精神科医が教える 親を憎むのをやめる方法

著者 :
  • KADOKAWA
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本棚登録 : 188
感想 : 14
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784046061287

作品紹介・あらすじ

親が憎い。親のせいで人生が思ったようにならなかった。違う親のもとに生まれていれば――。
そうして、親を憎むのに疲れてしまった方へ。

本書では、医師が実際に診察室でおこなっている治療の最初のステップを書籍で再現する試みをしています。
治療においては、知識が助けになります。この本では、その知識を提供します。その知識は、親子問題で悩んでいる人はもちろん、治療者を目指す学生の方にも役立つ専門的、網羅的なものです。

具体的には、親子問題の背後にある「親自身の問題」を、医学的・社会的視点から概観します。
親の人物像を紐解く鍵はいくつもありますが、中でも大きなトピックとなるのは、「発達障害」です。
この概念が広く知られて以来、子供の発達障害や、自分自身の発達障害に悩む方向けの本はずいぶん多く出てきました。しかし、「親が発達障害だった場合、親子関係に何が起こるか」についてはまだまだ光が当たっていません。この本での解説を通し、「うちのことだ」という発見をされる読者が一定数いるだろうと思われます。
また、発達障害を抱える人のそばにいることで起こる「カサンドラ症候群」も重要ワードです。

これらの知識は、ある意味、癒やしにもなりえます。親を責めるのでもなく、自分を責めるのでもなく、「こういう現象が起こっていた」と客観的に捉え直すことができるからです。
それで親子問題がスパッと解決、とはいかずとも、「親像」が変わっていくことは大きな変化です。
同時に、「自己像」も変わるでしょう。「自分が悪かった」「ダメな子だった」とひたすら思い込んでいる方にこそ、客観的知識を提供したいと思います。(本書「はじめに」より)

感想・レビュー・書評

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  • とても慈愛に満ち示唆に富む1冊であった。

    表題『親を憎むのをやめる方法』は正直衝撃的だが、新しい視点や解説が随所に見られ、説明も具体例が添えられ、理解しやすいものだった。
    今後も助けにも支えにもなる心強い1冊だ。

    「毒親」の定義が曖昧なままに、自らの親がそうであるか否かを判定したり、それを他者に委ねて確定してもらう作業を以前から無為に感じている。

    自分の親を客観視し、俯瞰して受け入れることは、「もう親は年を取っているのだから親を受け容れ関係を修復しなさいよ」などという世間からのお説教とも一線を画す。

    親と自分の間に起こっていたことは一体どういうことだったのか。それを俯瞰して理解することは、自らの人生における舵取りを手中に収めることに他ならない。

    怒りのままで親を恨み、忌み嫌い、怯え、罪悪感に苛まれ続けるのは何も生み出さないところか、自分の選択の幅を狭め、現状の人間関係やモノの見え方にも悪影響を及ぼす。

    「親からこんなに酷い目にあわされた被害者の私」の轍から離れ、価値観やジャッジメントを排して、出来事、物事を理解する。

    言うは易しだが、正直なかなか難しい。

    既読の精神科医 水島広子さんの著作『毒親の正体』でも説明が施されていたが、そうした親の問題には親自身の発達障害、精神疾患等が存在すると、再確認した。

    「親は子を愛して当然」
    「親子とは絆と愛情に満ち満ちた関係」
    「親こそ子どものことを一番理解できる存在」
    などという世間一般の思い込みには必ず例外があることをしっかり肝に銘じなければならない。

    子育ても人生における様々な選択も、人も社会も複雑難解ゆえに答えが1つということはあり得ない。

    私たちは「難しくて理解の難しい物事」を単純化し、「わからないまま」である不快さを手放し、納得したがる動物だ。

    時代や場所による変化も必然だ。そして何よりも益田さんが終盤繰り返される
    「仕方のないこと」は世の中にも自分にも沢山存在する。

    「これが当たり前」「普通はこうだ」といった世間一般のフレームワークは疑ってかかった方がいい。

    バラエティ番組や報道番組からでさえ、私たちは日々メタメッセージを受け取っている。それによる思い込み、決めつけは私たちを実は苦しめている。

    「うまくいかないこともある」「でもうまくいくときも多い」
    「仕方のないこともある」

    益田さんが著作中言及されていたが、文芸作品等で昔の社会や世相を読むことも一助となる。
    感情に振り回されずに、昔の親はこういう考え方をしていたのだ、或いはこういう考え方が常識と言われた時代があるのだ、と客観を積み重ね、言語で自分の世界や視野を広げることを続けていきたい。

    • ごはんさん
      naoさん
      コメントありがとうございます。

      「親を俯瞰する」と漠然としたことを軽々に表現してしまいましたが、本作ではかなり具体的な記述がな...
      naoさん
      コメントありがとうございます。

      「親を俯瞰する」と漠然としたことを軽々に表現してしまいましたが、本作ではかなり具体的な記述がなされているので、子側の思い直しや精神論により「親を俯瞰する」というのではないような気もします。

      私は結婚して子を持ってから初めて実家が辛さの原因だと30歳ぐらいで気づき始めました。自分自身や親についてはなかなか気付けない、言語化できないらしいですね。

      naoさんがおっしゃるよう、「親にはああして欲しかった」「あんなことを言われてとても傷ついた」と怒りと哀しみで過去を咀嚼し直すこと数十年。今もそんな思いがあります。 長年の友人たちもいまだに言ってますよ。親への恨みつらみ笑。

