興亡の世界史 イスラーム帝国のジハード (講談社学術文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (408ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062923880

作品紹介・あらすじ

講談社創業100周年記念企画として刊行された全集「興亡の世界史」の学術文庫版。大好評、第2期の3冊目。
 21世紀の文明社会に波乱を呼ぶイスラームの原理とは本来どのようなものか、その誕生から歴史的な展開を通じて究明する。
 ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの狭間にあるアラビア半島は長らく国家をもたない政治的空白地帯だった。そこに7世紀、絶対神アッラーを信奉し、人間の平等を説いて弱者救済を訴えるムハンマドが、迫害のなかイスラームの共同体を建設。マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)に確立された共同体はやがてアラビア半島全域に広がる。632年のムハンマド死後は、わずか1世紀で西はイベリア半島、東は中央アジアに達したのである。
 ムハンマドの後継者たちはアラビア半島の外に溢れ出るように大征服に赴いた。「剣のジハード」によって正統カリフ時代(632~661)からウマイヤ朝期(661~750)に広大な版図が生まれ、都市国家は帝国へと変容、本格的なイスラーム帝国であるアッバース朝(750~1258)の時代を迎える。ジハードはしばしば聖戦と訳されるが、根幹にはいかに社会正義を樹立するかという政治・社会的な課題と信徒が自己犠牲を厭わないという宗教的な命題がある。この原理と融和の原理が合わさって、多民族、多人種、多言語、多文化の人々を包摂し、多宗教をも融和するようなイスラーム帝国が構築された。イスラームを理解するためには、ジハードと融和という二つの原理を忘れてはならないと著者はいう。
〔原本:『興亡の世界史06 イスラーム帝国のジハード』講談社 2006年刊〕

感想・レビュー・書評

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  •  デジタル本で購入したまま読みかけのまま放置していた本でしたが、一週間程で読み終わりました。私たち日本人はたいへんな宗教音痴なのですが、その中でもイスラム教のことは少しもわかっていないのです。だからジハードなんて聞くとかつて日本にあった学生運動の過激派のような印象しか受けません。
     しかし、イスラム教こそが歴史的に最も他の宗教に対して穏和に接してきた宗教です。そしてキリスト教のように職業的な宣教者はいないため、信者は全て神のもとに平等です。だから職業的な宣教師がいなくてもジワジワと信者が増えています。
     そしてソ連が崩壊して、世界中の国々が強欲資本主義の元でお金儲けを追求しているので貧富の差は益々拡大しています。また、トランプ大統領のような極端な民族主義も自国優先、自分優先、の雰囲気を高めています。そんな中でイスラム教を信じて、神のもとで神の言いつけを守って生活する宗教がその信者を増やしているのだと思います。
     イスラム教とイスラム諸国を理解するためにはとても良い本だと思います。

  • イスラム教もジハードという言葉も武力や戦いという側面だけが強調されていて自分もなんとなくそういうイメージを持ってしまっていたが、内面のジハード、社会的ジハード、そひて剣のジハードという区分を理解することによって、そして過去の歴史を理解することによってスンナ派シーア派という違いや、現代の過激派や武装勢力が伸長してきた背景についてもよく理解することができた。

  • ジハードを社会建設の一環ととらえ、イスラム帝国膨張期を描く。軍事力たる剣のジハードだけでなく、内面の悪と戦う内なるジハードにも言及する事によって、イスラムがなぜ広範囲に急速に広まり、かつ今日まで維持されてきたのかの1つの解を提示している。イスラム帝国の制度、軍事、政治が、事態の推移と共に手際よく説明される一方、読み物としてもポイントを押さえた展開で面白い。特に冒頭、イスラムの出発点として、迫害されたムハンマドが深夜密かにマディナに旅立つくだりが描写されるが、のちの大発展を知る読者は、このうら寂しいシーンで一気に引き込まれるのではと思う。範囲はイスラム勃興から、途中イスラム最強国オスマン朝を省略し(別巻が担当)、近現代のイスラム再構築と課題までを含む。興亡の世界史シリーズは当たり外れがあるがこれは大当たりで、世界史に関心ある人なら充分お薦めできる。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/741462

