東京自叙伝 (集英社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (472ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087455854

作品紹介・あらすじ

明治維新から第二次世界大戦、バブル、地下鉄サリン事件、福島原発事故まで、帝都トーキョウに暗躍した謎の男の無責任一代記! 滅亡する東京を予言する一気読み必至の長編小説。(解説/原武史)

感想・レビュー・書評

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  • タイトル通りまさに「東京」の自叙伝。といっても東京を擬人化したわけではなく、東京の地霊のようなものが、ときに人間に、ときにネズミや猫その他の生き物や虫に、憑依するかのように乗り移って、なお「私」であり続けている状態。自叙伝を記すからには人間であったときの記憶が中心だけれど、輪廻転生とはまた違い、同時に複数の「私」が存在したり、その複数の私も、人間同士のこともあれば片方は猫のこともあり、二人に限らず三人四人複数の「私」が偏在していたりもする。

    この基本設定はとても面白い。そうしてさまざまな人間や動物に憑依したりしながら東京の地霊である「私」の生きた幕末、明治、大正、昭和、平成までの近代史のおもな出来事を網羅、大きな事件の裏には必ず「私」が絡んでおり、あれは実は私であった、あれも私であった、と、自慢話が続く(苦笑)。

    正直、着想が面白いだけで、語られている内容自体はあまり面白くはない。なぜなら語り手である「私」は、困ったことに何度別人に成り代わってもおおむね性格がクズなのだ(苦笑)自己中心的で卑怯、楽観的といえば聞こえはいいけれどつまり無責任。本人も認めているように、記憶力は抜群なので別人だったときの記憶はあるが、それが経験として蓄積はされない、つまり私は「学習しない」ので、同じような過ちを何度も繰り返す。

    ゆえに読者は結構イライラしてしまうわけですが、たまたまみつけた著者インタビュー(http://news.ameba.jp/20140529-400/)を読むと、まさにそれこそが狙いらしい。

    「あの特攻にも等しい戦艦大和の出撃やノモンハン事件にしても、我々は未だ反省も歴史化もできてはいないわけです。そこに起きたのが福島の原発事故で、繰り返される無反省と現状肯定に人格を与えると、この小説になる」

    なるほど、そういわれると確かに、この「繰り返される無反省」こそが現在の東京、そして日本を作ってきてしまったものであり、確かにそれを人格化して歴史を語れせればこうなるよなあ、と納得。ただ、それを小説として読んでる時間が愉快かというとそうでもないので、そこが難しいところ。意欲作だし、色々考えさせられはするけれど、ちょっと退屈だった。

  • 坦々と江戸時代から現代までの近代史を追いかけ、歴史の分岐点の裏には常に東京そのものである私がいるという偽史もの。偽史好きなこともあり楽しく読めた。
    東京の栄枯盛衰に対応して「私」も隆盛したり盛り下がったりするのがなんだか愛おしい。東京ちゃん、と呼び掛けたくなる。
    著者の批評的な視線として、「なるようになる」という適当さを日本の近代から現代に見出しているのが興味深い。適当という補助線を引いてみると、我が国ってほんとに適当だよなと感じる。コロナウイルスの対応についても政権与党の対応が場当たり的に流されていること、数年前に本作を書いた筆者の慧眼といったところ。
    また東京という都市の象徴にネズミを置いたのも、なるほどというかんじ。狭い土地に密集しアホみたいに狂乱する愚かな人間のメタファーとしてすごくしっくりくる。

  • この本をなぜ読んだのかと考えると、まず嬉しくて二度読みまでした「シューマンの指」を書いた人だったからで、内容も考えず読むことにした。私の好みは別としてもこの「シューマンの指」が代表作に中に入ってないように思えるのは疑問だ。薀蓄を好まない人が多いのだろうか、最後のどんでん返しも決まっていたのに。
    谷崎潤一郎賞受賞なので、そんなに外れはしないだろうという思いもあった。読んでみたら、奇想天外なのに、著者の、国の将来を危ぐする気持ちがこめられた、一つの都市だけでなく、日本と言う狭い島国の将来について考えさせられる部分も多かった。

    東京と言うからには、間違えば「代官山コールドケース」のように、話は面白いのに、頭の中の地図で迷子になると言う危険もあった。だがそれは杞憂で、十年近く棲んでいたおかげで方向だけは着いて行けた。

    今では東京と呼ばれている都市に古代から棲んでいる「地霊」が語る、長い長い歴史物語だけれど、代表的な事件や出来事が主になっているので、「地霊」が過ごしてきた時間に比べれは一瞬のようなものになる。

    弥生時代からもずっとずっと遡る混沌とした中から、鼠やミミズなど、様々な生き物に憑依し、地下から湧き出たような「地霊」は、特に東京に執着して、東京から離れたくない、自分でも認める「東京の地霊」になって幾世紀にもまたがる出来事を語る。