      ただ私は悔しいのです。自分の人生のハンドルを怒りに囚われて、自分で握れないのが。多分その1点ですね。
      世間一般の美徳や、他からの承認由来の決断や行動は本当の自分の選択とは異なっていることも多くあります。

      私はちっとも解決してないです。実家問題。距離を取っているだけです。

      でも棚上げもいいと本作にもありました。完全解決なんかしなくても、嬉しいこと、楽しいこと、心地よいことを1つでも噛み締めながら小さな喜びを重ねたいとは思います。

      本を手に取るのに迷いがあるとのこと。嫌だったら今読まなくてもいいし、手に取って合わなければ途中で止めちゃうのもありかな。

      ちなみにこの益田さんという精神科医は臨床の診察での限られた時間では伝えきれないことがあると言う思いでyoutubeで情報を発信されています。心が弱っている患者は活字より動画の方がいい傾向とのことです。私も何本か観ました。気が向いたらこちらを観てみるという方法もありかもです。
      長文失礼いたしました。
      2023/11/19
    • naonaonao16gさん
      ごはんさん

      ご返信ありがとうございます。

      少し、YouTubeを見てみました。
      発達障害のことや、HSPを心理学的視点と精神医学的視点で...
      ごはんさん

      ご返信ありがとうございます。

      少し、YouTubeを見てみました。
      発達障害のことや、HSPを心理学的視点と精神医学的視点で分けて捉えることの違いなど、数本ではありますが、見てみました。
      さすがは医師、という感じで、普段されているのが治療なので、物事をハッキリと言い切るところは心強さを感じました。「劣性」という言葉を使われているのも印象的でした。
      本よりまずは沢山あがっている動画を見てみようかな、と思っています。

      わたしも、親からの支配、親への怒りで自分の人生が進んでいるとしたらすごく悔しい。
      だけど、親に認められたくて、見てほしくて選択してきたこれまでの過去の選択、つまりわたしが生きてきた道のりが、親を抜いて考えたら、全部間違ってたような気がしてすごく怖い。それを認めたくないのかもしれない。そこに向き合ったら、もう生きていけなくなる、日常生活なんて送れなくなる気がしています。

      だけど、今自分の周りにいるお友達や同僚は、わたしの親どーのこーので知り合った人たちではなく、紛れもなく自分自身で知り合って、今目の前にいる自分を認めてくれてるわけだから、親なんて関係ない、自分の人生なんです。

      このままじゃ納得できない気がするのに、もうずっとうだうだとこんなのを繰り返してばかり。
      距離を置いたら置いたで、後から後悔する気もして。じゃあどうすんの?って、自分でもめんどくさいです。
      今はとりあえず、自分の生活の中で、自分が楽しいと思うこと、自分がこうしたいって思うことをすること、それを大事にしています。
      幸い、それを責めたり「こうすべき」という人がいないこと、「こうすべきだとは思うけど自分がやりやすいようにでいいんじゃない?」という人が多いこと等、周りの人に恵まれているので、自分の気持ちを大切にしていこうかなと思っています。
      それがいつか、支配からの卒業に繋がるといいな。
      長くなりました、すみません。
      2023/11/19
    • naonaonao16gさん
      ごはんさん

      お久しぶりです!

      こちら、最近オーディオブックで聞きました!
      ごはんさんが教えてくださった、益田ドクターのYouTubeが結...
      ごはんさん

      お久しぶりです!

      こちら、最近オーディオブックで聞きました!
      ごはんさんが教えてくださった、益田ドクターのYouTubeが結構面白くて、よく見てるんですが、その流れでこちらも読んで(聴いて?)みたんです。

      やはり自分の親に対してはよく分からず、それが発達障害とかうつとか、精神疾患の枠なのかは分かりませんでした。
      ただ、優しく触れられたり声をかけられたりはなかったな、であるとか、あの時なんであんな酷いことされたんだろう、ということは引き続き残っています。子どもに上手に接するのが苦手な人だったのか、わたしが育てにくい子どもだったのか。

      でも、仕事ではかなり役立ちそうな内容が多く、購入を考えています。
      オーディオブックだとどうしても流れてしまうので…

      ごはんさんとのここでのコメントがきっかけで、かなり益田ドクターに溢れた生活を送っています笑
      ありがとうございます!
      2024/03/16
  • 1485

    これ今月更新のアンリミテッドで一番良かった本だった。軽々しく「毒親」って言葉を使う最近の風潮に違和感があった。親との関係に葛藤するのはほぼ普通の事だし、親も完ぺきではない人間なんだっていう視点がないと思ってた。自分のルーツを否定すると自分を本当の意味で受け入れることができなくて、健康な状態に行くとは思えないんだよね。親を悪者にすることで自分自身の問題に靄がかかって見えづらくなる気もする。毒になる親は名著なんだろうけどね。

    益田 裕介
    早稲田メンタルクリニック院長。精神保健指定医、精神科専門医・指導医。防衛医大卒。防衛医大病院、自衛隊中央病院、自衛隊仙台病院(復職センター兼務)、埼玉県立精神神経医療センター、薫風会山田病院などを経て、早稲田メンタルクリニックを開業。精神科診療についてわかりやすく解説するYouTubeチャンネル「精神科医がこころの病気を解説するCh」運営、登録者数は30万人超を超える。防衛医大卒。 防衛医大病院、自衛隊中央病院、自衛隊仙台病院(復職センター兼務)、埼玉県立 精神神経医療センター、薫風会山田病院などを経て、早稲田メンタルクリニック院長。 精神保健指定医、精神科専門医・指導医。 幼いころから父親の仕事の都合で転勤を繰り返し、友達作りに苦労してきました。


