父と私の桜尾通り商店街

著者 :
  • KADOKAWA
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041063415

作品紹介・あらすじ

店を畳む決意をしたパン屋の父と「私」。父は残った材料が尽きるまで、最後の営業としてパンを焼き続けるが、「私」がコッペパンをサンドイッチにして並べはじめたことで予想外の評判を呼んでしまい――。(「父と私の桜尾通り商店街」)
全国大会を目指すチアリーディングチームのなかで、誰よりも高く飛んだなるみ先輩。かつてのトップで、いまは見る影もないなるみ先輩にはある秘密があった――。(「ひょうたんの精」)
ほか、書下ろしを含む全六編を収録した、今村夏子史上最高の作品集!

収録作品
・白いセーター
・ルルちゃん
・ひょうたんの精
・せとのママの誕生日
・モグラハウスの扉 書き下ろし
・父と私の桜尾通り商店街

感想・レビュー・書評

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  • 『書き終えたものを読み返したら、いつも同じ人を書いているような気がします。一生懸命さが痛々しいというか、見ていられないです』と語る今村夏子さん。

    このレビューを書いている段階で今村夏子さんの作品は六冊刊行されています。書名にもなっている言葉が418回も登場する「むらさきのスカートの女」。『のりたまじゃない、本物ののりたまはどこ行った?』という不思議感に包まれる「あひる」、そして主人公が、な、なんと、『わりばし』になってしまうという「木になった亜沙」など、その作品世界は他に類を見ないほどに特異な世界観の中で展開します。極めて読みやすい平易な文章の中に、ごく普通の日常から始まるその作品世界。その一方で、ある起点から一気に予想外な世界へと連れて行ってくれる、それが今村さんの作品の魅力です。小説にはファンタジーという分類で呼ばれるものがあります。空想世界に羽ばたくその作品世界は、もうなんでもありの自由な描写、作家さんの想像力の限界へと向かって飛翔していきます。それらは、異世界を前提とする以上、読者も異世界だと認識した上で読み進めます。ある意味の割り切り感の上に成り立つ世界、それがファンタジーだと思います。一方で、今村さんの世界はファンタジーとも異なる世界観です。普通の日常なんだけど、何かが違う、何かがズレている、そう感じる世界がそこに広がります。

    ・競技の最中に何度も天井に向かって意味不明の言葉を叫ぶ
    ・そこの陰から、じーっとこっち見てた。ひと言もしゃべらないし、目が合うとそらす
    ・お腹のなかの七福神に、栄養を吸い取られてたの

    全体としては普通なのに、何かが違う、何かが変だ、そんな違和感、異物感の漂う作品世界がここにあります。そう、「父と私の桜尾通り商店街」というごくごく普通の書名を冠するこの作品。父と娘の幸せな暮らしを垣間見ることができそうなこの作品。しかし、今村さんはそんな風に普通に物事を捉えようとするあなたを見逃してはくれません。この作品は、一見普通で平穏な暮らしを見る中に、強烈な違和感、異物感があなたを襲う物語です。

    『朝の情報番組で「ホテルの豪華クリスマスディナー特集」というのを観ていて、よし今年のクリスマスイブの晩ご飯は外食にしようと思い立った』という『もう何年も前の十二月』を振り返るのは主人公の ゆみ子。『仕事から帰ってきた伸樹さん』に訊くと『お好み焼きか沖縄料理』と言われ、ひと月前に沖縄料理店に行ったことを思い出す ゆみ子はそのお店で『伸樹さんのこの世でいちばん嫌いな』ゴキブリを見つけたことを思い出します。万が一のゴキブリ再出現を懸念し『駅の向こう側にある、コロコロに太ったおばさんがやっている』お好み焼き屋に決めた二人。まだ一週間以上も先にも関わらず『お好み焼き屋でなにを注文しようか毎日考えて過ごした』という ゆみ子は『これ着ていこうかな』と『タグがついたままのセーターを』ひろげて伸樹に見せます。『…やめとけば。汚れるよ』と言う伸樹に『汚さないようにする』と言うも、『…白だから、ソースが飛んだら目立つよ』と言われてしまいます。『お好み焼き屋にいくと必ず服にソースをつけて帰ってくる』という ゆみ子に『…それに、においもつくよ』とダメ押しする伸樹。『じゃあこのセーター一体いつ着たらいいの』と聞いても『…さあ』とつれない返事。でも、『まあいいや』と『着ていくものはゆっくり考えることにしよう』と思う ゆみ子。それよりも『大好きな伸樹さんと、大好きなお好み焼きを食べにいく』ことを思い、『楽しみだなあ…』と『声にだしてそういってみると、なんとも幸せな気持ちになった』という ゆみ子。そんな ゆみ子に『突然、知らない電話番号から電話がかかって』きました。『ゆみ子ちゃん。あたし、ともかです』という伸樹の姉からのその電話は、クリスマスパーティーの準備のために『子供たちあずかってくれない』というものでした。結局『下は四歳から、上は小学五年生まで、クリスマスイブに、わたしは四人の子供を』預かることになった ゆみ子。『当日は快晴だった』というその日。『わたしはハンガーにかけておいた白いセーターに袖を通した』と結局、白いセーターを着ていくことにした ゆみ子に『それでいくの?…においつくし、汚れるよ』と言う伸樹。しかし、『そんなの洗えば済むことじゃん』と『手を振って伸樹さんを見送』り、いざ子供たちを迎えに出発した ゆみ子。そんな ゆみ子に全く予想もしなかった事態が待ち受けていました。そして、『白いセーター』は…という一編目の短編〈白いセーター〉。今村さんらしい、ザワザワ感の中に展開していく物語の中に、そう結末をまとめるのか、となんとも言えない読後感を一編目から提供してくれた好編でした。