  • KY3a

  • ポイント①ムハンマドは、宗教と社会の統合をめざした。あるいは、すべての面において宗教に立脚する社会をめざした、と言いかえてもよい。しかし、そのことは同時に、社会のすべての領域にムハンマドの指導を及ぼすため、「宗教」の内実が他の多くの地域で言う「宗教」とは非常に異なるものとなる結果をもたらした。
    ポイント②ジハードとはもともと、自己の心の悪と戦い、また社会的公正を樹立するために奮闘努力することを意味し、その原理は戦争の論理ではない。ジハードを分類すれば、心の悪と戦う「内面のジハード」、社会的な善行を行い、公正の樹立のために努力する「社会的ジハード」、そして「剣のジハード」に区分することができる。
    ポイント③イスラーム帝国は、アラビア半島を統一後は安全保障のためにビザンツ帝国やササン朝ペルシアとの戦争を行い、打ち勝つことで結果的に広大な領土を支配した。イスラーム世界はその後分裂したが、イスラーム的価値観は普遍的に維持され、旅の安全は保障されていた。「パクス・イスラミカ」である。

    アラビア半島は乾燥地帯であり古来遊牧民が暮らしていた。人口の集中、剰余生産物の蓄積、都市の建設ができないため、国家も育たなかった。
    イスラーム成立前後のアラビア半島において、人々の自己アイデンティティの第一義的な基準が系譜や部族意識であったことは、疑いを入れない。強烈な部族意識というものが存在した。中央集権的な権威がなく、それぞれの部族が自分の構成員に攻撃がかけられたら部族全体で反撃することが、安全保障の原理となっていた。構成員が傷つけられたのに復讐をしなければ、部族の名誉は地に墜ち、また構成員の忠誠心も確保できなくなる。そして、イスラームはそれを乗り越える新しい原理を提出した。それによって、イスラーム国家はそれまで内を向いていた対立心を外に向けることに成功するのである。イスラーム以前のアラブ人は、現世的で、刹那的で、享楽的であったかもしれない。部族主義的で、寄せ集めの偶像を信じ、容易に激高し、また富と力にうぬぼれて、弱者をないがしろにしたかもしれない。性的に放縦で、男尊女卑も強かったかもしれない。しかし、その一方で、勇気を持ち、客をもてなす気持ちが厚く、弱きを助ける美徳も知り、不義を嫌う側面も強く持っていた。ムハンマドは、そのような人々の心を鍛え、新しい理念によって方向付けをし、人生の意味と意義を自覚させ、イスラームという、それまでに存在したことのない人間精神へと変換していった、と考えることができるように思う。
    遊牧民の場合、産品の蓄積や建築によって財産を形成できない。家畜や天幕、身につける装飾品など、移動可能なものが主要な財産となる。そのような暮らしにあって、美しい詩や言葉は持ち運び可能な貴重な財産である。クルアーンは基本的に押韻散文から成っている。章句の語尾は、韻が美しく踏まれ、時に荘厳に、時に軽快に、聞く者の脳裏に鮮明なイメージを生み出す力を持っている。
    ムハンマドがマッカで自らの氏族であるクライシュ族全体相手に布教を開始した時には迫害を受けた。クライシュ族がイスラームを拒絶した理由は、宗教的に言えば、まず、彼らは啓典と預言者というものが理解できなかった。二番目の理由は、これが父祖伝来の多神教を否定するからであった。三番目の、より重要な理由は、ムハンマドのもたらす教えが、商業都市マッカの社会体制を覆す革命性を持っていたからであった。第四番目の理由として、クライシュ族内部での指導権争いがあった。五番目の理由は、イスラームが「命令の体系」である(マッカは自由な都市だった)という点にあると思われる。
    マッカ期の最後にはイスラームの基本原則である(一)イスラームの基礎としての唯一神の信仰、(二)啓典および預言者の指示の権威、(三)財産権の保全・その侵害(盗み)の禁止、(四)婚姻と社会の基本単位としての家族の保全・その違反行為(姦通)の禁止、(五)生命の尊重と殺人の禁止、(六)公正の確立と不正・偽証などの禁止、が確立され信徒に受け入れられている。
    ところ、ムハンマドが世を去ったためにすぐに生じたのは、イスラームのさらなる発展ではなく、新生マディーナ国家の危機であった。危機は、三つの次元で生じた。第一は、マディーナ国家そのものの解体の危機である。第二は、アラビア半島の諸部族の離反であった。さらに第三の危機として、北方からはビザンツ帝国およびササン朝ペルシアの脅威が迫っていた。アラビア半島は乾燥地帯で、ここだけを版図とする王国が成立する余地はほとんどなかった。あまりにも農業生産力が低く、長期的な自立性はない。言いかえると、イスラームの小王国が半島内に成立して、ビザンツ帝国と共存する余地はなかったのである。新興のイスラーム国家が生き延びようとするならば、北方の諸部族を制圧せざるをえず、そうすることによってビザンツ帝国と衝突せざるをえなかった。国際的な力学から言えば、力の均衡で平和共存が成立する状況にはなっていなかった。
    正統カリフ時代後のウマイヤ朝は、拡大し共同体のコンセンサスに基づく都市国家から帝国への支配を確立した。その特徴として、四つの重要ポイントをあげることができる。それは、宗教の共存の実現、アラブ的支配、征服事業の継続、国家機構の整備である。これら四つは互いに深く結びあっている。ウマイヤ朝の特徴を、それ以前と比較してまとめるならば、国家の優越が重要であるように思われる。それは、宗教・社会・政治の三つの領域を考えたときに、政治に重きがあるという意味である。ウマイヤ朝はシーア派分派の伸張と、アラブ人優位政策といった不満による革命で倒れ、アッバース朝が成立する。アッバース朝の時代には、宗教だけが法に関する識別指標となり、イスラーム共同体には一体のイスラーム法が適用されるようになった。ムスリムは、古参であろうと新参であろうと、民族的な出自がアラブであろうと非アラブであろうと、同等の扱いを受けることになったのである。イスラーム法も、そのような前提で体系化が進められた。
    現代のウンマは下層部でイスラームが生き残っている一方、上層部で脱イスラーム化が進んでいる。草の根のイスラーム復興は、下から徐々にイスラーム復興を進め、個人から家庭へ、家庭から地域コミュニティーへ、そして社会全体へ、さらに国家や政治へ、と構想する。急進派は、それでは待ちきれない、国家こそが解決の鍵である、と生き急ぐ。

