ポバティー・サファリ イギリス最下層の怒り (新書企画室単行本)

  • 集英社
3.67
  • (9)
  • (7)
  • (10)
  • (3)
  • (1)
本棚登録 : 242
感想 : 11
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087890105

作品紹介・あらすじ

J・K・ローリング(作家)、ケン・ローチ(映画監督)ほかイギリスで絶賛の嵐。
ついに日本語訳、登場!

「オーウェルが21世紀の英国に生きていたらこんな本を書いたはずだ」――ブレイディみかこ

なぜイギリスは混乱続きなのか?
最貧困地区で育った著者の生い立ちから解き明かす。
――それは間もなく訪れる日本の姿でもある。

【ブレイディみかこ氏による序文より】
この作品は2018年のオーウェル賞を受賞している。ダレン自身の回顧録(=ポバティー・サファリ)と
新ラディカリズム論を融合させた本作は、ジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』の現代版と評された。
選考委員長のアンドリュー・アドニスは本作についてこうコメントしている。
「これは緊縮財政を嘆き悲しむだけの作品ではなく、個人の力への賛歌だ。
社会全体に対する批評でもあり、個人の自由とエンパワメントを呼びかける声でもある」
これほど端的に本作の魅力を言い当てたことばもないだろう。
右と左だの、上と下だのといった大きなことばを用いた政治・社会批評(わたしもそんなことを言ったことがあるひとりだ)が見失ってきた
「人間」という基本のコンポーネントを本作は力強くルネッサンスさせているからだ。
その意味では本作は、「ポリティカル・ライティングを芸術に」というオーウェルの野望を継承する文学的政治批評と言ってもいい。
だからこそ、この本を読む者は、頭だけでなく心まで揺さぶられてしまうのだ。
そしてこの「個人的な経験に基づいたソーシャル・リアリズム」というオーウェルのテーマの王道を行く本の全体にこそ、
日本の人々がいま英国についてもっとも知りたいことが書かれているはずである。

著者プロフィール
ダレン・マクガーヴェイ
作家、コラムニスト、ラッパーであり、社会問題へのコメンテーターとして定期的にメディアにも出演。
『ポバティー・サファリ』は初の著書であり、2017年に刊行されるとたちまちサンデー・タイムズ紙ベストセラーリストのトップ10入りを果たした。
訳者プロフィール
山田文
翻訳家。イギリスの大学・大学院で西洋社会政治思想を学んだのち、書籍翻訳に携わる。
訳書に『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(共訳、光文社)など。
序文執筆者ブロフィール
ブレイディみかこ
ライター。1965年福岡市生まれ。96年から英国ブライトン在住。
著書に『ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート』(岩波書店)、『子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)ほか多数。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ふむ

  • 価値観を根底から揺さぶられる名著。
    貧困層や虐待を受けた可哀想な人を表面的に
    支援しようとすることことが、根本的な問題を
    覆い隠すこと、
    対岸の火事ではなく、自身も不適切な社会構造の
    いちぶである以上、変革から逃れられないことを
    鋭く指摘している。

    さらにヘイト、分断社会に立ち向かう道も示す。
    今の時代、
    多くの人に読んで欲しい本。

  • SDGs|目標1 貧困をなくそう|

    【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/765091

  • ああ、わたしも、ポバティー・サファリをしている者のうちのひとりだ。ちょうどサファリパークで動物を眺めるように、現地の住民を安全な距離からしばらく眺め、やがて窓を閉じ、そのことは徐々に忘れる。そんな貧困問題の物見遊山を、著者は「ポバティー・サファリ」と名付けた。
    著者はスコットランドの労働者階級出身。破滅寸前の家庭で育ち、常に社会への不満を抱え、自身もアルコールやドラッグが手放せない生活を送っていたという。
    本書では労働者階級の視点で、貧困問題、格差社会、暴力、ドラッグ、ネグレクトについて語られる。読んでいるこちらが辛くなるような個人的な体験だ。この本の内容は、彼にしか書けないと同時に、その階級の総意を代弁してもいる。
    「労働者階級出身」としての自分の話には耳を傾けてくれるが、ひとたび自分の意見を言うと多くの人が耳をふさぐ、と彼は言う。それゆえ本書では、貧しいコミュニティで育った彼の回想録という体裁をとりながらも、彼が本当に言いたかったこと、彼の本音も散りばめられている。特に、最後の二章は心に響いた。最後の二章に至るまでの300ページは長い前置きだと言っても過言ではないだろう。
    序文はブレイディみかこで、『ぼくはホワイトでイエローでちょっとブルー』などの彼女が書くものが好きな人は、間違いなく好きだと思う。
    本書を読んで、暴力的な環境やアルコール依存症の親のもとで育ち、友だちと思っている人からドラッグをすすめられ、悪いのは全部社会だという感覚で育つということがどういうことなのか、本当に理解できたとは言えない。けれども、そういった環境で育ったひとの思考がどのように形成され社会を憎むに至るのかはわかった。人々が貧困から逃れられないのは努力不足ではなく、わたしが想像もつかなかった原因-一人でゆっくり考える時間も場所もないとか、ドラッグがないと物事をクリアに考えられないとか-であり、それらによって個人の成長を阻まれているという、そんな基本的な事実さえ知らなかったことに気付けた。

