データサイエンスが解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない (朝日新書)
- 朝日新聞出版 (2021年10月13日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022951441
作品紹介・あらすじ
古代史最大のナゾである邪馬台国所在地はデータサイエンスの手法を使えば、北部九州で決着する。畿内ではありえない、その理由を古代鏡や鉄の矢じりなどの発掘地の統計学的分析を駆使しながら、誰にも分かりやすく解説。その所在地はズバリここだと示す。
感想・レビュー・書評
-
魏志倭人伝の記載内容と各地の出土品を照らし合わせ、邪馬台国は畿内ではなく北部九州にあったとする書籍。説得力があっておもしろいし、順当な推定だと思う。ただ、魏志倭人伝の記載が正しいという前提がどこまで堅固なものなのか疑問が残る。
最近は少しずつ変化しているが、日本の大学では、考古学は文系に属する。だが海外ではより学際的で、日本でいうところの理系に属する例も多い。私の副教官だった日本考古の教授から、文系の君たちに考古学なんてわかりっこない、統計を学べ、とよく叱咤された。ちなみにその先生は、邪馬台国なんてありません、とも言っていた(笑)。
考古学は物を扱う、肉眼観察至上主義だとの指摘は、発掘経験者なら身に覚えがあるだろう。私も理学部の友人から肉眼でよく地層がわかるねと皮肉を言われたことがある。確かに分析にかけないとわからないが、日本の発掘の多くは行政発掘で、そんな時間もお金もなかったりする。
昔、恩師との1対1ゼミでなぜか邪馬台国について盛り上がったことを思い出した。ちなみに専攻はオリエント考古学で、専門とはまるで関係がないのに恩師はやたらと詳しく、九州説を主張していた。そして、いくつも理由を挙げた後、最大の決め手は…僕の出身地だからだよ、とカラカラ笑われた。案外そんなものかもしれない。旧石器問題にしろ、邪馬台国にしろ、ナショナリズム的なことと考古学が絡むと複雑になる。
ちなみに、私も九州説を支持するが、恩師の影響という以外に理由はなく、親魏倭王の金印でも見つからない限り、邪馬台国の場所はわかるまいと思っている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
新聞などの報道で畿内説に有利な話が出るたびに違和感を覚えていたその理由が、これを読んで理解できた気がする。
あくまで個人的な肌感覚で九州説か東遷説を推していたところを科学的根拠を述べてくれたというか。
日本の考古学はよくも悪くも文系学問なのかなと感じた。
流石にこの本に書かれているほど、どきっぱり畿内説を否定する気はないし、勇気もない。
読んでいるこちらが驚くほど痛烈に畿内説を切って捨てている。
でも、あれほど数字という根拠でもって九州説を補強できるのは凄い。
読んでいるこちらが理系なので、数字での根拠、誰が計算しても再現できるというその再現性は、つい信じてしまいたくなる。
そう、これは理系の考え方でシンプルに邪馬台国を論じた一冊だ。
この視点が日本の考古学には足りないと、自分もそう思う。
そもそも畿内説の方がマスコミの動かし方や歴史に詳しくない人を取り込む方法は上手い気がする。
もっと九州説も大々的に報じてもいいのになと思う。
最近はやたら畿内説に有利な内容ばかり報道されているから余計に。
意外だったのは、畿内説のお膝元の地域の学者さんたちでも畿内説を否定している人がいた点。
少数派の人たちだろうが、それは心強い部分だった。
数字の根拠があるといえど、多分に九州説にバイアスがかかった本なので、どこまで鵜呑みにできるかは個人の感覚になると思う。
ただ一つの説として読む分には十分に魅力的で面白い本だった。 -
安本美典さんの邪馬台国関係の本はこれまで何冊も読んでいて、結論はいつも同じなのだが、今回はデータの取り方などが違って新鮮でした。
-
テーマは「個のみならず全体で見ることを忘れるなかれ」。
特定の銅鏡の出土数のような定量的指標が軽視され、(とりわけ京大において)慣習的に定性的な評価が重視される我が国の考古学の現状に筆者は危機感を抱いており、邪馬台国近畿所在説を例に統計学的観点から考古学を再考する、といった内容。
筆者の懸念点は考古学に限らず、日常における様々なトピックに共通するものであり、常日頃から「何が正しいか、それはなぜ正しいか」を定性・定量の双方の観点からエビデンス・ベースドに考える必要があると再認識した。 -
