だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062920872

作品紹介・あらすじ

たのしい仕事もあればつらい遊びもある。仕事/遊び、労働/余暇という従来の二分法が意味を消失した現代社会にあって、わたしたちが生きることを支えているものはなにか、それは「働く」ことと「遊ぶ」こととどのようなかかわりがあるのか-。人間性の深みまで掘り下げて労働観・余暇観の歴史にせまり、人間活動の未来像をさぐる、清新な労働論。

感想・レビュー・書評

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  • 鷲田清一著『だれのための仕事 : 労働vs余暇を超えて(講談社現代文庫)』(講談社)
    2011.12.12発行

    2017.10.3読了
     1996年に刊行された本に補章を追加して2011年に文庫出版したもの。
     人間の活動は絶えず価値を生産しなければならないという生産性の論理が私たちの自己理解の構造の中に組み込まれたことにより、現代人はインダストリアスな強迫観念に囚われ、仕事から遊びという間がなくなってしまった。そのため、仕事が労働(辛苦)となり、モチベーション維持のために目的の実現や自己の対象化という美徳が編み出され、労働が生きがいとなるような心性が形成されていき、一方で非労働=余暇が退行的活動へと縮減されていった。
     しかし、インダストリーの精神は労働だけにとどまらず、余暇にまで浸透していき、余暇さえも真空恐怖に支配されるようになった。ここにきてインダストリーの精神がいわば一種の飽和状態となり、生活そのものの目が詰まり、人々は脱出口を見つけようとやっきになっているようにみえる。つまり、目的連鎖の労働過程の中で意味を失った人々は、自分が持っている能力や資質や財を使うことによって、じぶんがじぶんであることを自己自身の内部に見出そうとやっきになっている。
     しかし、筆者は、自己の同一性は、わたしの自己理解の中にあるのではなく、特定のだれかとして他者と関わる中にしかわたしは存在しないと考えている。具体的には、わたしはだれかという問いは、わたしの自己理解の中にあるのではなく、他者がじぶんを理解するそのしかたの中にあるものでもなく、その二つが交錯し、せめぎあう現場にこそある。言い換えれば、他者との関係の中で編まれていくじぶんのストーリーこそがアイデンティティーであり、それこそが楽しさや生きがいを与えてくれる。目的地ではなく、その道の途中、つまり、他者との関係の中で編まれていくストーリーあるいは新しいじぶんの発見が、未来ではない今を時めかせる。働くことの意味は絶えず語りなおされ、掴みなおされるものである。労働/余暇の対立項で考えるのではなく、個としてのじぶんの「務め」を探る感覚が、その語りなおしをきっと後押ししてくれるだろう。
     
     以上が、私の本書のとらえ方である。大企業や組織の中で、匿名の誰かとしてではなく、特定の誰かとして他者とかかわるというのは、とても難しいような気がする。勤め人時代をさらに超えた長い人生を俯瞰して物事をなす、個としてのじぶんの「務め」を探るということだが、システムそのものの存続のために、人が求められたり、棄てられたりする社会で、一体どうすれば、他者との関係の中にわたしのストーリーを編むことができるのか。最終的な答えは示されていなかった。おそらく私自身で見つけるしかないのだろう。

    URL:https://id.ndl.go.jp/bib/023180119

  • 子供のころ、「大きくなったら何になりたいか」という定番質問に、「子供のままでいたい」と答えたいた。

    大学卒業を前に、就職が決まると、「子供時代が終わる。ああ、次のお楽しみは、リタイア後だな」と肩を落としていた。

    あれから、四半世紀。定年が延長になり、1/3ともいわれる給料ダウンをのんで再雇用を選択する人々の姿を見てショックを受け、「私は、自分に投資して、エンプロイアビリティを高めることで、長く労働市場をサバイブしよう」と、順応しようとしている自分がいる。

    そんな自分に、もう一度喝を入れてくれた本。子供時代の「強迫的な労働は、いたしません」というあの感性を、今の働く現場に持ち込むためには、どうしたらいいのか。

    「『生産するための仕事』ではなく『他者との関係を通じて自分の存在を確かめてゆく仕事』に、ひとは価値を置くべきである」という氏の主張を頼りに、自分がかかわっている労働集約的な業界の仕事の在り方を、問い直してみたい。

    ↓下記の要約は理解の補助線としてGood!
    https://ho-jo.net/2018/06/17/%E3%80%90%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E3%80%91%E9%B7%B2%E7%94%B0%E6%B8%85%E4%B8%80%E3%80%8E%E3%81%A0%E3%82%8C%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%80%8F%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6/