    p2
    「ポバティー・サファリ」とは、サファリで野生動物を見て回るように貧困者を安全な距離からしばらく眺めたあと、やがて窓を閉じて忘れてしまうことだ。しかし、貧困はジープの窓から眺めておけばだいたいわかるというような単純な問題ではない。

    p20
    みんな立派な思いから関心を向けてはいたものの、ほとんどのひとはつかの間の物見遊山をして通り過ぎていっただけだ。ある種のサファリのように、現地の住民を安全な距離からしばらく眺めたあと、やがて窓を閉じてそのことは徐々に忘れていった。

    p42
    人が刑務所に行きつく理由はさまざまだが、受刑者のほとんどに共通しているのは感情的、心理的、身体的、性的な虐待を何らかのかたちで経験していることだ。その経験は、たいてい罪を犯す前に起こっている。保護者による虐待やネグレクトが大きな役割を果たして、犯罪行為のもとになる要因がつくり出されているらしい。自尊心の低さ、成績の悪さ、薬物乱用、社会的排除といった要因である。

    p45
    暴力や暴力の脅威が絶えない家で育つと、小さいときからそれをうまく乗り越える方法を身につける。暴力の危険を察知してそれを防ぐために、表情やボディランゲージを読みとったり、声の調子を感じとったりするのがとてもうまくなる。感情操作の達人になる。虐待する側が望んでいることを直観的に察してそれに合わせて振る舞うことで、相手の怒りを食い止められるようになるのだ。試行錯誤を通じてつくり上げたこの生き残り戦術が、やがて本能になる。多くの場合、これは性格に完全に組み込まれて、暴力の脅威がなくなったあともずっと残る。ただ、この戦術はしばらくは機能しても、いずれうまくいかなくなる。それに、恐怖の対象にこちらが合わせることで、警戒心のもとになる恐怖を長く続かせることになってしまう。板ばさみ状態だ。

    p69
    沈黙しておそらく顔を伏せる。これが潜在的脅威に対して服従を示す方法だ。やっかいごとは求めておらず、何ごともなく通り過ぎたいという合図なのだ。ぼくも地元でいつも同じ行動をとって対立を回避していた。この合図を送るのは常にギャンブルだ。こちらに喧嘩する気がないことがはっきりすると、相手がさらに攻撃的になることもよくあるからだ。いまはいつもと立場が逆転して、この子たちがぼくのことを危険なやつだと思っているらしい。

