- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065213537
作品紹介・あらすじ
人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、
コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。
ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。
相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。
目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。
感想・レビュー・書評
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『さわる』と『ふれる』。無意識に使っている言葉。著者は、研究者として、緻密に検証しています。素人の自分には、本書が全て理解できたわけではありませんが、職業的に人に触れることが多いため、触覚やコミュニケーションの観点から『ほぉ』『へぇ』と学ぶことが多かったです。介護者や援助者は読んで損はないと思います!ちょっと難しい箇所は飛ばし読みでよいと思います。
第一章 倫理
第二章 触覚
第三章 信頼
第四章 コミュニケーション
第五章 共鳴
第六章 不埒な手
本書の序文から抜粋します。
↓
日本語には触覚に関する二つの動詞があります。
①ふれる
②さわる
英語にするとどちらも『 touch』 ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。
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書評を見て気になっていた。
手で触れるとさわるとの違い。
手を介したコミュニケーションと、人との距離の取り方。
触感や皮膚感覚が人の感覚に働きかける割合。
いろいろ考えさせられる。
特に最終章の表現は見事だなぁと感心した。 -
「ふれる」は相互的で人間的なかかわり、ふれることは直ちにふれ合うことに通じる。
「さわる」は一方的で物的なかかわり。
相手が人間だからと言って必ずしも人間的なかかわりとは限らない。とはいえ物的にかかわることが悪とは限らない。
~介護は正しく「ふれる」仕事である。ふれあうことで感じあえるから、好きな仕事としてでき、やりがいをかんじるのだろう。
ところが「さわる」ことしかできない介護職は少なくない。利用者を「もの」扱いし、介護をお金を稼ぐ手段としてしか考えられないのだ。だからふれあうことで利用者から伝わってくるものを受け止められないのだ、もったいない。
「技術」は習慣とは違って、文化の差を超えて流通しうるもの。誰が、いつ、どこでやってもきちんと作動さえすれば同じ結果をもたらすもの。
~技術には再現性が必要、そして他人に伝えられなければ技術とは言えないと思う。
「道徳」は小学校の道徳の授業で習うような「〇〇しなさい」という絶対的で普遍的な規則。
「倫理」は現実の具体的な状況でどう振舞うのが良いか、少しでもマシなのかということ。世の中は単純で明確なことはめったになく、困難な問題を考えていく。
~「倫理」はジレンマに繋がる。それでも少しでも良い方向に進むために考え抜くことが求められるのだろう。
これさえ守れば正しいというものではない。
「多様性」は「不干渉」と表裏一体であり、「分断」まではほんの一歩である。
~相手の存在を受け止め、程よい距離感で関わることが難しい世の中になった。相手に関わりたくない、または見下したいという感覚が「分断」を産むのではないか。
「安心」とは、「相手のせいで自分がひどい目に合う」可能性を意識しないこと。
「信頼」とは、「相手のせいで自分がひどい目に合う」可能性を自覚したうえで、ひどい目に合わない方に賭けるということ。信頼はものごとを合理化する。
「生きること」はそもそもリスクを伴うもの。
「安心」の枠外にでること、それは「信頼」にもとづいて生きること。
~「安心」の中だけで生きていくのはつまらないし、それがいつまで続くかは分からない。少しリスクが伴う「信頼」を伴う生き方が楽しく、自己成長に繋がるのだと思う。「信頼」できる人がいないことで楽しくなく、未来に希望を持てない人が少ないのではないか。 -
