戦争の記憶 コロンビア大学特別講義 学生との対話 (講談社現代新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065154304

作品紹介・あらすじ

なぜ人々は戦争の歴史でいがみ合うのか。なぜ各国は戦争の歴史で争うのか――日本近代史の碩学が学生との対話を通じて「歴史」と「記憶」の意味を深く探っていく。ニューズウィーク日本版で大反響を呼んだコロンビア大学特別授業、待望の書籍化。

主な内容
「戦争の記憶」の語られ方/「歴史」と「記憶」の違いとは/変化する「共通の記憶」/それぞれの国で語られる「第二次世界大戦」/日系アメリカ人の物語が認知されるまで/「記憶の領域」には四つの種類が存在する/クロノポリティクス――現在が過去を変える/慰安婦問題が共通の記憶になるまで/誰が記憶に変化を起こしたか/記憶を動かす「政治的文脈」/戦争の記憶は、自国の都合のいい形につくられていく/アメリカが原爆を正当化する理由/自国の「悪い過去」にどう対処すべきか/過去と未来に対する個人の「責任」ほか

感想・レビュー・書評

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  • 以前ネットの記事で読んで非常に興味深かったので、本化されたものを購入。
    記事は確か部分的だったので、これが全編になるのか。歴史家の記述に、人々の記憶というものを別ファクターとして加えることは、いざここに出てきている教授の話を聞くと非常に重要なことがわかる。そしてそれが変わっていくプロセスであるという説明も非常に興味深い。まあ結局、先に読んだプロパガンダの法則と同じで、自分たちは悪くないということを強調したがるといったところか。しかしまあ映画やメディアの影響は大きいな。。

    要点をまとめるとこんな感じかな。

    歴史と記憶を分けて考える
     歴史とは、歴史家が歴史書に書くもの
     記憶とは、学校の教科書、国の記念館、映画や大衆文化などで人々に伝播するもの

    2016年12月 ハワイのUSSアリゾナ記念館で日本の首相とアメリカの大統領が訪れ、和解について語り、それが共通の記憶となった。

    4種の記憶の領域
     オフィシャルな領域:公的機関による歴史/国立博物館、国定教科書など
     民間の領域:映画、小説、メディアによって伝えられた歴史
     個人の記憶:実体験者が語って伝えた記憶
     メタメモリー:論争になっていることを知る記憶

    記憶の変化は外的圧力か、下からの活動家たちの行動の結果で行われる

    しかし、中国に浸かってみると歴史というものは過去に起きたであろう事実をできるだけ正確に導き出すことではなく、どう政治の道具として使うかとなっているので、日本人の思う歴史(多分、事実をできるだけ正確に導き出そうとする)とは同じ単語でも意味が違う。そして中国だと歴史家が歴史の書き換えを担っている(と思う)。結局そこで議論をすることが出来ないのではないか強く思う。

    P.5
    国民の記憶へのそれぞれの思い入れの強さと、思いの強さによって異なる立ち位置にある者同士での冷静な対話が難しくなっている状況に、強い印象を受けた。(中略)すべての人々が過去の中でも時刻に特有する部分を記憶することに傾注していた。そして、彼らの間で交わされる緊迫したやりとりの中に、歴史についての知識が少ない事実に愕然とした。

    P.94
    記憶の変化が起きたのかを知るには、政治のクロノロジー(流れ)、または(中略)「時」を見ないといけません。私はこれをChronopoiticsと呼んでいます。まさに、「現在が過去を変える」ことがあるのです。

    P.135
    オフィシャルな領域というのは自発的に動いているというよりは何かに「反応」しているものなのですが、何に反応しているかが重要です。

    P.141
    慰安婦についての議論というのは「当時、それをすべきではなかった」という過去のことでもあり、「将来においてそれをしない」という未来に向けた話でもあります。

    P.143
    戦争の記憶はどれも「国民的な」ものであり、自国の経験に特化して語られるものだ。時間が経つなかでは、戦時中の敵国や同盟国など他国の味方を内包していくというように変化することもあり得る。しかしそのようなときでさえ、戦争と国家のアイデンティティーは切り離せるものではなくむしろ物語の中心に据えられる傾向にあり、その物語は戦争体験者だけではなく、戦後世代にも引き継がれていく。