    精神科医の立場から言うと、毒親というテーマで繰り返し語ったり、心の中で反芻したりすることは「治療的」ではありません。  なぜなら、それはあまりに単純で、一方的な見方であり、子供の心の成熟を妨げてしまうからです。 「あのとき、○○と言われたことで傷ついた」 「親はいつも私に○○で、それがずっと嫌だった」  という話はいずれも、親が「自分に対して」悪い人だった、という話です。  愛してくれなかった、評価してくれなかった、無関心だった、ほかのきょうだいばかりかわいがった、など。甚だしく深刻なケース(暴力や性的虐待を受けたなど)においてさえ、そこは同じです。結局、理解は表面的なものにとどまります。  この視点からいったん離れることなしに、親子問題の解決は難しいと僕は考えます。  では、自分を傷つけた毒親、という視点から「離れる」とはどういうことでしょうか。  それは、親自身がどういう人だったのか、を客観的な視点でとらえ直すことです。   親に悩む人の多くは、親本人について不自然なほど無知です。  僕のクリニックに来る方でも、親の生い立ちをよく知らなかったり、親の職業名は知っていても、具体的に何をしていたのか知らなかったりします。  人となりについても、意外と知りません。「(自分に対して)ひどい人」の一言で済ませていたり、逆に妙に神格化しすぎて、長所や短所をフラットに見られない人もいます。現実的な背景のある一個の人として、冷静に見られなくなっているのだ。

    精神科で行われるカウンセリングとは、ごく簡単に言うと、偏りやズレを調整、修正するプロセスです。   偏りというのは自分では認識できないものなので、プロに座標点を修正してもらう必要があります。これは親子問題に限らず、さまざまな問題についても同じようなプロセスをたどります。 「それは考えすぎですね/考えなさすぎですね」 「それは依存的傾向がありますね/そのレベルなら、依存症ではないですね」  というふうに、僕たち医師は随時、どちらにも偏らない「真ん中」を指し示していくことが治療の基本方針です。主観的な判断ではなく、あくまで全体としての中道を目指す、という感じでしょうか。  会社が社外取締役を設けたり、コンサルタントに指導を依頼したりすることにも似ているかもしれません。自分の会社がどんな位置にいるか、時代についていけているか、コンプライアンスに反していないか、足りないものや余計なものは何か、などを客観的に指し示してくれる外部の存在が、組織には欠かせません。  個人も、生活を営むなかで、折に触れて第三者の指摘を受けながら自分を見直すことが必要です。 それはメンタルに問題を抱えていようといまいと同じですが、しかし、問題を抱えている人の場合は、抱えていない人よりも偏りが顕著です。 修正にも時間や手間がかかります。

    「自分はダメ人間だから、ダメ男としか付き合えない? そうとは限りませんし、その考え方を変えなくてはいけませんね」  というふうに返答しても、「いやいや、自分はダメ人間です」と言い張ったり、口では「そうですね」と同調しつつもまったく同意していなかったり、心を開いていなかったり、という調子なのです。

     人の世界観は変化するものです。たとえば学生のときと、社会人になってからでは「世の中はこういうもの」という認識は大きく違いますね。 「昔は引っ込み思案だったけれど、社会に出てから積極的になった」「若いころはさんざん遊んだけれど、結婚してから落ち着いた」などの行動の変化も、大小さまざまなきっかけによって随時起こるものであり、それが、人の認知の自然な変化です。  つまり、変化しないことは問題があることの対偶です。変化を促す営みである「治療」が難航するということは、変化したくないという、本人の執着があります。

     精神医学的に言うと、心というものは存在しません。皆さんが「心が傷ついた」「心が痛む」と言い表すものは、すべて脳で起こっていることです。   人と関わることに怖さを感じる人が、「自分はなんて心が弱いんだ」と自分を責めているとしましょう。これを精神医学的に考えると、心が弱いのではなく、脳の機能に何らかの変性(不安障害など)が起こった、という解釈になります。

     親が実はうつ傾向だったのではないか、不安障害だったのではないか、と考えると、これまでの「謎」がかなり解けるのではないかと思います。

    発達障害は、グレーゾーンまで含めると7~8%の割合で集団の中にいると言われています。1割近くですから、かなりの人数です。

    「私にはひどい親だったけど、親自身は本当は弱い人だったのだ、許そう」と思って和解する。「弱い人なのはわかったけれど、やはり許せない」と思って絶縁する。「縁を切るほどではないけれど、これからは距離を置こう」と決める。等々、そこは患者さんの自由です。個人の価値観の問題なので、医師がどうこう言えることではありません。

    戦前までは、子供は親だけで育てるものではありませんでした。家には祖父母もいましたし、外の大人たちも子育てに参画しました。「子供は地域全体で育てるもの」という意識が自然に共有されていたのです。ほんのひと昔前まで、外で知らないおじさんが子供のいたずらを叱る、という場面がちょくちょく見られました。

    子育ての「合格点」も昔より水準が高くなりました。今は、良い教育を提供できるかどうかが強く問われ、その良さの平均点も、上がり続けています。 最終学歴は大卒が当たり前になり、良い大学に入れたいならば「中高は公立で十分」などと言ってはいられない、という具合です。

