懐かしい年への手紙 (講談社文芸文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (642ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061961968

作品紹介・あらすじ

郷里の村の森を出、都会で作家になった語り手の「僕」。その森に魂のコンミューンを築こうとする「ギー兄さん」。2人の“分身”の交流の裡に、「いままで生きてきたこと、書いてきたこと、考えたこと」のおよそ総てを注ぎ込んで“わが人生”の自己検証を試みた壮大なる“自伝”小説。『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』に続きその“祈りと再生”の主題を深め極めた画期的長篇。

感想・レビュー・書評

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  • パワーズ『オーバーストーリー』読了時に大江のギー兄さん物を無性に再読したくなった。私なりに森に呼ばれてるような気がしたのだ。これを読んだのはたしか高3の頃。当時の自分に再会できそうな気もした。以下、備忘録として思ったことを箇条書きに。

    *歳とったせいか、女性の描かれ方、性描写が気持ち悪かった。女性を崇拝しているようで、その実、都合のいい小道具として使っているような?(…とモヤっているときに三島VS全共闘の映画を観て、「サルトルのエロは女をひもで縛ってる状態。これは大江にも通じる。自分はそういうのはやめにした(意訳)」みたいなことを三島が言っていて、なるほどと思った)
    *当時は難解さを上回る物語の面白さに惹かれて大江を読み漁り、人生は深い嘆きに満ちている、というメッセージのみをしかと受け取った気がするが、今回、大江はその深い嘆きに満ちた人生で、自ら命を絶たないために小説を書いていたんじゃないかな、と思ったりした。では、大江のなりたかった姿を仮託したのがギー兄さんだったとして、自ら命を絶たないためには他者に命を奪われるしかなかったのだとしたら…?
    *「年」というものを区切るうえで、西暦はキリスト、年号は天皇が基本になってて民はおろそか、みたいな視点は新鮮だった。
    *当時、大江がインタビューで「自分の小説はそこらへんの道路工事をしているような労働者にもわかるように書いてるつもり」というようなことを言っていて「嘘つけ!」と思ったのをよく覚えているが、うーん、どうなんだろう??理屈じゃなくて感覚として伝わるものはあるのかもしれない。
    *であるなら、一見難解な本書を誰の人生にも寄り添えるものにするために、文庫版にはもっと親切な解説をつけるべきなのでは?英語やラテン語の引用部分とか『神曲』の解説でもいい。読みの助けになるような内容で。小森陽一氏による解説は本文よりもさらに難解な専門用語を多用して書かれているんですが。
    *大学入ったらダンテとかイエーツとか熱心に勉強して、大江の作品を読みこなせるような大人になるはずだったよな…という自分へのガッカリ感はいったん脇に置き、その後それなりにいろいろな本を読んだあとで改めて思うのは、私小説らしき設定に架空の人物をぶっ込んでここまで書き込むというのはすごいことだ!

    でも、どれか1冊選ぶなら、万延元年か森のフシギにすればよかったかな。


  • 作者の人生遍歴に、“架空のギー兄さん”(モデルはちゃんとある)を登場させ話を導かせるという、私小説であって私小説でないトンデモ作品。
    私小説にオリジナルを加えるのは彼がよく使う手法だが、これは過去の長編の中でも断トツの完成度では。
    当然他作をしっかり読み込んだ読者でなければ、門前払いな面もあり、万人にオススメ出来ないのが口惜しい所。

  • 読み終えるのに3週間ほどかかってしまいました。大江健三郎の文体が、漫然と流し読みするのを許してくれません。
    その分、文章と取っ組み合いをするように読むのですが、能動的鑑賞を強いる芸術と向き合うときと同様、理解したとたん、もともと自分を構成する一部であったかのように、自分自身の芯に溶け込む感覚があります。

    主に万延元年フットボールを、さらにそれ以前の大江作品を取り込んだ、壮大なメタフィクションでした。この3週間、ダンテの「神曲」が響き渡る四国の谷間、そしてギー兄さんが構想する魂の浄化のためのコミューンに身を置いていた気がします。

    ギー兄さんにとっては四国の谷間の森が、Kちゃんにとっては東京の家族で住む家が、それぞれ“根拠地”として彼ら自身に深く根ざしていますが、
    「さて、僕自身の“根拠地”は?」
    こう考えた時、神谷美恵子の「生きがいについて」を読み、
    「さて、僕自身の生きがいは?」
    と考えた時と同じ焦りを覚えました。

    ギー兄さんが引用して暗唱する、ダンテの「神曲」。それぞれの引用は感銘を与えてくれるのですが、やはりまだ腑に落ち切らないところも多いのです。
    この「懐かしい年への手紙」も、ゆくゆくは「神曲」も、人生の中で何度も読み直していかなければならないのだと思います。
    それこそ、ギー兄さんやKちゃんがそうしたように!

