夫の後始末

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062208161

作品紹介・あらすじ

夫・三浦朱門はある日、崩れるように倒れた。短い検査入院の間に、私は日々刻々と夫の精神活動が衰えるのを感じた。その時から、一応覚悟を決めたのである。夫にはできれば死ぬまで自宅で普通の暮らしをしてもらう。そのために私が介護人になる――。

作家・曽野綾子が80代なかばにして直面した、90歳になる夫の在宅介護。工夫と試行錯誤を重ねながら、「介護とは」「看取りとは」そして「老いとは何か」を自問自答する日々が始まった。

家族の介護をしている人も、これからするかもしれない人も、超高齢社会を迎えるすべての日本人に知ってほしい「夫婦の愛のかたち」がここにある。

2017年2月の三浦氏逝去を越えて続いた、「週刊現代」大人気連載が待望の単行本化。

感想・レビュー・書評

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  • 作家の曽野綾子さんが、ご主人であり作家であった三浦朱門さんを自宅で介護し最後まで看取った話。
    自分の母、夫の両親も自宅で看取ったことを淡々と書かれていて、すごいなと思った。
    でも、自分で背負い込むというのではなく、秘訣はいかに手抜きをするかを考えて動くこと。あとは多少のいじわるは許されること(呼ばれてもすぐに行かない等)。

    人間の臨終を楽にする方法
    1.胃瘻…終わりの見えない戦いを始めることになる
    2.気管切開…最後に家族と語る機能を失う
    3.多量の点滴による延命…痰は増えるし苦しませるだけ
    この3つはやってはいけないらしい。
    肝に銘じておく。

  • 夫・三浦朱門と過ごした夫婦の「最後の日々」を描く書です。

    気になったことは次です。

    ・しかし私はその時から、一応覚悟を決めたのである。夫にはできれば死ぬまで自宅で普通の暮らしをしてもらう。そのために私が介護人になる、ということだった。
    ・高齢の親たちを見るのは私たち夫婦しかない、という事を覚悟していたおかげで、私は高齢者を介護するときに発生するであろう幾つかの困難を予想することができていたのである。
    ・理想の生活などこの世にあるはずはない、というのが、昔からの私の実感であった。
    ・「そんなことでは人はしなない、少しぐらい食べなくても死なない。...」運命が私に教えてくれた言葉は数限りない。
    ・作家の宇野浩二氏が「作家になる資質とは何ですか」トインタビューで聞かれた時、「そりゃ、運、鈍、根さ」と答えられた話に心から共感を覚えていた。作家修行だけではない。どんな道もまさにその通りなのである。
    ・私は、時々「その仕事をしなさい」と神に命じられているのだ、と思う時がある。
    ・自分はすべてわかっていると思わないほうがいい、そしてできれば気が長い方がいい。
    ・つまり、「いい加減」にやっていいのである。いい加減という言葉が、だいたいのところという意味と、まさに適切な量との双方を示すというのは何とも面白いものである。
    ・耳の聞こえの悪い人は、ぼけも早く来るような気がする。
    ・「心の貧しい者」という悪訳は、聖書の原本に忠実なのかもしれないが、日本人がいう物質的で人情に欠けた人ではない。この言葉は、ヘブライ語の「アナウィム」という語から出たものだというが、それは虐げられている者、苦しむ者、哀れな者、貧しい者、柔和な者、謙遜な者、弱い者などの意である。つまり「アナウィム」たちは、国家、富、健康、身分などの誇りをすべてはぎとられ、その恩恵を受けず、神だけしか頼るもののなくなった人たちを意味する。
    ・死という一線を超えるまでは、おそらく長い経過がいる。人間、なかなか死ねるものではない。
    ・奉仕を意味する「ディアコニア」というギリシャ語の原語を考えれば、もっと厳密な意味をもつ。奉仕とはうんことおしっこの世話をすることなのだ。それ以上は、人に仕えることではない。と私の知人の神父はいった。奉仕というのは、他人に対する行為だが、家族に対していえば「看病」つまり看取りだ。その看取りの基本は、排泄物の世話なのである。
    ・(臨終にあたって)やってはいけないことが、三つあったように私は記録した。胃瘻(いろう)、気管切開、多量の点滴による延命である。胃瘻は終わりの見えない戦いを開始することになる。気管切開は、最後に家族と語る機能を失わせるので絶対にしてはいけない、と先生は教えてくださった。
    ・一人息子を手放すの?と人にいわれもしたが、むしろ子離れをしない母になることこそ息子の負担になるだろう、と思えたので、敢えてその道を意識的に選んだ。
    ・選べるのは、常にあれかこれかのうちの1つだけだ。あるいはいにしえのユダヤ人のように、この世で一つを得たら、必ず、犠牲をささげなければならないと考えていたのかもしれない。
    ・神父は、人の死は決して生命の消滅ではなく、永遠に向かっての新しい誕生日だということ説教のなかで述べられた。この思想はほんとうはカトリック教徒全員の中にあるもので、死の日は「ディエス・ナターリス(生まれた日)」というラテン語で呼ばれるのである。