「さわる」と「ふれる」の違いから、かつては感覚の中で劣っているとされた触覚を、信頼・コミュニケーション・共鳴の章を立てながら展開していく。
冒頭からめちゃくちゃ面白いのが、「道徳」と「倫理」の違いについて。
道徳が普遍的な「……であるべき」なのに対して、倫理はある経験に則して、道徳を当てはめるときの難しさ、上手くいかなさから、再度自分で構築しなおす感じ。
そこに触覚という、相手の内部に入っていくという感覚と組み合わせていく。
さらには社会、多様性が取り上げられすぎる違和感ももって、反対に分断を肯定してしまっているのではないかと続ける。
人と人との関係性、自分の中にある複雑さも、ふれることと倫理から見直していこうとする。
たまたま今日、美容師さんと「親密な関係ではない人に、いきなり髪に触れられたらイヤですよね」という話をしていた所で。
その人は初対面の相手には必ず声をかけてから、髪に触れるのだと聞いた。
文中では胸元の計測器が外れていた患者さんに、看護師さんが徐に付け直したところ、蹴られたというエピソードに似ている。
私は、美容師さんって仕事なのに気を遣っているんだなーと思っていたのだけど、ふれること、の距離マイナス感を、彼女はちゃんと感じているということなのだろう。
続けて、祖母が亡くなる前はベタベタと触れられたのに、棺に入ってしまった後は触れられなくなったことも思い出した。
その時の自分は、触れないといけないけど、なんだか怖いという思いで、そんな思いでいる自分に対して憤りも同時に感じていた。
尊さと畏怖、という言葉を与えてくれた伊藤さんには感謝をしたい。 -
触覚を通じたコミュニケーションは「距離ゼロ」ではなく、相手の内面にふれる「距離マイナス」なのだという考え方。
今までそこまで考えてしてたわけじゃないけど、コロナ禍で「握手」が気軽なものではなくなったことで変わる人間関係もあるのかなーとか思ったりもした。
一方的な「さわる」と相互的な「ふれる」
ただ発信するだけの「伝達モード」とやり取りを重ねる「生成モードのコミュニケーション」
後者を正解とするのが「道徳的」な態度なのだろうけど、必ずしも一方的な発信が悪ではないのが現実。
今はどちらの態度でふれれば、あるいはさわれば良いのか考えるのが倫理というもの。 -
道徳と倫理の違いからはじまり、興味深い多彩な例示でわかりやすく論じられててよかった。
どの項も面白かった。ロープを通じて伴走するときに感じる共鳴について、特に印象に残った。
最初に道徳と倫理の違いについて知った時、だから私は道徳だとピンとこなかったけど倫理には興味が持てたんだと納得した。
参考文献にも面白そうな本がたくさんあったので読みたい。 -
目の見えない人や耳の聞こえない人からインタビューして研究を進めていた著者が、介助の経験を通して体の接触をする中で、「さわる」、「ふれる」とはどういうことなのか、人間関係にどのように関わるのかなどについて考察したものである。
伝統的な西洋哲学では、5つの感覚において視覚が最上位に位置付けられる一方、触覚は劣位に置かれていた。そうした中でも子供にとっての触る事の重要性を論じた教育学者のフレーベルや、哲学者ヘルダーの議論を紹介しつつ、触覚の意味合いについて考察を深めていく。
第5章「共鳴」では、ブラインドランのランナーと伴奏者の間のロープを握って走るという具体的な行為を例に取って、両者が共鳴することで情報がやり取りされること、一方的な伝達ではなく、伝わっていく関係ができるというところは、とても興味深かった。
子育て、介助、スポーツなど肉体的接触の場面は決して少なくないにもかかわらず、あまり正面から取り上げられてこなかった、さわる/ふれるについて、様々な角度から考察がされており、創造的な人間関係を開いていく可能性に期待を抱かせる、そのような書であった。
なお、本書タイトル『手の倫理』の"倫理"の意味するところについては最終章に詳しいのだが、是非本文を読んで、読む人なりに考えてもらうことを望みます。 -
たしか土井善晴先生と中島岳志先生の対談の中で聞いて読もうと思ったのがきっかけ。
「ふれる」ことの対称性や信頼から安心への変化。「ふれる」ことによるコミュニケーションの深さ、生成モードによる信頼の育みなど、視覚や聴覚によるコミュニケーションだけではどうしても信頼と安心の構築が難しいと感じるのはこの辺りが関係しているのかもしれない。
それに人にふれるということだけではなく、道具や食材に語るようにふれることでその内面性を感じられるようになりたいと思ったりもした。