わかりやすさの罪

著者 :
  • 朝日新聞出版
3.75
  • (48)
  • (82)
  • (54)
  • (15)
  • (5)
本棚登録 : 1252
感想 : 103
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784023318762

作品紹介・あらすじ

“わかりやすさ”の妄信、あるいは猛進が、私たちの社会にどのような影響を及ぼしているのだろうか。「すぐにわかる!」に頼り続けるメディア、ノウハウを一瞬で伝えたがるビジネス書、「4回泣ける映画」で4回泣く人たち……。「どっち?」との問いに「どっちでもねーよ!」と答えたくなる機会があまりにも多い日々。私たちはいつだって、どっちでもないはず。納得と共感に溺れる社会で、与えられた選択肢を疑うための一冊。はじめに1 「どっちですか?」の危うさ2 「言葉にできない」3 要約という行為4 「2+3=○」「○+○=5」5 勝手に理解しないで6 理解が混雑する7 「一気にわかる!」必要性8 人心を1分で話すな9 なぜそこで笑ったのか10 なぜ笑うのか、なぜ笑えないのか11 全てを人に届ける12 説明不足13 「コード」にすがる14 ノイズを増やす15 4回泣けます16 コーヒーを吹くかもしれない17 深いって何だろう18 見せかけの優位19 偶然は自分のもの20 わざと雑にする21 そんなこと言ってないのに22 自分に迷わない人たち23 みんなで考えすぎ24 人はいつもぐちゃぐちゃおわりに コロナ禍の「わかりやすさ」の中で

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • オーディブルで読む。

    そうそう、なんでもわかりやすさを求めるな!と思うんだよね。
    「わかりやすく表現できていないのは頭の中が整理されていないからだ」と指摘されたことがあるが、頭の中をすっきり整理することの危険性っていうのもあるよねって思う。

    わかりやすさを求めるっていうことは、頭の複雑さを手放して、シンプルになることを求めているってこと。それは個人的にはやだな。
    頭の中のモヤモヤは悪いことではない!

    ♪The Mayor Of Simpleton/XTC(1989)

  • 【感想】
    受験戦争、留学とインターン、人生100歳時代のキャリアプラン、新卒からの転職戦略、自己投資、資産運用、早期退職……
    世の中全てが、最短距離を求めている。
    時間がない。貴重な時間を無駄にしたくない。今日の自分は昨日よりも強くなり、一秒でも早く成長することが求められる。

    これが、ほんとうに正しい社会なのか?

    高速化する世界の中では、複雑な話なんて耳に入れる暇はない。わかりやすく、シンプルに、聞き手に100%尽くすつもりで論理的に話す。それが求められ続けている。

    筆者と同じように、私もそんな世界が嫌いだ。
    人間の営みというのは、もっと、複雑で名状しがたいエネルギーに満ちた現象なのではないだろうか。そう思ってやまないのである。

    知的活動が魅力的なのは、自分の中にあった「わからなかった」という気持ちが、遠回りしつつもなんとか形になっていって、最終的に一つの「わかった!」を見出すからだと思う。
    そして、その過程における一番楽しいものは、「わかった!」と感じた時の明快さよりも、頭の中でああでもないこうでもないとウンウン呻っている時ではないだろうか。
    そうすると、「わかる」という現象にあまりにも早く最短距離で駆け抜ける行為は、果たして我々の頭を豊かにしているのか、という疑問が浮かぶ。

    「いいから早く教えてくれ」という願望は、試行錯誤の楽しさから遠ざかる。

    また、試行錯誤ののちに解決に至ればいいものの、当然上手く行かないことがある。迷路に迷い込み、頭がぐちゃぐちゃになり、結局ゴールに至らずに、思考や感情が打ち切りになる場合もある。

    しかし、社会はそのような挫折を認めてくれない。
    間違った道のり、中途半端な行動、誤った判断がますます許されなくなっている。求められるのは単純明快で理にかなった「生産性」の高い行動だけだ(わたしはこの生産性という言葉も嫌いである)。あらゆる活動を圧縮し、空いたスペースに時間を詰め込もうとして、じっくり腰を据えてやるはずの「知的活動」すら単純化されている。

    複雑さを均した平坦な道では、スピードだけが勝因だ。言葉を変えれば、スピードに取りつかれた人間が、自分が勝つために無理やり道を平坦に地ならしした。まるで一番のりだけが一番偉いかのように。
    しかし、そうではない。そこには順位なんて存在しない。短時間で価値あるアウトプットを生み出す行為だけが正義ではない。

    ゴールまでの間に迷子になる行為こそが、尊いものではないのだろうか?

