- Amazon.co.jp ・本 (334ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061596832
作品紹介・あらすじ
難局への対応から家庭での素顔まで
維新の指導者像を語る貴重な証言集
維新の立て役者、大久保利通の実像を伝える証言集。明治43年10月から新聞に96回掲載、好評を博す。討幕、新政府樹立、近代化への政策施行、西南戦争……。政治家としての姿から西郷への思いや家庭での素顔まで、興味深い秘話、逸話、情味溢れる憶い出が語られてゆく。強い責任感、冷静沈着で果断な態度、巧みな交渉術など多様で豊かな人間像がゆかりの人々の肉声から蘇る。
本書は、大久保利通に身近に接した人々によって語られた、いわば肉声で綴られた大久保メモリーである。『報知新聞』の記者松原致遠が、それぞれの人物にインタビューして記事にまとめたもので、時には会話体で、時にはモノローグのかたちで、大久保利通についての想い出が語られる。……『報知新聞』には明治43年10月1日から(翌年4月17日まで)、全部で96回にわたって掲載されたものである。――<本書「解説」より>
感想・レビュー・書評
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大久保公のことを知る皆さんが、大久保公のことを語ったインタビュー集。褒めまくってるのでとても楽しい。明治43年から44年にかけて、記者がインタビューを行い、当時の新聞に連載したものを収録したもの。現代かな遣いにしてあり、読みやすい。偉人伝を読むような堅苦しさは無く、ただひたすら「推しのスペシャルエピソード集」として読んだ。大久保利通公の下で働いた方々が「威厳があって怖かった」的なことを口々に言うなか、終盤で登場する妹さん達と姪御さんが「冗談のうまい人だった」等のギャップエピソードを披露してるのが楽しい。
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周囲の人が語る「大久保」。
周りから語られて初めて真の大久保に触れることができる…そんな気がするのは大久保が大久保たる所以な気がする。
冷徹非道とみられた彼の信念と、明治という時代の立て直しにすべてを投資した彼からふいに見て取れる素顔。
一国の主たるや、こうあるべき…政治家大久保の真の部分が詰まっている。 -
講談社学術文庫
佐々木克 監修 「 大久保利通 」
大久保利通と親交ある人々へのインタビューにより構成された本。故人を悪く言えない部分もあり、多面評価に至っていないように思う
人間性に関する証言が多く、政治的功績や国際感覚の鋭敏さに関するエピソードが少ないのは残念。証言やエピソードも細かい所で誤りが監修者により指摘され、史料として信用しづらい
大久保利通が征韓論に反対した理由は、朝鮮出兵意思が強い 西郷隆盛を死なせないためという証言が多い。
軍国主義に向かう西郷隆盛と それを抑えて 近代国家を進める大久保利通という構図になっているが、本当に 西郷隆盛に朝鮮出兵意思があったのだろうか?
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おそらく近代日本で最も偉大な政治家。
どこまでも現実を直視し、現実の中から思考し、社会を漸進させていく本物の保守。
その粘り強さ、誠実さ、判断力に、驚きを通り越して畏怖する。
当然のように彼は、汚職や色欲などと程遠い人格者でもあったのだ。
彼にとってはおそらくイデオロギーなどは問題ではなかっただろう。
主義主張などは、意匠でしかない。
日本国という幼子の魂と肉体を、どう涵養するか。
それだけしか頭になかった。
このような歴史的大人物があの混乱期に生まれ出たことは、日本の幸運であった。
全政治家、必読の書。
以下印象に残った点。
・話を総合するに、西郷との友情はどうも本当のようだ。西郷のことをわかるのは俺だけだ、といずれ本を書くつもりだった。あれだけ冷静沈着な大久保が、西郷立つの報を最後まで信じなかった。そして大久保が幼少期以外で涙を流したのは、西南戦争で西郷が起ったのがほんとうだ、と知った時だけであった。泣いてないという声もあるが、「いよいよ西郷と別れねばならない」と感慨深くつぶやいていたという(松平正直)。
・怒る訳では無いが笑うこともない。みなが怖がっていた、威厳がすさまじいというのも誰もが言う。大久保没後、伊藤の代となって一気に内務省の風紀は乱れた。(ただし伊藤は気さくだった)
・木戸が病床にある時、大久保が見舞いに来ると横になって雑談していた伊藤博文らは驚いて飛び上がり、にわかに襟を正して座を整えた。伊藤は大久保の声を聞くだけで震え上がっていた。
・木戸と大久保ふたりなくして、維新後の国づくりはならなかった。ふたりとも薩長びいきと世に取られないように細心の注意を払った。また、お互いがお互いを気遣い続けて、絶妙な関係を維持した。
・藩閥に一切とらわれることなく、可愛がっていた部下に不正があると一気に切っていた。
・上司としては、方針を描いたのちは信頼する人間にすべてを任せる。「私一個に使われるとか、薩長に使われるとか思わずに、国家の仕事をするというつもりで自ら任じてやってくれ。万事仕事は君たちに負かすから力一杯やれその代わり責任は俺が引き受けてやる」。
・政策としては、人民の財産生命の保護が最も大切で(警察)、あわせて民業発達を促進していった。だから東大農学部をつくったり、牧場を興したり、
・清廉潔白、死んだときに残っていたのは75円。借金2万。
・無用な話はよほど変わったことがあってすら話さなかった。
・反対のときは「もっと考えたらよかろう」。賛成のときは「よろしい」。その後の対応はきわめて俊敏・端的。普段は無口きわまる。
・子供は大変に好きであった。土曜の夕飯は必ず家族で食べていた。子ども(大久保利武)は怒られた覚えがなく、笑い顔だけ覚えているという。額縁に、楽志一家春!
