誰も書けなかった「笑芸論」 森繁久彌からビートたけしまで

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062194006

作品紹介・あらすじ

「笑い」と共に生きてきた伝説の放送作家だからこそ、ここまで書けた!森繁からたけしまで、その伝説のすべてを晒す「体験的笑芸論」
第一章 「体験的・笑芸六〇年史」 
森繁久彌の横の家に生まれ、森繁氏の庭の柿を盗み、子犬まで捨ててしまった少年時代。日大落語研究会で森田芳光の先輩として飲み歩いた日々。塚田茂に弟子入りし、預けられた「ドリフ」の毎週続く地獄の会議。
森繁久彌、三木のり平、青島幸男、渥美清、林家三平、永六輔、古今亭志ん朝、森田芳光、立川談志、三波伸介、景山民夫、大滝詠一、坂本九
番外編 脱線トリオ、クレイジーキャッツ、コント55号、ザ・ドリフターズ を収録。

第二章 「ビートたけしと笑芸の夜明け」
「浅草にすげぇ奴がいる!」という噂を聞きつけ足を運んだ浅草で出会ったビートたけし。その出会いから伝説の「オールナイトニッポン」まで。笑いの歴史を塗り替えた瞬間を、その横で「バウ、バウ!」と目の当たりにした著者がすべて語る。

第三章 「東京の笑芸私史」
東京の笑いの中心・有楽町日劇ホール。戦後の「笑い」から現在の東京の「笑い」への系譜を、場所と出来事・人を縦横に繋ぎ浮かび上がらせた、私的笑芸六十年史。

感想・レビュー・書評

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  • 人生は 五分の真面目に 二分侠気 残り三分は 茶目に暮らせよ
    茶目っ気七分で生きてきた高田文夫センセーのお話です。

    60年に亘る東京の笑い・芸能人の実態に触れる、
    高田文夫センセーの小気味良くテンポの良い芸談。
    評論ではなく、現場で体験した話だけで綴る、
    戦後の正しい笑芸史です。東京人の魅力が大爆発。

    昭和23年(1948)渋谷は富ヶ谷に生まれ、
    千歳船橋に越しては森繁の庭で柿を盗み、
    幼い頃より芸能関係者、ラジオ映画テレビに親しみます。
    早くも学芸会の自作コントで爆笑をさらい、
    高校時代はエレキバンドで国定忠治コント、
    日藝卒業後、放送作家となり数多の芸人と親交を結び
    数々のヒット番組を送り出してきた高田文夫。
    東京の笑いを生で、現場で見続けた生き字引であります。

    高田文夫センセーの記憶と共に、
    子供の頃からテレビや街中で見てきた
    東京の笑いとその矜持を振り返りましょう。

    ___________________________________________________________
    第一章 「体験的・笑芸六〇年史」 
    森繁久彌の横の家に育ち、森繁氏の庭の柿を盗み、子犬まで捨ててしまった少年時代。日大落語研究会で森田芳光の先輩として飲み歩いた日々。塚田茂に弟子入りし、預けられた「ドリフ」の毎週続く地獄の会議。

    森繁久彌、三木のり平、青島幸男、渥美清、林家三平、永六輔、古今亭志ん朝、森田芳光、立川談志、三波伸介、景山民夫、大滝詠一、坂本九
    番外編 脱線トリオ、クレイジーキャッツ、コント55号、ザ・ドリフターズ を収録。

    第二章 「ビートたけしと笑芸の夜明け」
    「浅草にすげぇ奴がいる!」という噂を聞きつけ足を運んだ浅草で出会ったビートたけし。その出会いから伝説の「オールナイトニッポン」まで。笑いの歴史を塗り替えた瞬間を、その横で「バウ、バウ!」と目の当たりにした著者がすべて語る。

    第三章 「東京の笑芸私史」
    東京の笑いの中心・有楽町日劇ホール。戦後の「笑い」から現在の東京の「笑い」への系譜を、場所と出来事・人を縦横に繋ぎ浮かび上がらせた、私的笑芸六十年史。
    ___________________________________________________________

    あっさりと恋も命もあきらめる 江戸育ちほど哀しきはなし

    この世に要らない命なんてない
    ___________________________________________________________

    オーイッ、社長いるかー?会社休みかー
    おーい、社長ーッ!二号のとこへ行ってんのかーッ
    すると必ず棒を持ってモリシゲが追っかけて来た
    (森繁久彌)

    テレビ見てたけど高田君も大変だなぁ。
    たけし君を面白くみせなきゃいけないから。
    あたしも森繁さんをたてるんで大変だったよ

    オレは…談志とたけしの芸が大嫌い。
    芸の言い訳をやたらするでしょ。
    それに二人は出が悪い、アハハ
    (いやよ、いやよも好きの内、なのだ)
    あたしが好きなのは志ん朝と高田君。
    どんなにひどいこと言ってても品がある。
    あたしと同じ坊っちゃんだから