  • ジハードをテロと結びつきやすいが、それはイスラームの理解の不足であり、誤解を解くように書かれた解説書。

  • 2016-11-15

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著者プロフィール

京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授。専門は、イスラーム学、中東地域研究、比較政治学、国際関係学、比較文明学。
 1953年生まれ。北海道夕張市出身。1983年エジプト国立アズハル大学イスラーム学部卒業。1984年国際大学大学院国際関係学研究科助手、1985年国際大学中東研究所主任研究員・主幹、1990年英国ケンブリッジ大学中東研究センター客員研究員、1997年国際大学大学院国際関係学研究科教授などを経て、1998年から現職。2006年より同研究科附属イスラーム地域研究センター長併任。京都大学・法学博士。1986年流沙海西奨学会賞、1994年サントリー学芸賞、2002年毎日出版文化賞、2005年大同生命地域研究奨励賞を受賞。2005〜2011年日本学術会議会員。
 思想史においては7世紀から現代に至るアラビア語で書かれた史資料を用いた研究をおこない、現代に関してはアラブ諸国とアラブ域内政治を中心に中東を研究し、さらに近年は広域的なイスラーム世界論を展開してきた。また、日本からの発信として「イスラーム地域研究」を歴史研究・原典研究と現代的な地域研究を架橋する新領域として確立することをめざしている。
【主な著書】
『現代中東とイスラーム政治』(単著、昭和堂)、『イスラームとは何か─その宗教・社会・文化』(単著、講談社現代新書)、『ムハンマド─イスラームの源流をたずねて』(単著、山川出版社)、『「クルアーン」─語りかけるイスラーム』(単著、岩波書店)、『イスラーム帝国のジハード』(単著、講談社)、『現代イスラーム世界論』(単著、名古屋大学出版会)、『イスラームに何がおきているのか─現代世界とイスラーム復興』(編著、平凡社)、『現代イスラーム思想と政治運動』(共編著、東京大学出版会)、『イスラーム銀行─金融と国際経済』(共著、山川出版社)、『岩波イスラーム辞典』(共編、岩波書店)、『ワードマップ イスラーム─社会生活・思想・歴史』(共編、新曜社)、『京大式 アラビア語実践マニュアル』(共著、京都大学イスラーム地域研究センター)、Intellectuals in the Modern Islamic World: Transmission, Transformation, Communication(共編著、Routledge)、Al−Manar 1898−1935 (監修、京都大学COEプロジェクト、アラビア語『マナール』誌・CD−ROM復刻版)他。

「2011年 『イスラーム 文明と国家の形成』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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