    「父と私の桜尾通り商店街」というなんだか親しみを感じるこの作品。オレンジと緑で、どこかノスタルジックな世界に塗り分けられた商店街が見渡せる表紙が特徴のこの作品。そんな見かけのイメージを一気にひっくり返す強烈なパワーを秘めた短編が六編収録された短編集です。作品間に繋がりはありませんし、「文芸カドカワ」に掲載されたり、書き下ろしありと、その初出もバラバラです。しかし、今村さんの作品らしいザワザワ感に満ち溢れているのが特徴で、不思議と短編集としてのまとまりも感じさせます。

    そんな作品の六編の主人公はいずれも女性です。また、それぞれの作品冒頭では、そんな主人公がごく普通の日常を送る様が描かれます。『よし今年のクリスマスイブの晩ご飯は外食にしようと思い立』ち、その日を『楽しみだなあ』と待つ〈白いセーター〉の ゆみ子。『なるみ先輩は誰よりも高くジャンプした』と、一人のチアリーダーを見つめる〈ひょうたんの精〉のマネージャーのわたし。そして、『その男の人はモグラさんと呼ばれていた』と、『妙なあだ名の』工事現場の作業員と、小学生たちが親しげに会話する〈モグラハウスの扉〉の小学三年生の わたし、というように、その舞台、主人公の立場こそ違えど、ごくごく普通の日常風景が冒頭に提示されます。そこには、不穏な空気など感じる余地は全くありません。それが、ある起点をきっかけにそんなのどかな場面が一気に動きだします。それは、それぞれ『子供たちあずかってくれない』という義姉の依頼がきっかけであったり、かつて太っていた先輩が『理科室のいすを潰した話』を始めたことがきっかけであったり、そして『学童の松永です』と、モグラさんのことを子供達が学童の先生に紹介したことがきっかけとなって展開していきます。小説には最初から異世界を舞台にしたものもありますが、この作品は上記の通り、いずれもありきたりの日常が舞台です。そんな日常で普通に暮らす主人公視点で物語が進むと、読者はなんの支障もなく主人公に自然に感情移入ができます。そして、そんな感情移入先の主人公が奇妙な話を聞いたり、奇妙な出来事に遭遇したり、そして奇妙な人と出会ったりすると、その体験は主人公と一体化した読者にもリアルに伝わってきます。そして、今村さんのおっしゃる『一生懸命さが痛々しいというか、見ていられない』という奇妙な人々による奇妙な行動の数々が他人事でなくなってきます。しかもその奇妙な事ごとを今村さんは、さも当たり前のように描いていくため、読者としてはそれを受け入れざるをえません。超自然な日常から、その表裏となる超不自然な世界へと一気に誘ってしまうこれらの短編。極めて読みやすい平易な文章であるが故に、余計に私たち読者の連れ去られ度は半端ではありません。短い尺の上で勝負しなければならない短編だからこその、この急転直下のジェットコースター感は、癖になってしまいそうな面白さを感じました。

