- Amazon.co.jp ・本 (504ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022649089
感想・レビュー・書評
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「八日目の蝉」に続き自分において角田さんの2作品目。凄い深いところでのモラルハラスメントがテーマの作品。
読んでて辛い作品だった。読んでいて深く考えさせられた。
男の自分でも思い当たる事が多くある。
モラハラ的な言葉や態度は幾らでも人に与えているのではないか?それは自分を肯定する為にとる態度や発する言葉ではないとは言いきれない。
という事は少なからず自分も一緒だと気付く。
なんだか怖くなってきて、気持ち悪さがつきまとう作品だった。
知らず知らずに与えているであろう数々をどうしていけばいいのか?
わからないまま読み終えてしまった。
楽観的に「自分らしく」なんて言ってられない、だけど「自分らしさ」を大事にしたい自分もいて厄介だが…
うまく言えないが今後の対人関係の中でとても大切なフィルターを一枚追加させてくれた、そんな気がしている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
また凄い本を読んでしまいました。
「八日目の蝉」はずいぶんと前に読んでいますが、そこにも蝉がでてきました。
ここでも。
あまりのことが起こると、
フリーズしてしまう。
蝉の声だけが聞こえてくる。
強烈なイメージとして訴えかけてきます。
そもそも、なぜそのようなことを言うのか、言われたのか。
改めて振り返れば理由はそのとおり。
言った本人も気づかない深層心理を読み解いていくと、判決とは異なる結果が導き出されます。違うのです。
そして、里沙子の分析は恐らく正しい。
現実社会と、それを明らかにできない、わかってもらえないもどかしさ。
なんて難しいのでしょう(この本が、ではないです。この本はわかりやすいです。とっても。)。
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別の本で読んだ内容で:
人は目、耳、皮膚、。。。を持っていて、それがセンサーとなっている。センサーから渡ってくる情報をもとに、目の前の出来事を現実のように捉えているだけだ。
そう、センサーからの情報を分析して頭の中に投影しているだけ。
言い換えると、違うセンサーで見るなら(例えば蝙蝠の耳とか、蝶の舌とか)、私たちと違った世界が見えるはずである。もっと言うなら、隣の人が見ている世界は、実は違うものかもしれない。投影像が、ではなく実世界が、です。
目の前に机がある、というのもただの投影。世界だってあなたの頭の中に投影されたもの。隣の人の世界は別の投影だ。机は存在しないかもしれない。
世界は、頭の中にが投影されているだけだ。
もっというと、時間だって一つの軸にすぎない。
違う時空も捉え方ひとつで見えてくるし、そうして現れ、消えて見えたのが過去の文明であり、外から来た人たちである。
物のとらえ方、概念がとにかく違うのである。
といったような本でした・・・
ちょっと似ている、と思ったりして。
本書の内容も、実際に起きたことと違う結論(=判決)になっていて、途中で自分はどこか違う世界に飛んでしまう(それが蝉なのかもしれないな~)、だからありそう、と感じたのでした。蝉とつながった世界に、違う世界があってそこに飛びたかったのかもしれない。飛躍しすぎかな?