    人間に憑依した記憶の始まりは江戸時代。御家人の養子になり、学問や武術を習う、それが後々まで影響している。元服して人を切ってみる。それも貴重な体験で記憶にとどまっている。
    維新前には日和見で勤皇派に流れ、歩兵から成り上がちついに新政府で要職に着くまでになる。世事にさとく、他人の不幸は間接的には自分が招いたものでも、他人の運命や処世下手のせいにする、まことに利己的で鼻持ちならない性癖があらわになっている。

    憑依する原因は、火事や地震にまきこまれて、命が危ういことが多い。気がつけば見知らない身体になって生き延びている。

    カゲロウになったりアサリになったりネコや鼠にもなる、次に気がつくと関東大震災の後、人間になっていた。陸軍幼年学校から、陸大で学び、猛勉強で頭角を現し、陸軍参謀になる。大東亜戦争では作戦参謀、大戦で破れ、諏訪に逃げ、地震にあい、また次の憑依となる。


    新宿で不良少年になり、頭と度胸でヤクザを束ねる程になる。抗争や裏家業の麻薬売買、PL資材の横流しは戦後の混乱に乗じて大成功。新興のヤクザは地元の派閥には歯が立たず、起業してみたものの、偶然前に憑依した人物に再会する。同時に存在できるのは昔鼠などの多体に憑いていた記憶からも考えられる、と自分では納得。だが前身に会うと、殺意が湧き、抑えられず殺してしまい、受刑者になる。
    いやな人物だった記憶が、今のからだで見るとその気配だけでも、殺したくなるような気分に陥ってしまった結果だろう。

    だが、そばにいたおとこに都合よく憑依してまた新しい人生を始める。彼は秀才だった。商事会社に入社し、社長が溺れた宗教団体の寄付金を操作し、参謀時代の記憶から隠匿物資を取り込み、豪勢な生活を味わう。浅沼委員長刺殺事件や御成婚ンパレードの投石事件も裏で後を引いた。

    戦後の混乱が収まり成長期に入った。テレビ時事業、原子力発電事業の推進キャンペーンを張り、多くに支持される。この事業に伴う利権の裏では巧妙に動く。その後、世の流れを掴んで経営コンサルタント会社を設立する。
    生来の賑やか好きで安保闘争でも参加してあばれる。
    社長の宗教団体を継いで教祖になっていた妹が死んだ、教団は発展し妹は豪奢な生活をしていたが亡くなってしまった。その頃自分も上野公園で少年に刺されて死んだ。死んでまた様々なものに拡散して憑依した。

    暫く後、火事が起きた。不審火だと言われたが私が火をつけたのだ、火事に巻き込まれて気がつくと女性に憑依していた。彼女は勉強家で成績は良かったが、裏では遊び人だった。妹は固く面白味がなかったが、サリンを撒く教団にはいり、逮捕された。

    パチンコにおぼれたりしていたがバブルがはじけた。そのうち火が好きな本性が現れ放火魔になる。社長に自殺幇助を頼まれ礼金で保険金を受け取る。味を覚えて完全犯罪を繰り返すが、最後は殺される。どうも母親に保険金をかけられていたらしい。

    私は自然消滅、また拡散したが、3.11の地震で再生する。原子炉の作業員になって働いた。そこで事故にあう。原子炉の復帰作業を見ながら東京に帰りネットカフェで暮らし始める。秋葉原事件も私の分身がおこしたことで、それからネットの入り込み自己と拡散した人物との分別がつかなくなる、分散した自分の収集も出来なくなる。
    通り魔事件の後、拡散した人格がお互いを襲い始め、逮捕される。
    現実だったと思い込んでいた記憶が現実ではなかったのではと思う。

    <font color="cc9933">あれは個人が見た幻覚ではなく、いわば東京と言う街そのものが見た夢であり、東京が想起した記憶であり、その意味でリアルな東京の現実デアル。と。マァ単純に遠からぬ東京の未来を予知したと云ってもよろしいが、この云い方はやや正確を欠くので、何故なら、地霊には過去も未来もないからです。
    あまあのことは起こっている、起こりつつある</font>

    「地霊」に責任感はないが心配はしている。


    長い話だったが、「東京」と題名がついているが、狭い日本のこと、どこにでも起こりうる、ひょっとすれば起きてしまっている、様々な崩壊の形が、幻覚(富士山の噴火など)を通して語られている。

    こうした歴史の形を借りた話で、著者の憂いが伝わってくる。


    戦争の参謀本部の長い話や、次第に敗色を濃くする戦況などは、浅学なので読みづらかったが、様々な出来事の画面を見直すような気分で読了した。面白かった。

  • どの人物も軒並み、災厄をまき散らすタイプで、胸クソ悪すぎて読むのに苦労しました。
    屁理屈こねて正当化とか、手のひらクルーが日常茶飯事とか、まあ仕方ないよネ精神とか、読んでてツライってw
    二度は読みたくない小説やね。
    それが最後に収束していくわけですが、読む側のリテラシーと倫理観が試されているかの語りの連続。
    って、作者の手の上でまんまと踊らされてますな。