    また一方で、この短編集には薄気味悪さを強く感じさせる作品もあります。『わたしでべそだったから』という会話がやがて体の色んな部分にまつわる話へと展開していく〈せとのママの誕生日〉という短編。そのタイトルも如何にも平和そうな日常感を演出しています。しかし、当初『でべそ』という言葉の登場に、どちらかと言うと柔らかい雰囲気を感じていた読者に緊張が走ります。『アリサはでべその手術をした』という先に『手術で切り取ったでべそをもういっぺんつけなおせ』とシリアスに展開していく物語は、どんどん怪しい雰囲気感に満たされていきます。そして、『ママはペンチでカズエの乳首を挟むと、思いっきりひねった』と、いきなり登場する衝撃的な表現の先に、いやいや、もうやめましょうよ、と、言いたくなってしまう物語は、その後もとめどなくエスカレートしていきます。芥川賞作家さんならではの世界観?を感じるなんとも言えないこの短編。『生きてるの?』 『まだ生きてる』と、色んな取り方のできる主人公の台詞が読後も尾を引く、どこまでも薄気味悪く、後味の悪い作品でした。

    そして、表題作の〈父と私の桜尾商店街〉がトリを務めますが、六編の中で、この短編だけが実は異色な作りになっています。父の故郷の『津山から遠く離れた桜尾通り商店街で、私の父は小さなパン屋を営んでいる』という物語の始まり。『私は「パン屋の娘」で通っていた』と語る主人公は、父の店を手伝い、店番をしています。一編目から五編目を読んできた読者は、今までの感覚でこの『パン屋の娘』に感情移入していきます。孝行娘とも言えるそんな”私”にどんどん感情移入していく読者。そんな中、ある日『これください』と一人の女性客が現れ、このことをきっかけに物語は動きだします。そして、今村さんは今まで慣れ親しんできた読者のある意味での読書のリズム感を崩しにかかります。感情移入していた主人公が読者を裏切るまさかの瞬間。崩されたリズム感の中に突き放されるまさかのその結末、えっ?という思いとともに、短編集をこの作品で締めた今村さんの上手さに感心しきりの読後感がそこにはありました。

    『商店街が好きなので、商店街で暮らす人々の話を書きたいと思いました』と語る今村さん。『商店街で商売することの楽しさや、人と人とのつながりを描きたいと思っていた』と続ける今村さんが描く商店街の風景は、今村さんのこの言葉から私たちが受け止めるイメージとは違う地平に立つものでした。私たちが日常生活を送る上で基準となるのは、私たちが生きてきた経験を土台とした価値観の上にあると思います。しかし、そんな土台は人によって必ずしも同じであるわけではありません。私たちは違和感、異物感を感じるものを拒絶します。それは、人間として当たり前の反応です。しかし、もしかしたら、そんな私やあなたも、世の中から見て違和感、異物感を感じさせる存在になっている、考えたくありませんが、シーンによっては、そんなことだってあり得るのかもしれません。

    日常の中に違和感、異物感を感じる、なんとも微妙な地平に立つこの作品。趣味の読書の中に、いい塩梅のスパイスをふりかけてくれたこの作品。日常を描く物語の中に違和感、異物感を味わう感覚が癖になりそうにも感じた、とても刺激的な作品でした。

  • 清々しいほど、一貫しており、ここまで主題を一つに絞っている作家も、珍しいのかもしれない。

    ただ、何が一貫しているのかを、はっきり言葉にすることは難しい。

    しかし、作者名を伏せて、初めて本書を読んだとしても、何か今村さんの作品を読んだことがある方なら、おそらく、「ああ、今村さんだな」と、すぐに分かるだろう。

    それくらいの一貫性があり、『あひる』を読んで、こういう物語を待っていたんだという方なら、間違いなく本書も楽しめるでしょう。

    ただ、初めて今村さんを読む方は、どう思うのか?
    なんとなく見当は付きます(思い上がりは承知の上で)。

    ああ、なんかあるよねぇ。こういう不穏な雰囲気。
    人間には嫌な一面もあるし、でも、こういうのって、無意識の悪意みたいな感じで、誰も責められない感じが、また心憎いよね。特に子供の場合は。

    みたいな印象を抱くのではないか、と。
    私も、不穏な雰囲気は『あひる』で充分感じたのだが、どうも前回に読んだ『こちらあみ子』の影響か、本書を読み終え、それだけじゃない気もしてきた。