    八波むと志、東八郎、萩本欽一、ビートたけし
    我が心の中の4大つっこみである
    (三木のり平)

    努力・勤勉・勉強なんてのは何の役にも立たないのが、この世界。
    ズバリ、必要なのは才能だけ。
    才能ない奴ァ、田舎帰ってクソして寝ちまえ

    おお、やっぱり来やがったな、バカ野郎。
    高田、来るのが遅ェんだよ
    (青島幸男)

    お前、さしずめインテリだな

    田所康雄は渥美清であることすら許されず

    渥美が一番生きるのは、おいちゃん・森川信時代。
    浅草の大先輩に胸を借りる感じがして、
    このからみは絶品ですね。
    内緒だが森川信の方がうまかったりして………アハハ

    ちょっとちょっとお兄さん
    お兄さん、売れるよ!

    ゆうべの台風どこに居たちょうちょ
    (渥美清)

    ああ、これはおもしろくなかったン。
    次は面白いですから、といきなり歌い出し…。

    テレビ時代となり、いつチャンネルを回されてもわかるように、その落語はつくられていたと思う。

    テレビが初めて中継する真打披露である。
    口上に並んだメンツを見て視聴者はびっくりした。
    桂文楽を筆頭に、志ん生、師匠の圓蔵、圓生、小さん、金馬、正蔵、小勝…
    書いているだけで手がふるえそうな昭和古典オールスターである。

    ああ、坊っちゃんふたり、そこ座って!
    今から月光仮面の話しますから
    …もう幸せすぎてボンヤリ、頬が紅潮していくのがわかった。
    (林家三平)

    神田生まれの浅草育ち、十七代目のチャッキチャキ
    老いてなお気が短くて、曲がった事が大嫌い

    知らない横丁を曲ってみる、それが旅です

    今からでも遅くはありません。僕の弟子になって下さい
    もう自力でなんとかなったっつーの。

    今のテレビ・ラジオがあるのは、永六輔、
    たった一人のお陰です
    (永六輔)

    志ん朝師は、のり平とジャズが人一倍好きだった

    嬉しそうに談志のことをあれこれ話してくれた
    あの兄さんには随分ひどいめに遭ったン。
    口は悪いし、シャレはきついしネ、もう散々………
    でも憎めないんだよ。親切なんだなぁ
    (古今亭志ん朝)

    下町生まれではなく山の手の"のてっこ"の芸能小僧といった趣があり私と同じにおいがした。

    主人公の下手な噺家・伊藤克信が森田自身であり、
    先輩の陽気で人気者の噺家・尾藤イサオは私がモデル

    先輩がびっくりするくらいの大監督になりますよ、アハハ
    私は森田が大好きだ。
    (森田芳光)

    高田のバーカ!

    芸の良し悪し、うまい下手、
    すばらしいジョークにいやな洒落、いい奴悪い奴、
    すべての規準を敬愛する談志から、叩き込まれてきた

    何十冊とある本の中で一冊選べと言われれば
    講談社刊で「談志百選」

    馬鹿は隣の火事より恐い
    銭湯は裏切らない
    人生、成り行き
    親切だけが人を納得させる
    (立川談志)

    恰幅の良さ、美しい声、台詞のメリハリの良さ、
    何より人間的なスケールの大きさが茶の間で愛された

    根がマジメな上、お酒は一滴もやらず、
    本心は決して見せない人だった気がする。
    毒もそれ程吐かず、健全なテレビの顔となった三波を
    各局で欲しがった。

    MANZAIブームが来るまで本当に私は毎日、毎日、
    三波と一緒に居た

    凸凹大学校では、三波は「私の高田センセーです」
    と紹介してくれた。
    以来、業界では私のことをあだ名の「センセー」で
    呼ぶのがならわしとなっている。
    (三波伸介)

    まぎれもなく私の〈相棒〉である。
    三十代、極く短い期間ではあったが、マスコミの中で
    濃密に吠え、遊びまくり、うけまくった相棒である。

    たけし、タモリも巻き込み三十代の我々は
    本当によく売れ、よく笑い、よく遊び、よく敵を作った
    私がたけしの「オールナイトニッポン」「ひょうきん族」などの構成者なら、景山は「タモリ倶楽部」「11PM」の構成者

    景山を呼んで談志は言った。
    「その大川ってのはお前より頭がいいのか?」
    「ハイ」
    次の日、私は景山に聞いた。
    「大川興業の大川総裁よりも頭がいいのか」
    「少しだけ」
    だったら仕方がない。
    (景山民夫)

