- Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062172868
作品紹介・あらすじ
孤独な魂がふれあったとき、切なさが生まれた。その哀しみはやがて、かけがえのない光となる。芥川賞作家が描く、人生にちりばめられた、儚いけれどそれだけがあれば生きていける光。『ヘヴン』の衝撃から二年。恋愛の究極を投げかける、著者渾身の長編小説。
感想・レビュー・書評
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どなただったか、
ブク友さんのレビューを読んで
図書館で順番がまわってくるのを待って、
そして、手に取った本。
でも、何を書いていいのか…。
読んでいる間、ずっと感じていた無力感。
誰だって器用には生きられない。
それにしても、
美しい文章の行間からにじみ出るのは
底の見えない孤独感。
頭でも心の中でも、読んだことが消化しきれない。
「見える色って、吸収されなかった残りの色なんですね」
入江冬子のこの言葉だけが、なぜか心に残った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
久々にどうしていいか分からない本だった。
読み進めれば進めるほどに主人公大丈夫なのか⁉︎と心配になって、大丈夫かと思ったらそうでもなくて、でも大丈夫じゃないほどにはならずに終わっていった。
自分で何言ってるのかよく分からないな。 -
川上未映子さんが描く大きな事件は起きず淡々と過ぎる物語やけど全体の文章の表現が描く雰囲気が心地よくて最後まで楽しめる長編小説。
川上未映子さんの作品は積読しまくってて初めて読んだんやけどさらっと流れるシーンやセリフに心動かされるし、頭になんか残るしすごい!!なんかよくわかってないけどすごい!!これがいい文章ってやつなんやろうな〜読んだ後、川上未映子さんの書いた本を他にも読みたい!!って思ったら本棚に何冊か並んでいて今まで積読してきた自分にいきものがかりの「ありがとう」を歌ってあげたくなった。
表紙カバーの雰囲気が物語といい感じにリンクしてる感じがしてGOOD! -
ほとんど引きこもりで、自分の誕生日であるイブの夜に1人散歩するのが「恒例」になってしまった、いい歳の大人・冬子が、不器用で純粋な片思いをする話。
だけど人とのかかわりが億劫になっているがゆえに、冬子はいつもお酒を飲んだ状態でお相手の三束さんとお茶をする。日本酒を入れた魔法瓶も持ち歩く有り様。
人を想うときのことをこんなふうに繊細に描写できるものなのか、と驚きながら読み進めた。
冬子と三束さんは光について語り合っていたが、ふたりの関係や感情はまさに光のよう。
近すぎず遠すぎず、光のように静かで、美しくて、掴めなくて、儚い。
自分の抱く感情や気分や言葉はすべてどこかからの引用だ、という説は、確かにそうだと思い、それから不思議だとも思った。
自分で選ぶことをせず、周りに流されるまま、楽なほうの選択をしてきた冬子は、私の生き方と違う、とは言い切れず、胸が苦しくなった。 -
川上美映子さんの小説は暗い感じの人が多く出てきます。 ヘブンもそうでした。でも主人公の性格や生活うなずけるんです。最後ハッピーエンドで終わって欲しかったです。
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胸がつまる物語。
本当に何度も思うことは、誰かにとっての正しさが他の誰かにとっても正しいとは限らないということと、人には色んなことがあってわたしから見える部分がそのひとのすべてではないということ、それから、幸せとはなにか、ということ。
最初はすごく残酷だなあと思った。会話部分を見ていると、主人公のコミュニケーション能力がどれくらいかとか、お酒をたくさん飲んでいることとか、主人公の気持ちを辿りつつ、第三者(他者)としてわかってしまう不幸があるから。でもこれはほんとうに不幸なことなのかなあとも思う。じゃあ、おしゃべり上手で、健康的な人の方が主人公より必ず正しいのかと言うと、そんなことはない。
主人公は、周りに、鈍感なひとだと思われている。主人公の心情を辿る文章にも、はっきりと気持ちが説明されているわけでもなくて、でも、読んでるとわかるのは、なにかを感じてるのは確かだってこと。世間には、周りの人の気持ちに敏感だったり、すごく上手く人と接することが出来て、鋭く深くあらゆることを洞察出来る人もいる。わたしにとって、正しくない種類の鈍感さももちろん存在するから一概には言えないのだけど、すくなくとも、主人公のこの「鈍さ」は断罪してしまえる種類のものではないかなあって。誰かが鈍感であることにいらだってしまう人の気持ちもわかるのだけど、ひとを評価することの傲慢さ、不完全さを、忘れてはいけない。
自分の意見をひとに聞かせたがる人っていますよね。スポンジを求めている。そういうのって押し付けてるのよ、と言ったあの人も、結局同じことしている訳で。誰かに何かを話す、意見を聞かせる、というのはむずかしいこと。
あとは、昔の同級生との再会のシーンだなあ。わかりすぎてくるしくなった。ある時期、大切な何かを共有していたひとが、互いに互いの人生の登場人物ではなくなってることを実感する。うつくしい思い出が塗り替えられてしまうことの、あの、奇妙な哀しみ。人間関係というのはとてもきびしい。