  • 以下引用

    じぶんで意味を与えないことには意味が見いだせないというのは、ひとつには、じぶんの存在が他人にとってじゅうぶんに意味のあるものになっていないということを意味する。そのように問わないでいられないというのは、いまのじぶんの生活のどこかに、そのような問を発生させてしまうような空白がある

    もっともやりがいのある仕事に身をゆだねている人びとには、レジャーがきわめて少なく、退屈な仕事に従事している人々、はもてあますほどのレジャーに身をゆだねている

    まじめかふまじめか、仕事か遊びか、労働か余暇か、清算か消費か、紋切り型の二者択一の中で、遊びからしだいにまじめさが欠落していった

    余暇という大きな枠組みがつくられたことによって、休息や気晴らしさから自己啓発まで、昼寝や飲食からスポーツ、芸術まで、一つの同じ種類の活動としてひとくくりにされた。

    スポーツは健康を害さない程度のほどよい楽しみに変質し、学問や芸術もまた、人生の適当な時間におさまる程度の安楽な活動に薄められる


    遊戯としての遊には同時に、遊隙、つまりゆるんだ空間の遊び。

    遊びとしての身体が、いつか【わたし】による身体の専制支配という幻想(あるいはわたしの存在の幽閉プロセス)を解除して、いつも自他の境にばかり目をやっているわたしたちを、私が生まれたよりももっと遠いところへ、そこではまだ可能が可能のままであったとことにまで連れ出してくれる。そのときに、はじめてわたしたちは、ただぶらぶらと手をつないで歩くという、ひとのあいだの遊びをじぶんたちの身体に呼び戻すことができる

    遊びは、歯車のそれがそうであるように、構造体の隙間であり、それを内臓してこそ構造体が作動し始めるのであるから、その活動は「遊び」がいかに設置されているかにかかっているといってよい。人間の活動についていえば、「遊び」にこそ、アイデンティティを揺さぶるような、あるいは根拠をかけるような真剣さがある。ときに厳粛さすらある。こわばりつつある自分の存在、それをほどく力こそ「遊び」というものなのではないか
    ⇒自分のやりたい「遊び」もこれだな。労働外なのだけれど、だからゆえに、真剣に時を過ごす意味での「遊び」を創造したい。

    遊びという間を欠いた仕事が、労働、労苦としての近代的労働なのではないか。先ほども確認したように、「手ごたえ」とか「真剣さ」は、仕事にだけでなく、遊びにも同じように要求される。それを欠いた遊びは退屈である。だから仕事と遊びは内容的に区別されるものではなく、労働にもなれば、愉しみにもなる。遊びはかならずしも、快楽主義的であるわけではないし、スポーツや勝負事のように、あるいは研究やゲーム制作のように、集中した作業と愉しみにとがごとんど区別のつかない仕事=遊びも数多くある。

    仕事か遊びか、労働か余暇かという二者択一が問題ではなく、同じ行為がどういうきっかけで楽しみになり、どういうきっかけで労苦になるのか、その転回軸を見定める必要がある

    遊びは厳密な意味ではリクリエーションではない。労働のための手段ではない。それは仕事がつねに内蔵しているはずのものである

    時間の空白をたえず埋めておかないと落ち着かない。そういう息しききった余裕のない生活態度のことを、前章では、時間感覚という視点から「前のめり」の姿勢として規定した。目的を未来に設定し、その未来のほうから現在を逆規定する未来の目的の実現のためにいま何をなすべきかを意識するもの。これは、仕事が何かをめざしておこなう目的論的な過程としてとらえられているということ。

    ★何もめざさない仕事のほうが、想像するのがむずかしい。ただ、何かをめざしてということと、そのための行動がすべて特定の目的-手段の連関のなかに閉じ込められているということとは異なる。


    有用性-ある目的のために
    有意味性-それ自体意味のある理由のために

    余暇の思想は、行動のディスシプリンを軽視。スポーツも芸術も、本来労働以上に厳格な規律を持ち、その過酷さに備えた営み。しかしそれが、ほどほどになってしまうことで、明日の労働という目的のための余暇になった

    逆にぴちっと隙間のない同一性というのも、ひとがその中では息苦しくて生きられないもの。ちょうどふたりの会話を録音してきくと、その場では、とても緊密に絡み合い、交感されていたとおもわれるのに、ほとんどばらばらで、ころころテーマもかわっている、一貫した対話になっていない。それを深いコミュニケーションとしている。遊びは、そういうもの。

    遊びの存在とは、ふたつの違う考え方のスタイル、ふたつのちがう感じ方のスタイル、それらがふれあい、混じり合う経験のこと。同じ作業をしていても、それが感じられるときに、共通のものをめざしてともに働いているというよろこびが、他人といっしょにいるというよろこびがある。