    P.150
    私は歴史家として、政治家された記憶をよしとしない。記憶を政治家するときに、過去はいとも簡単に道具にされてしまうからだ。

    P.181
    時代によって教科書だけでなく先生の世代も変わりますし、世間の味方というのも変わるからです。もちろん、政権を含めて政治的文脈も変わりますね。自分の子供は全く別のことを学んでいるかもしれません。共通の記憶というのは「プロセス」であり、このプロセスに終わりはありません。終わりがないので、国内外の比較だけでなく世代間についても比較をしながら注視していくことが必要ですね。

    P.193(原爆について)
    日本とアメリカで語られる原爆についての一般的な記憶は、それぞれ半分ずつ抜け落ちている。「原爆は戦争を終わらせ、アメリカ人の命を救った」。そこで、アメリカ型の物語は一般的には終わる。日本の側では、原爆は戦後の日本の平和への使命と結び付けられ、そこからメインの物語が始まる。両方の国が、原爆の物語を半分しか語らない。まるで、日本はヒロシマ以前の出来事を軽く飛ばしているようであり、アメリカはナガサキ以後に起きたことにほとんど触れない。

  • 戦争の「歴史」として一般に語られるのは「記憶」であって、事実として公式に記録された「歴史」ではない。「記憶」は国や立場、年齢などの違いで異なる内容であり、それは変わってゆくものでもある。自分たちや他国・他者の「記憶」が、それぞれどのように作られてきたものか(個人の経験、公式の記録、マスメディア・・・)意識することで、自国・他国の歴史を尊重する視点を持てるし、過去の出来事に向き合った上で良い未来を築く責任が私たちにはあると。
    ときどき、身近な人たちがごく自然に他国の人に対して酷い発言をするのを聞き「この人のこの考えはどこからきたものか」と不思議に感じることがある。それが個人の直接的な体験から来たものだと知り納得できたり、なんとなく想像できる場合もあるのだけど。
    そのようなことに限らず、自分の考えがどう形成されてきたのかは常に意識していないと危険。正しいと思ってもそうでないことは意外と多いような気がしているし、いろんな本を読んで気づかされることも多い。
    この本は、バックグラウンドの大きく異なる学生たちそれぞれから見た「歴史」の違いが具体的に語られ、とてもわかりやすかった。若いうちに実際にこういう勉強して、たくさん考えた人たちが政治家になってほしいのだけど。

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  • 著者は明治時代から現代までの日本の近代史を専門とする歴史家。コロンビア大学で行われた特別講義で、著者は様々なバックグラウンドを持つ若い学生たちと第二次世界大戦について議論する。

    過去を語るにあたり、「歴史」と「記憶」で分けて考えることにしているという。「歴史」は史実として歴史家や学者が歴史書に書くもの、「記憶」は教科書、記念館、映画、テレビなどを通じて多くの人々に伝わる「共通の記憶」。

    記憶の物語は「国民の物語」なので、国によってそれぞれ別の物語になるという限界がある。例えば、パールハーバーを騙し打ちと捉えるアメリカと、原爆の投下から平和への使命を与えられた日本の見方。また、「記憶」はナショナリズムと結びつけられるケースが多々あるため、著者は、一国だけを研究していては戦争の記憶を理解できないとしている。

    著者の「罪」と「責任」についての記述が印象に残った。戦争犯罪が「自分たちと関係がない何世代も前のこと」で済ますのではなく、何があったかを理解して次の世代に伝えることが大事。

  • 自分が知っている歴史上の事件の情報がどこからきているものか振り返り、記憶と歴史を区別して考え、物事が起きた複雑な背景を整理・理解する作業の大切さが、今いかに求められているか、ちょうど隣国の中傷を煽る社会風潮の中で、立ち止まって皆に読んでほしい1冊になりました。