     では、その第三の要素とは何でしょうか。それは、正解のない世界を迷いながらも、ブレることなく、選択と判断ができる心の強さです。

     ここまでで何度か「良い教育」という表現をしましたが、そこには一定の正解があるわけではありません。「ここは良い学校だ」と思っても、実際どうかは、入ってみるまでわかりません。さらに、たまたま校長が代替わりして教育方針が変わったり、その年に限って問題児がたくさん入ってきたり、といったことはいくらでも起こります。 「良い会社」も同様です。去年の花形業界が今年は斜陽産業、といった変化はつきものであり、その変転の激しさは学校以上です。   だから、子育ては迷いと判断の連続なのです。どんなに熟考を重ねた上で決断しても、当たることもあれば外れることもあります。 子育てのみならず、人生の決断とはすべて、そういうものですが、子供のことになると親はさらに悩むものです。  よって、求められる強さとは、子育てに「正解がないのを当然のこと」ととらえられるかどうかでしょう。これが、親に必要な三つ目の資質です。   この資質を欠いていて、子育てに「正解がある」と思い込んでいると、知識や経済力があっても、教育はおかしな方向に向かいます。 「自分が調べたのだからこれが絶対正解」と子供に押し付ける。逆に何も調べずに「自分が卒業した学校は最高」と押し付ける。無理やり偏った知識を詰め込ませる。明らかに適性のない進路に無理やり進ませる。そうした親がしばしばいます。

    が「YouTuberになる」と言い出したとき、リスクヘッジのしかたも伝えず盲目的に賛成する、なども子供にとっては頼りなく、反対してもらえる親に比べて彼らは「損」をしているかもしれません。

     現代の親は求められることが多くて大変だ、と語ってきましたが、大変ではあっても、「無理」ではありません。 子育ては正解のある世界ではありませんから、ある程度、できていればいいのです。

     定型発達の子供なら、親に少々の失敗があっても、それなりに育つものです。キャンプ場のカレーのように、料理の工程に多少の失敗があっても、それなりの味でまとまりますし、不出来でさえ笑い飛ばせるものです。  しかし、「心配しなくても大丈夫。子供は勝手に育つものよ」というよく聞く声かけは、多くの家庭では通用するものですが、発達障害などの精神的な障害がある子供には通用しません。障害のある子供の子育ては、専門的な知識と配慮、工夫が必要だからです。

     世の中で「毒親」というテーマが注目を浴びるのも、このような感情のもつれを感じている人が多いからでしょう。恨みや憎しみまでは感じていなくても、なんとなく親としっくり来ない人たちも多いはず。そうした人々が理由を明確化し、整理をつけたいと望んでいるのだと思います。  しかし序章で述べたように、このテーマを掘り下げても、あまり生産性はありません。   悪い親のせいで子供は苦しむ、という「結論ありき」な話にいくら触れても、「そうそう、私もそれで苦しんだ」と、共感された気がしてひととき慰められるだけで、その先に続く道がないのです。 「先に続く道」とは、どんな親のもとに育ったにせよ、本人自身の意思で選択していく道、ということです。

     逆に、ぶつかり合いのない親子関係のほうが心配です。衝突がないことは学習機会の損失と同義であり、他者との関係が希薄な現代ではとくに、家庭以外では学ぶことが難しいからです。

     しかし発達障害があると、そうした柔軟性に欠けているため、妥協やあきらめが苦手です。親に反抗し続けるか、内面で戦い続けた結果、自分の認知を修正することができず、現実と折り合いがつけられないので、うつ病や摂食障害を発症することもあります。

     発達障害の二次的疾患として、もしくは遺伝的形質の影響で、境界性パーソナリティ障害を発症することもあります。この疾患は感情制御がきわめて不安定になる、という特徴があります。 自己と他者のイメージが不安定なために、親が愛情をかけていても、不十分で、愛されていないと訴え、ときには自傷に走ります。

    身近なもので油断ならないのが、スマホ依存です。アルコールやギャンブルより安全か、と思いきやそんなことはなく、課金をやめられず、親のお金を盗んだり、大人になると借金で首が回らなくなる例もあるので要注意です。

      きちんと子育てしても、障害があれば逸脱行動には出てしまいますし、依存症も親のせいではなく、依存対象に出会ってしまった不運によるものです。いたずらに自分を責めるのではなく、冷静な態度で、医師の指導を受けながら回復を目指すのが適切な対処です。

    発達障害は、生まれつき脳の働きに違いがあり、一部の知的活動に制限が認められている状態を指します。   平たく言えば、できることとできないことの差が激しい状態です。勉強はできるのに片付けがまったくできない、人とのコミュニケーションが非常に不得手、など。その凹凸が日常生活に支障をきたしているなら、発達障害があると考えられます。

    ・受動型:おとなしく無口、自分の主張がない、関心の幅が狭い。人の言いなりになりやすい ・積極奇異型:主張が激しく、押し付ける傾向あり。人の話を聞かず自分の話ばかりです。

     さて、これらの特徴は発達「障害」と言われ、この本でもそのように言い表さざるを得ませんが、定型発達に比べて何かが劣っている、というわけではありません。  脳のタイプが違う、質が異なる、つまり「個性」の一つです。  その意味では、性的少数者の方々と似ています。彼らも、多数派に比べて劣っていたり勝っていたりするわけではなく、性的指向の質が違うだけです。 「少数」の中に非常に多くのバリエーションがあることも共通点です。LGBTQIというふうに分類してもなお、その枠にはまりきらない性的指向を持つ人がいるように、 発達障害の人も、一人ひとり異なる多様な現れ方をします。そしてそれだけに、本人も周りにいる人も、誰かを参考にすることも難しく、対応に苦慮するのです。

