スマートな悪 技術と暴力について

著者 :
  • 講談社
4.08
  • (13)
  • (18)
  • (8)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 260
感想 : 18
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (210ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065276822

作品紹介・あらすじ

 いま、あなたの周りには、いったいいくつのスマートデバイスが存在するだろうか。もしかしたら、あなたのポケットにはスマートフォンが入っているかも知れない。あるいはあなたの腕にはスマートウォッチが巻かれているかも知れない。スマートスピーカーで音楽を聴き、スマートペンでメモを取っているかもしれない。あなたの家はスマートロックに守られているかも知れない。そんなあなたはスマートシティに住んでいるかも知れない。
 私たちの日常を多くのスマートなものが浸食している。私たちの生活はだんだんと、しかし確実に、全体としてスマート化し始めている。しかし、それはそうであるべきなのだろうか。そのように考えているとき、問われているのは倫理である。本書は、こうしたスマートさの倫理的な含意を考察するものである。
(中略)
 もちろん、社会がスマート化することによって私たちの生活が便利になるのは事実だろう。それによって、これまで放置されてきた社会課題が解決され、人々の豊かな暮らしが実現されるのなら、それは歓迎されるべきことだ。まずこの点を強調しておこう。
 あえて疑問を口にしてみよう。スマートさがそれ自体で望ましいものであるとは限らないのではないか。むしろ、スマートさによってもたらされる不都合な事態、回避されるべき事態、一言で表現するなら、「悪」もまた存在しうるのではないか。そうした悪を覆い隠し、社会全体をスマート化することは、実際にはとても危険なことなのではないか。超スマート社会は本当に人間にとって望ましい世界なのか。その世界は、本当に、人間に対して牙を剥かないのだろうか。
 そうした、スマートさが抱えうるネガティブな側面について、つまり「スマートな悪」について分析することが、本書のテーマだ。
(中略)
……本書は一つの「技術の哲学」として議論されることになる。技術の哲学は二〇世紀の半ばから論じられるようになった現代思想の一つの潮流である。本書は、マルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント、ギュンター・アンダース、イヴァン・イリイチなどの思想を手がかりにしながらも、これまで主題的に論じられてこなかった「スマートさ」という概念を検討することで、日本における技術の哲学の議論に新しい論点を導入したいと考えている。(「はじめに」より)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • スマートであることに関して、メリットばかりが語られているが、最適化の中で削り落とされるものは多い。

    一般的には、ノイズとして例えられているが、実世界は、容量を削減するためのノイズ除去のように、機械的であってはならない部分が多い。

    全ての仕組みを網羅的に知る必要はない。
    しかしながら、今この手で操作しているスマホの、画面の奥のバックグラウンドでどのような処理がなされているのか。

    私たちは時として、ただ1人のユーザーから、俯瞰してみるようになければならないこともある。

  • タイトルはいささか大げさで、「スマートの罠」ぐらいかな。
    スマートな社会に疑問を呈し、語源から持ってきたことに宿命性があるし、アイヒマン、満員電車、オウムと繋げてきたことには哲学の凄みを感じた。しかも村上春樹にまでいったのにも驚いた。この本を手に取ったきっかけが著作に度々出てくる「システム」という言葉だったから。
    最後がやや早急だったのが少し残念だし、ガジェットはやや弱いと思う。

  • ダ・ヴィンチ7月号掲載 評者:永田望(週刊金曜日書評委員)

  • 「スマート」という言葉は非常に聞こえの良い言葉であるが、本書では主にネガティブな側面に注目している。テクノロジーの発達により生活は最適化され「スマートな社会」へ進歩すると考えられているが、一方で最適化が悪への加担を引き起こしうるということを認識しなければならない。最適化には暴力性を孕んでいることを本書では「スマートな悪」と呼んでいる。

    「スマートな悪」が暴走したらどうなるのか?ここではナチズムとアイヒマンを事例に出しながらその末路を論じている。まさに全体主義は最適化の負の側面であり、アーレントやアンダースによる全体主義の起源の考察は現代においても、とりわけ超スマート社会化おいては通ずる点が少なくない。

    歴史的な出来事から日常的な事象と幅広い具体例を交えながら、「スマートな悪」が持つ危険性が分かりやすく説明されており、テクノロジーの発達に対する危機感、さらには日本政府が提唱する「Society 5.0」への警鐘として示唆に富む良書だった。

    • ともひでさん
      面白そう、読みます。
      中尾がどうやってこの本に辿り着いたのか気になるぞ
      面白そう、読みます。
      中尾がどうやってこの本に辿り着いたのか気になるぞ
      2022/05/16
    • 中尾さん
      ハイデガーとアーレントの思想理解を深めたいと思ってたらこの著者(ヨナスが専門らしいが)を見つけて色々読み漁っている感じで〜〜
      ハイデガーとアーレントの思想理解を深めたいと思ってたらこの著者(ヨナスが専門らしいが)を見つけて色々読み漁っている感じで〜〜
      2022/05/16
  • 良心を今自分が生きるシステム(社会)へ自動最適化してしまうこと(それも「無意識」に)。そして、その問題がとても可視化しづらいこと。そのことを忘れないで、自分という人間が背負う責任から逃れないで生きるために、どうすればいいのか。

