- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065217740
作品紹介・あらすじ
格差、雇用不安、実感無き経済成長――
私たちは、何を間違えたのか。
アダム・スミス、ケインズから構造改革、アベノミクスへとつながる財政政策を振り返りながら、
今一度、正しき「経済の思考法」の条件を、考える
学術文庫版「はじめに」
第1章 失われた二〇年――構造改革はなぜ失敗したのか
第2章 グローバル資本主義の危機――リーマン・ショックからEU危機へ
第3章 変容する資本主義――リスクを管理できない金融経済
第4章 「経済学」の犯罪――グローバル危機をもたらした市場中心主義
第5章 アダム・スミスを再考する――市場主義の源流にあるもの
第6章 「国力」をめぐる経済学の争い――金融グローバリズムをめぐって
第7章 ケインズ経済学の真の意味――「貨幣」の経済学へ向けて
第8章 「貨幣」という過剰なるもの――「稀少性」の経済から「過剰性」の経済へ
第9章 「脱成長主義」へ向けて――現代文明の転換の試み
あとがき――ひとつの回想
2012年刊行、講談社現代新書『経済学の犯罪』を改題、
大幅加筆修正したものです
感想・レビュー・書評
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む、難しい...
経済学そのものを考え直させる論文
のっけから、
「経済学は経済を扱うことができない」
とはじまります
経済学は「経済現象」を観察することで成り立つ学問ではなく、経済学の学問に合わせて経済を定義しているとのこと。
つまり、
科学的なもの(観察から普遍的な法則を見出すもの)ではなく思想的なもの(イデオロギー)
としています。
そして、現在の経済学の考え方である「稀少資源の配分」という考え方から「過剰性の原理」という視点で経済現象をとらえようとしています。
経済の拡張をもたらす物は、稀少な資源を使って生産を拡張するのではなく過剰性の処理からもたらされるとのこと。
欲望は過剰性から生み出され、結果、財貨が稀少になるとのことです。
「稀少性の原理」
無限に膨らむ人間の欲望に対して、資源は稀少
市場競争によって、資源配分の効率性をあかめ、技術革新などによって、経済成長を生み出す必要がある
一方、「過剰性の原理」
成熟釈迦においては、潜在的な生産能力が生み出すものを吸収するだけの欲望が形成されない。よって、生産能力の過剰性をいかに処理するかが問題
筆者の主張は
過剰性の原理から市場が成立していて、その市場が稀少性という問題を生み出すとのことです。
なので、稀少性といった見せかけの問題に欺かれるなと伝えています。
うーーん、難しかったけど、なんとなく理解できたような、ちんぷんかんぷんのような...
とりあえず、こうやってレビューを書いたことで少し整理ができました(笑)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
図書館で借りた。
年末年始経済学ラッシュ第一弾 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/768263 -
経済学という科学的な装いをしているが、どうも怪しい学問について、初めて親近感を持って読めた本である。
市場原理主義者が構造改革が必要だとして行った「改革」は悉く日本人の普通の人の自信を奪い、希望を抱くことを諦め、大胆なチャレンジなんて考えない大衆に変えた。
経済学者が言ってきたことのほとんどが、日本人を幸せにしてこなかった。この本は、まずそのことを認めている点がすごい本だと思った。しかも、スミスやケインズの考えていたことの本当をわかりやすく教えてくれる。我々は、スミスこそ市場原理主義者と誤解していたし、ケインズこそ成長至上主義者と誤解している。
そんな私たちに本当の経済学をわかりやすく教えてくれるこの本は価値があると思った。 -
実体経済と理論の関係性を書きだした本書。
経済学の基礎的な部分を知っていないと少し読みづらいかもしれないが、経済学は思想が根本にあって、純粋な意味での科学ではありえない、ということを知れただけでも、有意義な読書となった。
そもそも”市場主義経済”において、経済成長をし続けることはあり得ないという説明も、現状の先進国を覆っている状況に鑑みると頷けるものである。 -
著者・佐伯啓思氏は、経済学が経済を扱うには、経済現象は複雑過ぎると言い、経済学が扱っているものは、経済学が『経済』と定義しているものに過ぎないという。
また、経済学が政治に介入し、経済現象を形作っているとも。
『経済学の思考法』というタイトルだけあって、経済学の哲学面、考え方に重きを置いている。
目次
第1章 失われた20年 構造改革はなぜ失敗したのか
第2章 グローバル資本主義の危機 リーマン・ショックから
第3章 変容する資本主義 リスクを管理できない金融経済
第4章 『経済学』の犯罪 グローバル危機をもたらす市場中心主義
第5章 アダム・スミスを再考する 市場主義の源流にあるもの
第6章 『国力』をめぐる経済学の争い 金融グローバリズムをめぐって
第7章 ケインズ経済学の真の意味 『貨幣の経済学』へ向けて
第8章 『貨幣』という過剰なるもの 『希少性の経済』から
第9章 『脱成長主義』へ向けて 現代文明の転換の試み
第1章の『失われた20年』において著者は、この間の経済成長は、リストラなどによる労働コストの削減による企業業績の回復によるものであり、この間の構造改革は、新自由主義の論理により、供給側ばかりに焦点が当たり、需要側に焦点が当たっていなかったと説明する。
雇用調整で1企業の効率性を高めても、失業者や賃金の低下を招けば、需要は伸びず、GDPを押し上げる効果をもたらさないと。
著者のこの説明により、結局、トリクルダウン理論は機能しなかったし、景気がいいと言いつつ、一般庶民にその景気感を実感できない理由が理解できた。
第4章において、1930年代の世界大不況の後、ケインズ経済学が、1970年代の世界経済の混乱の後には、シカゴ学派を中心とする市場競争中心の経済学が勃興したが、第3の危機である2008年の世界金融危機後には、対応する経済学が存在しないという。
そして、第7章において、金融市場が発展すれば、金融市場の内部でお金が回り、実体経済での投資へは向かわないという。
そして、実体経済から金融経済への資本の移動を食い止める自動調整メカニズムが作動しないため、不況の長期化が起こるという。
そして、今日の先進国には、もはや高度な経済成長は不可能であると述べる。
ケインズが経済活動においての時間を重視したように、著者の言うように、将来の期待値により、企業や家計は、ストックしたり、投資するものだと思う。
新自由主義が席巻した事により、以前よく聞かれた、この説明が、いつの間にか聞かれなくなった。
そして、経済学とは、希少性をめぐる学問とされるが、著者は『欲望』は、過剰性により生み出され、財貨を『希少』化させると主張する。
第9章の『脱成長主義』へ向けてにおいて、佐伯啓思氏は、1970年代後半に存在した2つの可能性、新自由主義とベルが主張していた公共的計画を重視する『ポスト工業社会』の構想を提示し、後者の可能性はなかったのかと想像する。
大事なのは、将来の社会像を構想する力であって、決して、人間が経済学の奴隷になってはいけないと結論付ける。
非常に有意義な読書体験であり、得るものが大変大きかった。