  • 久々の大江健三郎。やはり文章の圧力?が凄まじい。読んでいて心に揺さぶりをかけられるような、強烈な読書体験だった。全体として激しい展開はあるにしろ、どこか静謐とした雰囲気が強く、まさに「森の時間」が流れているようだった。曲がりくねっては分岐したり合流したり。目が回るようだった。

  • 大江健三郎ならではダンテの神曲を頼りに自作の捉え直しを含んだ「自伝」的小説。
    個人的には発表順に氏の著作を読んで来たので、面白く読んだ。ただ、この前に読んだのが「M/T〜」と「同時代ゲーム」の再読だったので、物語としてのダイナミズムは少し欠けるかと思った。

    「懐かしい年」というのは、文字通りのイメージの昔を懐かしむという事ではなく、まさにここ数年の流行りの並行世界(しかもタイムリープ)と捉えられるのが面白い。(この後には純粋なSFにもトライすることになる。)

    ただ、必ずしもここでの(懐かしい年そのものである)ギー兄さんの死がその(理想的な)世界が失われたことを表すわけではないのだけど、再生に向けた立ち上がりで物語が締めくくられることの多い氏の著作では、喪失感と悲哀を感じるラストになっていると思う。


    p.s. (他の方の感想を見て)
    ギー兄さんが手紙で「個人的な体験」の添削をするところは哄笑を禁じ得なかった。その上で、添削はすまいと、決断するところまで書いているのにはグッと来た。

  • 大江健三郎は難解のように思われていて、じっさい簡単に読み解けるというわけではないのだが、言うほど難しくもないと思う。ただ、何通りもの読みかたができたり、いくつもの意味が込められたりしていて、たんに読むだけならまだしも、そのすべてに自分なりの解釈を与えてゆくという作業を加えると、やはり読むのにものすごく時間がかかってしまう。それに、そのことを言葉で適切に表現することも非常に困難であるが、さいわいにして本作には巻末に優れた解説があるので、そちらを適宜参照したい。同解説で触れらえているとおり、「懐かしい年への手紙」という、通常では組み合わせない単語のタイトルになっている点にまず注意する必要がある。これに対してわたし自身は、「年=都市」という意味も考えた。都市と地方の対立構造は、本作のなかでのキイ・ポイントのひとつである。懐かしいのは都市ではなく農村なのではないかという反論が来そうであるが、都市が「都市的」で農村が「農村的」であるとは限らない。そういうことにも注意しながら読むと、やはり本作は『懐かしい都市への手紙』でもあるのではないか。

  • 年代はめちゃめちゃに読み進めている状態なのだけれど、「木から下りん人・隠遁者ギー」と、『燃え上がる…』の括弧付き「ギー兄さん」は知っていても、ギー兄さんとは誰か、というところがすっぱぬけていたので、やっと少し穴が埋まったような気がする、と同時に、ようやく最近読んだばかりの『ドン・キホーテ』前編によって『憂い顔の童子』の「憂い顔」の意味が分かったばかりで、今度はダンテか…(大体イエイツも読んでないし…)と以前挫折したダンテを遠く思うような。

    それにしてもこの『懐かしい年…』は私の最も好きな独特の言い回し、冒頭が一番読みにくい頃の大江健三郎の文章からは少し離れて来ているようだけれど、かといって『静かな生活』以降の女語りや読みやすい三人称の狭間にあるようで、600ページ程度あるのに、すらすらとても楽しく読め、何度も読んで石橋の強度を確かめうるような堅固らしい構造の中にありながら、それでいて逸脱していくような細部も非常に魅力的で、中でも近頃私が解しかねていた『感情教育』の作品、とりわけタイトルの意味について、ギー兄さんが「悪しき無邪気さから脱皮するという、たいていの男が結婚前にすましておかねばならず、成績はBであれCであええ単位をとっておかねばならぬ、感情教育(エデュカシオン・サンチマンタール)…」と説明してくれたことによって、なるほどとそういうことだったのかと膝を打ちつつ、『感情教育』から、さらに映画の『ポンヌフの恋人』を見つつ、私が読み取った「結局幾度か死んで行くことでしか生き延びて行けない我々」という思いに苦々しさを感じたが、しかしこのギー兄さんの、さらに続く「この悪しき無邪気さということは…(中略)でも、痛めつけられる無邪気なホラ吹きの方が、攻撃をかける海千山千の連中より魅力があるし、どんなにひどいめにあわされても、結局のところホラ吹きの方がいいめをみることになるのです。Kちゃんは、この無邪気さにおいて突進してゆくのでしょう。無邪気さから蒔いた種子に苦しむのでもあるでしょうが、むしろそれは作家として良い条件にもなりうるのじゃないでしょうか?たいていの作家が、いわば『無邪気さに呪われた者』です。」という言葉によって、幾度も手ひどい目にあいながら、そして一時的には「非常に静かな悲嘆」というものを語りながらも、その巻き返しは必ずやってくるエネルギー、老年になっても「跳ぶ(リーブ)」をやめられないでいるKにドン・キホーテを重ね合わせるのはもっともであると感じながら、生身の部分をさらけ出しながら生きて行く、ある人々にとっては、いつまでも治癒しない生々しい傷口をいちいち見せつけるられることに苛立ちを覚えずにはいられない、この小説で言う「ナイーブ」あるいは「ヴァルネラブル」さこそが、彼が私をずっと、彼を過去の人物として葬らせることを許させず、はらはらしながら今後の書き様(彼としては生き様とも言える)を見守らせるものなのである、生き生きとしたものであると痛感した。