いやはや。痛快まるかじり。科学的立場で、邪馬台国を論じるべきだ。
考古学の中には、いまだに権威者がいう説がまかり通っている。だから、捏造事件も起きるのだという。邪馬台国は、データサイエンスで解けば、明らかに福岡であり、朝倉市周辺なのだという。
著者は、「文章心理学」の研究から始まっている。文章心理学とは、文学作品の文章を統計的に分析し、それによって、文体の特徴と作品の傾向や、作家の性格との関連を調べる。「計量国語学会」があり、文の長さが「対数正規分布」に従うという。このような手法により、『源氏物語』は54帖あるが、最後の『宇治十帖』は、作者が違うという。『宇治十帖』は、和歌の引用が少なく、用言の使用度が大きい。心理描写が豊富で、センテンスの長さが長く、ページ数が多い。このような違いは、偶然とは言えない。おもしろいなぁ。こう言うことを研究するのだ。作家によって文体の違いというのは、明らかにある。今なら、AIで、夏目漱石風小説もできてしまう時代だ。それは、文章心理学や計量国語学会が貢献しているのだろう。因子分析法による現代作家の分類もおもしろい。こんなふうにパターン分けができるのだ。日本語の起源についても、興味深い研究をしている。日本語は、いろんな言葉が流入して形成されている。ヨーロッパでは、ラテン語から派生している。『日本語の誕生』『日本語の成立』に詳しく展開されているようだ。
その著者が、データサイエンスとして、邪馬台国の謎に取り組んだ。
この本を読みながら、卑弥呼の時代は文字がなかった。そのため、中国の『魏志倭人伝』などの文献がベースになっている。『魏志倭人伝』の解釈を中心にして、畿内説と九州説の論争がある。それに振り回されている感じがした。重要なのは、卑弥呼のいた弥生中期時代、183年から248年の間に、どれだけの科学的根拠があるのか?ということだ。邪馬台国の畿内説の第一候補の纏向遺跡の規模は貧弱。直接的な対外交流を示すような中国の遺物、特に中国製青銅器、銅鏡の存在が確認されない。卑弥呼に与えた銅鏡100枚が見つからない。また、巨大なムラや墓が見られない。確かに、古墳時代になって、巨大墓が造られるようになった。倭人の武器に矛や鉄鏃があるが、機内では見つかっていない。鉄の鏃は、福岡県からは398個、奈良県は4個だけである。卑弥呼に下賜した銅鏡が畿内で出土する「三角縁神獣鏡」であるなら、中国にもあるはずだが、現在見つかっていない。
畿内説と九州説で、優勢か劣勢かを論じること自体がおかしい。科学は「確実な根拠が提出されているか」「きちんとした証明が行われているのか」を第一に考えるべきだ。
ゴッドハンドの捏造事件は、慣習と前例に頼り、職人芸的な調査(私の眼で確認したという権威者)や推論に次ぐ推論に頼ってきた、日本考古学会が陥った大きな落とし穴だという。恣意的な解釈や強引な主張が平然と行われ、マスコミがそれに追随する。あぁ。日本の権威主義が蔓延っている。
著者はいう「日本では、人々を直接批判することは難しい。なぜなら、批判は、個人攻撃と受け取られるからである」権威者の「直感が、ときおり、事実を超えて評価される」。「考古学の世界では、権威者、制度、組織のエスタブリュシュメントの組織の論理の方が、科学や学問の論理よりも強い。これでは、組織は守られても、学問や科学は守られないと著者はいう。
科学や学問はゲームではない。自説にとって有利に見える事実だけを取り上げて主張する議論では、科学は成り立たない。考古学では、肉眼観察主義と属人主義で成り立っていた。なんでも鑑定団は、鑑定人の肉眼観察主義で、番組が成り立っている。科学的根拠を示すべきでもある。肉眼鑑定主義には、偽物が紛れ込む可能性はいくらでもある。
京都大学教授の考古学の権威者の梅原末治は、「勾玉のいい悪いを決めるのは私です」と言っちゃうんだよね。専門家って、テレビにもよく出てくるか、一体何の専門家かよくわからない。コロナにしても、原発にしても、専門家が、言いたいホーダイで、何らかの意図を持ってマスコミ操縦をしている。
著者は、日本および中国の実例をたくさん挙げて、どうだ。福岡、北九州に邪馬台国があったと説明する。なるほど。だいぶ、ちまたの説に惑わされていたなぁと思った。著者は、いい仕事している。
母親が短歌を読んでいて、尊敬していた著者は、母親の歌を共著として出版している。ふーむ。親孝行な著者である。 -
20220423読了
-
データサイエンスがどうこうより
邪馬台国がどうこうより
考古学の闇のくだりが面白い