隠された奴隷制 (集英社新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087210835

作品紹介・あらすじ

◇「自由」に働く私たちは、なぜ「奴隷」にすぎないのか?

マルクスの『資本論』には「隠された奴隷制」というキーワードが登場する。
一般に奴隷制と言えば、新大陸発見後にアフリカから連れて来られた黒人奴隷が想起され、すでに制度としては消滅している。
しかし著者によれば、「自由」に契約を交わす、現代の私たち労働者も同じく「奴隷」であるという。
その奴隷制はいかに「隠された」のか。格差社会はじめ諸矛盾が解決されることなく続く資本主義にオルタナティブはあるのか。
マルクス研究の大家である著者がロックから現在に至る「奴隷の思想史」350年間を辿り、資本主義の正体を明らかにする。

【目次】
第一章 奴隷制と自由──啓蒙思想
1.ロックと植民地経営
2.モンテスキューと黒人奴隷制
3.ルソーのモンテスキュー批判
4.ヴォルテールの奴隷制批判

第二章 奴隷労働の経済学──アダム・スミス
1.奴隷貿易の自由化
2.スミスとヴォルテール
3.奴隷労働の費用対効果
4.「労働貧民」としての「自由な」労働者

第三章 奴隷制と正義──ヘーゲル
1.ヘーゲルとハイチ
2.自己解放の絶対的権利
3.奴隷解放への期待と幻滅
4.労働者階級の貧困と「不正」

第四章 隠された奴隷制──マルクス
1.直接的奴隷制と間接的奴隷制
2.ブレイとマルクス
3.マルクスとアメリカ南北戦争
4.強制労働と「自由な自己決定」
5.「いわゆる本源的蓄積」論の意味

第五章 新しいヴェール──新自由主義
1.新自由主義的反革命
2.「自立」と「自己責任」
3.「人的資本」
4.「自己啓発」
5.「強制された自発性」

第六章 奴隷制から逃れるために
1.資本主義と奴隷制──ポメランツ
2.マルーンとゾミア──スコット
3.負債と奴隷制──グレーバー
4.資本主義の終焉を生きる

終章 私たちには自らを解放する絶対的な権利がある

◇植村 邦彦(うえむら・くにひこ)
1952年愛知県生まれ。一橋大学大学院博士課程修了(社会学博士)。関西大学経済学部教授。専門は社会思想史。
主な著作に『マルクスを読む』『「近代」を支える思想 市民社会・世界史・ナショナリズム』『マルクスのアクチュアリティ マルクスを再読する意味』
『市民社会とは何か』『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性 世界システムの思想史』など。

感想・レビュー・書評

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  • パワーワード溢れる興奮の読書。

    学者や思想家による〝奴隷“の解釈を追いながら、スタートラインから既に生産手段とされたそれを、最終的に現代の労働と重ねていく。徐々に思想にリアリティが増し本の後半で佳境に入るが、それはまるで、思想が本から飛び出て、まさに読み手が奴隷であった事実を突きつけるかのようだからだ。奴隷が自らと重なり、その脱出方法を必死で本の中に探す。

    ジョンロックは自ら奴隷貿易にも出資し、間接的に奴隷を所有していた。社会契約論は、植民地支配を時代背景としている。アダムスミスは奴隷労働は白人労働よりも安上がりだと言う植民地経営の常識を覆す指摘をする。その後、ヘーゲルは主人と奴隷の弁証法において、奴隷自身がものを生産しなければ、主人はものを食べることもできない。主人が帰って奴隷に依存=従属せざるを得ないという小麦の奴隷みたいな詭弁を弄しながら、自由の自覚と言う原理に基づき奴隷が自らを解放する絶対的な権利を擁護。しかし、ヘーゲルは労働者階級の側から提起される可能性のある平等の要求は却下。自由主義者ヘーゲルにとって私的所有の自由こそ最優先されるべき理性的なものであった。結局強制的な奴隷を容認している。転換点は、マルクス。その私的所有を批判して、平等の要求を対置した。更に、強制の強弱はあれど、一般労働さえも、そもそも奴隷に当たると。マルクスは資本主義を不正だと自覚していた。マルクスは自らを売ってしまう労働者をその奴隷状態と区別した後、しかしまだ覆い隠された奴隷制が残っていると指摘した。

    この辺から割と現代思想に繋がるパワーワードが増えてくる。マルクスに限らず。「細分化された労働は奴隷の仕事」。ジョンフランシスブレイは「交換の不平等、つまり奴隷制を創出する詐欺的なシステムによって労働者階級が奴隷階級となる」と。また別の思想家は、学校が成績評価や職業的なヒエラルキーへの配分に用いられる一見能力主義的とみられる方法によって、合法的な不平等を助長することになる。特権を合理化し、貧困個人の失敗のせいにすることにより、「教育は不平等を再生産している」。つまり、自己責任論の正当化、これがすなわち、隠された奴隷の正当化に繋がっていく。あるいは、「負債が奴隷を作る」。そして贈与や負債、交換や奴隷制の対極に位置する人間関係の原理こそコミュニズム。

    経済学者ジョン・ロビンソンは経済哲学と言う著書の中で、資本家に搾取される悲惨さよりも悪い唯一の事は、全く搾取されない悲惨さだと指摘。つまり失業への恐怖が労働者を従順にする。

    纏めてみると、利潤が行動原理であるが故に、交換の不平等が生じ、資本家も労働者も負債を負う。その負債が社会契約となり、労働を強いる。あるいは、労働すら与えられない、生存リスクから逃れるために、精神的にも拘束される。これらの仕組みを正当化するのが学歴ステイタス。

