昭和二十年夏、子供たちが見た日本

著者 :
  • 角川書店(角川グループパブリッシング)
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  • Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784048850988

作品紹介・あらすじ

疎開先の村で杉並木に向かって歌いかけた角野栄子。進駐軍のジープに憧れた児玉清。空襲で鉄骨だけになったピアノを見た舘野泉。満洲の芸者置屋で育った辻村寿三郎。大阪大空襲の日、火焔ドームの中を逃げ延びた梁石日。バラの鉢植えを持って疎開し、拾った子雀を育てた福原義春。アッツ島、サイパン島、硫黄島に慰問に行った中村メイコ。トルストイやチェーホフを燃やして暖を取った山田洋次。焼け跡の闇市で予科練帰りの青年が殺されるのを見た倉本聰。ピョンヤンからソウルへ、闇のトラックで38度線を越えた五木寛之。10人の戦争、そして10人の戦後。

感想・レビュー・書評

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  • 戦争の経験は、あまりにも凄まじく、記憶の奥に留めてひたすら隠しておきたい場合が多いようだ。殺人と殺戮。それが日常の世界。経験者でなければ、理解出来なくて当たり前だ。でも、伝えて欲しい。私達には、それ以外知る機会がないのだから。

  • BIG ISSSUE Vol.175にて雨宮処凛が取り上げていた本。

  • 8月に読んだ『昭和二十年夏、女たちの戦争』、9月に読んだ『昭和二十年夏、僕は兵士だった』に続き、この本を読む。

    前二作は、大正の後半から昭和の最初にうまれ、昭和20年夏に10代半ば~20代だった若者にインタビューしていた。この本は、その少し下、子供として敗戦を迎えた世代に話を聞いている。生まれ年は1935(昭和10年)前後、ちょうど私の父と同い年の人たちである。

    昨日、やはりこの本で話している人と同世代の降旗康男(映画監督)の話を新聞で読んだ(2012年10月26日、日経3版夕刊「学びのふるさと」)。

    昭和19年、「日本軍のサイパン島玉砕でいよいよ本土爆撃かという雰囲気が広がっていた頃」、国民学校の4年生で10歳だった降旗は放課後、代用教員として来ていたM先生に一人呼び出された。「おまえはおっちょこちょいだから、少年兵なんかに志願したらいかんよ」と先生に言われ、「この戦争は負けだよ」とも聞く。

    「日本が負けるなんて考えもしなかったし、そんなことを言えば投獄の危険があることも分かっていたので、誰にも言えませんでした。」と降旗は語る。そのM先生の話を聞いた半年後、自宅の隣の旅館に訓練中の特攻隊員がやってきて、遊んでいた子供らにこう言った。「日本は負ける。次の日本をつくってくれよ」。友だちは面食らっていたけれど、M先生の言葉を聞いていたので降旗は驚かなかった。

    なぜM先生は自分にあんな言葉をかけてくれたのだろうと、その後ずいぶん経って、60歳をすぎてから、同窓会でM先生の息子さんに会って、降旗は当時の話を聞く。「教えていた高等科の子供が少年兵に志願し、戦死したようです」との答えを聞いて、M先生は、ガキ大将で目だっていた自分が軽い気持ちで志願し,同級生がそれになびいてしまうことを心配されたのではないか、と降旗は思う。

    そんな降旗の話に通じるものが、この本では語られている。

    中村メイコのお父ちゃん(中村正常)の話が印象深い。真珠湾攻撃の臨時ニュースが伝えられた日、月曜だったこの日に「こんな日に学校に行ったらろくなことがない」と娘を家に留め、東京に空襲があったあとは「こんな危ないところにメイコを住まわせておきたくない」「それに僕も怖い」と疎開することに決めた父。

    疎開先は奈良県、親戚もいないのになぜと訊くと、「文化財がたくさんあるところをアメリカは爆撃しない」「それにメイコの勉強にもいい。学校で軍国教育なんかされるより、遺跡でも見学した方がずっといい」と答えた父。母も不安だったと思うが「そうね、奈良は私の憧れの地だったし」と言って、反対せず、一家は奈良へ向かう。

    学校の先生が言うことと、父が言うことが違う,間違ってるというメイコさんに、父はこう語っている。
    ▼「いいかメイコ。答えをひとつに絞ると、人生は息苦しいよ。いろんな人がいろんな答えをもっていて、それを出しあって、世の中が成り立っていくのが一番いいんだ」(p.196)

    戦争を礼賛するのは嫌だと戦中に筆を折り、妻に「身体も丈夫で、如才なくて、教養もあるキミが、これからは稼いでくれ」と頼み、戦後もそのまま稼ぎは妻にまかせて昼寝をしているような父だったという。

    この夫の頼みをうけてたった、メイコさんのお母ちゃんの話がまたすごい。戦後、生意気盛りの思春期だったメイコさんが、ちょっとぐらい稼げばいいのにと父を非難すると、余計なことを言うなと母はこう言うのだ。

    ▼「そりゃあ作品の数は少ないかもしれない。でも私は、自分の書きたいものだけを書いている人と一緒にいたいの。それに私は働くことがちっとも嫌じゃない。家の中に閉じこめられていたら、ヒスを起こして、あなたにとっても嫌なおかあさんになっていたかもしれないのよ」(p.205)