    それについて、収録作を追いながら、考えてみよう。


    『白いセーター』
    のっけから、早くも察することのできる、この安定した不穏感。読んでいく内に、案の定の展開だと思ったが、ここでは、最初の一文と、周りの人への気遣いに救われている感もある。それから、子供の絶妙な使い方が凄い(誉め言葉です)。

    『ルルちゃん』
    ベトナム語の先生は、まだ可愛いもので、上には上がいたというお話。
    「思わないのかってきいてるの!」
    こ、怖い・・と思ってたら、更に上がおりました。

    『ひょうたんの精』
    ファンタジーの要素が入った、おとぎ話のような物語だが、だからこそ可能にさせた、この切なさが良い。一人でも自分の事を見ていてくれる人がいるという展開は、何か胸にくるものがあるし、後輩マネージャーのツッコミが、また切ない。

    『せとのママの誕生日』
    眠ったまま目覚めない、スナックのママの誕生日に集まった、三人の元従業員達の思い出話というと、聞こえはいいが、ある意味、これは悪ふざけが過ぎるとも捉えられかねない、酷さにも感じられる一方、彼女達は、本気でそう思って、やっているだけなのかもしれない。結局、人の心の中なんて、誰にも分からないし、その辺を曖昧に描写する、今村さんの文章力はやはり凄いと思うし、ファンタジーにして、グロさを和らげている所も、また心憎い。

    『モグラハウスの扉』
    絵本の世界なら、さぞ素晴らしく、夢のあるお話になったのだろうが、生憎、これは現実の物語だった。
    子供へ夢を与えようとしただけの思いが、まさか、こういう展開になるとは・・充分ありうる話だと思うところに、また鈍い痛みを感じさせられ、辛いものがある。しかし、私の思いとは裏腹に、その当事者は、あまり悲観的でもなさそうだ。

    『父と私の桜尾通り商店街』
    表題作ということで、これはいい話だなあ。
    しかも不穏さというよりは、ただの偏見だし、主人公「ゆうこ」の、これまでの現実を変えようとする、前向きさもいいじゃない。
    ただ、最後の最後、惜しかったな!!
    そこで、組合の話題を出したらダメだって・・
    でも、これが今村さんらしさかとも思えたし、人生に100%の完璧さを求めなくてもいいんだよねと思わせる、エンディングもいいものだなと感じた、この爽やかさは、他の作品には無かったもので、他が合わなかったとしても、これだけは読んでみてと勧めることの出来る、名作。


    以上、6つの短篇を踏まえて、不穏さもあるとは思ったが、一つ、別の話として、『こちらあみ子』に収録された、『ピクニック』という短篇について、私は、彼女らが本当に後輩の事が心配で、人情的優しさで関わっていると思っていたのだが、他の方のレビューに、あれは明らかに悪意でやってると書いてあるのを見て、面白いなと感じた事があります。

    結局、それって、人それぞれが人それぞれであると、いうことなのかもしれないなと思ったときに、私は、この不穏な物語だって、どんな気持ちでしているのかということを、人である以上、100%分かるということはないのではないかと思いますし、無意識の悪意というけれど、それだって、突き詰めれば、全てのケースにそれだけが正解だと確定することが、どうして出来るのでしょう?
    善意でもない、悪意でもない感情だって、人間にはあるはずなのに。

    そんな、不確実で曖昧なことが世の中には、たくさんあるのだから、周囲の声など気にせず、自分の思うまま、好きなように生きていったっていいのではないか、といった、実はとても明るく前向きなメッセージも、今村さんの作品には、含まれているような気がしてきたんですよね。

  • 表題を含む6編の短編集。

    どれもそうだが、普通の日常を淡々と描いていると思いきや中盤から何やら思っていたのとは違う不穏な雰囲気になり、最期もどうにもこうにもスッキリとは、終わらせてくれない。

    もやもや感が残るのである。
    どうも胸の奥に重い石を置いてかれたような気分なのである。
    それでも嫌いにはなれないから不思議だ。

  • この作品は短編集で個人的には
    『せとのママの誕生日』が1番好き。

    ママは生きていたのだと私は思う。


    商売道具がなければ働くことの出来ないスナック。
    乳首、でべそ、眉毛、……それぞれの商売道具を
    持つ彼女たち。そして失くす彼女たち。彼女たちは旅に出た。変わり果てた乳首、でべそ、眉毛、…
    それをママの体に乗せる。