    趣味という域を通り越して、研究者として
    映画、演芸など大衆芸能に関する知識ももの凄いのです。
    クレージーキャッツ研究の第一人者としては
    小林信彦氏と共に両横綱。

    この衣装一式、いまアメ横で買ってきたんだけど四十万よ!
    一回私をおどかすためだけにこれだけのことをする。
    サービス精神満点の男なのだ。
    (大瀧詠一)

    たった四十三年の生涯ではあったがスポットライトを
    浴び続けた見事な芸能生活であった。

    坂本九の話芸、それはもうおみごと。
    「高田ちゃんの台本は喋りやすいよ」とバカはまり
    この時、付き人として坂本九についていたこわ面の男
    …これが石倉三郎。

    この頃ポール牧やら青空球児からささやかれることが度々あった。
    「高田ちゃん、いま浅草に凄ぇのが居るよ」
    「高田ちゃん、柄は悪いけど面白ぇんだ」
    「ヤクザおとかしてたかって酒呑んでる芸人が居るんだから」
    「たけしってのと、いつも一緒に居る三郎」

    嵐の前の静けさの中の浅草で、
    出口のみつからないたけしと三郎は、何かにいらだち、
    来る日も来る日も客の居ない小屋でネタをやり、
    そして安い酒に溺れていたのだろう。
    たけしと出会う一九七〇年代後半の話である。
    (坂本九)

    本当に助平で、下らないなぁと
    子供心に少し尊敬していたのが由利徹。
    晩年は、いい芝居をみせてうならせてやろうなんて
    演技派の森繁病や伴淳病にはならなかった。
    それだけでも志が高い。品性の高い下品さなのだ。
    針仕事をする絶妙なる動きをまた見てみたい。
    (番外編・由利徹)

    浅草からでもない、寄席からでもない
    ジャズ喫茶から飛び出したニュースター。
    一流のミュージシャンゆえ、リズム感よし、間もよし
    お父つぁん、お粥ができたわよ
    お呼びでない
    ガチョーン
    青島だァ 谷だァ
    (番外編・ハナ肇とクレージーキャッツ)

    昭和四十年代前半に演芸ブーム・トリオブームというのがやってきて、そのシッポのところに、飛びまわり走りまわるアクティブな二人組が現れ、みんな持っていってしまった。
    毎日ネタおろしのコントを汗びっしょりで演じ、すぐに若い女の子(有楽町のOL)から黄色い声援を浴びた。
    (番外編・コント55号)

    若手の私は部屋の隅で息を殺して小さくなっていた。
    シーン。一時間、二時間………咳払いひとつない。
    「こんな設定どうですか」シーン。
    ジロリにらむいかりや。耳クソ掃除をしている荒井注。
    ドアの外にはまだボーヤだった志村けんが
    水が入ったヤカンを持って立っている。
    スヤスヤ眠りに落ちる高木ブー。
    本当に恐かった。いかりや長介は笑いの鬼だった。
    (番外編・ザ・ドリフターズ)


    「笑い」が好きで飛び込んだこの世界なのに、
    忙しさに流されるままでいいのだろうかと、
    不安もよぎった。二五歳にしてすでに家庭も持っていた。
    誰かと「今の笑い」をやりたい、作りたいという気持ちが無性に起きてきた。
    その時である。
    浅草に凄ぇのがいるよ。
    高田ちゃんと一緒くらいの年かっこう。
    と聞いて、浅草へ向かった。
    そこで見たのがツービートだった。
    この男と会って話がしてみたいと無性に思った。

    「この後、空いてんの?一杯行かない」
    「いいっすネ」
    最初の一○分話しただけでこれは気が合うな、話が合うな、面白がる処が同じだなと思った。
    別れ際、私はこう聞いた。
    「明日どうしてる?」
    以来ふたりは毎日のように会うことになる。

    来る日も来る日も「修学旅行のマヌケな奴」だとか、
    「こんなヤクザは恐くない」なんて話をして笑い転げた。
    我々の話していることが世の中に出たら日本一面白いけどな…。どうやったらたけしが世間に出られるのか、ずっと考えていた。
    MANZAIブームがやって来るほんの一、二年前の話である。
    夜明け前というのは何も見えないものだ。

    MANZAIブームの時、山藤章二宗匠はズバリみごとにこう言い当て、喝破した。
    漫才がフィクションからノンフィクションに変わった

    大学を中退し、新宿のジャズ喫茶で働き、
    頭でっかちな新宿の町をすて、
    身体でっかちな町・浅草へ流れついた北野武。
    金もない女もない仕事もない日々。
    この頃の気持ちを自ら作詞した「浅草キッド」は名曲である。
    たけしがその後、作詞した「浅草ロック」というのがたまらない。
    喜劇好きにはジーンと来る。
    浅草のにおいが煙の向こうからムンムンしてきて、
    いいですねぇ。