    p83
    下層階級は政治に無関心だと言われるが、その理由が検討されることはほとんどない。仮にあっても、貧しい人が無関心で偏狭なだけだと片づけられる。多くのコミュニティで政治への無関心が生まれるのは、ぼくのようにほかと自分たちを比べるからなのかもしれない。次々と流れてくるニュースからは、どうやら適用されるルールが人によって違うらしいことがわかる。生活に困った働く女性が子育ての負担を減らせるようにと設けられた給付金、それを申請するためにレイプの証拠を女性が提出するよう法律で義務づけられたまさにその日に、全国ニュースでもっぱら取り上げられていたのは、フロリダに娘を連れていって六〇ポンドの罰金を科され、それが不当だと主張する一家のことだった。どちらもそれぞれの状況で同じように不満を覚える権利はある。けれども当然、片方のほうがもう片方よりも世論の注目を集めるのに値するものではないか。
    これもまた、ほとんど語られたり認められたりすることがない欠陥だ。下層階級と上流階級、それぞれの経験に見られる欠陥。その経験の表現のされ方、報じられ方、論じられ方に見られる欠陥。この欠陥はどんどん大きくなっているようで、多くの人が排除されている、孤立している、間違って理解されていると感じる文化が生まれ、その人たちは社会に敵対したり無関心になったりする。そしてこの文化の土台になっているのが、荒廃した社会状態ともとで暮らす人たちだ。金銭的に苦しい状態で、ストレスに満ちた暴力的なコミュニティに暮らしている人たちだ。彼らはテレビをつけて、ぼくがプラット一家に感じたのと同じような感想を抱く。世の中の仕組みは自分に不利にできていて、それに抵抗したり異議を申し立てたりしても、すべて無駄だと思い込む。自分の生活に影響を与える決定はどこか別のところにいる連中が下していて、そいつらはわざと物事を隠そうとしていると信じている。自分の暮らしを決める話し合いに参加できていないと思っている。多くのコミュニティにこの思い込みが深く根づいているが、それにはもっともな理由がある。そもそもそれは、思い込みではなく事実なのだ。

    p96
    うちではたいてい、薄氷を履むような思いで母の機嫌をうかがいながら過ごしていた。

    p100
    貧しいコミュニティには、状況は変わらないという思い込みや、権力や権威を持つ人間は自分のことしか考えていなくて信頼できないという考えが浸透している。これは自滅的なものの見方のように思われるし、いろいろな意味で実際その通りだ。ただ、典型的な恵まれないコミュニティで数週間過ごしたら、何が恵まれていないのかすぐにわかる。問題はすぐ目にとまる。むずかしいのは、それをどうにかしようとしたときに、何枚もの壁にぶち当たることだ。こうしたコミュニティでは、政治参加の意欲が人々から奪われてしまっている。貧困は政治的無関心の副産物だと思われることが多く、貧しい人が貧しいままなのは、自分たちの暮らしを積極的にどうにかしようとしないからだと考えられている。けれども、実際には、その反対のことが多い。地域の民主主義が自分たちを念頭に設計されていないとわかると、コミュニティに参加して積極的に活動しようという熱意がたちまち消えてなくなるのだ。地域の民主主義は、もっぱら外部の人間が住民の頭ごしにコミュニティを支配してそれを維持するように設計されている。

    p104
    人間の思い込みは、焦点をはっきりさせて世界を見るためのレンズのようなものだ。人間は、思い込みをもとに結論を導き出し、この結論がこの上なく重要な意味を持つ。それがものを考えるときの基礎になるし、さらには考えていることはその後の行動にもつながるからだ。思い込みは、それが正しくても間違っていても、政治参加の領域にまで影響を及ぼすことが多い。政治参加は、下層階級と中流階級がいまでも意味ある接点を持つ数少ない領域のひとつだ。
    問題は、それぞれの側で固定観念と誇張か何世代にもわたって強化されてきて、それが間違った思い込みの土台になっていることにある。このために、政治の領域で対話をするのが極端にむずかしくなっている。さらに悪いことに、対話の試みがうまくいかずに対立が起こると、そこからさらなる憤りと誤解が生まれる。

    p136
    ほとんどの人がハードドラッグにこうして出会うのだ。暗くてネズミがはこびる高層住宅ではなくて、友と呼ぶ人の部屋で。みんなクラックやヘロインを自分から探しに出かけるわけではない。個人的な問題を抱えているときに加わった社会集団を通じて、たまたま出くわすことが多いのだ。大好きな友だちから渡されたドラッグに殺される、そんなことがよくある。