    皮肉にも、この構図がサピエンスの発展を齎した事も事実。幻想を支配者として崇め、自ら契約を課して、ひたすら労働に勤しむ。そこに快楽を感じているから、極端な脱出は考えていない。
    だが、少しはマシになっている。労働時間や年少労働の制限、コンプライアンス意識の高まりにより。そして、まだマシになっていくハズだ、と。その条件改善の予感すらも、巧妙に実装されているのかも知れないが、目を瞑り、ひたすらヒエラルキーの上へ。

  • 労働者の賃金は「彼ら自身の維持と再生産が行われる」最低限の水準に保たれているため、彼らは日々の「個人的消費」によって「生活手段をなくしてしまう」。
    つまり彼は、スミスの言う意味で「財産を取得できない人」なので、生活を続けるためには自分の労働力を労働市場で販売し続けることを「強制」されている。


    奴隷が受けるのが暴力的な「直接的強制」だとすれば、「自由な労働者」は雇用されて働く以外選択肢がなく、失業したら生きていけないという経済的な「間接的強制」を受けている。

    マルクスの「経済学批判」の課題とは、資本主義生産様式の構造を解明するにとどまらず、資本主義的生産様式を「公正な」ものとして正当化する自由主義的「神話」そのものを解体すること、自由主義イデオロギーから労働者を解放して、彼らが「並外れた意識」を獲得するのを助けること。

    「資本主義は不正」なのであり、したがって「隠された奴隷制」のもとにある賃金労働者にも、かつての奴隷と同じように「自らを解放する絶対的な権利」がある


    奴隷制=自由労働(わずかな賃金であれ契約したのなら)


    奴隷制がなければ、資本主義はなかった。
    近代資本主義世界システムが成立するためには、奴隷制プランテーションが不可欠だった。
    そして今もなお、「自由な労働者」というヴェールに覆われた「隠された奴隷制」がなければ、資本主義はなりたたない

    グレーバーによれば、資本主義は奴隷制に支えられていると同時に、コミュニズムにも支えられている。
    それが二重の意味での「資本主義のスキャンダル」だった。
    私たちは、自分自身の労働力の所有者として、奴隷の主人として、自分の奴隷を資本家にら企業に売り渡す。
    そして資本家のもとで、企業の中で奴隷として労働する。しかし、その職場の中で私たちは「コミュニズム的に」協働している。

  • 奴隷制から逃れるためには、個人が自分の時間の主人公になること。
    そのための手段として「階級闘争」に勇気をもって挑むことや「労働組合」に参加する、ポールメイソンの言う「協同組合的ネットワーク社会」の構築など様々ある。
    共通して言えるのは他人任せにせずに「主体的に動く」という事と「選択の幅を広げる」ことだと思う。

    資本主義経済から今すぐに脱却することは不可能だが「
    自分の時間を確保する」ことを意識し、時間はかかるかもしれないが徐々に社会主義的な方面へ関わっていくのが良いのかもしれない。

  • 重版

  • 昨今流行りのネオリベ批判よりもさらに直接に資本主義そのものを「隠された奴隷制」をキーワードに論じます.

    第4章マルクス登場までの前座(スミス,ヘーゲルほか)が長いけれども勉強になりました.

    最後に資本主義が終焉するその先を考えるヒントが紹介され(実質読書案内),便利で助かります.

  • 2019.12―読了

  • 意欲作だと思うが、再読の必要あり。

  • 現代において労働は、契約に基づくものなんだから、奴隷制とは無関係。むしろ、奴隷制なんてとっくに時代遅れになったものを持ち出してきて、何様なの?的な風潮があるのかもしれない。しかし、対等な契約主体同士で結ばれた雇用関係、なんてものは支配者側、上級国民側、資本家側からの押し付けに過ぎず、それ自体が明白なファンタジーにすぎないのだと本書は明らかにする。

  • 資本主義は隠れた奴隷制とイデオロギーの塊と見ることができる。
    自己責任という言葉は二度と口にしないと誓った。

    終章に至る組み立てが見事。
    ブラック企業という言葉が誕生しなければ自己責任で推しつぶされ続けていたであろう日本。
    階層闘争として定時で帰るとかそういう戦いなのである。
    自由主義は自由ではなかった。結局は労働搾取の世界が蔓延しただけと。

    労働からの解放に逃れるためには資本家になるというより、
    現実的な解としては時短でも成り立つ社会だと思えた。
    そのような社会を資本家であり労働者であるという個人になりつるある視点を持つ未来を想定して、またその一人として労働と向き合いたい。

    最終的な日本の未来は村であり祭りを労働とする関係性が目指す未来かなと思っている。
    もう少しネットサロンのような形が胡散臭くなくなり、
    生活の基盤の選択肢の一つとなる分業になるといいなとみている。
    そういう思考の整理ができたので本書は奴隷制という仕組みと資本主義の形の成り立ちとして抑えておきたい。

    中盤が小難しいが、引用きっちりなので納得度高め。

  • 奴隷制は排斥されず、手綱を緩めた資本主義は、現在の富の格差(労働貧民)を再び隆盛させた。
    資本家(雇用者)も、資本主義の奴隷。

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著者プロフィール

1952年生まれ、関西大学経済学部教授、専門は社会思想史。著書に、『マルクスを読む』(青土社)、『マルクスのアクチュアリティ マルクスを再読する意味』(新泉社)、『市民社会とは何か 基本概念の系譜』(平凡社新書)、『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性 世界システムの思想史』(平凡社)。訳書に、マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(平凡社ライブラリー)などがある。

「2017年 『壊れゆく資本主義をどう生きるか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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