真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝 (講談社文庫)

著者 :
制作 : 中田 整一 
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (552ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062768054

作品紹介・あらすじ

海軍機動部隊の精鋭三百六十機を率いハワイ奇襲作戦を陣頭指揮し、ミッドウェー海戦で重傷を負い、原爆投下直後の広島で被害調査に従事し、厚木基地にマッカーサーを迎え、ミズーリ号での降伏調印式に立ち会った淵田美津雄は、戦後キリスト教に回心し仇敵アメリカへ伝道の旅に出る。激動の時代を生き抜いた男の真実とは。

感想・レビュー・書評

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  • 一寸探せば「文庫本が直ぐに入手可能…」と判ったので直ぐに入手し、ゆっくりと読んでみたのだ。
    淵田美津雄(1902-1976)の自伝である本書が登場するまでの経過も、本書の中に記されている。
    60歳代の半ばに差し掛かろうというような頃から、御本人が経験したことや考えて来たこと等を纏める“自伝”というような原稿の執筆に取組むようになっていたという。最晩年には病気で視力も衰えていたそうだが、奥様の手助けを得ながら執筆していたそうだ。他界した後、淵田美津雄が持っていた様々なモノは息子さんが保管していた。本書の解説的な部分の記述にも在るのだが、息子さんにとって「淵田美津雄」は「様々な想い出が尽きない、敬愛すべき親父」であり、様々なモノを長きに亘って大切に保管して在ったようだ…本書に向けて遺稿を整理することになった方―解説等も付された方―が息子さんが持っていた遺稿の存在を知り、整理して一冊の本に纏め上げて本書が登場するに至った訳だ。
    こうして登場した自伝は、幾つかの章から成る大河ドラマのような仕上がりだ。淵田美津雄は航空戦を司る指揮官であったが、所謂“高級参謀”として活動して来た経過が在る。参謀将校というのは、様々な計画等に纏わる報告や、決定の発表等の色々な文案を起草するような役目も担う。そういう事を通じて文章を綴ることに長けるようになっていった面も在るであろうが、彼の時代にはやや新奇なモノであった航空作戦を担おうと色々な知識を得るべく様々な資料等をドンドン読むようなこともしていた筈で、そういう職業上の経験が「文筆家的」な素養を自ずと涵養していたのかもしれないと、本書を読みながら感じた。本当に本書は昭和の頃の小説やエッセイの雰囲気と何ら変わりがない感じだ。敢えて「昭和の頃」としたのは、「或いは、最近は少し違う書き方になるか?」という文字や単語の使い方に時々気付く場合も在るからに過ぎない…
    本書の内容は淵田美津雄の生涯を幾つかの纏まりに整理した感だ。出版されたモノは遺稿を編集しているのだが、御本人が番号を振って原稿を整理するなどしていた経過も在るということで、或いは「御自身で人生を“章”分けしてみる…」というような感も在ったのかもしれない。下記に大雑把に纏めておきたい。
    淵田美津雄は父親が小学校の教頭・校長を務めていたという家に生まれている。長じて地元の中学校―現在の奈良県立畝高校の前身ということになる学校であるそうだ…―を卒業し、海軍兵学校に入学し、海軍士官としてのキャリアを歩み始める。
    海軍兵学校で飛行艇の見学試乗という機会が在ったことが契機で、航空関係に関心を寄せるようになり、淵田美津雄は航空関係を担当するようになって行くのである。そして根強い「大艦巨砲主義」に対して、航空戦力、航空戦力を運用する際に用いる航空母艦を戦艦等よりも重要視すべきであるという考え方をするようになって行く。