    小学生ながら芸能人だったメイコさんには、ほかの仕事と違って、断ることの許されない軍隊慰問の話が入ってきた。特攻隊の慰問にも数多く行ったそうだ。

    ▼特攻隊員は皆、子供に会いたがったんですって。この子たちの未来のために死んでいくのだと思うことで、自分たちの死にも意味があると思いたかったのではないでしょうか。(略)
     ええ、私にはわかっていました。この人たちはもうすぐ死んでいくんだって。一度飛び立ったら還ってきてはいけないということも、母から聞いて知りました。ほんとにね、悲しかったです。(pp.199-200)

    五木寛之が語る「軽挙妄動をつつしめ」と繰り返したラジオの話、いまと変わらないと思った。

    ピョンヤンで迎えた敗戦の翌日、師範学校の教師だった五木さんの父のもとに、教えていた朝鮮人学生が来て「先生、なるべく早くピョンヤンを出られたほうがいいです」「おそらくソ連も入ってくるでしょう。日本に引き揚げられたほうが安全です」と警告に来てくれた。

    だが、父親はどうすればいいかわからず、そのままピョンヤンにとどまっていた。ラジオが繰り返す「治安は維持される、市民は軽挙妄動せず現地にとどまれ」という指示に従ったのだ。

    当時の唯一の公的な情報源であったラジオは、日本人がもっとも信頼を置いていたメディアだったという。そのラジオが繰り返し「軽挙妄動をつつしめ」と伝えた。

    「ただちに健康に問題はない」と繰り返されたことが重なる。

    五木さんは、父や、学生だった自分が情報収集に動けなかったことを振り返ってこう語る。
    ▼情報というものは、貪欲に集めようとすれば、かならずどこからか掴んでくることができるはずです。でも、お上の言うことを聞いていればいいという習慣が身についてしまっているから、それをしようとしない。ましてラジオで放送されたわけですから、まったく疑いをもたなかった。(略)
     それ以来僕は、公の放送がとどまれと言ったら逃げる、逃げろと言ったらとどまるというのを指針にしてきました(笑)。とりあえず体制の言うことと反対のことをしていたほうがいい、と。(pp.284-285)

    この本で語った10人は、それぞれに経験した戦争を、その世の中を、子供なりにこまやかに見ていた。

    父と同世代の人たちの話を順に読みながら、やはり父の言動につながるものの一つは、子供として戦争を見たことなのだろうと思った。どうしてと思うほど頑なにある種の言動を父が拒絶する根っこには、子供として見た戦中と戦後の経験が大きいのだろうと思う。

    (10/16了)

  • 戦争時代子どもだった著名人10人が、どう生き抜いたかインタビューされている。
    山田洋次、倉本聰、児玉清など。
    非常に悲惨な中に、たくましさが感じられて、読後感は良い。
    オススメ!

  • 子どもの目線から見た終戦の記憶。戦時を逞しく生き抜いた子どもたちの姿が見えるようでした。

  • 良かった。
    とにかく読んでよかった。

    あとがきで、ご自身も書いていらしたが、
    子どもは、驚くほど、時代をよく見ており、生き抜く力を身につけている。
    そういう力がある人だから、大成したのかもしれないけれど……

  • 昭和7年前後、1932年前後に生まれた人とたちは、終戦当時13歳前後と多感な時期だった。その時期に生まれた著名人に戦争体験を聴きます。悲惨だけど意外と冷静な視点を持っていたんですね。
    今現在彼らは79歳前後、世代的には、今が直接戦争体験を聴く最後のチャンスです。
    詳しいレビューはブログで…
    http://pinvill.cocolog-nifty.com/daybooks/2011/11/post-e58d.html

  • 親や家庭によって戦争に対する記憶や思いやその後の生き方にまったく違いがあることに驚いた。望んだわけでもないのに過酷な体験をしなければならなかった人達がいることを思い出した。

  • 著者によって引き出される当時を知る人から語られる言葉は、著者の文章表現と相まって濃厚な過去の出来事として綴られる。
    その表現はあくまでも穏やかに。
    以前、『硫黄島 栗林中将の最期』(文春新書)を読んで以来、そんな彼女の文章に魅力を感じていた。

    この『昭和二十年夏、子供たちが見た日本』は、幼少時に終戦を迎えた10名の著名人に、当時の思いや様子を取材したものである。

    一口に終戦の思い出とまとめることを憚れるほどの10人10様の感じ方があることがわかった。

  • 大勢の子供の視点による戦争記録。
    あの頃のなんとなくわかった気持ちでいた事柄も「註」によって正しく腑に落ちた。戦争経験を語る人が少なくなっている今、とても貴重な1冊だと思う。  
    多くの犠牲者が居られる中で辛うじて生き抜いてこられた方々のおかげで今がある。でも「生き残って辛い」「亡くなった方に申し訳ない」と今も引きずっている方が居られる。戦争は残酷だ。

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著者プロフィール

ノンフィクション作家。1961(昭和36)年、熊本市生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て文筆業に。2005年のデビュー作『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。同書は米、英、仏、伊など世界8か国で翻訳出版されている。著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』、『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』(読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、講談社ノンフィクション賞受賞)、『原民喜 死と愛と孤独の肖像』、『この父ありて 娘たちの歳月』などがある。

「2023年 『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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