    こういうドラッグにそれほど惹かれるのは、それを目の前にしたときに貧しくて惨めな状態にいるからだ。

    p145
    ビジネスでは利己心が決定的な役割を果たす-

    p168
    貧困状態に暮らす子どもたちは、世界のどこにいても同じようなリスクにさらされている。暴行、ネグレクト、虐待、搾取。(中略)これは第三世界で生まれても先進国で生まれても同じであり、トラウマを経験することで人生の方向が大きく変わる。たしかに、西洋の子どもはルワンダの子どもより餓死したり赤痢やマラリアで死んだりする可能性は低い。けれども、アルコール依存症の家庭でことばの虐待を受けたり、殴られたり、性的暴行を受けたりしているときには、そんなことを言ってもあまり慰めにならない。貧困と子どもの虐待が結びついていて、それがあまりにも多くの社会問題につながっていることをぼくらは直観的に悟っている。けれども、残念ながらまだこの関係をはっきりと捉えられてはいない。意見の対立から離れて、目の前の重要問題に集中できていない。社会的剥奪が子どもの虐待を招いているという問題だ。

    p169
    ほとんどの人は、子どもの虐待やネグレクトといった深刻で繊細な話題に触れると、自然と犠牲者に感情移入して、犠牲者の親や保護者に怒りや嫌悪感を覚える。

    p170
    受け入れにくことかもしれないが、実際には、ネグレクトされて虐待された子ども、どうしようもない若者、ホームレス、アルコール依存症者、ジャンキー、無責任で暴力的なひどい親は、人生の異なる段階にいる同じ人物であることも多いのだ。

    p172
    貧困はただ仕事がないというだけの話ではない。絶えずストレスにさらされて予測不可能な環境のもとに暮らしながらも、失敗する余地がまったくない状態なのだ。そしてこういうカオスの中で育つ子どもは、この経験のせいで感情面を歪められて、周囲のありとあらゆるものと反目するようになる。

    すべては、社会的剥奪のもとに暮らす子どもから始まる。子どもの虐待について言えば、貧困がその生産現場だ。

    p207
    本当のところがどうであろうと、貧困についての対話はそれ自体、問題の根底にある格差そのものの不幸な副産物だ。というのも、貧困についての対話はたいてい、貧しさを直接経験したことがほとんどない人間に牛耳られているからだ。(中略)そのせいで、貧困を解決したい人と貧困を経験している人の間に大きな隔たりが生じている。

    p220
    ブレグジットが決定した朝、中流階級のリベラル派、進歩派、急進派が、さまざまな危機をいくつも同時に宣言した。彼らは、ぼくらが何十年もずっとそのもとで暮らしてきた粗野で分断された国に突然、向き合うことになったのだ。暴力と人種差別に満ちた国。人々が主流のものの見方からあまりにも疎外されていて、自分たちの別の文化や、「別の真実」までつくり始める国。リベラル派高級紙ガーディアンの読者がつぎつぎと息巻いて、かつて偉大だった国が犬のように落ちぶれたと嘆き、それが人々の怒りを呼んだ。
    犬というのは、もちろん労働者階級のことだ。

    p228
    とくに教育が乏しく、チャンスが少なく、ストレスが多いコミュニティでは、図書館は社会的流動性の機関室としての役割を果たす。インターネットや本を使って新しいスキルを学んだり情報を見つけたりできるのに加えて、大学の願書や仕事の応募書類を書いたり、給付金や奨学金に申し込むための書類を書くのを手伝ってもらったりできる場所でもあるのだ。図書館を利用するのは、積極的に自分を成長させたいと思いながらも、目標を達成するための基本的なリソースやスキルを欠いている人が多い。公共図書館には、混沌としたストレスの多い生活から逃れるために大きな一歩を踏み出そうとしている人たちがいる。この比較的わかりやすい機能のほかに、図書館にはもっとシンプルな役割もある-有能な図書館員ならみんな油断なく守ろうとする役割だ。金がまったくかからないのに加えて、図書館は貧しいコミュニティの中で自分の考えに集中できる静寂を確保できる数少ない場所でもあるのだ。

    p230
    図書館は安全で協力的な環境を提供し、そこで弱さを抱えた人たちが勉強したり気持ちを立て直したりする。けれども最近では、図書館に行っても子どもが走りまわっていたり、ディスカッションや講座、母子グループに参加する人がたくさんいたりする。こういう活動も大切ではあるけれど、本来はコミュニティ・センターで行われるべきだ。図書館は混雑してうるさくなり、本来も目的を果たすのがむずかしくなっている。(中略)慢性的にストレスがあって学業成績も低い恵まれないコミュニティで、社会的圧力にさらされる中、静かにものを考えられる場所がほしいという単純できわめて重要な希望が、これほどまでに実現不可能になってしまったのだ。