    日米開戦が近付く中、母艦単位で航空隊を運用するに留まらず、複数の母艦から発進した各航空隊を纏めて運用するということが構想され、淵田美津雄はその指揮官となる。関係者間で「総隊長」と呼ばれるようになり、あの真珠湾攻撃の際には攻撃機の偵察員席に陣取って出動し、飛び続けられる時間目一杯に現地上空に在って戦況を視ながら指揮を執った。
    そしてその後の戦争の経過の中でのことが綴られる。ミッドウェイ海戦の際、淵田美津雄は撃沈されてしまった航空母艦<赤城>に在った。ミッドウェイ海戦の作戦に向けて艦隊が出航した頃、盲腸を患ってしまった。優秀な外科医であった乗艦している軍医の手術を受け、半ば静養しながら艦内で活動していた。<赤城>が攻撃を受けた際に足を骨折する怪我を負いながら脱出することは出来た。以降は主に国内で、航空関係部門を司る参謀将校として活動していた。
    やがて原爆投下が在って降伏ということになった。幸福を潔しとせずというグループによる騒動を何とか収めるようなことに奔走する場面も交え、戦後の後始末にも携わる。
    故郷の橿原市内に土地を求め、そこで何とか暮して行こうとする他方、占領軍からの事情聴取で呼び出しを受けるような場面も多いという暮らしに入っていた。そういう中、淵田美津雄はキリスト教に出遭う。
    やがて淵田美津雄はキリスト教に深く帰依するようになり、米国のキリスト教関係者との交流も拡がり、深まる。そして渡米もして、色々な人達との出会いや対話が在る。
    こうしている中で60歳代の半ばに差し掛かり、生涯を振り返っているような記述で自伝は終わる…
    真珠湾攻撃の場面で、乗っていた攻撃機の操縦士が「ザマーミロ!」と口走る描写が在る。そして敗戦後、フィリピンで降伏した兵士達が「ザマーミロ!」と罵られることが在ったという描写が在る。何か「小説の“伏線”?!」とさえ思ったのだったが…淵田美津雄が至った境地は?「罵り合う」というような関係を排し、互いの立場ややってしまったことは「それはそれ」として、「対等な個人」として「各々が神を懼れる一人の人間」として語り合うことが、個々人の心豊かな生活、更に世界平和への途であるというようなことではないであろうか…
    本書を読んでいて非常に驚いたが、淵田美津雄は広島に原爆が投下された8月6日の前日、8月5日に広島に在ったのだそうだ。広島での打ち合わせを終え、「広島泊まりで一寸一息入れられる」と宿に入った時に連絡を受け、急遽岩国へ移動し、奈良県内へ飛んだのだそうだ。奈良県内の基地に在った8月6日の午前11時頃に原爆のことを知ったのだという。その後、広島の現場調査に参加し、8月9日の長崎のことを現地で聞いて、岩国から大村へ飛んで長崎の現場調査にも参加したという。
    或いは?この原爆の件で、「与えられた命?夥しい犠牲が発生した戦争を潜り抜けて生き残った運命?」を意識した中、日本の捕虜として過ごした米兵の物語等に出くわし、聖書にも触れてキリスト教に帰依するようになって行ったのかもしれない。
    極々個人的なことに引き寄せて思うが、淵田美津雄は多分、自身では会ったことが無い父方の祖父と近い世代、殆ど同じ世代だと思う。“親父殿”は兄弟の末っ子で、その両親が40歳代に差し掛かっていた頃に生まれていて、その“親父殿”が中学生であった頃に50歳代で父方の祖父は他界したそうだ。だから「自身では会ったことが無い父方の祖父」と表現するのだが…
    淵田美津雄は「海軍大佐」であった。江田島の兵学校を卒業した若者が海軍で士官として勤め続け、次第に上位に昇格して行く訳だが、“大佐”ともなれば誰でも到達出来る訳でもない筈で、やがては「提督」と呼ばれる将官という大変な地位だ。そんな凄い位置に居た人物で、他界されたという1976年からでも既に45年も経っていて、「非常に遠い“史上”の人」という感は否定出来ない。が、考えてみれば、仮令会ったことはない―残念ながら自身が産まれる十数年も前に他界していて、会える筈も無いのだが…―にしても、「極々身近に在ったかもしれないような人」の数奇な運命が回想されているというのが本書だ…
    本書との出会いを感謝しながら、多くの皆さんに御薦めしてみたいと思う…