    レーズン、しいたけ、酢こんぶ。。。


    もし私がスナックせとで働いていたら商売道具は「胃」
    …だとしたら、破裂して失ってしまうのかな。
    変わり果てた姿は…

  • 人生には3つの坂がある「上り坂」に「下り坂」そして「まさか」。結婚式のスピーチのようになってしまいましたが、今村さんの小説は、上り坂がなくって、緩い下りから次第に速度が増してるのに気づかずに転げて行ってハッと思った時にはブレーキ壊れてしまって止まらないって感じがするんですよね。
    現存する今村夏子さんの作品、ラスト7冊目を読了しました。
    4月からは自転車もヘルメット被らなきゃいけないし突然転倒しても大丈夫なように気合を入れて臨みました。
    6編の短編はどこまで転げ落ちるんだろう。どんな底から歪んだ空見上げることできるんだろうかなんて期待してる時点で今村沼にはまってるかな。
    「白いセーター」
    同棲してる2人がクリスマスイブにお好み焼屋で食事する話。うーんこの二人かみ合ってないなあ。ゆみ子まわりから大切にされてない。不器用感ビシバシ伝わってきてるけど、緩やかな坂くだってる感じでした。なんか違うなって違和感が生じるなか不器用な人は微調整できないですよね。
    「るるちゃん」
    子供虐待の話になるとスイッチが入ってしまう同調圧力強めのおばちゃんから、るるちゃん人形を救出した話。10年経ってるから時効かなって感じだけど。難しい日本語を理解できてる同僚のベトナム人、コミュニケーション能力高そう。
    残り4遍は、順調に転げ落ちてる感じでスリルを感じました。ウリキンカウバを唱えながら跳んでるチアは怪しい新興宗教のようだし、スナックのママさんに椎茸とか干し葡萄、世話になった元従業員たちがお供えしてるのは埋葬シーンのようで常軌を逸してる。恩義も怨みも煮込んでしまえばお腹抱えて笑い飛ばすしかささそうで、ずーと寝ててくださいって感じでした。
    モグラの話では、もうすっかり穴に堕ちちゃってますし、最後の売れないパン屋さんの話は、優先順位わからずに目先の事だけで判断している娘が滑稽に映りました。
    身内の他にかまってくれる人がいる事が新鮮で無性に嬉しいのでしょうね。

  • 今村夏子さんらしい短編集。
    好き嫌いが分かれるのかもしれないけど私は好きです。

  • ここまできたら、今村夏子さんの作品すべてを読みたくなる…!そんな思いで、手にしたのが本作、6編の短編が収録されています(白いセーター・ルルちゃん・ひょうたんの精・せとのママの誕生日・モグラハウスの扉・父と私の桜尾通り商店街)。

    「せとのママの誕生日」は、すごかったぁ…ママの半生を描きつつ、それでも雇われていた女の子たちがママの誕生日をお祝いしてあげようと駆けつけるのは、それだけ慕われていたのか、それとも…。表題作の「父と私の桜尾通り商店街」のラストも意表をつくもので…。

    どれもラストまで、じわじわ~っと不穏な雰囲気になり、それでいて読後それぞれの登場人物がその後どうなったのかなぁ~って思いを巡らせるようになっている…そう感じました。やっぱり、今村夏子さんの世界観は独特で、読めば読むほど虜になります。

  • なんか終わりがすっきりというかスカッとしないなぁ・・・。期待してたけど、ちょっと残念かも。

  • かなり色濃い今村夏子の香りがしっかり散りばめられています(笑) 表題作のほか6編の短編集ですが、すべてが侮れないのですよ♪
    まさに癖になる美味しさ と言うか、好き嫌いが別れる作家ですねぇ。
    で、あんたはどうなの?と問われればたまに食べたくなる味わい、巧みな作家さんです♪

  • 「むらさきのスカートの女」の作者さんの短編集。やはりどのお話も不穏でちょっとブラックで、ユーモアもありオチが気になってついつい読んでしまった。理解不能なオチもあったけどどのお話もテンポよく読めまさした。

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著者プロフィール

1980年広島県生まれ。2010年『あたらしい娘』で「太宰治賞」を受賞。『こちらあみ子』と改題し、同作と新作中短編「ピクニック」を収めた『こちらあみ子』で、11年に「三島由紀夫賞」受賞する。17年『あひる』で「河合隼雄物語賞」、『星の子』で「野間文芸新人賞」、19年『むらさきのスカートの女』で「芥川賞」を受賞する。

今村夏子の作品

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