルタージュかと思ったのだが、このかくれキリシタンvsカトリックの議論に入ると俄然面白くなる。
    かくれキリシタンの信仰を、本来のキリスト教の教義からの変容とみるのか、それとも当時の信仰が保存されてきたとみるのかという議論は非常に興味深い。かくれキリシタンの書籍というと宮崎健太郎がわりと有名だが、それもやはりカトリック側からの発想に寄っており、批判も多いとは知らなかった。あるいは、遠藤周作のかくれキリシタンに対する極めて冷淡な態度というのも意外で驚いた。根っこが同じだとはいえ、あるいはだからこそ、双方が相手に対して抱く忌避意識は根強いのかもしれない。

  • ・消されたというより、埋もれてしまった信仰かな?

  • 現在も続く生月島の「かくれキリシタン」の信仰についてのノンフィクション。「正しい」信仰とは何かについて考えさせられる。この本の背景にある世界遺産登録の問題は、本来は多様なはずの歴史のなかからひとつの物語だけをクローズアップすることであり、本題の生月島の信仰と対照関係にある。長崎が抱えている問題を描いている。

  • キリスト教は江戸時代から禁教になり、キリストを描いた銅版を足で踏まされたりして信者は迫害された。私のかくれキリシタンに関する知識はその程度。その実態は殆ど知らなかったし、現代に至るまで脈々と独自の信仰が続いていた、なんてことはこの本を読むまで知らなかった。そもそも、この本の表紙にある絵がキリスト教の聖画だなんて驚きだ。ちょんまげだし、なんの冗談なのかと思ってしまう。しかし、珍妙に見えてもそこには代々受け継がれてきた宗教として真摯な信仰があることはこの本を読んでよくわかった。

    舶来のキリスト教が生月島の生活、文化や風習と渾然一体となりつつ受け継がれてゆく様は、神も仏もごっちゃにして習合する日本ならではかもしれない。また、集落によって信仰の儀式に違いがあるのを読んで、ガラパゴス島にたどり着いた鳥が、島の環境に適応して様々な種に進化したことが頭に浮かんだ。かくれキリシタンはキリスト教のガラパゴス的適応の結果とも言えそうだ。だけど生月島に適応した結果、宣教師が去った後に密かに受け継がれ続けた祈りの言葉は、代を重ねる中で変容してまるで呪文のようになり、信者達はその祈りにある教義を理解していなかった。信仰とは何か?という問いがここにある気がする。教義を理解することが信仰なのか?受け継ぎ、祈り続けることが信仰なのか?

    著者はかくれキリシタンの信仰がカトリックとして受け継いだものと信じたいようだけど、それを盲信してはおらず、「もはや土着の民族宗教である」と考える宮崎教授と対話もしている。私は宮崎教授の意見に近いけど、受け継がれるものを重視する著者の考え方にも共感する。著者は取材を進めるうち、かくれキリシタンに自分がのめり込んでゆく様子を描いている。信心深いとはいえないカトリックである著者の心の奥底が触発されたのかもしれない。調べずにはいられない、書かずにいられない、書き手の熱を随所に感じる。この本の魅力の一つはそこにあると思う。

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