アガンベン 《ホモ・サケル》の思想 (講談社選書メチエ)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065187562

作品紹介・あらすじ

イタリアの思想家が注目を浴びるようになって、すでに久しい。中でも世界の思想を中心で牽引してきたのが、ジョルジョ・アガンベン(1942年生)である。そして、今日に至るまで多数の著作をコンスタントに発表し続けてきたアガンベンの代表作が《ホモ・サケル》と題された全4巻計9冊に及ぶプロジェクトであることに異論はないだろう。その構成は、以下のとおりである。

I『ホモ・サケル』1995年(邦訳:以文社)
II-1『例外状態』2003年(邦訳:未来社)
 2『スタシス』2015年(邦訳:青土社)
 3『言語活動の秘跡』2008年
 4『王国と栄光』2007年(邦訳:青土社)
 5『オプス・デイ』2012年(邦訳:以文社)
III『アウシュヴィッツの残りのもの』1998年(邦訳:月曜社)
IV-1『いと高き貧しさ』2011年(邦訳:みすず書房)
 2『身体の使用』2014年(邦訳:みすず書房)

1995年から2015年まで、実に20年をかけて完結したこのプロジェクトは、いったい何を目指したのか? 日本語訳も残すところ1冊となったいま、《ホモ・サケル》に属する4冊のほか、アガンベンの翻訳を数多く手がけてきた著者が、その全容を平明に解説する。
プロジェクトの表題として掲げられた「ホモ・サケル(homo sacer)」とは、ローマの古法に登場する、罪に問われることなく殺害でき、しかも犠牲として神々に供することのできない存在のことである。ミシェル・フーコーが「生政治(biopolitique)」と名づけて解明に着手したものの完遂することなく終わった問いを継承するアガンベンは、この「ホモ・サケル」に権力の法制度的モデルと生政治的モデルの隠れた交点を見る。裸のまま法的保護の外に投げ出された「ホモ・サケル」の「剥き出しの生(la nuda vita)」の空間が政治の空間と一致するようになり、排除と包含、外部と内部、ビオスとゾーエー、法権利と事実の区別が定かでなくなること――それが近代における政治の特徴にほかならない。
現在進行形の重大な問いを壮大な思想史として描き出した記念碑的プロジェクトは、われわれにとって尽きせぬヒントにあふれている。その最良の道標となるべき1冊が、ここに完成した。

[本書の内容]
プロローグ アガンベンの経歴
第I章 〈閾〉からの思考
第II章 証 言
第III章 法の〈開いている〉門の前で
第IV章 例外状態
 補論 「夜のティックーン」
第V章 オイコノミア
第VI章 誓言と任務
第VII章 所有することなき使用
第VIII章 脱構成的可能態の理論のために
エピローグ 「まだ書かれていない」作品

感想・レビュー・書評

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  • 本書は、アガンベンの≪ホモ・サケル(homo sacer)≫プロジェクトを紹介するものである。≪ホモ・サケル≫プロジェクトとは、イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンが1995年から2015年の20年間をかけて進められた哲学的思索プロジェクトであり、最終的には全九巻からなる合本にまとめられている。

    I.『ホモ・サケル――主権的権力と剥き出しの生』
    II.-1.『例外状態』
    II.-2.『スタシス――政治的パラダイムとしての内戦』
    II.-3.『言語活動の秘跡――誓言の考古学』
    II.-4.『王国と栄光――経済と統治の神学的系譜学のために』
    II.-5.『オプス・デイ――任務の考古学』
    III.『アウシュビッツの残りもの――アルシーヴと証人』
    IV.-1.『いと高き貧しさ』
    IV.-2.『身体の使用』

    これらの合本が出たのを機に、≪ホモ・サケル≫プロジェクトの意義について、自分なりの見解をまとめたのが本書だという。

    アガンベンは、自分も最近注目している哲学者である。ポスト構造主義とまとめられた哲学者の中でも思うに唯一現実的であったのがフーコーであり、彼がその課題と手法を引継ぎ、「生政治」についての思索を深化させているのが注目したい点である。アガンベンの論文集『思考の潜勢力』を翻訳した高桑和巳さんは「アガンベンは、「進化ではなく深化する哲学者」なのである」とそのあとがきに書いたという。著者は、「アガンベンのプロジェクトはフーコーが着手しながら完遂することなく他界してしまった「生政治」をめぐる考察を受け継いで完遂しようとしたものであると、ひとまずは受けとめることができる」という。九巻のそれぞれのタイトルを見ても、それがフーコーの手法を活用したものであり、またフーコーを強く意識したものであることがわかる。「考古学」はフーコーが彼の著作・研究を通して磨き上げた方法論であるし、アルシーヴはその中で出てくる用語だ。「系譜学」はフーコーがニーチェを強く意識し、また、意識的に使ってきた用語である。「主権的権力」は『監獄の誕生』『性の歴史』などの主要著作の中でも重点的に検討される対象である。