・部下にも敬語、さん付け。
・林董の言葉がいい。「明治年間の唯一の大宰相」「一切の責任を自分で引き受けて、難きは自ら任じ、易きは人にさせる」「事務などを以て大久保を論じては大変な間違いだ。裁決流るるが如しとかなんとかいうのは、やり手とか才子とかいうもので、畢竟それは刀筆の吏である。大久保はそんなものを遠く超越しておる。あれはただその人そのものが国家の柱石であったのだ」「(大久保の)威重は、あの人の至誠国に尽くす心、己を虚しくして国のためにした、あの人格の力だ」
・胆力も相当なもので、佐賀の乱の際には弾丸が降る中を平気な顔して歩いていた。足元や耳を弾がかすめているが、びくともしなかった。それを力んで見せてるわけでもなく、まったく平素の通りだった。
・胆力は外交時にも発揮され、北京談判ではノラリクラリの清政府に対してロジックと急所をつき、一向に動じない姿勢だったからこそ成功した。激昂も凹みもしない。余裕綽々だった。帰国後、明治帝から恩賜があったが、辞退した(ゆるされなかったが)。
・殖産興業を興すに大変な業績があった。その知見は深く、専門家顔負けだった。
・幕末の薩摩藩では家老よりも西郷・大久保の方が人望と権力があった。大久保は薩摩藩史上最速で出世した。
・少年の頃から周りの人間に一目置かれ、親でさえその言葉をよく聞いていた。親類に病あるものいれば献身的に看護をし続けた。
・大久保の若い時分、占い師が手相を視て、たいそう驚き「こんな手相は初めて視る、天下を取る。こんな手相のあとは誰も視られない」と言ったとか
・これは大久保ではないが、黒田清隆が女房を蹴り殺した件に触れられている章で、その後不可解にも「誤りがあった」として撤回されているのが闇が深い。
・また、記憶違いがかなり多く、採録記事のあとに、これは誤りである、と正されている。当たり前だが、校閲機能がしっかり働いていることに感心するのと同時に、人間の回顧録は半信半疑で見るくらいがいいと感じる。
・西郷は島流しにあうまでは、上野の像とは似ても似つかない。痩せぎすだった。
・「樹木のないのが文明じゃそうな。妙な文明もあるものじゃ」(高島鞆之助:明治になり町並みの樹を伐採されたことに対して) -
生前の大久保利通に接した事のある人物達の証言集。
明治時代に報知新聞にて連載されていたようです。
いろんな視点から見られた大久保利通を知る事ができて興味深いです。
あくまでも他者から見た大久保利通なのですが、一端に触れる事はできたかなと思います。
本書には記者の誤りや証言者の記憶違い等もあり、読む時に注意は必要かもしれません。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/740471 -
こういうのが、まさに、貴重な本と呼べるもの。
偉人・変人・冷酷扱いされる大久保が、実際はどんな人物であったか、実際に彼を知る人々の声によって生き生きと語られている。
とにかく威厳があった、まじめであった、西郷が死んだときは泣いていた、子どもたちに自分の靴を脱がせて楽しんでいた、子どものときは桜島の火口で遊んでいた、等々、家族や側近が語られる。 -
明治43年10月から『報知新聞』に96回にわたって掲載された、大久保利通についての証言集。
大久保がいかに職務に謹厳で、無口で、無私かということが色々な人間の口から語られる。一方で家庭人としてもそれなりに家族には認められていたようで、週1回の夕食をともにすることを大久保は楽しみにしていたようだ、といったプライベートな話も出てくる。
しかし僕はこういう英雄についての思い出話、個人の感想というものに、ほとんど興味がないんだなあ、ということを改めて感じた。ひとつは、いわゆる「英雄史観」に不満があること、もうひとつは何年かあとの大久保についての思い出語りに、歴史資料としての価値をあまり見いだせないからだろう。
ある事件の「思い出話」にはそれなりの資料価値はあると思う。つまり、語りと歴史的事実のあいだのズレについて考える素材としての意味はあると思う。しかし「あの人はこんな人でね…」という人物評価については、人間の性格というものが「事実」として論じにくいのだから、他人の評価とのズレを考量しても、あまり意味がないような気がするのだ。