    父ちゃんも駄目なペンキ屋だったけど…知ってる?
    東京タワーの赤い一番上のてっぺんのところ、
    あそこ塗ったの父ちゃんだって言うんだよ。
    いやぁ本当かなあ
    と照れて笑いつつも、たけしの表情が
    どこか誇らし気だったのを覚えている。

    これは、これは高田亭〜。今日はなあに?
    お金なら貸せないわよ

    いいでしょう。
    三ヶ月だけタケちゃんをニッポン放送に貸しましょう。
    その代り、条件はただひとつ!
    人一倍人見知りするタケちゃんのために、
    高田さんが必ずついてること。これだけが条件!

    かくして「ビートたけしのオールナイトニッポン」が始まった。

    ふたりで決めたことはただひとつ。
    テレビをつけりゃ漫才ブームで大阪弁だらけの昨今、
    オイラだけは徹底した東京弁、特に下町言葉で押していこうということだけだった。

    深夜にテレビや舞台では言えない豪速球のギャグを投げ込んで来るたけし、それをバシーンといい音立てて受ける名捕手の私。

    三時前になると「おつかれはん。これから呑みに行くんでっか?ええなぁ。五時まで喋って、我々は新幹線で大阪帰るんです」。
    二部は明石家さんまだったのだ。

    当時向かい合っていた高田先生はどういう人だったんですか?
    日本一のいい客だね。いいギャグ出しゃ、もの凄いうけてくれるし、オイラがせこいこと言っても、勝手にしょうゆだの塩だので自分で味付けしちゃって、ケラケラ笑ってんだもの。完璧な客だね。
    しまいにゃ客の方がオイラより面白いこと言って笑ってんだから。
    (第二章 ビートたけし誕生)

    強いばかりが男じゃないと いつか教えてくれた人
    談志師匠が、この歌が大好きで、
    新年会の最後は、本当に嬉しそうに踊っていた。

    笑いを見る者にとって大切なのは
    いつ、どこで、誰を 見たかである。
    どれだけ小さい内から生の芸に接し、やっていたかである。
    笑いの感性・センスはそれで決まる。
    三ツ子の魂なんとやらである。
    やはり“笑い”は東京と大阪の偉大なる地方文化だと思う。

    “山の手小僧”の私ならでは、
    赤尾敏、土橋正幸、花形敬、そして元祖ジャニーズ
    高校時代といえば銀座みゆき通り、代々木の山野ホール、渋谷の東急文化会館、明大前の正栄館、そして日劇のクレージーキャッツショーである。

    浅草の盛りあがり(実演)が昭和一○年代。
    ラジオの全盛期がきっと昭和二○年代。
    映画の全盛期が間違いなく昭和三○年代。
    そしてテレビの全盛期が昭和四○〜五○年代。
    昭和六○年代に入るとテレビも色褪せていったような気がする。
    平成に入って、テレビは? ウ〜〜ン。
    ネット社会か………わからない。
    (第三章 自伝的「東京笑芸論」)

  • これだけの喜劇役者、お笑いのプロたちと懇意にしていれば、
    書かないわけにはいかないだろう。
    森繁久や、三木のり平、青島幸男、渥美清、林家三平、永六輔、古今亭志ん朝、森田芳光、立川談志、三波伸介、景山民夫、大瀧詠一、坂本九、そしてビートたけし。

    そうそうたるメンバーだ。
    残念ながら、永六輔とビートたけし以外は鬼籍に入られた。
    著者も2012年に心肺停止から見事、復活された。
    どうか長生きしてほしい。

  • 笑芸論という言葉ははじめて見ましたが、笑芸のフロントラインにたち作家として牽引してきた著者として、これまで見てきたものを記したいという強い気持ちが現われた本です。途中にも、これは資料を集めて書いた評論ではなくて、自分の体験から書いたものだからという箇所が複数回出てくるので。自分の仕掛けた仕事が、才能だけでなく、こどものころより見聞きしていた笑芸の源泉にあることを振り返り、今に伝えることはフロントラインにたつ者の大きな役割だと感じました。

  • 著者の幼少期のエピソードがなかなか楽しい。

  • 小林信彦『日本の喜劇人』澤田隆治『上方芸能列伝』とこの本があれば戦後から昭和の終わりまでの演芸史を俯瞰することが出来る。

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著者プロフィール

■高田 文夫(タカダ フミオ)
1948年、渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科卒業と同時に放送作家の道を歩む。
83年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼で88年に真打昇進。
89年『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)スタート。
「週刊ポスト」(小学館)、「月刊HANADA」(飛鳥新社)にて連載中。「笑芸」に関する著書多数。

「2021年 『ギャグ語辞典』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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