    さらに、このコロナの状況においてどの哲学者も哲学的に有効な言葉を発しなかった中、アガンベンの行った発言がまた刺激的である。彼の発言は各所より大きな反発を招いたが、反発を招いたこと自体がその言葉が有効である証拠でもある。アガンベンはこれまで、<剥き出しの生>について主権とともに哲学的に語ってきたし、法規的な例外状態についても法政治学的に語ってきた。だからこそ、この事態において発言する資格と義務があるというものである。アガンベンは、かくも簡単に死者の葬儀をあきらめたことと、またかくも簡単に移動の自由を放棄したことと、を批判するのである。政府からの指示命令が「まるで「総統」のそれのごとく」という言葉を使うことからも、それが危険な状態であることを危惧しているのである。

    本書は、≪ホモ・サケル≫プロジェクトを概観するが、もともとがわかりやすい思想家ではなく、それをこれだけの枚数に詰め込んでいるので、これでよくわかったというのは難しい。それでも頑張ってみていきたい。

    そもそもプロジェクト名にもなっている≪ホモ・サケル≫=聖なる人間、とは何か。古代のローマ人の法律の中に登場し、親に危害を加えたり、境界石を掘り起こしたり、といった共同体に害したものへの処罰として、法の適用から除外された人間のことを指す。このものは誰でも殺人罪に問われることなく殺すことができる。この法的保護や社会的保護から投げ出された生のありようを指して、<剥き出しの生>と呼ぶ。

    まず<生政治>や<剥き出しの生>における「生」とは何か。「生」においては、アリストテレスの時代にまで遡り、生物共通の生きているという一般的事実を表現する「ゾーエー(zôê)」と固有の「生の形式」を指す「bios」を区別することが重要だ。その上で政治・権力がゾーエーの管理をみずからの統治行為の中心に置くようになる、という。これが「生政治」であるとされる。

    「アウシュビッツ」の名前がそのプロジェクトの中に見られることからもわかるように、欧州の戦後哲学の系譜としてアガンベンの視座には、全体主義がなぜ発生することとなったのかが大きな課題として挙げられる。全体主義と<生政治>は深くかかわっている。アガンベンは次のように語る。

    「わたしたちの政治は、今日、生以外の価値を知らない。このことがはらんでいる諸矛盾が解決されないかぎり、剥き出しの生にかんする決定を最高の政治的基準にしていたナチズムとファシズムは、悲惨なことにも、いつまでも今日的なものであり続けるだろう」(I:19頁)

    著者はアガンベンの思考を「<閾>からの思考」と呼ぶ。<剥き出しの生>にしても、ゾーエーとビオスの閾からの思考であり、生と死、人間的なものと非-人間的なもの、オイコスとポリス、外部と内部の境界が不分明になる<閾>に立ったところからの思考がアガンベンを特徴付けるものなのである。

    アウシュビッツの考察では、収容されたものたちが生に対しても死に対しても無感動になっていく「ムーゼルマン(回教徒)」を極限的なケースとして、その非-人間的事象を思考の対象とする。ここにいたっては人間の尊厳をはじめとする従来の倫理的価値のおよそいっさいが失効を宣告されるとして、そこからアウシュビッツを踏まえて新しい倫理を必要としているのだという。プリーモ・レーヴィ『これが人間か』『溺れるものと救われるもの』にも「ムーゼルマン」について言及があるが、底を見たものとして、そしてそのゆえに帰ってこなかったものとして、言及されている。そういえばレーヴィもイタリア人であったので、この二人はあって言葉を返しているかもしれない。

    「ここでパラドクスとなっているのは、人間的なものについて真に証言するのが人間性が破壊された者だけであるとするなら、このことが意味するのは人間と非-人間の同一性はけっして完全ではないということ、人間的なものを完全に破壊するのは不可能であること、つねにまだなにかが残っているということである。証人とはその残りもののことなのである」(III:182頁)