  • 真珠湾攻撃に航空部隊の総隊長として出撃し、その後も様々な修羅場を経験した著者。
    こんな面白い人が居たんだなぁと思った。
    もう数年長生きして完全に書き上げて頂きたかったとも思うが、この本の時点でかなり面白い。

  • ・トラトラトラを打電した真珠湾攻撃総隊長が戦後アメリカでキリスト教の伝道活動をしていたのを初めて知った。
    ・更に彼がアメリカでトルーマン、アイゼンハワー、マッカーサー、ニミッツ、スプルーアンス、ドゥリットルと会っていたなんて。

  •  真珠湾攻撃で総隊長として指揮を執った淵田美津雄(最終階級・海軍大佐)による自叙伝。本書は晩年に白内障を患ってほとんど目が見えない中、妻の協力を得て記されたという。淵田といえば真珠湾攻撃の指揮官で、「トラトラトラ(我奇襲に成功せり)」の暗号電報とともに有名なわけだが、本書ではその波乱万丈な人生が描かれる。

     1902年、奈良県北葛城郡磐城村(現葛城市長尾)に淵田は生まれる。はにかみ屋だった少年期を経て、海軍兵学校(52期)に入学(同期には源田実や高松宮宣仁親王)。
     海軍将校となった淵田は、大艦巨砲主義を批判して航空主兵、母艦航空兵力の集団攻撃を唱え、親友の源田作戦参謀の希望により第一航空艦隊の赤城飛行長に着任する。1941年12月8日、真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官として大戦果をあげる。ミッドウェー海戦では盲腸の手術をしたため出撃しなかったが、赤城の轟沈に際して両足を骨折しながらも生還。捷一号作戦(レイテ沖海戦)で行われた囮作戦は、連合艦隊航空主務参謀として淵田が着想したものだったという。広島への原爆投下の際は、会議のため前日まで広島に滞在していたが、急遽移動の命令があり難を逃れる。終戦後は、日本側代表団の一員としてマッカーサーを厚木基地に出迎え、東京湾上の戦艦ミズーリにおける降伏調印式にも立ち会う。
     戦後は職業軍人が非難される風潮の中、海軍正規将校だったことを理由に公職追放となり、郷里の奈良県高市郡畝傍町(現橿原市)で農業生活に入る。東京裁判では、真珠湾攻撃が共同謀議でなく突嗟作戦だったことを立証するため、弁護人側証人として出廷する。その頃、占領軍司令部から始終呼び出されていた淵田は、東京でキリスト教と出会う。当時、戦場で殺めた人々の遺族を思い胸のうずくのを覚えていた淵田は、今まで「なにをしているか分らずにしていた」という自分の罪を自覚し、洗礼を受ける。淵田は、間一髪で広島での被爆を免れたことが、自身の信仰の始まりであったとも語る。
     回心した淵田は、8度にわたってかつての敵国アメリカへ伝道の旅に赴く。このキリスト教伝道に対しては、旧海軍仲間を含む日本国内からの批判、アメリカではリメンバー・パールハーバーの声があがったが、淵田はこれらをものともせず、戦争の愚かしさと憎しみの連鎖を断つことを訴え続ける。この伝道の旅の中で、淵田はかつて死闘を繰り広げた敵将、ニミッツ元帥やスプルアンス大将などを訪ね、互いに心を通わせることになる。

     本書は五百項を超える大著だが、参謀として数多くの起案を作成していた淵田の文章は巧く、一気に読んだ。ところどころに関西人らしいユーモラアが見られるのも、淵田の人柄を思わせる。また、大事を成し遂げた帝国海軍士官・淵田美津雄だけあって、その精神力と行動力には目を見張るものがある。負けん気の強さ、粘り強さは並のものではない。生も死も航空に賭けると決めたら、誰に何といわれても譲らない。水深12mの真珠湾での魚雷攻撃は当初不可能だと考えられていたが、これをするのだと決意して、実際にやってのけるところは見事だ。また、降伏調印式で口惜しさに拳を握りしめていた姿も印象的だ。
     作中で述べられている、淵田による航空主兵(戦艦無用論)や山本五十六凡将論なども興味深い。本書の原題「自叙伝・夏は近い」は、聖書に記された世界の破滅の兆しを予言したキリストの言葉からの引用で、第三次世界大戦への警句が込められているという。
     淵田が奈良県出身で、橿原市に住んでいた(家の跡地は畝傍南小学校の校庭の一部)ことは本書を読んではじめて知った。同郷の英雄ということで、どこか親近感を抱きながら読んだ。

  • 第2次大戦中、アメリカ太平洋艦隊の根拠地ハワイを奇襲した航空部隊の総指揮官として知られる淵田美津雄大佐の自叙伝(2010/11/12発行)。

    本書以前に著した「真珠湾攻撃」や「ミッドウェー」を読んだことがあるので、前半はある程度内容がダブっていましたが、興味深く読みました。 特にレイテ海戦における日本海軍の作戦は実質、淵田大佐の構想を元にされていたとや、厚木の第三〇二航空隊の鎮圧、豊田副武大将の戦犯裁判における弁護のエピソードなどは特に興味深っかったです。 多少、疑問に思うことも書かれていますが、その辺は編集者の中田整一が解説で補われています。
    帯に書かれている通り感動の書とは思いませんでしたが、貴重な書(記録)であることは間違いないでしょう。

  • 正直な本。

  • 面白いか面白くないかで思う分には、相当興味深いし、面白い。キリスト教伝道師になってアメリカに行く精神力も凄い。でも、ちょっとわからない部分もあるのはなんでかな?いろいろ考えてしまいます。

  • ある程度権限を持った人からの目線で見た実際戦争の様子が描かれているので、興味深かったです。
    綴られている軍人の方々の様子が、歴史の本の他目線で見た書物とは違い、生きている感じがする、というか、人間なんだなあって感じがしました。
    真珠湾の様子とかも非常に分かりやすくて、良かったです。

  • 零戦撃墜王 岩本徹三を読了したとこで、次は真珠湾攻撃関連の書籍を漁り中。
    Amazonのレビューと星の数で購入。

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