- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087735147
作品紹介・あらすじ
謎めく敵意。食い違う過去。彼女は何を知っている?
オーストリアの田舎に暮らす、カンボジア移民のキム。その誕生日の祝いの席に突然現れた女性は、少年の頃にポル・ポト政権下のカンボジアを共に逃れた妹のような存在であり、同時にキムが最も会いたくない人物だった……。
かつての過酷な日々に、いったい何が起こったのか?
『国語教師』でドイツ推理作家協会賞を受賞した著者による、最新文芸長編。
【著者プロフィール】
ユーディト・W・タシュラー
1970年、オーストリアのリンツに生まれ、同ミュールフィアテルに育つ。
外国での滞在やさまざまな職を経て大学に進学、ドイツ語圏文学と歴史を専攻する。
2011年『Sommer wie Winter(夏も冬も)』で小説家デビューし、現在は専業作家として家族とともにインスブルック在住。2014年に『国語教師』がフリードリヒ・グラウザー賞(ドイツ推理作家協会賞)を受賞した。
その後も精力的に執筆を続けており、本書は邦訳2作目にあたる。
【訳者プロフィール】
浅井晶子(あさい・しょうこ)
1973年大阪府生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。2003年マックス・ダウテンダイ翻訳賞受賞。
主な訳書にパスカル・メルシエ『リスボンへの夜行列車』、イリヤ・トロヤノフ『世界収集家』(以上早川書房)、トーマス・マン『トニオ・クレーガー』(光文社古典新訳文庫)、エマヌエル・ベルクマン『トリック』、ローベルト・ゼーターラー『ある一生』(以上新潮クレスト・ブックス)、ユーディト・W・タシュラー『国語教師』(集英社)ほか多数。
感想・レビュー・書評
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あとがきの通りミステリーというより人間ドラマを描く文芸作品だった。1970年代のカンボジアの悲惨な歴史と過去現在のオーストリアの生活。時間を行き来して徐々に見えてくる事実。ただあまりにも過酷な内容で感動より辛さが勝った。
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プロローグでもう掴まれた。
無邪気なメールのやりとりなのに、何か恐ろしい秘密を知らされるのではという怖れと期待でいっぱいになって、一気読みだった。
かつてポル・ポト政権下のカンボジアを逃れてオーストリアに渡り、穏やかに暮らすキムの50歳の誕生日パーティーに現れた同胞のテヴィ。一時期家族として一緒に暮らしていた彼女の口から語られるカンボジアでの話や、現在、過去、日記など複数のパートから少しずつキムの半生が見えてくる。
もしかして、と思いながらも何か噛み合わない感じが、何があったのか知りたいという気持ちを掻き立てるのだ。
クメール・ルージュの残虐性は知識としては知っていても、あまりに酷くて嘘であって欲しいと思ってしまう。人間はそこまで残忍になれるのか。
でも別にそのことを強調するような話ではなくて、そういう体験をした人やそうでない人の家族の物語なんだと思う。様々な愛情や絆を感じた。
それでもあのカフェでの話は、あれはだめだ。あんなことは、それがどれほどのことか知ることのない人間が武器にしていいわけがないと思う。
そこから繋がるエピローグは、それぞれの思いやりを感じてとてもよかった。 -
七〇年代カンボジアのポル・ポト政権下と現在が交互に語られる小説。
人間が人間として扱われない描写に吐き気を催すのと誕生日パーティの様子に胸をなでおろすのを繰り返し、残りのページが少なくなるにつれ、額に汗をかき、全身に鳥肌が立ってくる。
結末はやけにあっさりとしていた。それに、なんだか辻褄が合わないような気がした。
なにか重要なことを見落としているのか。なにか勘違いをしているのか。
そして気づいた。わたしは、欠けたピースを頭の中で補っていたはずなのに、いつの間にか、全く別のジグゾーパズルを完成させてしまっていた。
「誕生日パーティ」という言葉から連想されるハッピーな感じとは真逆の、衝撃のミステリー小説。
いや、これはもう、すごいとしかいいようがない。
p130
クメール・ルージュは、ロン・ノル率いる政権の腐敗と人民からの搾取だけでなく、そのアメリカ合衆国寄りの姿勢をも非難しており、政権打倒を目指していた。国は人民のためにのみ存在するべきであり、決して外国の政治の駒にされたり、ほんの少数の都会の寄生虫たる実業家-外国人であろうとカンボジア人であろうと-に搾り取られるだけの存在であってはならない、というのが、彼らのモットーだった。
p323
かつて、ひとつの世界では、生き延びようともがいた。もうひとつの世界では、居場所を見つけよう、適応しよう、なにかを成し遂げようともがいた。まさにこの通りの順番でもがき続け、気が付けば、結局いまもまた、毎日生き延びようともがいているのだった。
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主人公キムはカンボジア出身で今は妻と3人の子供と共に、オーストリアの田舎に住む。建築事務所に勤め、堅実に暮らしている。もうすぐ50歳の誕生日。欧州では(節目ならば特に)誕生日は友人や親族を招いて盛大に祝うもの。キムは大ごとにはしたくなかったが、妻のイネスが張り切っているので、しぶしぶながら、パーティーを開くことに同意する。
一番下の息子、12歳のヨナスは、父親をびっくりさせようと、あることを思いつく。父がかつて知っていた、ある女の人を内緒で呼ぼう。その女の人は、母とも親しかったはずだった。彼女を探し出して来てもらおう。それが彼のサプライズプレゼントだ。
そしてパーティー前日、その女性、テヴィは本当に来てくれた。
それは確かに「サプライズ」だった。けれども、ヨナスが期待したように、父と母に喜びだけをもたらすものとはちょっと違っていた。3人の間には、特に、キムとテヴィの間には、深い因縁があったからだ。
タイトルからはちょっと想像がつかないくらい、うねりの大きな物語である。
キムとテヴィは、ポル・ポト時代のカンボジアから辛くも逃れてきた移民だった。テヴィは富裕層の出身、キムは貧民層の出身である。彼らはきょうだいを装い、逃亡の途中で別の家族の中に入れてもらう形で、オーストリアにたどり着いた。
イネスの母と祖母は、子供のキムとテヴィを引き取り、イネスのきょうだいのように育てた。しかし、テヴィはフランスに本当の親類がいることを知り、やがてイネスの家を出ていくことになる。
こうした物語が、時代を変え、視点を変え、時に語り手を変えながら、1章ずつ紡がれていく。現代と、キムとテヴィがオーストリアに着いて以降と、そして70年代のカンボジアとを行き来しながら。
物語が進むにつれ、徐々に不穏な雰囲気が高まる。
特に、一人称で語られるカンボジア。
純朴な少年が、クメール・ルージュに取り込まれていく。少年には、富裕層への怒りや不公平感が確かにあった。正義を求める気持ちもあった。
クメール・ルージュも一面、大義を掲げる部分はあった。富裕層だけがいい思いをして、大半は貧しいなんておかしい。それ自体は間違いではない。
だが、どこからか、いつからか、彼らは道を踏み外していく。
贅沢品を捨てろといったところから? 富裕層を都市から追い出し、農村へと追いやったところから? 極端な共産主義的農村国家を追求し始めたところから?