    極限において、そして剥き出しの生において、浮かび上がる生の条件は何か。そこにはなぜか「生」のみが手放しで重視されてしまう政治的状況において、どういう力が働いているのかを分析することは重要なのである。

    もうひとつの重要なテーマである「例外状態」は、カール・シュミットが『政治神学』の中で、「主権者とは例外状態にかんして決定をくだす者」という形で定義して以来、それがナチスの政治理論的支柱となったことも含めて議論となってきた。「例外状態」が政治的領域の中で<閾>に位置するものであり、法の領域と内と外の境界にあるものである。それは、≪ホモ・サケル≫と問題中の問題として考察の中心に設定された生政治敵な関係を定義するための前提条件になる。

    この辺りの議論はナチスが台頭する直前のドイツで活動したマックス・ヴェーバーまで絡めてミッシェル・フーコーにつなげる以下の解説を読むと、いつか一冊一冊きちんと読もうと心に思うのである。
    「(『王国と栄光』)第一章第二節の注では、「世俗化」をめぐって、それはマックス・ヴェーバー(1864-1920)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904-05)では近代が心学の支配から脱却しつつあることを示すものと受けとめられているのとは正反対に、カール・シュミットの『政治神学』(1912)では近代においても神学が作動し続けていることを示すものと受けとめられているとしたうえで、そもそも「世俗化」というのは概念ではなく、ミシェル・フーコーとエンツォ・メランドリが言う意味での「印徴(signatura)」だとされる。すなわち、ある記号や概念に印をつけて特定の解釈や領域へと送付はすrが、記号的なものから外へ出て、新たな意味や概念を構成することはないものである、とアガンベンは言う」

    言語活動まで遡って考察することが重要だというのはフーコーにも通ずるのである。アガンベンは文献学者としても一流の学者である。
    「誓言が権力の秘跡として機能しうるのは、それがまずもって言語活動の秘跡であるかぎりにおいてのことである」

    アガンベンは生を以下のようにとらえるという。
    「この古代ギリシアにおけるゾーエーとビオスの意味論的ならびに形態論的な区別/対立を踏まえつつ、アガンベンは「その形式からけっして分離することができない生」、「そこから何ものかを剥き出しの生(une vie nue)として孤立させる/切り離すことがけっしてできない生」といったものを想定する。「生きることの個々の様態、個々の行為、個々の過程が、けっしてたんに事実ではなく、つねに、そして何よりもまず生の可能性であり、潜勢力であるような生」がそれである。そして、このような生こそがアリストテレスの言う政治的動物としての人間の生にほかならないとしたうえで、これに<生の形式>=”forme-de-vie”という名称をあてがったのだ」

    「<生の形式>にかんしては、著作の最後で「みずからの剥き出しの実存でしかないこの存在、みずからの形式であり、形式から分離することができないままでいるこの生を<生の形式(forme-di-vita)>と呼ぶとするなら、わたしたちの前には、政治学と哲学、医学-生物学と法学の交差によって定義される研究領域の彼方に横たわっている、ある一つの研究領域が開けるのが見えるだろう」と展望しながらも、「しかし、その前にまず、これらの諸学科の限界の内部において、剥き出しの生のようなものをどのようにして思考することができたのか、また、これらの諸学科が歴史的に展開するうちに、先例のない生政治的な破局を冒さずには乗り超えられない限界に突きあたってしまったのはどのようにしてであったのかを検証しなければならないだろう」として、<生の形式>そのものの探求は先送りされてしまっていた(I:255頁)」

    アガンベンは、最終的にはIV-1.『いと高き貧しさ』において、この<生の形式>について正面から取り組むことになったという。

    「アガンベンは、いまや政治は生政治(biopolitique)になってしまったというミシェル・フーコーの『知への意志』における診断を実質的に正確だと受けとめる。と同時に、決定的なのは「この変容の意味をどのように捉えるか」である、と述べる」

    「本研究はミシェル・フーコーによって着手された統治性の系譜にかんする研究の延長上に位置してはいるが、フーコーの研究が完了にいたらなかったのはなぜか、その内的理由を理解しようとするものでもある:(II-4.9頁)

    アガンベンは、次のように語っている。
    「その探求は、他のあらゆる詩作と思索の仕事もそうであるように、けっして集結することはありえないのであって、ただ放棄されうる(そしてひょっとして他の者たちによって継承されうる)にすぎないのである」(IV-2: 1-2頁)