    「わかりやすく」なる世の中が、なんだか気に入らない。そんな人は是非、腰を据えてうめきながらこの本を読んで欲しい。

    ―――――――――――――――――――――――――――――――――
    ※本書のスタンス的に「要約」を作るのはいかがなものか…と思いましたが、書きました。スミマセン…。

    【本書のまとめ】
    1 わかりやすく、簡潔な説明を社会全体が欲している
    あらゆる場面で、短時間で明確な説明ができる人を求められるようになった。答えにたどりつくまでのスピードが速ければ速いほど優れている、と思い込まされるようになった。

    私たちは日ごろ、「そういうことにしておきましたんで」という前提を簡単に飲み込むことによって、いくつもの議論を放置していく。なんでも選択肢にしてしまい、片一方を選ばされている。

    そんな世の中における分かりやすさの罪の一端は、「どうして私にわかるものを提供してくれないのか」という態度だ。そして、「こっちはそっちも理解していますから」という身勝手な能動性だ。

    「わからない」ことは人を不安にさせる。理解できないことに人は耐えることができない。
    だから、人はわからないことをそのままにしておくことができない。

    氾濫する情報のなかで、人は動きを止めて、わかるものだけをわかろうとするようになった。次々と玄関先に情報がやってくるものだから、顧客が偉そうになった。

    考えていることがわからない、といった複雑性が、文化も人間も政治も豊かにする。日々の暮らしに分かりやすい物だけが並ぶのは窮屈だ。
    言葉を溢れてくる思いだけで査定し、「言葉にできないのは考えていないからだ」とする考えを簡単に認めたくはない。人には「言葉にできない」という頭の中の跳躍力があるのだ。


    2 要約主義
    あらゆる思案とは、複雑に絡み合っている状態だからこそ生まれたものだ。だが、このところの風潮といえば、その試案がどのように発生したかなんてどうでもいいようで、とにかく目の前の事象を即座に理解してもらうことが求められる。そのため、複雑な事象がシンプルに加工され、主張は手短に済まされる。
    要約という慣習には気をつけなければならない。簡略化に慣れ、簡略化を急げば、簡略化はよきものとしてどんどん持ち上げられていく。


    3 結論ありき
    今、二者択一が、「二者択一の前に議論をさせておきながら、実は答えが決まっている」に、「わからないことはそのままにしておく」が、「そのままにしておきながら、やりたいように進めてしまう」に変わってきている。本来であれば、素材が決まっていながらも、結論が決まっていない物事に可能性があるのではないか。


    4 他人の心は理解できない
    人が何を考え、何故その行動を取ったかについて、外から完全に解析することはできない。
    そこかしこでコミュニケーションが能力として問われる時代にあるが、他人との関係性でのみ成り立つものを、自分の能力として問われてしまえば、当然、みんながみんな、どうしてその能力が私には欠けているのだろうと悩む。しかし、とにかく無理解を嫌い、意味の分からないものを遠ざける昨今、結果的に個人が理解すべき範囲が拡張され、抱え持つ必要のないものまで持たねばならない。

    今の時代は、ものごとを論理的に理解するため、「偶然」が介入することを嫌う。理解のしすぎは言葉の幅や表現の幅を狭めるだけでなく、偶然を偶然のまま放置しなければ、起こりうる事象が限られるはずなのに。


    5 相手にわかる説明
    相手の立場に立った説明とは、「私」を剥奪してから生まれる。しかし、頭の中で説明を形成するプロセスは、どうしたって個人的なものだ。わかりやすい解説ばかりをしていると、自分はどう思うんだ、と考えることができなくなる。

    「何かを言うことは最後通牒のように行い、実はそれが話のはじまりであることに気が付かないことが多い」。

    人心を、自分の考えを、1分で話してはいけない。わかりやすくしてはならない。複雑さの中にある無数の可能性を探るのが、会話であり文章なのだ。


    6 当事者性の重視
    当事者であるから、その意見を言ってよし。そうでないなら、まずは当事者になってから言って見ろ、そうした意見が増えた。
    今の世の中に生きづらさを感じることが多いのは、よくわからない状況にいる人を「未成熟」だと片付ける人があまりに多いからではないのか。


    7 ベストセラーコード
    今の時代、「その人ならでは」を諦めて、受容してくれる人たちに寄り添うように言葉が選ばれている。「コード」が頒布され、そのコードに基いて言葉が書かれている。没個性をベタに変換する手続きをさっさと終え、多くの人に通用するものを提供しましょうよ、という圧が強くなっている。無意味なモノには触れない、その感覚の高まりがある。

    今は子供までもが、自分の感情に「なぜなら」をつけて日記を書かなければならないという。理由がないことを、思ったままのことを、そのまま言い放ってしまえるというのは、子どもの特権の一つでもあるのに。
    それは、理由なんてなくても構わないという、とっても大切な自由を手放しているのではないか。