彼らは次第にサディスティックな様相を帯びていく。
あちこちで「大量粛清」が行われ、ささいなことで人々が殺された。「オンカー」なる謎の指導者の意に染まぬとされた者は、容赦なく切り捨てられた。
少年も自身や家族の身を守るため、徐々にその手を血に染めざるを得なくなっていく。
時代を行き来しながら、キム・テヴィ・イネスの背後にあるものが次第に露わになっていく。
皆が少しずつ、何かを隠している。皆が少しずつ、何かを誤解している。皆が少しずつ、違うところを見ている。
彼らが最後にたどり着くのはどこか。
著者は前作で「ドイツ推理作家協会賞」を受賞している。著者自身は自作をミステリと分類されることには抵抗があるというが、本作もミステリ的な要素がある文芸作品といってよいだろう。1つの大きな仕掛けがあり、それが高いリーダビリティの牽引力になっていると思われる。
構成は見事だ。
途中の重い展開からはいささか意外だが、最後にはある種の救いと希望が見られるのも、著者の並々ならぬ力量を感じさせる。
とはいえ、若干の引っ掛かりはある。
オーストリア人の著者の家では、かつて実際にカンボジア難民一家を引き取っているという。クメール・ルージュの描写は彼らからの聞き取りに負う部分もあり、著者は生半可な姿勢でこの題材を書いたわけではないのだろうとは思う。
だが、創作と事実を並べたときに、事実が重過ぎるように感じてしまう。
物語がよく出来ている、よく出来「過ぎ」ているために、歴史的な悲劇を「利用」したようにどうしても見えてしまうのだ(そして付け加えるなら、本作にはもう1つ、人道的に議論のある問題も含まれる。このトピックの扱いも若干センセーショナルに過ぎると思う)。
著者としては、イヤミス的なものであったり、露悪的になったりというあたりは狙っていないのだろうと思う。
個人的には、ここまで深く知る機会がなかったクメール・ルージュについて知れたことには感謝したい。巻末のカンボジア小史も簡潔でよくまとまっており、学ぶところは大きい。
が、手放しで誉めるか、他人にも薦めるかというと躊躇いは残る。
揺さぶられる読書であることは間違いない。だが、クメール・ルージュを描くに十全な手法が「これ」だったのか、個人的には釈然としない。 -
70年代カンボジアの過去の凄惨さに読むのがつらくなる。何かがずれているような違和感を感じながら真実を知りたいおもいで読み進めた。
読後、まとまらない頭で考えていたのは、赦すということについて。作中の人物に畏敬の念を抱く。そういうふうに感じた作品だった。
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結末わかってるのにぐいぐい読ませよるわーと夢中に読んでたら、思ってた結末と違う!と気付かされた瞬間の驚きと混乱とやら。やられたーと思った時、人は天を仰ぐのはほんとだなと体感。めちゃおもしろかってんけど、どうしたらええんやろ、と慌てふためいた。
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クメール・ルージュのあまりの残忍さ凄惨さに、何度も途中で読むのを止めようかと思ったほど。しかし、(訳者あとがきにもあるように)ピースが足りない感がずっとあって、中程からはもう一気読み。終わりのほうで、そうだったのかー!とか、だから〜〜〜だったのか…とかやっとピースがはまり、また子世代の若者たちの明るさに救われる。
いやー、この筆力すごいな。そして、浅井晶子訳にハズレなし、がまた更新されたのだった。 -
子供たちが誕生日パーティーに招いたのは、かつてのカンボジアを共に生き延び、この地で共に暮らしていた1人の女性。
一体なぜ、疎遠になってしまったか。
回想と現在を行き来しながら語られていく。
最初は、カンボジアの描写が辛くて辛くてページが重くて、違和感に気づけなかった。
あるところで、あれ?と違和感が襲う。そしてなぜ違和感を抱くのか、正体に気付いた時、巧妙さに思わず唸ってしまった。
これだから小説は面白い。と思わされた一冊。