    このタイプの母親を持ったときに子供がとりわけつらいのは、共感が得られないことです。いつも無口で無表情、笑顔が少なめ。 たとえるなら『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイのようなキャラクターです。自分からは会話しようとせず、こちらから何か言っても反応はわずか。何を考えているのかわからない親です。理解してもらえず、話をしても相手からの手応えも少なく、面白くありません。

      ASD積極奇異型は人の話を聞かず、自分ばかり話す傾向があります。他人の迷惑などお構いなしで、自分の話したい話をしてしまう。 また、その話が面白かったりすると、それも厄介で、こちらが質問しようものなら、やっぱり興味をもってくれたと、 10 倍にして話を返すのです。

    あるいは、LINEを頻繁に送る母親もよくいます。四六時中子供の心配をして、1日に何十回も様子を聞いてくるので、子供はずっと息苦しい思いをしなくてはなりません。

     暴君型の親は「成功者」であることもよくあります。 発達障害につきもののこだわりや過集中が勉強や仕事に向けられたとき、それが大きな成果となって、高い学歴や出世に結び付くのです。そして、その経験が(悪い意味で)自信となり、子供に自分の価値観を押し付けるのが、典型的なパターンです。

      一番よくある組み合わせは母と娘の密着です。お父さんは「いないこと」にされて、母と娘がべったりとくっつき、恋人同士ないし双子のような密着状態になります。  こうした母子密着は、何らかの疾患なしに起こることはあり得ないように思います。そんなの個人の勝手じゃないか、と言われますが、そうではないというのが、臨床家目線の意見です。価値観の問題とせず、医学の問題と考えることが医師らしさでもあり、臨床的上必要なことです。

     飲み会や合コンに誘われたときの断り文句は「遅くなるとお母さんが怒るから」。ましてや、デートなど「とんでもない」と逃げ出します。誰かにほのかな好意を抱いただけで罪悪感を持ったりもします。はしたない、と言われるのが嫌で、自分から行動できず、 20 代、 30 代と恋愛をできずにきてしまった人を僕も臨床で数多く見てきましん。

     親が「自分にとって」どうだったのかではなく、客観的に第三者目線で親を一人の人間として理解する。これはかなり困難な作業です。あるがままの親を見ようと思っても、そこにはさまざまなフィルターがかかるからです。  たとえば、幼少期の刷り込み。親は生まれた瞬間からそばにいる「最初の大人」なので、幼いころは頼るしかなく、素晴らしい存在のように思い込まされます。何でもできて、何でも知っている完璧な人間だ、と思うわけです。この幻想は、成長して親の欠点に気づいた後でさえ、記憶に染みつき、払拭が難しいです。

    自分の問題に向き合いたくないために、親を悪者にし、客観的に理解することを避けてしまうのです。  こうして、素晴らしい存在として崇めるにせよ、強大な敵として憎むにせよ、子供が考える親の姿は実像よりも大きくなります。

    通常、子供は親の知的レベルを見定めることはしません。反発心から「バカな親!」などと毒づくことはあっても、「彼(彼女)の知的レベルは、大体これくらい」「今の時代の偏差値で測ったら、私のほうが少し高めかな」といった発想で見ることはないでしょう。   そこをあえて、ひいき目も憎しみも抜きに、冷静に評価してみるのです。読者の方々にもぜひ試していただきたいことです。  得意なこと、不得意なことに目を留めるのも良い方法です。その差があまりに激しければ「これは発達障害かも」といった気づきも得られます。

     人類の一割弱を占める発達障害の人の中から、さらにそのうちの何%かの人が、天才として出現し、人類の発展や進化を促すのです。その意味で、発達障害の遺伝子は人類に必要なものでもあると言えるのかもしれません。

     逆に、発達障害は炭鉱のカナリアでもあります。つまり、社会的な問題が起きたとき、少数派から脱落していく、うつになってしまうということもあるのです。

    「あのとき、親はうつだったのでは」と思っている方に、もう一つ目安として知ってもらいたいのが、うつ病に特有の「三大妄想」です。 ①心気妄想:自分は重い病気で、家族はそれを自分に隠しているのかも、という妄想です。不安を抱いてあちこちの病院に行ったり、心配ないと言われても医師の言葉を疑ったりします。 ②罪業妄想:自分は悪い人間だという妄想です。過去に行った、たわいもない悪行を思い出しては激しく後悔して泣いたりします。 ③貧困妄想:実際にはお金はあるのに、「お金がない、ない」という不安に駆られる妄想です。

     不安障害にはいくつかの種類がありますが、主なものは三つです。 ①パニック障害 突然の激しい動悸、呼吸困難、冷や汗、手足のしびれなどの「パニック発作」が起こり、死んでしまうのでは、と思うほどの恐怖を覚えます。この発作がまた起きるのでは、という不安が日中に起きたり(これを予期不安と呼びます)、その不安のせいで電車に乗れなくなり、社会生活に支障をきたしてしまいます(これを広場恐怖と呼びます)。 ②社交不安障害(*1戻る) 人と接することに不安を覚えます。人前に立つと赤面したり、心臓がドキドキしてしまうので、その機会を極力避けます。人目を極端に気にし、相手がどう思っているのか気になって、不安になってしまいます。不安を避けるために、対人接触を回避し、回避するので対人理解や対人交流のノウハウを学べず、成長や認知の修正ができないために、さらに避けるという悪循環になります。 ③全般性不安障害 特定の場所で発作が起こるわけでもなく、不安の対象が明確にあるわけでもなく、全般的な不安がずっと続く状態です。