    p233
    貧困は、貧しい人の行動と生活スタイルだけでなく、社会的態度にも現れる。中でも目立つのが無関心であり、権威や公的機関への懐疑心もそうした態度のひとつだ。自分たちが状況を変えられるとはだれも信じていない家庭で育って、みんなこの考えを自分の中に取りこんでいる。貧しい人たちの政治への無関心はあまりにもはっきりとしているので、これは政治の計算に組み入れられている。政治家たちは、政治に参加する可能性がもっと高い人たちに政策を売りこむのだ。このせいで、参加しない者たちの関心事は顧みられず、それがさらなる無関心につながるという悪循環が生まれる。けれどもときどき、状況が限界に達すると、社会的剥奪が無関心への解毒剤を吐き出す。
    これが貧困の逆説のひとつだ。状況が苦しくなればなるほど、人々は強くなるのである。抵抗の文化が社会的剥奪の中で生まれ、貧困のために力を失う人がいるのと同時に、断固たる意志と決意を持つようになる人がいる。社会的剥奪によってコミュニティは引き裂かれるかもしれない。けれどもそのせいで、人々は共通の問題への解決策を探るべく協力と刷新と進化を迫られて、コミュニティが生まれ変わる可能性もある。
    イギリス各地に広がっているフードバンクが、おそらくこの逆説を体現するわかりやすい一例だ。これほど豊かな国で、フードバンクを使わなければ子どもに食事を与えられないのは道徳的にひどいことではある。けれども、まさにこのフードバンクが単に慈善団体の中継地点として機能するだけでなく、恵まれないコミュニティの拠点になって、そこを中心に人々が参加したり組織化したりするようにもなった。これが貧困の、また人生全般のやっかいな事実だ。もがき苦しむことで、否応なく進化せざるを得なくなるのである。

    p244
    いまの文化は集団主義を特徴とするが、その最大の特色は、自分たちの憤りに正当性があると信じていることにある。自分たちは複雑にものを考えていて、慎重に検討して結論を出しているのに、意見を異にする相手は愚かさと偏見に動かされていると思いこんでいるのだ。不思議なことに、自分たちの思考プロセスも相手とほとんど同じだということは見逃している。自分たちがあと押ししていると信じる大義がどれだけ立派でも、そんなことは関係ない。分断が深まるいまの社会で、みんなが共有する数少ないもの、そのひとつが、自分たちの偽善が高潔だと信じる気持ちだ。

    p248
    人種差別を単純化しすぎずに、本当の原因を深く掘り下げることが大切だ。ぼくがここで示すのは、反移民感情に根本から立ち向かうための戦術だ。このアプローチでは、反移民感情と人種差別的な要素は批判され非難されなければならないと認める。ただし、これほど複雑な社会問題に立ち向かうには、一部の人が不快に思う真実を認めて、人種差別的な考えの根底にある心理的な原動力に対処しなければならない。

    p249
    自分の考え方の枠内にほかの人たちを囲いこもうとして価値観を押しつけるのは、世間知らずの上に無益だ。
    これがとくに当てはまるのが、経験の隔たりがとても大きいときだ。ぼくらが人種差別主義者だとみなす人も、そうでない人と同じように、自分たちの道徳世界の現実に確固として根ざしている。ただ、はっきりさせておきたいのだが、ぼくは対立するふたつの視点が自動的に同じ道徳的価値を持つと主張しているのではない。ぼくが言いたいのは、人は背景と育ちのために自分の考えにコミットする傾向があって、その考えが正しいかどうかは関係ないということだけだ。だから、コミュニティの外で面目をつぶされたり非難されたりするのが恐ろしいという理由で自分の立場を変える可能性は低い。さらに言うなら、相手を非難しても猜疑心と懐疑心を掻き立てるだけだ。この猜疑心と懐疑心は、対話の可能性を閉ざしてしまう。道徳的な怒りと批判は、たとえそれが妥当であって、口にしたらすっきりするとしても、相手の心を変えることが目的なのであれば、エネルギーの無駄になるだけだろう。ぼくの考えでは、これが政治的課題としての移民問題の現実だ。

    p251
    反移民感情の多く(もちろんすべてではない)は貧困の中に見られる。貧困の状態があまりにも過酷なので、それが人の考え方、感じ方、行動の仕方にも影響を及ぼしているのが現実だ。

