- Amazon.co.jp ・本 (366ページ)
- / ISBN・EAN: 9784093860321
作品紹介・あらすじ
自らもヴァイオリニストをめざしながら、結婚により挫折…娘みどりにその夢を託し渡米。華やかな成功の陰でもなお、数々の試練を乗り越え二人の世界的ヴァイオリニストを育んだ母五嶋節。妥協を許さず自分に正直に生きたひとりの女性の記録である。
感想・レビュー・書評
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第1章は節の青春時代、第8章は龍を取り上げるが、残りの2〜7章は節とみどりの二人三脚の物語。世界的バイオリニストみどりの誕生の背景には、母親節の才能と極端なまでの教育熱があったことがわかる。物心つく前からバイオリンを習い始め、バイオリン以外のことは母親が面倒みてきたという生い立ちや両親の離婚に、みどりが苦悩する姿も描かれている。
・節は5歳の時に母親からバイオリンを渡された。戦後間もなくの時代で、音楽ならどんな社会になっても生きていけるだろうとの思いだった。高校2年の学生コンクール大阪大会高校の部で3位入賞となり、大学では3年のときにコンサートマスターになった。オーケストラの指導者と衝突したこともあって、家出をして東京交響楽団のオーディションを受けたが、家族に見つけられてバイオリンを取り上げられた。大阪に帰るとお見合いをさせられ、結婚して大学も退学した。
・節はみどりをバイオリニストにするつもりは全くなかったが、みどりが生まれてからクラシック音楽はずっと聴かせた。節はみどりが3歳の時にピアノを教え始めたが、3か月でやめ、みどりは母親だけが持っていることを「ずるい」と言ってバイオリンを欲しがった。1975年の春に枚方に転居したのを機に、みどりはバイオリンを習い始めた。
・みどりは弱視のため、外で遊ぶこともテレビを見ることもなく、バイオリンがおもちゃ代わりだった。
・節はみどりをバイオリンに集中させるために、みどりが小学生の時も食事を口に入れてやり、身のまわりのこともすべてした。みどりは15歳になるまで、一切荷物を持つことはなかった。
・みどりは、節の恩師である東儀祐二主宰の発表会「いずみ会」で、4歳の時にダンクラのエア・ヴァリエ第6番、5歳のときにベリオのバイオリン協奏曲第9番第三楽章、6歳のときにベリオのファンタジー・バレエ、小学1年の7歳のときにはラロのバイオリン協奏曲第2番「スペイン交響曲」第5楽章、同じ年に日本弦楽指導者協会関西支部でパガニーニのカプリース第9番、9歳の時に銀座のヤマハ楽器でパガニーニのバイオリン協奏曲第1番第1楽章、小学5年の時にカプリース第17番、翌年の1982年4月に「大阪フィル推薦明日のホープたち」でパガニーニのバイオリン協奏曲第1番を全楽章をひいた。
・節は、みどりの腕前が上がるにつれて日本の音楽界の窮屈さを感じ始め、鷲見三郎や東儀祐二も海外留学を勧めた。みどりの演奏を認めたドロシー・ディレイに節も「ついていく」と思い、1982年2月に節とみどりは片道切符で日本を離れた。みどりはジュリアード音楽院のプレ・カレッジに入学しディレイに師事した。ディレイは節を信頼して、みどりには助手を付けずに節に教えさせた。
・NYに暮らして3か月たった5月、ディレイの紹介でズービン・メータと会うことになり、NYフィルとのリハーサルの冒頭でパガニーニのバイオリン協奏曲第1番とバルトークのバイオリン協奏曲第2番の冒頭部分を演奏した。みどりの演奏に驚いたメータは、年末年始のニューイヤーズコンサートへの出演を要請し、コンサート終了後のサプライズゲストとしてパガニーニのバイオリン協奏曲第1番第1楽章を演奏した。この時、節はNYに来ていた夫と破局となり、みどりの心にも影響を与えるようになる。
・1985年8月、広島の被爆40周年を記念したコンサートで、みどりはモーツァルトのバイオリン協奏曲第5番をひいた。このコンサートで指揮をしたバーンスタインは、翌年のタングルウッド音楽祭でみどりを起用し、伝説を生み、NYTの一面にも取り上げられることとなった。
・1987年夏、音楽院校長秘書とのささいなトラブルが原因で音楽院をやめることになり、ディレイとも別れることになった。その頃、みどりは神経性の円形脱毛症になった。
・後に節と再婚することになる金城摩承が迷い込んできた猫を与えると、みどりはえさ代のために空き缶拾いを始めた。節も倹約を教えるにはいい機会ととらえた。
・1994年、みどりは22歳のときに精神的な不調により77日間入院した。名目は拒食症だった。美空ひばりとひばりの母と同じように、節とみどりも、その密着ぶりから一卵性母娘と言われた。この時、病院側はみどりに確認してバイオリンを弾く特別室や音楽のカセットテープを用意しようとしたが、節は「そんなはずはない」と否定した。退院後、みどりは節に「ママは、ちっちゃい時から3時間、4時間練習しなさいと言って、大きくなって『ほかの仕事を選んでもいい』と言っても、職業を変えるなんて考えられない。残酷な言い方だ。もう変えられない人間にしちゃったのに」とよく言った。精神療法家との会話によって、みどりは自分を客観的にみられるようになり、「こわいこわいと思っていたけれども、それは不合理だとわかってきた」
・1991年にボランティア団体のJACCIに依頼されてチャリティー演奏会をしたことや、みどりのタングルウッド音楽祭での逸話を紹介した教科書で学んだアメリカの小学生から手紙が送られてくるようになったのを機に、子どもたちの前で引きたいと思い始めたことが、1992年にみどり教育財団の設立につながっていった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
♀五島 みどり 19711025 大阪 /1986(14)タングルウッドの奇跡」1987 ジュリアード音楽院中退
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4093860327
── 奥田 昭則《母と神童 ~ 五嶋節物語 199810‥-200109‥ 小学館》
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五嶋みどりを育てた五嶋節物語。
アメリカへ行くまでの日本でのできごと、アメリカでみどりが認められるまでの経緯や不安などが書かれている。グリーンカードを得るまでは不安の毎日だったと書かれているところは特に印象的だった。「アメリカでは教育課程の高い人ほどサイカイアトリスト(医師免許を持つ精神療法家)のところへ行くのがごく一般的に行われる」という節は驚いた。その理由は「家族や会社などの集団主義が大勢の日本とは違い、個人主義が主流のアメリカでは個人の自由が尊重される反面、個人が精神的危機にみまわれると孤立しがちだ。サイカイアトリストは心が傷付いた個人に寄り添い、危機の意味を理解できるように手助けするのである。」とのこと。また、みどり教育財団に関して「「慈善」と「偽善」は紙一重の差」だという節の心中は、こちらも考えさせられた。五嶋家に関する著書は、貴重であった。教育とは何かその根底を考えさせられた。 -
昔読んだ本。