    現時点での私の答えは、こうだ。

    今の地点(システム)に自分が存在しているという事実を意識しながらも、別の地点(システム)も、勿論この世界には存在し得ること、そしてそれは今自分がいる地点と代替可能な地点ではなく、同時に存在し得る地点であり、そこに自分が足を踏み入れることは自分自身が身軽(自分がいる地点にポジティブな意味合いで懐疑的)であり続ける限り、いつでも可能であることを思考の中枢に据えておく。その為にも、自分(人間)の良心の見事なまでの脆さ、危うさに自覚的に、自信を持たずにいることが必要である。

    本書にて取り上げられていたナチスの大量虐殺について、恥ずかしいほどに知識が不足しているので、まずはそこから学び直そう、と思っている。
    その後、自分の考えも洗練されていくと思う。

  • ガジェット、答えは別にある

  • スマート化と多様性は相反することなのだということが分かって、この先どうなっていくのだろうと不安になる。
    子どもたちが社会適合者になることは難しいだろうし、社会不適合者のままうまくガジェットになってくれたらいいなと思うから、そんなシステムが複数見付かることを願う。

    数年前、保育園に行きたくないと泣き叫ぶ娘を無理矢理引っ張って保育園に連れて行った自分を思い出した。
    娘の気持ちを蔑ろにしてまで時間に遅れずに職場に行きたいと思ったのは、自分が職場の規則を破る人間になりたくなかったから。
    どうしてそうだったのか、よく分かった。

    読みながら色々なことを考えたのだけれど、自分の考えの及ぶ範囲から溢れ出てしまうことが多くて、もう何も考えたくないし選びたくないと思ってしまう自分もいた。
    考えなくて済むなら、システムの歯車になって、それが果たして人道的ではないことにつながっていても、自身がそれを認識することがなく、責められることがなければ、それでもいいのではないか。
    そう思えるくらい、考え始めると考えるべきことが多くて混乱してしまうけれど、それでもどうにかこうにか自分の心に従って行動を決めていくことを、いつか痛みのすえに死んでしまう日が来るまで続けていきたい、と今はまだ思えている。

  • スマートなデバイス、サービスが生み出すスマートなシステム、スマートな社会。スマートさがもたらす悪の可能性を探求する本。

    そこで登場するのが、アイヒマンというわけで、アーレントの議論を軸にしながら展開していく哲学的な技術・社会論、という感じかな?

    一つひとつのスマートなサービスは、便利で、使い始めるとそれなしには生きていけないのだが、全体して、それが人の幸福、社会の幸福につながっているのかは心配な気持ちになる。

    著者は、スマートの語源にある痛みといったところを確認しつつ、スマートが目指す一人一人への最適化という概念をロジスティックスの問題と関連づける。で、ロジといえばということで、ユダヤ人の強制収容所への移送のロジスティックスの専門家としてアイヒマンがでてきて、アーレントやアンダースの議論が紹介されるという流れ。

    では、人々が全体がわからないうちにシステムの歯車になってしまうスマートな悪から逃れようとしても、人間はシステムの外にでることはできない。外に出たつもりが、他のシステムに移る、絡め取られるだけである、というのもそうだろうなと思う。

    そういう八方塞がりのなかで、著者は、自分のいるシステムがすべてと思って、違う可能性を考えなくなることをさけるという観点で、ガジェットという概念をもちだす。

    ガジェットは、もともとの用途とは違う形で、使う器具のようなもので、つまり、あるシステムと違うシステムをつなぐような技術、人の生き方の比喩である。

    この先の議論がもう少し具体的に展開してほしかった気はするが、比喩としてはなかなか面白いかな。(あとがきで、「ずっと真夜中でいいのに。」というバンドの話しがでてくるが。)

    ちなみに、アーレンとのいわゆるアイヒマン論争を通じた議論で、アーレントは、「普通の人」がナティスを支持したということを前提としつつ、「凡庸な悪」はそれとはちょっと違う種類の悪の性質を論じているみたいで、著者の「だれでも悪のシステムに加担する可能性がある」という議論とは微妙に違う気はするが、アーレントの議論も結局のところ「考えないこと」に収束していくので、その意味では、著者の議論は、アーレント理解としても適切なものかと思った。

全18件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

戸谷 洋志(とや・ひろし):1988 年東京都生まれ。立命館大学大学院 先端総合学術研究科准教授。法政大学文学部哲学科卒業後、大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は哲学・倫理学。ドイツ現代思想研究に起点を置いて、社会におけるテクノロジーをめぐる倫理のあり方を探求する傍ら、「哲学カフェ」の実践などを通じて、社会に開かれた対話の場を提案している。著書に『ハンス・ヨナスの哲学』(角川ソフィア文庫)、『ハンス・ヨナス 未来への責任』(慶應義塾大学出版会)、『原子力の哲学』『未来倫理』(集英社新書)、『スマートな悪 技術と暴力について』(講談社)、『友情を哲学する 七人の哲学者たちの友情観』(光文社新書)、『SNSの哲学リアルとオンラインのあいだ』(創元社)、『親ガチャの哲学』(新潮新書)『恋愛の哲学』(晶文社)など。2015年「原子力をめぐる哲学――ドイツ現代思想を中心に」で第31回暁烏敏賞受賞。

「2024年 『悪いことはなぜ楽しいのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

戸谷洋志の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×