- Amazon.co.jp ・本 (152ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087717105
作品紹介・あらすじ
草は刈らねばならない。そこに埋もれているのは、納屋だけではないから。
記億と歴史が結びついた、著者新境地。第162回芥川賞候補作。
大村奈美は、母の実家・吉川家の納屋の草刈りをするために、母、伯母、従姉妹とともに福岡から長崎の島に向かう。吉川家にはとがあるが、祖母が亡くなり、いずれも空き家になっていた。奈美は二つの家に関して、伯父や祖母の姉に話を聞く。吉川家はが建っている場所で戦前は酒屋をしていたが、戦中に統制が厳しくなって廃業し、満州に行く同じ集落の者から家を買って移り住んだという。それがだった。島にはいつの時代も、海の向こうに出ていく者や、海からやってくる者があった。江戸時代には捕鯨が盛んで蝦夷でも漁をした者がおり、戦後には故郷の朝鮮に帰ろうとして船が難破し島の漁師に救助された人々がいた。時代が下って、カヌーに乗って鹿児島からやってきたという少年が現れたこともあった。草に埋もれた納屋を見ながら奈美は、吉川の者たちと二つの家に流れた時間、これから流れるだろう時間を思うのだった。
【著者略歴】
古川真人(ふるかわ・まこと)
1988年福岡県福岡市生まれ。國學院大學文学部中退。2016年「縫わんばならん」で第48回新潮新人賞を受賞しデビュー、同作で第156回芥川賞候補に。2017年、第2作「四時過ぎの船」で第157回芥川賞候補、第31回三島由紀夫賞候補、2019年、第4作「ラッコの家」で第161回芥川賞候補。
感想・レビュー・書評
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吉川家は長崎の島に、納屋の他に家族の者たちが〈古か家〉と〈新しい方の家〉と呼ぶ二軒の家や、物置代わりに使っている建物を所有している。でも、祖母が亡くなってから誰も住んでいない。
大村奈美は、吉川家の納屋の草刈りをしに、母、伯父、伯母、従姉妹ととも福岡から島に行く。奈美は二つの家に関して、伯父や祖母の姉に話を聞く。
そこから、家や島の歴史が広がっていく…
要は、誰の使うこともない納屋の草刈りに行くだけの話なんだけど、小説の長さ以上のボリューム感がある。そこはかとなく読者の方の世界が広がっていくというか。
人の営みの儚さとか、奥深さとか、感じ入ってしんみりする。
人生ってもしかしたら空き家の草刈りをするようなものなのかもしれない。「そんなこと無駄じゃないのか?」と自問しながら。
なるほど、こういう小説好きだわ。
何度も読み返したい。
タイトルがなぜドクダミやススキやその他様々な種類の雑草ではなくセイタカアワダチソウなのか?
が疑問としては残ったかな。誰か解釈を教えてください。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
未読の直木賞、芥川賞を読もうというキャンペーン。「自分の」
芥川賞はてこづる。
同じ九州、福岡は都市だが、
だからこその羨ましい設定。
従姉妹親戚の一日。
それぞれが気兼ねする事なく言いたい事を言っているーこんな時もあったな。
最近は従姉妹たちとあうこともなく
羨ましい、方言が心地よく
一気に読めたはずが
交互にあらわれる時が遡ることには戸惑った。
やはりすごい。美しい。
息つかせず読ませる長いセンテンス。
芥川賞らしい作品。
読みこなしているとはおもえない自分
背高泡立ち草の意味
過去の話
まだまだ未消化だが
その瞬間をここまで古川真人ワールドにする凄さ。
機会があったら他の作品も読んでみよう。
うちの娘が「横浜在住勤務先東京」
方言を使う方ではないが
「なおす」というと
???されたらしい。
福岡、九州では
片付ける事を「直しといて」というが通じなかったそう。
この作品にも出てきた。直す。注釈がついていた。
カヌーになった少年はどうなったのか気になる。-
初めまして
この本、芥川賞作品なのに、あまりネットやメディアなどで評価されないですね
本好きな友人に貸してみたら「どうでもいいことしか書いて...初めまして
この本、芥川賞作品なのに、あまりネットやメディアなどで評価されないですね
本好きな友人に貸してみたら「どうでもいいことしか書いてなかった。勉強にもなんないし感動もしないつまんない」と言われ、ちょっとポカン
私はこの本、やけに心に残りました
作者さん、個人的に応援したい気持ちです2021/07/10
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今、自分が関わっている様々なことに共通していて、
心に熱いものが走りました。
そのなかで一番はアスファルトに咲く
四季海棠の花。
もうすぐお別れ。 -
親戚が集まるとどこにでもあるような喧しい会話、異年齢の集まりにありがちな話がずれていたり通じなかったり、けれど親し気な遠慮のない会話。
まるでうちの親戚かと思うほど普通。普通の人々の何でもない一日を切り取って読ませてしまう、さすが作家。
草に覆われている人が住まなくなった家があり、どの家にも家にまつわる過去の物語がある。草を刈ることで見えてくる家と過去の物語。そしてまたすぐに繁殖力のある草に覆いつくされて見えなくなるのだろう。そしてまた草を刈る…その繰り返し。
背高泡立草をはじめとするたくさんの草に取り囲まれ、家だけがじっと過去の物語を抱えて佇んでいる様子が、遺構や廃墟を目の前にした時の気持ちにちょっと似ていた。 -
抑えきれない「草刈りに行って帰ってくるだけの話じゃん⁈」という感情は湧き上がる訳ですが、しばらく経つと「他の人はもしかしてここに何かを読み取ってるのかな?」と少々気にならなくもない。
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その人の1日を切り取っただけでも、その背後には様々な人たちの出来事がある。私たちはそんな世界の中で生きているということを思い出させてくれる。繋がりを忘れそうな今こそ、読むべき本かもしれない。
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とても良かった....