科学で説明できないことはまだまだありますよね。 -
乳児虐待死事件裁判の補欠裁判員となった、主婦の里沙子。自身も幼い娘の子育てに翻弄され、公判が進むほどに事件と自分の境目が曖昧になっていく。その過程がじわじわと怖く、里沙子が事件に自分を重ねていくのと同じように、私自身もまた里沙子に自分を重ね…既に過ぎ去ったはずの、育児真っ最中だった頃の記憶が鮮明に甦った。ワンオペ育児の閉塞感の中、自己嫌悪に苛まれ続けた十数年前の日々が、まるで昨日のように。解説の河合香織氏が、「私はこの小説は自分のことを書いているのだと強く思い込んだ」と述べているが、私自身も全く同じことを感じ、読みながらとても苦しかった。そうなることがわかっているから、大好きな角田さんの小説でも単行本が発売されたときはすぐに手に取ることが出来なかった。向かい合うにはそれなりの覚悟が必要だと。文庫化を機に、ようやく読んでみようという気持ちになった。
裁判員制度についてもどこか他人事のようにしか捉えていなかった自分だが、公判の進み方等ひとつひとつの描写がリアルで、まるで里沙子と一緒に自分も裁判員を務めているような気持ちになった。だからこそ、どんなに息苦しい展開になろうと、じっとりと嫌な汗をかこうと、ページを繰る手を止められなかった。
育児ノイローゼが一つのテーマということは読む前からわかっていたが、「モラハラ」もまた隠されたテーマだということに読みながら気付く。じりじりと心身を蝕む苦しみ。無意識に向けられるからこその恐怖。里沙子や、事件の加害者である水穂に同情と共感を寄せながらも、妻と夫、どちらが白で黒なのか時々わからなくなる。こんなにも善意と悪意が表裏一体なんて、悪意としか感じられないことが、人によっては善意としか捉えられなかったりするものか…と改めて思うのだった。
里沙子と水穂の生き方を辿りながら、自分自身のこれまでも否応なく振り返ることとなった。読後感は様々だと思うけど、出会ったことに意味がある一冊だということは間違いなく言える。私にとって角田さんの小説はどれもそうだけど、特に近年の作品は確実に心を深く抉るものばかりだ。 -
子供を浴槽で殺した事件の補充裁判員となった主婦 里沙子は、裁判で証言に触れるうち、被告に自らの境遇を重ねていく。
感情移入100%と謳ってあったが、子供を育てたことのある母親なら、誰しも一度は思い悩んだことがあるのではないかと思う出来事に触れている。
育児書通りになどまるでいかない育児。
泣き止まない子供。
泣きやませないと夫に叱られるのではという恐怖。
痛いほど共感できる部分もあったが、なにぶん物語が冗長に感じた。
最後の方では大分食傷ぎみになり、すでに満腹になっていた。 -
読み進めるのがとても辛くて一刻も早く読み終えて、この世界から解放されたいと思う自分がいた。様々な後悔がそう思わせるのだろう...。ただ、過去を無きものになどできはしないのだ。背負いながら生きていきますよ、これからも...。
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#読了 2020.6.16
「八日目の蝉」がすごく好きで《「八日目の蝉」「紙の月」「坂の途中の家」が角田光代三大作品》と聞いて積読に追加。
里帰り中に積読読み切っちゃおうと思ってたまたまこのタイミングだったけど、もうすぐ臨月ってときに読むのに適してるのか少し迷った。でも、産後は時間的にも精神的にも読める気がしなくて、エイっ!と読み始めた笑
結論。今読んで良かった!絶対に私が子育てでぶち当たるであろう葛藤を代わりにしてくれたような、事前に一緒に葛藤してくれたような。
同じような場面になったとき、少しでも早く客観的に立ち止まれる気がする。誰かに助けを求めたり、適度にまいっかぁって思ったり、諦めずに自分を応援してあげれる気がする。どんな育児書より私にはこれが合ってたと思う。
それに、その時期の子育てを経験してしまった後では「あー、誰しも母親ならこーゆー時期あるよねぇ。わかるー。でもみんな乗り越えてるから!」って誰かみたいな無神経な神経が働いたかもしれない。そういう意味では、この作品を読むには1番いい感受性のタイミングで読めた気がする。
例えば、母乳が出ない人に他人が「ええー?普通は出るよ?」って言って傷付けることを無神経な悪意レベル1として。
不妊治療してるって知らない人を「お子さんは?」って聞くことで傷付けることを無神経な悪意レベル2とすると。
SNSに「妊娠しました!」って報告を見て、不妊治療中の人が傷付いたら?