    p252
    ぼくの経験では、人種差別的な結論に達したり、人種差別的なかたちで考えを表現したりするのは、多くの場合、育ちのせいか、話を聞いてくれるのが偏狭な人だけだったのかのどちらかだ。

    p254
    意外なことではないだろうが、移民支持の立場を取る人たちは、たいてい移民と結びつきを感じていたり、移民とかかわりがあったり、移民関係の何らかの活動をしていたりして、移民に時間や労力を注いでいる人たちだ。移民とプラス面を好意的に語り、反移民感情を抑えようとするのは、彼らの個人的、職業的、文化的利害とも一致している。(中略)移民を支持する第三セクターの集団、慈善団体、活動家、政治家は、すぐに移民がもたらす利益について語るが、こういうネットワークから締め出された人たちは違う。経済の序列のはるか下のほうでは移民がもたらす利益が感じられることはまれなので、そういう主張には説得力がないのだ。

    p255
    むずかしいことではない。無視されていると感じている人の声に耳を傾ければ、彼らはまた熱心にかかわりを持つようになる。いつもないがしろにされている人たちは、自分立ちを仲間に入れてくれる個人、運動、組織、政党と信頼の絆を結ぶ。

    p256
    移民が急増することで、すでに心理的ストレスが蔓延している貧しいコミュニティにどのような影響が生じるのかを考える必要がある。自分が個人的に不快感や恐怖を覚えるというだけの理由で、社会的な不安や問題を認めるか無視するかを決めてはいけない。移民についての懸念の度合いはさまざまだ。社会正義に本当に関心を持つのなら、だれかを人種差別主義者として一蹴する前に、その人たちの言い分に耳を傾ける必要がある。犯罪や慢性疾患の根にしばしば貧困があることを認めるのなら、ほかの反社会的な態度も貧困に根ざしているかもしれないと認めなければいけない。こうした区別をするのがとても重要なのは、説得や和解ができる相手と本当に闘わなければいけない相手を区別するためだ。

    貧困や暴力から逃れてきた世界で最も弱い人たちの中には、イギリスにたどり着いたら最も貧しく暴力的なコミュニティに腰を落ちつける人もいる。誇張、スケープゴーティング、非難が渦巻く中でも、分別のある対話がなされなければいけない。最も困難を抱えたコミュニティでの移民の原因と影響について、またいかにそれに対処すべきかについて話し合いが必要だ。とりわけ移民たち自身のために。

    p313
    自分自身では気づいていなかったり、正当だと思いこんだりしていたこの憤りが、自分ではとてもはっきりと物事を考えていると思っているときに、思考を曇らせていたのだ。つまり、あることに動機づけられて動いていると思っていながら、実はまったく別のものに動かされていたのである。ぼくは相手を攻撃し、非難し、傷つけ、食いつくす衝動に動かされていて、最も基本的な事実すら理解しようとしていなかった。

    p315
    けれども、怒りが役に立つのは、正しいときに正しいやまた必ずしも簡単なことではないが、赦し忘れることが唯一の解決策になることもある。それがなければ、怒りがどれだけ正当なものでも、気持ちが落ちつくことはない。ぼくらを傷つけた人たちは、たいていどこかの時点でだれかに傷つけられている。それと同じで、だれかに傷つけられたぼくらも、人生の中で何度もその仕返しをしてしまいがちだ。程度の差こそあれ、みんな人生のさまざまな段階で犠牲者にもなれば加害者にもなるのに、ぼくらは自分が傷つけられたときのことしか覚えていないことが多い。り方で表明されたときだけだ。怒りが正当性を持つのは適切な意図をもって使われたときだけで、そのときでさえ効力は時間限定である。

    p323
    「われわれの人生が短いのではない。その多くを浪費しているだけなのだ」。ストア派の哲学者、セネカのことばだ。

    p326
    また必ずしも簡単なことではないが、赦し忘れることが唯一の解決策になることもある。それがなければ、怒りがどれだけ正当なものでも、気持ちが落ちつくことはない。ぼくらを傷つけた人たちは、たいていどこかの時点でだれかに傷つけられている。それと同じで、だれかに傷つけられたぼくらも、人生の中で何度もその仕返しをしてしまいがちだ。程度の差こそあれ、みんな人生のさまざまな段階で犠牲者にもなれば加害者にもなるのに、ぼくらは自分が傷つけられたときのことしか覚えていないことが多い。それは自然なことかもしれないけれど、必ずしも正しいことではない。