    これを受けて著者は、
    「ここでアガンベンが放棄した未完のプロジェクトを継承するのは、だれなのか。アガンベンより一歳年長のわたしには、もはや継承する余力も資格もない。若い諸君の奮起を期待するのみである」

    ここでは、アガンベンがフーコーの未完のプロジェクトを継承したものであることが示唆されている。哲学の思索は、常に終わりはないのである。思索は深化していくのである。アガンベンを読むときには次の言葉は頭において読むべきだと思うし、すべからく哲学的著作のほとんは明確にこのように言うことができるのではないだろうか。

    「哲学者が書いているすべてのこと――わたしが書いてきたすべてのこと――は、書かれていない作品への序文、あるいは――結局は同じことであるが――ルドゥス〔本奏〕が不在のポストリュード以外のものではない」『インファンティアと歴史』


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    「アガンベン「ある問いにかんして」」
    https://note.com/baku_yumekui/n/n3d1dda1d69fe
    Coronavirus and philosophers/European Journal of Psychoanalysis
    https://www.journal-psychoanalysis.eu/coronavirus-and-philosophers/
    Coronavirus, naked life and the importance of Giorgio Agamben, Irfan Ahmad
    https://thepolisproject.com/coronavirus-naked-life-and-the-importance-of-giorgio-agamben/#.XzlQ8Oj7TGg
    『アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察』(プリーモ・レーヴィ著)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4022592516
    『溺れるものと救われるもの』(プリーモ・レーヴィ)のレビュー

  • アガンベン 〈ホモ・サケル〉の思想 上村忠男著 | レビュー | Book Bang -ブックバン-
    https://www.bookbang.jp/review/article/628248

    本日発売:上村忠男『アガンベン《ホモ・サケル》の思想』講談社選書メチエ、ほか : ウラゲツ☆ブログ
    https://urag.exblog.jp/240178936/

    『アガンベン 《ホモ・サケル》の思想』(上村 忠男):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部
    https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000337920

  • フーコーが「生政治」というテーマを出したんだけど、十分にその議論を展開しないまま、途中で「主体」のほうに議論を移って、そのままなくなってしまったので、なんだかモヤモヤしていた。

    そういうなかで、アガンベンが「生政治」の議論を引き取って、展開したとのこと。

    それが「ホモ・サケル」らしいのだが、これは同題の1冊の本ではなくて、シリーズになっていて、なんと9冊の本によって構成されているとのこと。1995年から2015年の20年かけて完成されたとのことで、その全体像を紹介したのがこの本。

    といっても、とても広い話しを200ページ弱で整理しているので、わかるような、わからないような。全体の見晴らしができたような。できないような。。。。

    ここから、原著を読むしかないのかな???

    個人的には、アーレントの「人間の条件」や「全体主義の起源」、「エルサレムのアイヒマン」などの議論とも重なるところがあり、面白そう。

    個人的には、「身体の使用」に興味があるが、これは最終巻。そこに到達するには、ある程度、その前段の本を読まないといけないのかな????それはちょっとつらい。

  • 概論なのだが、それぞれの著書を読んでみたい、また、アガンベンという人を掘り下げてみたいと思わせるに足る著述だった。

    それにしても、絶滅収容所に関連して出てきた「ムーゼルマン=回教徒」という存在(人間的なものと非-人間的なものの区別が不分明になってしまう〈閾〉の存在)が絶望を通り越した次元にあることに、その射程の深さがある。

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著者プロフィール

1941年生まれ、東京外国語大学名誉教授。専門は学問論・思想史。
主な著訳書
『歴史家と母たち——カルロ・ギンズブルグ論』(未來社)、『歴史的理性の批判のために』(岩波書店)、『回想の1960年代』(ぷねうま舎)、『ヴィーコ論集成』(みすず書房)、『ヘテロトピアからのまなざし』(未來社)など。翻訳は、ヴィーコ『学問の方法』(佐々木力と共訳、岩波書店)、『イタリア人の太古の知恵』(法政大学出版局)、『自伝』(平凡社)、『新しい学』1744年版(中央公論新社)のほか、アガンベン『身体の使用』(みすず書房)、グラムシ『革命論集』(講談社)、ホワイト『歴史の喩法』(作品社)、ギンズブルグ『ミクロストリアと世界史』(みすず書房)など多数。

「2018年 『新しい学の諸原理[1725年版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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