  •  学生との対話録なので読みやすい。学生たちの自己紹介や言葉から出身国などのバックグラウンドがある程度推察でき、それに見合った発言もある一方で、どの学生も極端に片寄った意見ではない。コロンビアという名門大学で、しかもそもそもアジアに関心のある学生だからか。
     教授はまず、歴史家が歴史書に書き学者と一部の読者にしか読まれない「歴史」と、多くの人に伝達される「記憶」を分ける(実際には両者は相互に関係しており、また歴史も特定の史観に基づいて書かれていることは教授も認めているが)。WWIIの開戦日の認識が国により異なるのはいい例だ。そして「共通の記憶」は作られ伝達され、また時や国内・国際政治の中で変化していくという。
     取り上げられている事例は1章を使った慰安婦のほかにも、真珠湾攻撃や9.11など多い。教授自身の歴史観も、また学生に対する説明や司会の仕方も含め、実にバランスが取れた本になっている。様々な視点を持つ、他者の視点を理解、自国の歴史も他国の歴史も尊重、過去と未来に対する個人の責任、これらの言葉で講義は締め括られている。

  • -記録の歴史から記憶の歴史-
    慰安婦に関しての自分の認識は、歴史というよりも外交力学の道具という程度だった。コロンビア大学での学生と歴史学教授の対話で得た新しい視点は、歴史を作る新しいプレイヤー、カルチャー(というよりコモンセンス?)。意外だったのは80年代以前まで、韓国内で慰安婦を語る事は韓国政府から弾圧されてきた。それ以前には戦争とは公的記録であり個人の記憶(オーラル・ヒストリー)は記録と見なされなかった。性質上、戦争時の性への人道暴力は記録に残らない。証言が公になってきたのは2ndフェミニズムの勃興によるところが大きい。(日本だけではなく、WW2での同様の事例が公になるのは同時期)
    ・各国それぞれに戦争の記憶があり、それはシロクロハッキリしたバイナリー(被害者、勝者)
    ・「二度と繰り返さない」は抽象的で意味を持たない。何故そこに至ったのか、どういう時代背景でそこに至ったのかを知る(というより自分で考える事)
    ・それは市民としての責任である。自国の歴史ではなく、他国の歴史(歴史観)を知る。
    ・「過去への責任」は清濁をあわせ自国、他国を知る事

    非常にタイムリーな内容だった。

  • 歴史について考える際に歴史と記憶に分けるアプローチは新鮮でした。
    歴史を自国に都合のいいように記憶として解釈するのは世界共通であり、簡単に他国の歴史認識を批判するが、歴史や記憶は相対的であり時代と共に変化し得るもの。
    つい自分たちの理解が正しいと思ってしまうが、戒めのために歴史を学ぶ際に常に置いておきたい1冊。