    p329
    ぼくがいま自分のものだと思うようになり始めている世界観の多くは、実は父から受け継いだものだ。価値観、ものの見方、信念、それに欠陥、嫌いなもの、奇抜さ。

    p330
    もっと早くから、父が教えてくれた徳に従って生きるだけの賢明さがあったら、何年分もの苦痛とストレスを感じずにすんだのだと思う。それなのにぼくは父をけなし、父の知恵を頭の外に完全に追いやって、自分が聞きたい半端な真実を語るその場かぎりの友だちやずるがしこい飲み友だちの知恵を吸収した。何もかもわかっていると思いながら、実はほとんど何もわかっていなくて、そのためにひどく無防備になっていた。それを考えるとぞっとする。だからこれから先、何かに確信をもてることはもうないと思う-おそらく確信を持てるのは、びっくりするほど間違ったことをする自分の能力だけだ。

    p333
    いまでは、コミュニティを変えるのに一番実際的なやり方は、まず自分を変えて、その上で自分がどうやって変わったのかをできるだけ多くの人に伝える道を探ることだと思っている。

    ぼくの人生最大のテーマは貧困だとずっと思っていたが、実はそうではなく、それは貧困を生き抜くために無意識のうちに取り入れていた誤った思い込みだった。抱える問題の本質を隠そうとして内面化した神話だった。貧困を徹底的に分析しようと思ったら、自分自身にも鋭くむずかしい問いを投げかける必要があるとは思ってもいなかった。どういうわけか、貧困の問題を徹底的に精査すべきという見せかけとはうらはらに、ぼくはあらゆることを顕微鏡で調べながら、自分のことは都合よく分析から除外していた。ぼくは新しい考え方、感じ方、生き方を学ぶ必要があったのだ。ストレス、憤り、思い込みの蜃気楼の向こう側にある政治を見る方法を学ばなければならなかった。その政治は、非難することではなく、共通の土台を見つけることを目指す。

    ぼくはずっと無力感に苛まれて生きてきた。無力で本が読めない、詩が楽しめない、仕事が見つけられない、無力で不健全で有害な人間関係から逃れられない、ジャンクフードをやめられない、酒とドラッグも続けてしまう。自分の力が足りないとかはいつも、だれかがぼくの代わりに何とかしなければいけないと考えた。ジャンクフードは制限され、広告は規制されて、酒とドラッグは禁止されるべきだ。社会が内側から崩壊することを夢見た。浅はかにも社会が崩壊すれば生きやすくなると思いこんでいたのだ。何もかもが不道徳で不正で腐敗に染まっていた。さらに悪いことに、こういうことをあまりにも強く信じ切っていたから、それと相容れない主張を耳にすると感情的にかき乱されて腹が立った。これはとてもばかげたエネルギーの使い方だった。けれども、他人の話の欠陥を見つけるほうが、自分のつくり話には正直に向き合うよりもはるかに簡単だ。

  • “貧しさ”からは、傍から眺める人の援助や、当事者の身近な解決策では逃れることができない。
    自分が生まれ育ったコミュニティで培った“生き残り”の知恵は、そのコミュニティでしか役に立たないことも多いのだから。

    そこに関わるすべての人が、自分自身の半生を、今の自分を律し誇れるものになるまで、その意味を問い続けることが、階級や世代を超えた無限ループを抜け出す鍵だ、と私は思う。
    その過程を、社会の要求に即して晒し、多くの階級の人に通じることばで書き留めた作者の努力と勇気に敬意を表したい。

  • 「イギリス最下層の怒り」が著者の体験、考察から強く伝わってくる。一文一文が目を開かせてくれる。

  • イギリス中のありとあらゆる場所に貧窮状態の人たちのコミュニティがある。貧困とその破壊的な影響を当事者として経験した著者が、自身の壮絶な生い立ちを振り返りながら、いかにして貧困から抜け出すかを提示する。