     統合失調症は、精神科の病気のなかではもっともメジャーなもので、人口の1%くらいが発症します。

    双極性障害(躁うつ病)① 群を抜く自殺率の高さです。

     双極性障害は、「躁うつ病」とも呼ばれる通り、元気が良すぎる躁状態と、うつ状態が交互に訪れる病気です。だいたい人口の1%ぐらいが発症すると言われています。

     双極性障害の一番怖いところは、自殺率の高さです。 10%以上は自殺を図っているとも言われます。あらゆる精神疾患の中で、「死亡率」は群を抜いていると言えます。2年以内に 50 ~ 60%以上が再発するというデータもあり、薬を使わなければ、再発率は 90%に上ります。

    グリム童話「白雪姫」のお母さんは、自己愛性パーソナリティ障害だと僕は思います。娘が自分より美しいなんて許せない、といった嫉妬も、このタイプの母親がよく持つ感情です。

     子供時代に親から虐待されてきた方々に親自身の生育歴を聞いていくと、親自身もその親から虐待を受けていた、という事実がわかることがあります。いわゆる「虐待の連鎖」です。虐待を受けた子供が全員虐待する親になるわけではありませんが、統計的には、「なりやすさ」の差がはっきりと出ています。

     そうして育った娘が母親になり、娘をそう育てる、という形で代々続いていくわけですが、ときどきそうした「箱入り娘」の度合いが強くなりすぎた女性が、社会性を身につけられずに独身のまま実家に居続けるパターンもあります。地方の資産家のお嬢さんなどに、ときどき見られるケースです。

     もちろん、シングルマザーでも裕福な人はいます。成功している女性経営者だったり、実家が資産家だった。

    もしくは誰かお金持ちの男性の別宅を営んでいたりする女性なら、経済的に困ることはないのかもしれません。しかしそれは全体のうちのごく少数です。

      片親でなくとも、経済的に苦しい家は、この貧困スパイラルに入る危険があります。「両親+子だくさんの家族」なども同様に危険です。  よくテレビのドキュメンタリーで、大家族の特集が組まれますね。ある家族を経年的に追っている番組もあり、高い人気を得ています。僕たちはえてして「貧乏でも、絆が深くて幸せ」といった家族ファンタジーを抱きがちです。もちろんそういうご家族もあるのでしょうが、多すぎるきょうだいは、個々の子供の幸福度を下げることがあります。なぜなら、一人に分配できるリソースが減るからです。食べ物や衣類や日用品もそうですし、親子の会話の時間や、教育にかけられるお金も限られてしまいます。

     自分の親はひどい親だった、と考える元・子供の方々にとって、あまり考えたくない可能性かもしれませんが、少なからず存在するケースについてお話しします。   それは、あなた自身が親にとって「育てにくい子供」だった可能性です。

     家父長制の時代に常識とされていた価値観も、どんどん薄れつつあります。  昔は、長男だけがきょうだいの中で尊重されることが当たり前で、財産は全部長男へ受け継がれました。細かいことを言えば、「長男だけおかずが一品多い」などの差をつけられることも珍しくありませんでした。今ではそんな家はめったにありません。

    ──現在 50 代くらいの女性が若いころなら、性被害を受けたときに、母親から「黙っていなさい、我慢しなさい」と言われることがよくありました。母親は母親なりに、娘を世間の目から守ってやりたい、という思いがあったわけですが、今の価値観では理不尽な話です。

     保守的なのか自由なのか、体育会系なのか文化系なのか、規律が厳しいのかカジュアルなのか、華やかなのか生真面目なのか。仕事や業界によって、雰囲気はまったく異なります。たとえるならば、学校の部活に似ています。野球部と美術部では、やはり雰囲気や価値観がまったく違いますよね。野球部とサッカー部は同じ運動部なので似ているかもしれませんが、それでもやはり、雰囲気は違うものです。

     技術者だったのか、経理だったのか、営業だったのか。中間管理職だったのか、経営者だったのか。ちなみに経営者でも、創業社長と2代目とではキャラクターはかなり変わってくるものです。加えて、時期に合わせたポジションの変遷もわかれば理想的です。そこまでわからなくても、「何年に転勤した」とか、「本社勤めになった」といったことも手掛かりになります。

     子供はいくつになっても、親を大きくとらえてしまいがちです。でも、たとえば父親も普通のおじさん、おじいさんに過ぎず、過度に優れていることも、劣っていることもありません。なので、期待している以上に力不足、恐れている以上に力不足、という場面は臨床上、よく見かけます。 「80 を超えたおじいさん相手に、何を恐れているんだろう?」と第三者から見ると、不可思議な状況にも、当の本人は真剣に恐怖していることがあります。

     陰謀論やフェイクニュースを信じてしまう人たちは、高齢だからという問題だけでなく、知的な問題や貧困の問題なども関わりがあるそうです。もし親が陰謀論を信じ、こちらの説明も理解できず、困惑しているなら、もしかしたらあなたが子供のときに受けた虐待も、知的な問題や貧困の問題に関係しているのかもしれません。

    言語化できないということは、思考の整理もできていないということです。そうした人が、匿名で何でも言える場所を見つけたら、暴言を吐き散らしてしまうことは大いにあり得ます。

     そもそもどうして、このようなプロセスをとっているのかというと、精神科臨床で行われている治療プロセスがまさにこのようなやり方だからなのです。治療ではさらに細かく、その人に合わせた問いかけをし、時間をかけて理解を深めていきます。そうやって、正しく認識できるようになることで、治療が進むことが知られています。  実際のところ、どうして知ることが治癒になるのか? というのは脳科学的にわかっていることではありません。ただ、臨床経験上、そういうことが知られているだけなのです。