三束さんの手紙だとか、聖の苛立ちだとか、何だか、今上記に書いたようなことを考えながら読んでいたつもりなのに、最後の最後でやっぱりわたしは色々と及ばない部分があるんだと思い知らされた。ああ、と思った。いろんな人のいろんな事情と、気持ちと、それから関わりがあること。考えなければならない。と、思った。静かで、うつくしく、かなしい物語。わたしは大好きです。 -
恋愛小説というより、人間の脆さと強さに着目した小説かもしれない。
おとなしくて真面目で、人間関係が得意じゃなくて、でもアルコール中毒で。
きれいで仕事が出来て遊ぶ男もたくさんいて、だけど意見が強くてどこかしら自分勝手で自分本位の優しさをかざしていて。
一筋縄で理解できて、定型化できる登場人物が一人もいない小説。
簡単には憑依も共感できなく、淡々とした文体に引きずられて彼女たちを静かに見つめるしかない。見つめた上でなんだか理解できてしまうのが、また不思議なんだけれど。
今にでも壊れそうな距離感を抱いて、丁寧に丁寧に最小限の言葉を重ねあっていく。こんなような関係は現実世界では少ないのだろうけど、どこかにそのような関係もあったらいいなとは思う。
非常に控えめでよそよそしいまでに礼儀正しく、でも知的な異性と最初に出会ったときの自分の感覚を思い出してほしい。 -
先日図書館から借りた本を読んでいたら、一文字の誤植に気づいた。「パラダイム」の「ダ」が「タ」になっていた。そしてその「タ」の右上には鉛筆書きで「゛」が書き添えられていた。几帳面で丁寧な筆跡で書き込まれたその濁点を見て、これは常に自分の文章を校正される立場の文筆家か、あるいは逆に常に人の文章を校正する立場の職業的な校正者の手による書き込みだなと直感した。
図書館の蔵書に書き込みをするのはマナー違反だ。だがこの書き込みの裏にある、誤りを見つけたらそうしないでは気が済まないという職業的な生真面目さに、少し嬉しいような共感を覚えた。以来、職業的な校正者あるいは校閲者というのは、いったいどんな人たちなのだろうかと気になりつづけていた。
通勤途中の車内でしか本を読めない私は、滅多に文庫か新書サイズより大きい新刊本は買わないことにしている。それでも、この川上未映子の新作をつい買ってしまったのは、主人公の職業がフリーの校閲者だったこともひとつの理由だった。
こんなシーンがある。主人公の「わたし」は三十四歳の一人暮らしの校閲者。家のポストに投げ込まれる地域の情報誌みたいなものを暇つぶしに目を通す。
「十分間ほど読んでみるだけで七カ所の間違いがあり、わたしは爪でそこにあとをつけていった」
とある。ふむフム、校閲者の習性とはやはりそういうものなのか。わが意を得たりである。そんなきっかけがあって物語の中に入り込んでいくことができた。よい読書とはどれだけ感情移入ができたかで決まる。そういう尺度がある。その観点からいうとこれは私にとって最高にいい読書であった。
読み進むうちにどんどん入り込んだ。三十四歳の孤独な女の気持ちになりきった。物語の終盤、主人公が切々と初老といってもいいさえない片思い相手の中年男への想いを声に出さず語る。
「(三束さんは、)毎日、何を食べ、どんなふうに過ごし、誰と過ごし、何を大切に思い、どんなことを考えて暮らしているのか、わたしは何も知らなかった。どんな所で眠り、どんなところで本を読み、どんな人と、どんな話をして笑うのか。どんなことに腹をたて、どんなことが憂鬱で、眠るまえにはいったいどんなことを考えているのか。三束さんは、どんな女の人がすきなのだろう。これまでどんな女の人をすきになったのですか。どんなふうにすきになったのですか。もしわたしがきれいだったら、三束さんは夢でしてくれたようなことを、ほんとうのわたしにしてくれましたか。三束さんはどんな夢をみるのですか。わたしとしゃべることをすきだと言ってくれたけど、それはただ、しゃべるだけですか・・・・」
この切ないモノローグを、読んでいる私は自分の声で語ってしまっていた。とくに「もしもわたしがきれいだったら」のくだりは、読みながら《きれいじゃない》三十四歳の主人公になりきっていた。あんまりにも切なくて泣けた。自分が冴えないオッサンであることは頭から完全に消えていた。 これ位入り込めたのは、角田光代の『八日目の蝉』を読んでいて、若い女の乳児誘拐犯になりきってしまって以来のことだ。川上未映子の作品は幾つか読んでいるが、その中でも「入り込めた」加減は本作がダントツである。
ほとんど引き籠りに近い「わたし」は年一回、自分の誕生日でもあるクリスマスイブの晩にだけは夜の街を散歩する。そうして自分の誕生日を静かに祝う。そんな一年を十何回か過ごしてきたのが大人になってからの彼女の人生だった。
「わたしの誕生日を、一緒に過ごしてくれませんか」
こんなありきたりの台詞で人を泣かせる書き手の筆力はやはりただものじゃない。 今どきこんな時代遅れで清らかな三十女がいるだろうか。こんな物語があるだろうか。呆れるほどに、「よかったなあ」と思う。
日本の文学なんてとか、芥川賞作家なんて所詮とか、いつもは思っているような人にも、たまにはどうとお薦めしたくなる一冊です。