    体調がようなったら続きを。

  • 自分の人生が自分の主導下に置かれていないと感じる時、寂しく、満たされない時。自分をそのような状況に陥ったことを、親や教師、環境や経済、政治や大人といった自分が『どうすることもできなかった』人間や環境のせいだと責任を押し付けては怒り、憎しみ、愚痴をこぼし、自堕落な生活を始める。そういった生活を過ごしながらも、心の奥底に、自分を今の現状にたらしめるものは何なのか、かすかなヒントが与えられる瞬間がある、しかし、過去の自分を正当化するために、それを否定してはさらなる深みに入り込んでいく。
     人生において、辛い時間を過ごした人間ならば、こういった毎日、毎時間のように起こる負のサイクルの渦中の中で、葛藤をしたことがあるのではないだろうか?人生の主導をとることが目的だったはずなのに、いつのまにかそれは入れ替わり、怒りの対象に責任を押し付けては上昇することを忘れてしまう。
     本書『ポバティー・サファリ』の中で、著者ダレンは、貧困地域でッ暴力と共に幼少期を過ごし、主権を感じることなく、ストレスを感じ、酒とドラッグに溺れた青年期を過ごす。これを記した本書前半部分で、ダレンは彼が階級に、政治に、制度に怒りを覚えるようになった背景をポバティー(貧困)をサファリするように語っていく。しかし、本書が中盤に差し掛かってくると、その怒りが、必ずしも貧困からの反発だけではなく、きちんとした研究からも浮き彫りにさるような、『仕組み』によるものだという『解説』へと移行していき、そういったコミニティに属し、貧困や暴力とともに育った子供の多くが経験するような問題を、ダレン自身が抱えていたという告白とともに、物語が進行していく。
    そのような環境で育ちながらも、『話せるやつ』と世間から受け入れられ、BBCラジオに出演し、ニュース番組のゲスト司会者にまでなったダレンは、ラッパー・コラムニストとしての声を手に入れた代わりに、貧困階級の代弁者となることを求められるようになる。ダレンのそういった環境は、そのすべてを体制や政治の責任と押し付けて、自分自身の問題から目を背けてしまった。貧困コミニティの問題である酒やドラッグ、ジャンクフードのことを話しては、その裏でそれらに依存していたダレンは、批判していた体制側の制度を利用して、それらの依存から脱却する。それと同時に、著者は、すべてを体制側のせいにする左派の主張、異なる意見を受け入れられない主義に疑問を呈し始める。
    『ぼくが不誠実な考えを持っていた証拠として、失敗と問題は父と母のせいにし、成功はすべて自分ひとりの功績と考えていたことが挙げられる。』(本文より)
     私達が暮らすこの世の中には、改善しなければならないものが存在して、制度のせいでないがしろにされているものがたくさんある。それらのものは改善されるべきであり、変わるべきものである。しかし、個人の生活の改善、幸福の追求が、それらの責任に押し付けることで損なわれるべきであってはならないのではないだろうか。右を向けば左は損なわれ、上を向けば下は無視されたと感じる。上下左右すべての人間が平等に、幸福に機能する、ユートピアのような社会の仕組みは、不可能ではないかもしれない。しかし何年・何世代もかかって取り組まれるそれらの改革に期待のすべてを乗せるのではなく、自分個人に目を向けて、足りない部分を向上していかなければならないのではないか。
     幼少期に暴力と貧困とともに育ち、10代20代を体制に怒りながら、依存に苦しんだ著者が、30代になり子供を持った。最後の章で、著者は幼少期のストレスの根源であった母に理解を示し、謝辞の中で彼がそれまで関わってきた多くに人々に感謝の言葉を延べる。『長年、否定的な心の声が自分には親になる資格がないとずっとぼくに言い聞かせてきた。』と感じていた著者が、子を持つ喜びを感じ、世の中に感謝を覚えることになる。幼少期から追ってきた著者の生活と思考の変化に、心動かされることになる。読後感に起きるこの心象は、単なるポリティカル・ライティングや単純な『ポバティー・サファリ』で終わっていたらおきなかったことだろう。
     それこそ豊かな人々の間にあっても、自分と異なった思考の相手を見つけては貶し合い、単略的に判断し、理解のかけらも示さない。物事にとらわれては、本来の目的であるはずの個人の向上が損なわれている現代において、ダレンの物語は、きっと良い指標となってくれるのではないだろうか。

  • 東2法経図・6F開架:361.85A/Ma15p//K

全11件中 1 - 10件を表示

山田文の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×