田舎あるあるが詰め込まれていてこんな感じの環境で育った私は郷愁に呑み込まれそうになった。早朝に草刈りするんだよね...あの匂いもよく覚えてる。ゆったりと、でも確実に過去から未来へと流れる時間を感じられるお話でした。なぜかじんと来てしまう。 -
草を刈る。ひたすらに。
するとクロスカット映像の様に現代編と過去編がパラレルに切り替わり、もわんと湧き上がる青臭さと肌にまとわりつく潮の香りが鼻の奥を突くかのよう。
会話は基本的に方言語りで、読むのに難儀した。
主に読み進めにくさで苦労した分の達成感は得られたものの、もしも仮にこれが標準語で書かれていたのだとしたら、何か心に残る物語だっただろうか?とふと思ってしまった。
川上弘美先生の選評にあった「小説の中の時間と空間を広げて」という試みは確かに理解出来たような気がする。なるほど、言葉にすればそういう事か。
松浦寿輝先生の評「『花』があれば」という点は大いに頷ける。
学名をひくところまではやったのに意味に気づけなかった。悔しい。
2刷
2021.10.10 -
背高泡立草て、地方に住み始めてよく見るようになりました。特に田舎に行くと、緑や茶色の雑草の中で背高泡立草の濃い黄色が目につく。この黄色の多い場所は、それだけ人の入っていない場所なのかなと感じます。そういう草の名前がタイトルって、どんな本なんだろうと思って手に取りました。
田舎の島を舞台に、その島が過疎化していく、それでもその土地を大切に思う人はいるという現代と、その島がこれまで刻んできた歴史の1コマを振り返る話が交互に入っていく。過去の話は結末のようなものは用意されていないのだけれど、その構成自体が長い島の歴史の1コマを現しているように感じました。それぞれのエピソードで異なる人が登場しますが、登場人物の些細な習慣に伴う思考の流れなども丁寧に描かれていて、その思いに心を馳せやすかったです。
またその過去と現代とをつなぐ物や写真などがあり、ああ、今周りにあるものも、こうやって私の知らない過去からつながっているものがたくさんあるんだよなあと思ったりしました。時の流れや流れていく寂しさを感じられる作品でした。 -
福岡の港からフェリーに乗って、長崎県の佐世保の沖合にある小さな島が今日の草刈りの現場。
母と娘、伯父と伯母と従妹の五人連れが、今も、おバーちゃんが暮らしている島の、おかーさんが養女にやられた家の納屋の前の草を刈る。
教えてやるとばかりに、「なになに家が」、「なになに家は」、と当たり前のようにおしゃべりがすすむが、私には今日、ここで草刈りをしなければならない経緯がよくわからない。
どこからかその種が飛んできて、刈り取られるセイタカアワダチソウのようにその島にやって来ては去って行き、「繁茂する話」の種だけは残していった人間もいたようなのだが、私とは縁もゆかりのあるようで、ないような「人間」のことが読者にだけは伝えらる。
この小説には、その時代、時代に、今日のように草を刈っていたのかもしれない複数の語り手がいて、大陸と列島を隔てる「海峡」に浮かぶ小さな島という「場所」を、物語の「サーガ」として育てようとしているのかもしれない。
まあ。そんなような予感はするが、イマイチ、実感は・・・・という感じでした。
ブログにも感想を書きました。お読みいただければ幸いです。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202007140000/