    8 わざと雑にする
    世間は、「えっ、だって、そうでしょう?」という声に弱い。「だって、そうでしょう?」という疑問形が、おおよそ「だって、そうでしょう!」として機能する。相手が即答できなければたちまち論破したことになり、オレはアイツを打ち負かしたんたぜ、という実績として積み上げられていく。
    論点がかみ合わないのではない、意図的にズラしているのだ。

    なんでもかんでも単純にして、いちいちしっかり考えることを放棄していては、なにもかもが雑になっていく。「わかりやすいこと」と「雑に考えること」は相反するように思えるが、この2つはときに共犯関係になる。雑に考える土壌が整えば整うほど、その中で、強い意見、味付けの濃い意見がはびこる。雑にしていくことで培養されていくわかりやすさは、積み重ねられた議論を一気に無効化させる。

    9 人はいつだってぐちゃぐちゃだ
    外部とのコミュニケーションを断絶し続けると、内部での絆は強まるものの、限定的な「わかる」の中で相互を褒め合うしかなくなる。結果が見えていないと動かなくなる。同意ばかりを重ね、狭い社会が形成される。

    誰もがハマる爽快感とパンチのあるテイストを目指した文章がメディアに溢れすぎることで、受容するほうの思考力が削がれているのではないか。

    人はいつもぐちゃぐちゃだ。「わかりやすさ」は人間の営みに反している、とわたしは考えてきた。人間は複雑な環境の中を生きている。ならば、複雑なほうに心情を合わせていくほうがいいのではないか。

    結論を出すというのは、そんなに優れたことなのだろうか。そう簡単にゴール地点を探さないほうがいい。しかし、世の中全てがどんどんゴールを急かすようになっている。
    わかりやすさも同様だ。「だって、わかりやすいでしょう」が客を集める。そうではない。戸惑いを表明しないと、このわかりやすさの中に埋もれていく。それを回避したい、とわたしは思ったのだ。

  •  「人の振り見て我が振り直せ」という言い方(?)がある。人様の様子を見ながら、ああなったらイヤだなあ、ぼくにはああいうところはないかなあ。まあ、そんなふうにこっそり思えばいいことが、たくさんある。
     あんまりたくさんあると、「いいかげんにしてくださいよね!」と言いたくなる。   
     で、言ってしまうのが武田砂鉄さんで、ぼくは、この方の、そういう物言いが、結構好きなのだが、「書く」ということの常というか、本質というか、「わかりやすく書く」という呪縛から逃れることは、武田さんも難しい。
     というわけで、自分のわかりやすさは、あの人たちのわかりやすさとは違うという、実に、堂々巡りに似た葛藤に陥ることになる。
     そこを悩んでいると見える、武田砂鉄が、実は、もっと好きなのだから、ぼくはかなりな武田ファンということになりそうだ。
     いろいろ、世間にはびこる「わかりやすい」例について教えていただいて、なおかつ、そこから逃れようとする武田さんの葛藤も読める。なかなか読みごたえがあるというものですね。ちょっと面倒くさいですが。
     ブログでも、意味不明のことを書いています。覗いてみてください。
      https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202104260000/

  • ちょうど今、作者が『100分de名著』の『群衆心理』の回に出演していてわかりやすさの危うさについて言及していたのでこの本を思い出した。

    人は集団になると特に、わかりやすいものに飛びつき思考をやめる、と。耳触りのいいものに慣れてると、理解できないものしたくないものはどんどん排除していくかもしれない。ゾワッとする。

    わかりやすさの罪を考えつつも、作者の意図がよくわからないところも私には多々あり混乱する本だった。でも作者のひねくれてるところ、面倒くさいところが好き。書籍要約サービスへのツッコミには声を出して笑った。

  • 最近、ドラマでも映画でも、展開のわかりやすさと早さが気になっていたのだが、やはり間違いなく、そうなっていると確信した。視聴者が求めているものを、はい、これですよね、と差し出されるあのつまらなさはこの「わかりやすさ」を追求していった結果なのだろう。わかりにくい映画はとんと上映されなくなっている。そのほかにも社会ではわかりやすさというものに縛られていることが多いことを指摘する。世の中、わかりにくいのが当たり前なのだ。

  • わかりやすいことって良いことだと思い、どうやったら相手にわかりやすく伝えることができるのか、ということをずっとずっと考えていて

    そんな中、このタイトル

    わかりやすさに罪ってあるのか?