世の中には、悪気がなかったとしてもそれはさすがに無神経じゃない?って言葉で人を傷付けるレベル1や、知らないとはいえ色んな人がいるんだから配慮すべきでしょ?っていうレベル2以上に、悪意とも呼べないほどのことがたくさんあって。誰も悪くないのに傷付いてしまうこと、誰のなんの意図もないのに自信を喪失すること、無力感を感じること。時にそれが同じ人の言動で積み重なってしまうこと。言葉を発した人にとってはただの事実だったり、感想だったり、その程度のことに勝手にネガティブな意味を感じてしまうこと。
それを被害妄想だって言う人ももちろんいるだろうけど、別にその人に傷付けられた!憎い!と思ってるわけじゃなく、ただ傷付いてしまうことはどうしたらいいの?って。
そんなふうにとらなければいい、っていう人も多いけど、転んで血が出て痛いのに痛がらなければいいじゃん、ってのと同じで。
誰かがそこに置いたものにつまづいて転ぶとすると、その人にそこに物を置かないで下さいってお願いする。すると、そこにそれを置くのは常識だよ?そんなことも知らないの?って言われたり、時にキレられたりして。更に傷付くことに気付く。そんなことを繰り返すならもうその道通らなければいいやって逃げるようになったのが里沙子であり、私だった。根本解決になってなくても転ばないようにするって目的なら逃げてもいいじゃんって言いたい。自分にも。
角田光代さんの描く母性はほんとにリアルで繊細でまっすぐで。でもだからこそ葛藤があって。あまりにリアル過ぎて気付かないうちにシンクロしていく。
夫婦、子ども、両親、義両親。近い他人、遠い他人。近い血縁者、遠い血縁者。仲良くしたい他人、合わない他人。仲の良い血縁者、合わない血縁者。同じことを言われても許せる人、許せない人。響く人、響かない人。
心配、不安、幸せになりたいなってほしい、無意識、無神経、優しさ、優越感、劣等感、大事にしたいされたい、犠牲心、自尊心、優先順位、常識、正義。
法を犯さない限り、人生において不正解はない。どんな価値観や行動や発言でも自由だ。それぞれの生活があり、人生がある。
いろんな人間関係の中で、いろんな感情を持って、みんな生きてるんだと改めて思う。キレイゴトだけで仲良く健やかに穏やかになんて生きられないよね。
◆内容(BOOK データベースより)
刑事裁判の補充裁判員になった里沙子は、子供を殺した母親をめぐる証言にふれるうち、彼女の境遇に自らを重ねていくのだった―。社会を震撼させた乳幼児の虐待死事件と“家族”であることの光と闇に迫る、感情移入度100パーセントの心理サスペンス。 -
初めての角田先生
幼児虐待の裁判話は重いなぁと思いましたが自経験にも重なることが多く引き込まれました。
幼児を死なせてしまった受刑者と裁判員に選ばれた主婦、それぞれの夫や両親、心理描写が繊細
女性として生きてきて、母親になって自分中心から子供中心の生活になり、思い通りにいかないことが多くて、周りから色々責任のない言葉を言われ、苦しくなってしまうこと。妻もそうだったんだろうなぁ、、、私も愚痴ばかりでいい夫じゃなかったなぁって今更ながら反省。 -
もし、凛ちゃんが死んでなかったら……すぐに抱き上げ、夫が帰って来る前に「先にお風呂に入れた」設定を作り上げていたとしたら。何事もなく済んでいたのか?里沙子が電車で起こしたそれのように。
助けるべきは子どもだけではない。
母親にとって、本当に子育てに恵まれた環境なんてないに等しいのかもしれない。
物的環境が揃っていたって、人的環境が整っていたって大変。とにかく大変なのだ。
子育てをする母親として、いち娘として、息子を持つ母(義母)として、子を持つ娘の実母として。様々な角度から読み取っていったが、誰の気持ちもわかる。
夫の恐怖、わかる。自分が劣っているからという考えに着地してしまうのもわかる。後で考えると何故そんなことを思ったのか不思議になる気持ちもわかる。
共感できる自分がいることを知ってショックさえも覚えたけれど、振り返り向き合うきっかけを持てたと思うことにする。 -
父親、夫としてはある意味衝撃の事実。
声量や仕草等でまさか家族に脅威を与えているなど如何なる良き家庭人でも想像つかないのではないだろうか。
日頃の会話の裏側にある刃の様なやり取りがある日些細なことで表面化してくるのだろう。
愛しながらも鬱陶しく思う子供への感情は親ならば何度も体験する感情だ。「他所の家庭もそうなんだ」と思う安堵がいつしか罪を犯した者との境目を無くして行ったのでは無いだろうか。
ある種言葉にし難い、表に出してはいけないのではないかと言う心の機微を突きつけられた様な思いでした。 -
いつもの作風とは違った作品。救いがない。
男性には理解できないのではないか。
女性でも、立場によっては、ただの思い込みの激しい女性とだけ思って終わりなのではないか。
次読む本は明るいのほほんとした本にしよう。