    じぶんをじぶんとして編み上げているストーリーを、他者の「だれ」に応じて、あるいはその都度の他者のありように応じて刻々と変化する。

    自分が自己というものをもちうるのは、特定の他者でありえていると感じられるときであった。この他者はいうまでもなく、未知のひと

    じぶんの内部に入り込み、あるいは浸りきるのではなく、自分の外に出るというそういう感情の中に、ふつう達成感とよばれるもの―仕事における内的なよろこび―をみるころができる。

    ひとであるというのは、途上にあること。じぶんを超えた別のじぶんへの移行の感覚が、重要、そういう感覚の中では、目標点ではなく、通り過ぎる風景のひとつひとつが回り道や道草もが意味を持つ

    ★仕事になかに求める移行の感覚は、未来のために現在を犠牲にする「前のめり」のものではなく、むしろ同時的なもの。それは他者との関係のなかでわたしの変容、そしてわたしたちの変容を期するものであるから。「希望はつねに帰郷であるとともに、何かある新鮮な新しいものである」。「希望」は、「途上にある」という移行の感覚である。

    ★ともに生きてあるという感覚が仕事のなか、遊びのなかに生成するとき、あるいはわたしたちがそれぞれそれとの関係のなかで、自分をはかる、そういう軸のようなものが世界のなかで、そしてわたしたちの間で生成しつつあると感じられるとき、それをひとは「ときめく」と表現するのだろう、現在を不在の未来の犠牲にするのではなく、「いま」というこのときをこそ、他者たちとのあいだで「時めかせ」たいものだ。

    仕事の内的な満足。何かを実現するという目的地の明確設定、パック旅行ではなく、つねに別の場所への移行の状態にある、何かに向かっているという感触が、仕事に充実感やときめきをあたえる。いまのじぶんを超えた別のじぶんへの移行の感覚。

    ★この仕事をおこなうこと、そのこと自体が楽しいという仕事の内的な満足は、現在の他者との関係と編みあわされている。それはじぶんが勝手な意味付けをするのではなく、ひとつの仕事のなかでひとつのことをなしとげたという感覚をあたえてくれるそういうストーリー。それはじぶんはだれかということ、自己のアイデンティティとの関連であたえられるもの。それこそが「生きているという手ごたえ」や「生きがい」と呼ばれる。

    旅する人間。人間のつねにみずからを超えてある在り方。つねに何かにいたる途上にあるというありかた。
    ⇒仕事において「生成されつつ他者」という「現在=顔」が互いに顕現、露呈されるときに、人は仕事に内的な、それ自体の「よろこび」を見出すのだろうな

    じぶんを超えたものにじぶんが開かれてあるという感情。これは自分でじぶんの存在に意味を与えられない限界のある存在であるという意識が背後にある。
    ⇒こうしてみると、自己の生成過程と、労働における他者との交感(=顔の現前)あるいはそれにより新たな「自己の発見=外に出ること」を一致させていくことが「生きがい」につながるのだろうな。そしてそこにこそ遊びのなかでの「共在感覚」が発生するのだと思う。

    じぶんの外にでるという感情のなかにしかない「達成感」。

    ★「いま」の現前が、労働の過程での他者との関係性の中で立ち上がり、顔や越境する自己として顕現されること。それを積み重ねていきたい。

  • 労働、勤勉が、資本主義の中で神聖化されていく。マルクス主義の観点でも、実は「労働者の提供する資源」という形で神聖化される。余暇や快楽までが消費の対象になる。
    ついには「たえず変化していなければならないという強迫的な意識が、(逆説的にも)惰性的に反復されてきたのが、二十世紀社会なのであった」(P86)と喝破する。

    さすが鷲田清一氏の論考でこの辺りまでぐいぐい読ませるが、では、それに対置されるべき「遊び」とは何か、というあたりからやや論旨が迷走している感あり。
    氏が肯定的にとらえようとしている「深い遊び」という概念が、前段で批判的に検討していた「レクリエーション(再生産の準備としての余暇)」とどう違うのか、結局よくわからない。

    「労働VS余暇のかなたへ」という問い建て自体には強く興味を惹かれるだけに類書も並行して読み進めたい。

  • 近代において成立した労働と余暇の二項対立を乗り越え、他者とのつながりのなかで生きる自己のあり方に注目しながら、「働くこと」の意義について考察している本です。

    フランクリンに代表される近代人は、勤勉・勤労に何よりも大きな価値を認めました。一方、1960年代以降に青年たちを中心に広がったカウンター・カルチャーのムーヴメントでは、「モーレツからビューティフルへ」ということばに象徴されるように、「労働」よりも「余暇」に大きな価値を見ようとしました。しかし著者は、こうした「労働」と「余暇」の二項対立そのものが問題だと考えます。