    と手に取ってみました
    えぇ…?って思う部分があるのと同時に、そんなに簡単にわかってもらいたくないよなぁとも思う

    人なんて、わからないものですよね

    散々わかりやすく相手に伝えること、という本を読んでいただけに、反対意見を読むことは新鮮でした

    片方だけの意見は自分の考えも偏りがちになると改めて思わせてくれた本です

  • 決して分かりやすさが悪いとしている本ではない。他人が押し付けてきたものを少しは疑おう。>少しは自分の頭で考えて判断しよう。という気持ちになる本。
    「分かる!」「わかりやすくまとめました」「私ってこういう人だから」といった言葉に対して「分かりやすいかどうか判断するのも、あなたのことがどういう人間か判断するのもこっちの勝手だから」という気持ちを忘れてはいけないと感じた。自分自身の考えの「主導権」のようなものを他人に明け渡してはいけない・・ただしそうなると、現代の日本においてはめちゃくちゃ生きにくくなるかも・・・なんてことを考えるだけでも一歩、自分を取り戻す方向に進めたんじゃないかと思う。
    「感動する」とされている映画を見て感動して、「コスパが良い」とされている商品を買う。いつの間にかちょろい消費者に成り下がったものだ・・。そういう誰かにコントロールされている生活に満足なら無理に変える必要もないけれど、これって「自分で選んだのかな」と考えるくらいはした方がいい。そういうきっかけを与えてくれる本だ。

  • 表題に惹かれて手に取る。
    万事単純化に関する危険性には同意。
    抽象度の高い事柄を単純軸で語るのは土台無理がある。
    それにもかかわらずメデイアは染み込んだ判官贔屓思考や手放すことができないルサンチマンに足を取られ、「国民」「市民」「庶民」「皆さん」に「寄り添う」スタンスで物事を伝える体。

    抽象度の異なる事柄を一緒くたにし、抽象度を下げて単純化することでこぼれ落ちる事柄の重要性を無視して「正義」を語る。

    「わかりやすさ」「優しさ」が常に揺るがぬ「善」とは限らないよなあ。

    とりあえず私自身は報道で最近必ず盛り込まれる街録つまり「街の声」で世論を拾ったつもりの定型にメデイアの力の低下を感じずにはいられない。

    以前のメディアにも問題は山積だったけれど、先鋭化して権力批判一色になったり、安易な単純化に終始するメディアに疑問。

    武田さんの文章から「正しさ」を纏う攻撃性みたいなものを感じてしまって、残念ながら私が期待したものではなかったです。

  • 理解できないものへの「理解できませんでした」という批判はいつの世の中にもありますが、僕らの世には分かるまで読んだり見たり聞いたりしてわかったふりをしているうちに本当に良いと思えてくる。という文化がありました。これは金を掛けているから元を取らないともったいない、すごい人たちがいいと言っているのだから分からないと恥ずかしい。等というしょうもない意識から分かるまで頭に刷り込むという行為でもありました。少なくとも全然分からんからこれはダメなものである。という事は言っていなかったと思う。
    最近はコンテンツが異常に多いうえに無料に近い状態で、浴びるように作品を鑑賞する事が出来るので、わざわざ分からないものを分かるまで読む、聞く、見るという行為が無駄に思えるのも事実です。
    「分かりやすい」が正義の世の中になっていく、というかなっているのか。

  • テレビの解説、Youtube動画、書籍・映画などのレビュー、自分も感想で「わかりやすい」を肯定として使う場合が多々ある。
    本書はそんな「わかりやすい」が持て囃されると同時に日本語がどんどん「易しく」「わかりやすく」なること、機微や行間のような部分が排除され、受け取る側が想像する余白のない、ストレートで額面通りにキャッチできる伝え方が重宝されてしまう傾向に一石を投じる。

    前半は主に「分からないことはそのままにしておく」余地について語り(ちょっと“わかりづらい”文章が多いかも)、
    後半は実際の出来事を挙げて「わかりやすさ」が「雑」をもたらす危険性(メディアの主張の加工、ネット論客が使う暴力的な断定、表に出してはいけない主張に居場所を与えてしまうこと)について語られている。

    理解までの最短距離と効率化を優先し、「わかりやすくないもの」を理解しようとしなくなった結果、感覚や自分で考える感情表現の選択肢が損なわれ「雑」になっていく危険性について本書で自らに警鐘を鳴らしてみては。

全103件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1982年、東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年よりライターに。近年ではラジオパーソナリティーも務める。
『紋切型社会――言葉で固まる現代社会を解きほぐす』(朝日出版社)で第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞などを受賞。他の著書に『日本の気配』(晶文社、のちにちくま文庫)、『マチズモを削り取れ』(集英社)などがある。

「2022年 『べつに怒ってない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

武田砂鉄の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
濱野 ちひろ
朝井 リョウ
宇佐見りん
ヴィクトール・E...
清田 隆之(桃山...
テッド・チャン
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×