  • 私が本を読む理由の一つは「なぜ戦争が起こるのか」それを一つの方向からでは無く、各国=多数の折り重なる歴史の中から原因を探ってみたいと考えているからだ。だから著者の国籍に関係なく戦争に関する本を兎に角読み漁り、地政学や時には人間の心理を知るために心理学や精神医学の本まで漁っている状況だ。私はインターネットやテレビからの情報収集はあまり好まない(とは言えNHKだけは会話ネタとして観る)。理由は判りやすい映像や他人が話す言葉は、頭で考えるよりも感覚的に入ってきてしまい、ともすれば何も考えなくても記憶に焼きついてしまう。真実を導き出すのは自分の頭で考える行為しか無いと考えているからだ。書籍は嫌でも視覚から入ってくる文字を一度頭に焼き付け、前後の文脈やそれまでの流れの中から筆者の意見や主張への理解を導き出そうとするとから、自分の頭をより使うことになっている。読んでいて違和感を覚えればよく考えている証拠であり、素直に次の文字を期待する時は筆者の意見を過去の自分の知識と照らし合わせて、新しい考えや考えの補強として受け容れている証拠だ。本を読むことは私にとって考える時間だ。
    本書は戦争に関する歴史認識がどの様に形成され、本来どうあるべきかについて、学生達との対話形式で一緒に考えていくような構成になっている。ふと気付くと私もまるでその場で一緒に授業を受けている感覚に陥る。参加するメンバーは日本人だけでなく(コロンビア大学で行った)、韓国人、中国人、アメリカ人、インドネシア人など多岐にわたる。これは授業の主要なテーマが「第二次世界大戦」と呼ばれる世界規模の戦争を対象にしている事にも関係するようだ。その中でも日韓で問題になる慰安婦問題、日米の太平洋戦争における主要な解釈の隔り、さらに中国の抗日戦争などいくつかテーマを絞って議論が進められる。
    本書を最高評価した理由は、もちろん結果的に発生し終結という結果をもたらした事象に対して、世界中の国々の抱える問題、さらに国家間の対立、各国の国内問題など要因が複雑に絡み合っていると言う当たり前だが理解が難しい理由を改めて考えさせてくれるきっかけになった事が挙げられる。判っているものの第二次世界大戦という呼び方すら、アメリカやイギリスの呼び方であり、日本なら大東亜戦争や太平洋戦争、中国は最近抗日戦争と呼び始めるなど国により様々だし、もっと言えば開始された年度も全く異なっている。これは国ごとに捉え方が全く違うという事を改めて考えさせられた。
    次に現在我々の頭の中にあるものが果たして「歴史」なのか「記憶」なのかという事。私は本書でこの考え方に触れた瞬間、何か長年考えてきた事の答えを探す手法を一つ見つけた感覚に陥った。そうなのだ、私の知っている歴史もたかだか数百冊の記述から得られたものであり、メディアや教科書から入ってきたもの、父が戦時中の記憶として話してくれた事、言わば寄せ集めた「記憶」にしかすぎない。これは大半が「記録や歴史」では無く記憶なのだ。そしてそれらをわかりやすく四つの領域に分けて考えている。国が政治的に導く「公的(オフィシャル)」、新聞や民放各局のメディアが、出版社が伝える「民間」、そして父のように実際の体験者や戦時の栄養不足が要因となり父親を失った母などから聞く「個人」、そして何が真実かを議論するような場・誌面などを第三者的に眺めることによって入ってくる「メタ・メモリー」。私の記憶もこれら四つの領域から入ってきたもので形成されており、しかも私が過去に触れてきた範囲からしか形成されていない。
    筆者はそこに警鐘を鳴らす。一つの国や立場から作られた歴史は、決して各国共通の記憶にはなり得ないのである。それぞれの考え方や立場を尊重し、聞く耳を持たなければ、それは単に南京虐殺を完全否定する日本人や世界中に慰安婦像を立てる韓国人の気持ちなどはわからないのだ。ついつい我々は教えられたもの、見たもの聞いたものを一つの真実として捉えがちだ。またそれに合わない考え方を誤りと決めつけ受け容れようとしない。この態度こそが現在の日中韓の歴史認識問題の根本的原因であり、日米戦争におけるヒロシマの原爆肯定感に対する対立的な考え方の元になっている。勿論私は原爆自体を全く肯定するつもりはないが、そう考えるアメリカ人を否定しようとは思わない。広島の被爆者に哀悼の意を示しながら、アメリカで我が子を失った母親の気持ちも理解する。
    そういった多角的な歴史の見方を学ぶべきであり、さらにそこから私たちが負っている責任が何であるかを考える必要がある。日本の中でさえ、戦時生まれ、戦後高度成長期に入った時代、私のような沖縄変換後に生まれた昭和世代、そして平成・令和に青春を謳歌する世代と、それぞれ学んできたことも違う。世代の差を超越した理解や国境を越えた理解がこれからの世界の平和を齎すのは間違いない。テレビをつければ各国首脳が過去の他国からの侵略を非難し、ナショナリズムを掻き立て、更には自国の不満を他国への憎しみにより伏せようとする姿が映る。本書を読み終わった読者達はきっとそれを見て違和感を覚えるだけでなく、今その国の背景を知ろうとする人間になっている事だろう。
    私の人生のテーマに大きなヒントを与えてくれた本書に感謝する。

  • SDGs|目標16 平和と公正をすべての人に|

    【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/729231

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著者プロフィール

キャロル・グラック CAROL GLUCK
コロンビア大学歴史学教授。1941年、アメリカ・ニュージャージー生まれ。ウェルズリー大学卒業。1977年、コロンビア大学で博士号取得。専門は日本近現代史・現代国際関係・歴史学と記憶。1996年アジア学会会長。2006年、旭日中綬章受章。著書に『歴史で考える』(岩波書店)。共著に『日本はどこへ行くのか』(講談社学術文庫)、『思想史としての現代日本』(岩波書店)などがある。


「2019年 『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義 学生との対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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