    勤勉・勤労に価値を置く近代においては、つねに前方を見つづける「前のめり」の時間意識が支配的だと著者は主張します。そして、仕事中毒からの離脱願望としてのレジャー志向のなかにも、同様のエートスが息づいていると著者は指摘しています。たとえばジラールが分析した欲望の模倣のメカニズムは、われわれの欲望が同一の物語に回収され、一定の方向へと回送されていくことを白日にさらしました。しかし、有用性と有意味性の連関のこわばりに対しては、レッシングが功利主義者たちに問いただしたように「ところで効用の効用とは何か」といったような冷や水を浴びせてやることが、ときには必要なのではないかと著者は問いかけています。そのうえで、阪神大震災以降に日本の社会においても定着することになったボランティア活動に注目しながら、労働と余暇の二項対立から逃れ出る道をさぐっています。

    著者の結論をわたくしなりにまとめてみると、「顔」という概念を軸にして、広い意味での「社会的包摂」のなかで個々人のアイデンティティが充実されていくことに「働くこと」の新たな意味を見いだそうとしているといえるのではないかと思います。

  • 2024年1月読了。

  • 含蓄深い、仕事をめぐる論考。
    始終、自分はこのままで良いのかの反省が出来た。

    身体論、ファッション、また、家事とボランティア、クレーマーの話題が面白い。

    労働と余暇をめぐる歴史的変遷も頭の整理になった。

  • 本作の内容は、さらっと言えば「自分らしいキャリアの築き方」、敢えてそれっぽい言い方をすれば「「労働」という概念における実存的間主観性の地平」、でしょうか笑

    ・・・
    四章+補章の計五章の小品ですが、一章から三章は労働と余暇という二つの概念の分析で、いかにもテツガクっぽい話で、残念ながら私のサメ脳にはあまり入って来ませんでした。

    おすすめは、四章と補章で、こちらはアツめで面白かったです。

    ・・・
    そこでは、家事という無給の仕事をとっかかりに、ボランティアという無給仕事を対比させ、さらに阪神淡路大震災以降のボランティア熱の高まりから、労働に必要とされる新たな要素を抽出します。

    これからの労働に必要なもの、それは、他者からの認知、ということでしょう。

    給料が高いだけで人は満足を感じるわけでもなく、交換可能な歯車的な業務に対し、自分が仕事につく必然性を見出せないわけです。

    家事もそうですが、まずもって他者からの認知がなく、蔓延する「やってあたりまえ」感。さらには金銭的報酬(認知)もない。自分である必然性は家事にもあるやもしれないですが、自己決定権と周囲からの感謝がなくては、ねえ。。。

    ・・・
    もちろん、ボランティアであっても自分である必然性は見出せるとは限りません。が、少なくとも他者から認めてもらうという体験はきっと大きいのでしょう。

    そうしたことから、終盤筆者は、他者との関わりの中から自分の立ち位置を見出す・形作るという責任を果たそう、というようなことを仰って終わりになります。

    結論的には、あれですよね、先生?
    ひらめきみたいに、「ああ俺の天職はこれだ」という決まり方はきっとしないんですよね。

    不安や疑心の中でキャリアを恐る恐るスタートさせ、経験や人間関係のなかから何がしかの方向性を見出しなさい・作り出しなさい、ってことでいいんですよね、鷲田先生?

    ・・・
    ということで、分かったような分からないような理解(つまり分かっていない)でありました。ごめんなさい。

    どこぞの高校の受験問題に出ていて、それをきっかけに購入しましたが、これは高校生にはちょっと難しいと思います。

    小難しいのが得意な高校生以上、社会思想系好きは大学生、キャリア関連・人事関連業務のかた、教育関連の方は手にとってもらっても良いかもしれません。

    キャリアのことをよりプラクティカルに考えるのならばより良い本は沢山あると思います。労働という概念やその歴史をさらっているところあたりに、きっと本作の価値は多く存すると思います。

  • 解決策が見えたわけではない。でも、そのなりクリアに労働の問題について理解ができたように思う。特に、常に未来に投資し続けて現在を疎かにするような働き方への問いかけには頷きっぱなしだった。少し時間をおいてまた読みたい

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著者プロフィール

鷲田清一(わしだ・きよかず) 1949年生まれ。哲学者。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鷲田清一の作品

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