    目次は、以下です。

    まえがき 夫を自宅で介護すると決めたわけ

    第1部 変わりゆく夫を引き受ける
      わが家の「老人と暮らすルール」
      夫の肌着を取り替える
      布団が汚れたら、どうするか
      八十五歳を過ぎた私の事情
      夫の居場所を作る
      食事、風呂、睡眠のスケジュール
      モノはどんどん捨てればいい
      夫が突然倒れた時のこと
      よく歩く、薬は控える、医者に頼らない
      介護にお金をかけるべきか
      「話さない」は危険の兆候
      介護にも「冗談」が大切
      明け方に起きた軌跡
      夫に怒ってしまう理由
      散々笑って時には息抜き
      「食べたくない」と言われて
      老衰との向き合い方
      「奉仕」とは排泄物を世話すること
      温かい思い出と情けない現実

    第2部 看取りと見送りの日々
      夫の最期の九日間
      ベッドの傍らで私が考えていたこと
      戦いが終わった朝
      息子夫婦との相談
      葬式は誰も知らせずに
      お棺を閉じる時の戸惑い
      夫の遺品を整理する
      変わらないことが夫のためになる
      広くなった家をどう使うか
      遺されたメモを読み返す
      心の平衡を保つために
      納骨の時に聞こえた声
      「夫が先」でよかった
      人が死者に花を供える理由
      夫への感謝と私の葛藤
      「忘れたくない」と思わない

  • 表紙を見て夫がギョッとしていた。
    私もタイトルに惹かれて読んでみたが、中身はギョッとすることなく品がただよっていた。

    不勉強ながら曽野さんも朱門さんも存じ上げませんでしたが、2人のユーモア溢れるやりとりに思わずくすっとしてしまいました。
    朱門さん、面白い。

    老後までまだ時間があり、親の介護もしたことがないのでこの本がもったいなかったかな。
    10年、20年後に読んだらまた違うのかもしれない。

    胃ろうと気管切開はしない方がよいというのは私も聞いたことがあり、それを夫に伝えておこう。
    お墓には入りたくないので、どこかに散骨してほしい。暗くて狭いところじゃなくて明るくて広いところを自由に動きたいから!
    お墓参りや法事は不要!私はお墓にいないから!それに法事よりも楽しいことに自分の時間を使ってほしいから。
    時々(たまーにでいいや)思い出してビールを供えてくれたら十分。
    棺にはイタリア語の辞書を入れてほしい。
    お葬式の祭壇はいらない。もっとシンプルに黄色い花を置いてくれれば良い。
    みんな喪服じゃなくて明るい洋服を着てほしい。
    悲しい音楽ではなく、ファレルウイリアムのhappyをかけてほしい。

    これが今日時点の私の後始末のお願い。

  • 実母、義理の両親、そして夫と4人の家族を看取ったひとの説得力のある言葉の数々。心にしみる内容だった。
    奉仕とは排泄物の世話をすることーー納得。

  • 淡々としている著者がうらやましいような、さみしいような、納得するような、反論するような、いろいろ考えさせられます。 信念をもって生きているところはすごいかな。いろいろな情報やまわりとのしがらみに流されがちなので。。。

  • 著者の夫への深い理解、愛情、尊敬が伝わってくる、素敵な本です。
    人の死を扱う本を泣かずに読めないタイプなのですが、本書では泣くことがありませんでした。感動がなかったということではなく、死を扱う話に漂うもやもやしたもの(感情の揺れ、というようなものでしょうか)を本書では全面に押し出して来ないからでしょうか。しかしかえって思いが伝わってきます。

  • タイトルが少しショッキングだが、夫を始末するのではなく、夫の後ね、と思い直し読む。

    著者を悪く言うのも聞いたことがあるが清々しく、宗教小説に出てくる宣教師的な偏狭な印象もない。
    カトリックの信者だからという表現もあるけど、盲信していると感じさせる表現はない。

    夫を見送る姿勢もシングルのわたしでも親はいるからためになった。介護というのは下の世話をした者でなければ介護したと言えず、生き死には人間が(特に残される)決めるのではないとの意見に大いに共感する。

    ともあれ、家族の死の前には、聞いていても、知識はあっても、その時々に動揺していけばいいのかなとも思う。
    何もないときに準備して、あわてることのないようにというのはそもそも無理な話。

  • のこされたことは。
    巡り会えたことに、日々を共に過ごせたことに、感謝。そして「妻の後始末」をしてくれなかったことに、ちょっとグチ。

  • 自分の親や将来は夫が病に倒れた時、どんなことが必要か等を考える時がある。
    答えはないのだろうし、思った通りには出来ないのだろうけれど、心構えというか、何かしらの情報や参考になりそうなことを知りたいと手に取った。
    様々な考え方やそれぞれの家族の約束のようなものがあったり…

    2021.1.22

  • 夫の後始末とはいささか物騒な題だなと思ったが、なかなか読後にはほんのりと温かなものが残り、良い本だと思う。私も還暦を過ぎて、家内も過ぎたがいつまで生きる事が出来るのか?老後の在り方の一つのケースとしてとても参考になった。
    もうそんなに遠い話ではないから、心の準備はしておきたいものだ。

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著者プロフィール

1931年、東京に生まれる。作家。53年、三浦朱門氏と結婚。54年、聖心女子大学英文科卒。同年に「遠来の客たち」で文壇デビュー。主な著作に『誰のために愛するか』『無名碑』『神の汚れた手』『時の止まった赤ん坊』『砂漠、この神の土地』『夜明けの新聞の匂い』『天上の青』『夢に殉ず』『狂王ヘロデ』『哀歌』など多数。79年、ローマ教皇庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章。93年、日本芸術院・恩賜賞受賞。95年12月から2005年6月まで日本財団会長。

「2023年 『新装・改訂 一人暮らし』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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