    あとp462からの、『個人的な体験』に訂正を入れて行くところは衝撃的だった。もちろん彼ならば十分にありうるし、そこが彼の良さであり、だからこそ、あのような一時的ハッピーエンドが、「その時点のものとして」やはり消されてはならない、そのときの彼の選択である、のちにこのような訂正の可能性を示されるとしても、と強く思うし、このような感情は作家に対する「信頼」である。

  • 学生時代、親友にプレゼントされました。本物は文庫ではなく、厚さ5センチ位のハードカバー。まだ一度も読んでいませんxxx

  • 大江健三郎が自身の小説家への精神的成長過程を虚構を織り混ぜて書き上げた長編小説である。四国の山間の村、メンターとしてギー兄さんを措定し、彼のイエーツの詩やダンテ『神曲』愛読の影響を受け、語学や文学を学び入試対策の教えも受ける。地元の名士ギー兄さんの相続した山村で展開する「美しい村」や「根拠地」のコミューン作りを横目に、主人公の読書や受験勉強と自慰や性行動覚醒の顛末など、成長期の日常生活が赤裸々に連綿と綴られる。一方で郷里の森の霊性帯びる清澄な大自然や透明感溢れる異世界の描写がこの物語を深く厚みのあるものにする。浪人の後大学に進学し郷里を離れて上京し小説を書き始める。
    ギー兄さんは強姦殺人事件を起こし刑期を終えて村に戻る。思い立ったダム作りに奔走し周りの反対派との抗争に身を晒す。ギー兄さんの行動を心配しながら作者は60年安保闘争やその後の政治活動に積極的に関わる。浅沼刺殺事件の犯人である右翼青年をモチーフにした小説で右翼を刺激し、身の危険を生む事態になる。政治活動も続け小説を書く。
    ギー兄さんの突然の死によってこの物語は結末を迎える。
    ギー兄さんと並走する筋立てで折々交差させながら、極端で露骨な場面も交え、青年期独特の生命力と熱気に満ちた青春物語でもある。

  • 柳田国男が現在の成城に居を構えたことがあると知って、ぎくりとした。Kちゃんがやろうとしたことがまさに民俗学であったからだ。共同体で語られる物語/歴史としての神話をまとめる者。

    ギー兄さんは作者自身をも含むさまざまな人物像の集合だと著者が言っててなるほどなと思った。長兄の投影でもあるし、自分の理想像の投影でもある、またその他多くの人の断片の結集としてのギー兄さん。

    カトー=ギー兄さんとも読めるような気がする。先導者かつ巡礼者であるギー兄さんを案内する異端者かつ自殺者のカトー=ギー兄さん。「ギー兄さん」のモデルの多面性を考えるとあり得ると思うのだけれど。ただこの辺りは『神曲』を読み通してないとうまく掴めない箇所なのかもしれない。

    『神曲』を全く読んでないから分かんないのだけれど、「巡礼」のような行動を登場人物たちはよくとる。ギー兄さんにしたって出所後に日本各地を回っていたし、僕=Kちゃんも、小さな範囲で言えば「在」の屋敷と谷間の村、やや広がって松山、そして東京、中国、メキシコシティ──。

    物語の構造も面白い。最初に色んな登場人物やら用語やらがわんさかでてきて、それから回想をいくつも挟みながら次第に物語が進んでいって流れが掴めてくる。主人公の記憶を辿りながら読者は読み進めていくのだけれど、この小説はそこそこ長いのもあって読者も完全に時系列なんかを整理しながら読めるわけじゃない。そうするとだんだん主人公の記憶と同期して読者は物語に入り込めるというか、個人の記憶を時間をかけて追体験するという構造になる。

    そうした「記憶」はぜんぶ言ってしまえばフィクションなのだれど、太平洋戦争とか安保闘争みたいな歴史的な事象と結びついていく。フィクションのキャラクターが現実の歴史に影響を受けていく。

    『奇妙な仕事』、『個人的な体験』、『万延元年のフットボール』、『M/Tと森のフシギ物語』みたいな大江健三郎のかつての作品も語られていく。それらは作品内ではKちゃんが書いた小説なのだけれど、どうしても読者は大江健三郎と重ね合わせてしまうから、フィクションがフィクションを呑み込む形になる。『万延元年』の冒頭の紅い顔やキウリの話が実は架空の存在であるギー兄さんに由来すると語られると、フィクションと現実の境がますます分からなくなっていく。

    ひとつの物語がどんどんと大きくなって、過去の作品とか、史実とか、村の神話とか、筆者個人の話なんかに結びついていく。でもぜんぶが同じ物語を共有しているわけではなくて、少しずつ異なった輪郭を持つ。それらすべてを接合させるかのような何通もの「手紙」としての本作。「懐かしい年」っていうのは、いくつもの色んな年を指しうる。

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著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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