    書かれた時期的にもなのか、東日本大震災すぐ後の空気感みたいなのをひりひり思い出させる収束。

  • 虚実内混ぜ。六人の告白は、若干冗長に感じた。戦前の描写はウクライナと重なって、なんとも。災禍が繰り返すが、人間は無力。

  • 「東京はカオスだった、である、になる」

    452-7-17~21は鳥肌。
    453-1-6~453-16-1~9が、時勢と相まって、人間の本質なのかなと。

  • こんな時期に読んだからなのか、妙に腑に落ちる結末。
    「東京」の「都市としての原理」は「なるようにしかならぬ」って

  • 東京という土地が歴史を大きく動かしてきたのか。べらんめぇ調の語り口が絶妙で面白かった。ただ、全体として長く感じたのが残念。

  • 単行本は確か見出しが岩波新書ふうに配置されていた。
    単行本の真っ赤=火事のイメージ、帯の言葉溢れ出る感じ、に比べると、文庫の表紙はすっきりしすぎているかな。
    でも、背表紙の水色+表紙のピンクにちょこなんといる鼠を見て「カワイイー!」とジャケ買いしたほんわか女子が、読後ガツンとやられている光景を想像したりして。実際にその頭を「漫画マウス」にやられてしまえばなおよいが……いや、ないか。

    読み始めて当初連想したのは三島「豊饒の海」の輪廻転生、中上「百年の愉楽」の反復。
    中盤で、違うな、転生でも反復でもなく、鼠の群れのように同時存在する私の語りなのだな、と気づく構成になる。
    また特異な視点から歴史の語り直しをするだけでも価値があるのに、さらに東京の地霊が日本の自画像だと浮き彫りになっていく小説でもあるのだ。
    無責任の体系そのもの、中心は空っぽ、「なるようにしかならぬ」とは「勢いで成っていく」ことだ、といった批評は大東亜戦争に引き付けてずっと論じられてきたが、
    それが戦後にもそのまま続き、高度成長、バブル崩壊を経て311へ。
    そう、ひねりにひねった311後文学なのだ。

    それにしてもこの地霊、なんとなんと奥泉的な人物?なのだろうか。
    饒舌で軽薄で激しやすく冷めやすく責任感なし。ユーモラスでアイロニカル。
    蛹の私を孵化させる火事は野次馬根性的に好き。
    地霊にとってみれば諸行無常など当然なのだ。
    彼の行動原理は唯一、愛着のある東京にいたいということで、それ以外はどうでもいい。無責任一代記。

    この私が拡散と凝集を繰り返す。
    前半は業が深いゆえの悲劇的な死を迎えるのに対し、
    後半、日本が東京化し日本人が鼠化することで視点物の特徴は薄れていく。
    このあたり、やはり「豊饒の海」の尻すぼみと似ている。

    思い返せば奥泉はいつも暴力を描いてきた。
    理不尽に振るわれる暴力と、暴力の内面化。システムとしての暴力。
    あっけらかんと陰惨の同居。
    その代表として最たる例が、最終章の「凄まじい光景」。
    言葉を失ってしまったよ。

  • 奥泉光『東京自叙伝』は東京での事件外観である。

    江戸末期から、現代に至るまで、東京で発生する怪しげな事件はすべて私が起こしたあるいは私が関与したのである。

    私とは、どこからが私かそれはわからないが、ある時から自分が「私」であると認識するのだ。つまり、ある時からは自分は「私」ではなくなり、別の人物が「私」になる。

    ある時は柿崎幸衛門の養子、柿崎幸緒であり、ある時は陸軍参謀になる榊春彦、そしてある時は放火犯の戸部みどりなのである。それぞれの人物はそれぞれ当人としての人生を全うしているが、その一部期間が「わたしなのである。」。しかもその人物が「私」になるきっかけはいつも二つある。一つは大量に発生する鼠が現れること、もう一つは大地震とそれに類する大火災だ。これらをきっかけに、人物を渡り歩き、場合によっては、当人同士が同時に「私」でありながら、対峙するというもう訳が分からない状況が。

    もう一つ特徴がある。それは東京に絡むということである。東京にいる場合はよくも悪くも大活躍するが、東京を離れると急に肝が冷え急にやる気が薄れるのである。

    私にかかるとあらゆる事件やイベントが私が絡んでいる。そう、すなわち「私」とは実は東京そのものであり、東京で発生する事態にいずれも絡むのは当然なのだ。

    東京がもつパワーを、複数の私が共有しながら歴史が形作られていく、そんな荒唐無稽な物語でありながら、奥泉光の筆致力でひとつの物語にまとめられていくのは流石だ。

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著者プロフィール

作家、近畿大学教授

「2011年 『私と世界、世界の私』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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