      しかし、ほかの選択肢も含めて、客観的に判断したことならば、後ろめたい思いを抱く必要はありません。  さらに言えば、「後ろ向きな生き方」でも問題ありません。 トラウマがあり、家族というものに不信感があるから、私は結婚しない──そう決めた自分を認めること、愛してあげることが大事です。

     さらにもう一歩踏み込んで言うと、自分で決めたその人生に、一抹の寂しさを感じても構わないのだと思います。

    寂しさに「とらわれる」ことで生活の喜びや仕事のやりがいまで失せるようなら問題ですが、ときどき寂しさを感じながら仕事をしたり、映画を見たり、友達と会ったり、食事を味わったりしているならば、ほかの人と同じように「病んでいない」人生を送れているのですから、まったく問題ありません。

    結婚した人は結婚した人なりに、結婚してから離婚した人もその人なりに、結婚離婚を繰り返す人もその人なりに、ときどき「私、失敗したかもな」などとチラリと思いながら、毎日生きているものです。

     逆に、「独身を選んで 100% 満足です」「結婚して 何の 不満もなく満足です」などと言うほうが不自然です。強がりにしか聞こえませんし、患者さんが、診察室でもしそんなことを言いだしたら、僕はきっと「まだ治療は途上だ」と考えるでしょう。

     逆に、それでくよくよしている人を見ると違和感を覚えるはずです。仮に、仕事で成功している中年の人が「本当は、自分は東大に行きたかったんだ。東大に行けなかったことが今でも悔しい」などと言うのを聞いたら、「それ、もう、どうでもいいのでは?」と言いたくなるのではないでしょうか。   残念ではあるけれど、仕方がない。これは人間の生に必ずついて回るものです。

    「親」についてもこの感覚を持つことができたら、生きづらさや居心地の悪さは大幅に軽減するでしょう。 あなたの人生ですから、いつまでも変わらない親と一生戦うのは時間の無駄(と言っては冷徹に聞こえるかもしれませんが)、残念だが仕方がない、と割り切ることができるなら、それでいいのです。

    検査がないのにわかるのはなぜかというと、精神医学の過去の歴史で積み重ねられてきたデータ(臨床的知見)があるからです。心の病にかかった患者さんたちの診療記録が積み重なり、そこから、同じ症状・同じ経過のものに、病名がつけられ(カテゴライズされ)、最終的には治療のガイドラインの元となっています。

    こうしましょう、と言っても聞かない。無視する。口では「はい」と言いつつやはり行動に移さない。こういうことは必ず起こります。これを「抵抗」と言います。  治りたいはずなのになぜ抵抗するのか。そのポイントを、患者さんと治療者は見極めていかなくてはいけません。

    ときには、「あなたは気づいていないかもしれないけれど、発達障害の特性がありますね」とか、「実は差別意識がありますね」といった指摘をすることもあります。  患者さんは当然、例外なく、強く抵抗します。「そんなことありません」と否定したり、「なんてひどいことを言うのか」と怒りだすこともあるでしょ

     親を正しく理解し、自分の認知が修正され、現実を曇りなく理解できたとき、あなたはさらに絶望的な気持ちを味わうかもしれません。

     僕らすべての人間はいつか死にます。無宗教であれば、死後には永遠の無が待つと考えると思います。その点においてはすべての人が平等です。善行をしたから報われる、つらい体験をしたから報われる、そんなこともありません。

     親子問題は、患者さんたちの中で繰り返し出てくる物語です。これまでYouTube上に投稿してきた1000本以上の動画の中で、親子を取り上げたものもたくさんありますが、しかし、なかなか本質的なことは話せずにいました。

     知識は、選択の助けになり、健やかに生きる助けとなります。過去の人たちが何を考え、どういうものを残してくれたのか? それらを考えると、ほっこりした気持ちになれません。

     ただし、それは「迷わなくなる」ということではありません。  親子関係のみならず、人生の選択には、絶対の正解などないからです。  よい選択、正解と言える選択をするのは、とても難しいことなのです。絶対に流行るレストランが存在しないように、確実にヒットする音楽や映画がないように、一つひとつの選択や決断の末に、まあまあの正解があるだけです。僕らの日常も、靴1足買うにしても「失敗した……」ということはありますね。人生の選択も、成功と失敗の繰り返しです。

     決して素敵なことばかりではない人生、決して完璧ではない自分を、皆さんが安らかな心で受容する、もっと軽く言えば「ま、仕方ないか」と自然に受け止められる、そんな日が来ることを心から願っています。

  • 医師は事実を明らかにする。実際に起こったこと、背景要因、実は気になっていることはこちらではないか、など。主観2.0がある程度客観的で新しい決定ができることが目標。

    親との絶縁=連絡を取らないという選択肢をずっと続けることはメンテナンスが結構労力がいる継続的な行為。>これはほんとにそう思う。

  • 益田先生の新刊。
    YouTubeの時の語り口そのままに先生のフラットな姿勢が伝わってくる一冊だった。
    親との関係性から発達の特性まで現代のメンタルヘルスに関わる内容が幅広い範囲で網羅されていて読みやすかった。
    「家族原型」って先生の造語。概念として分かりやすかった。

  • 一読めには、突き放されたように感じました。それくらい耳の痛い現実を表してくれています。

    精神の治療は、周りが優しく導いてくれるものではありません。信頼関係のある医師と患者の上に厳しい導きがあります。
    それがわかって良かったです。

  • アウトプット文章より

  • YouTubeでも有名な早稲田メンタルクリニックの益田先生の著作。親子関係に問題があった人に向けて、ただ「私の親は毒親だったんだ」と片付けるだけでは、親子間のトラウマは乗り越えられないのだ、としたうえで、下記のように、親子について理解する手順を示す。
    ・そもそも親子とは?現代の親に求められる子育てとは?
    ・親子関係に問題が生じる事例(どちらかに精神疾患のあったケースを想定し、解説)
    ・親の情報を集めて、一個人として客観的に捉える
    ・冷静な親理解のうえで、親との関係をどうするか、自分の将来をどうするか、考える

    簡単に要約すると、近年は子育てが長期化、ハイレベル化していて、親に求められる役割が昔より増えている。その中で、どんな子育てを提供できるかは、親自身の特性や精神疾患の有無、知的レベルにより大きく異なり、格差も生まれる。親子関係に問題があったケースは、親自身に発達障害や精神疾患、貧困、知能の低さなど様々な問題があるケースが多い。その事実を客観的に理解するために、益田先生は、親の育った環境や働いている環境などの情報を集め、親の特性や価値観、生きてきた環境について冷静に分析することを勧めている。そうすることで、「自分(子供)から見た親」という一面だけでない、親の様々な側面を見ることができ、どうして自分が親子関係に苦しんだのか、客観的事実から考察することができると述べている。そうした冷静な親理解のうえで、自分は親を許すのか許さないのか、はたまた、自分自身は将来家庭を築くのか築かないのかなどについて、判断することができる。

    意識はしていなかったが、これは自分が大人になるにつれ、親を少しずつ許せていった過程と同様だなと思い、実感を持って本書を読み進めることができた。同時に、私はまだまだ集まっている情報が少なく、親を一個人として捉えることはできていないのかなと思う。
    特に自分が、親が私を出産したくらいの年齢になってみて感じたことだが、20代ではまだまだ精神的に未熟な人もとても多いのだろうなということだ。大人はなんでもできる万能な存在だと思っていたが、想像よりはるかに様々な脆弱性を抱えていたのだなと思うようになった。

    私の中での親理解はまだまだ途上で、まだまだアダルトチルドレンなのだなと思う。「ああして欲しかった」「受け入れてほしかった」と要求を抱えていて、それに対して一個人として親がどう考えるであろうか、を想像しきれていないのだ。

    また、今1番興味を持っている現象として、転移の問題がある。これは、親に求めている役割を他の人に求めてしまったり、親が演じていた役割を自分が演じてしまうような現象だ。
    私は、父不在の期間が長かったからか、恋人に父親的役割を求めてしまうことがあったように思う。自分の中で起きるこうした現象についても考察して、自己理解を深めたいと思っている。

    ちなみに、精神科医との人間関係の中でも転移は起こる。主治医のことをやけに嫌ったり、恋愛感情を抱いてしまったり、などだ。精神科では、主治医との会話の中で患者の病理を紐解いていくが、会話だけではどうにもならないとき、感覚的に大きな衝撃が必要になることもあって、それが、自身の転移を自覚させることらしい。
    最近私も信頼できる主治医に出会うことができた。主治医には私の今までの人生のつらい話、黒歴史をできるだけ話しているし、主治医はそれに対して肯定し、前に進めるよう促してくれる。確かに、何か特別な感情を抱いてしまうのも不思議ではないのかもしれない。
    しかし、そこで「どうして赤の他人である主治医にそこまで特別な、親密な感情を抱くのか?」と患者は自問自答しなければならない。人間関係には適度な距離が必要で、その距離感の中で適切な信頼関係を結び、円満にやっていけることを我々は学ばなくてはならないのだ。

    私もこれからも、親や主治医との会話の中で、たくさんの気づきを得たいとともに、そこで得られた感情に真剣に向き合っていきたい。

  • タイトル通り。相手は変わらないという事実を受け入れ、自分の認知(捉え方)次第でどうにでもできるという内容です。逆に自分の認知が変わらないと、状況は変わらないということでもあった。どんな病気でも依存症でも、最終的には本人の「決意」というのが響いた。

  • 環境、時代、精神疾患から俯瞰的な視点を持って、親を理解する。親だけでなく、人間へ理解が深まった。

    寿司を美味しいもの、と捉えるのでなく,刺身と米と理解するような例えも本書にあり、めちゃくちゃな母親ではなく、そういう人なんだ、とこの本を読んで気持ちが変わってきた。

    最後はどこに人間の尊厳があるのか?という哲学的な問いとなり、心が動いた。

  • 親に対する自分の主観は一旦置いておいて、親を俯瞰で見る、というのは私の中にはない発想だった。
    親がどういう生育環境で、どういう祖父母に育てられ、どういう時代を生き、職業を選択したか…このように客観的に見ることで、親への新しい理解を獲得することが、治療の第一歩だと言う。
    その中で発達障害の可能性についての記述が多く、それに関しては思うところもあったが、全体的に今までと違うアプローチが自分の中でできそうだったので、とても良い本だった。

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著者プロフィール

早稲田メンタルクリニック院長。精神保健指定医、精神科専門医・指導医。防衛医大卒。防衛医大病院、自衛隊中央病院、自衛隊仙台病院(復職センター兼務)、埼玉県立精神神経医療センター、薫風会山田病院などを経て、早稲田メンタルクリニックを開業。精神科診療についてわかりやすく解説するYouTubeチャンネル「精神科医がこころの病気を解説するCh」運営、登録者数は30万人超を超える。

「2023年 『精神科医が教える 親を憎むのをやめる方法』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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