- Amazon.co.jp ・本 (323ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022618450
作品紹介・あらすじ
「目的はただひとつ、読む側にとってわかりやすい文章をかくこと、これだけである」。修飾の順序、句読点のうちかた、助詞の使い方など、ちゃんとした日本語を書くためには技術がいる。発売以来読み継がれてきた文章術のロングセラーを、文字を大きく読みやすくした新装版。
感想・レビュー・書評
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修飾語句の配置に関する解説は見事でした。
でも彼の口調がちょっと雑でした。
日本語論としても読めます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【感想】
1976年の発売から今にいたるまで読み継がれてきた、ライティング技術の教科書である。
シンプルな内容でありながら、有用なテクニックが盛りだくさんだ。「修飾語は長いものから短いものへ」「意味の切れ目で点を打て」「『が』は逆接のときだけに使え」など、意識すればすぐにでも使える文章術を、文の構造を分解しながら丁寧に解説してくれている。
この本が他の文章読本と違うのは、「名文」を書く技術ではなく、「伝わる文章」を書く技術に特化しているということだ。
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日本の子どもは、読書感想文という、なんのためなのかよくわからない宿題を課せられている一方で、正しい文の書き方は詳しく習っていない。「序本論」や「PREP法」など、ロジカルライティングのノウハウを習ったものの使うのは授業の中だけ、という人も多い。
筆者はこの現状を嘆く一方で、「文法教育が未熟なのは、かっちりとした文法が日本語に定まっていないからだ」と述べ、日本語文法の学術的研究の難しさを解説している。
しかしだからといって、日本語は適当に書いてもいい、というわけではない。
適当に書いても日本語は伝わるかもしれないが、それはツイッターのような単発的な文章においてのみである、と私は思っている。
曖昧さと余韻を言葉の中に含むのが日本語の特徴である。それは短歌や俳句などの短文において特に効果を発揮しやすい。
しかし、文章が500字、1000字と長くなり始めると、日本語が含む「余白」は次第に失われ始める。短文にはあった「雰囲気によって意味を伝える」という効果が薄れていき、曖昧な表現のままでは、段落間の意味のつながりが飛んでいってしまう。
だからこそ、「しっかり伝わる文章」の技術を身につけなければならない。
そして、伝わる文章とは、究極のところわかりやすい文章なのだ。
ロジカルな文章が正義である。大切なのは書き手と読み手がパーフェクトに意思疎通できることだ。基本に立ち返り、「この文章は他人が(子どもが)読んでわかるかな?」を意識して書くだけで、文章力は自然に上がっていくに違いない。
【本書の概要】
本書の目的はただ一つ、読む側にとってわかりやすい文章を書くことだ。
一般の間に、日本語は「特殊」だとか、あるいはヨーロッパ語に比べて「論理的でない」といった俗説がはびこっている。しかし、「特殊な語順」というような全くの誤りであり、それは日本の知識人の知識が西欧一辺倒だからである。アイヌ語、朝鮮語、バスク語や、アフリカ、インド、トルコで話されている言語も日本式の語順が標準である。
あらゆる言語は論理的なのであって、「非論理的言語」というものは存在しない。言語というものは、いかなる民族のものであろうと、人間の言葉である限り論理的でなければ成立できない。
言語とはすなわちその社会の論理である。日本語の論理や文法は、ヨーロッパ語の間尺で計測すれば非論理的であり、その逆もまた然りだ。
【本書の詳細(実践編)】
1 修飾する語とされる語についてのメカニズム
●修飾・非修飾の語を離しすぎない。近くに置く。
「私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った」
→「鈴木が死んだ現場に中村がいたと小林が証言したのかと私は思った。」
●節を先にし、句をあとにする。
「白い厚手の横線の引かれた紙」
→「横線の引かれた白い厚手の紙」
●長い修飾語は前に、短い修飾語は後に。
Aが私が震えるほど大嫌いなBを私の親友のCに紹介した。
→私が震えるほど大嫌いなBを私の親友のCがAに相談した。
●大状況から小状況へ、重大なものから重大でないものへ。
豊かな潤いをもえる若葉に初夏の雨が与えた。(いちばん伝えたいのは初夏の雨)
→初夏の雨がもえる若葉に豊かな潤いを与えた。
2 句読点のうちかた2大原則
① 長い修飾語が2つ以上あるとき、その境界にテンをうつ
病名が心筋梗塞だと自分自身そんな生活をしながらも元気にまかせて過労を重ねたのではないかと思う。
→病名が心筋梗塞だと、自分自身そんな生活をしながらも、元気にまかせて過労を重ねたのではないかと思う。(点で区切られたパーツは、全て「思う」にかかっている)
② 語順が逆順の場合にテンをうつ
大雨の日ではあったが、弟と一緒にプールへ行った。
※この2大原則の他に、筆者の考えをテンにたくす場合として、思想の最小単位を示す自由なテンがある。
「Aが、私が震えるほど大嫌いなBを私の親友のCに紹介した」
→「長い修飾語は前に、短い修飾語は後に」が原則だが、わざわざ短い修飾語を前に出すときは、「Aが」を特に強調したいときである。これは「ここを強調したい」という思想を筆者が持っているからだ。
テンは必要なところ以外にはうつな。
3 漢字とかなのバランス
漢字とかなを併用するとわかりやすいのは、視覚としての言葉のまとまりが絵画化されるためである。
例えば、いまを「今」にするか、ひらがなのままにするかは、前後の漢字とひらがなとのバランスで自由に決めればよい。
「その結果いま腸内発酵が盛んになった」
「閣下がほんの今おならをなさいました」
そして、わかち書きを目的とする(ひらがなばっかが続いてわかりにくくなるため打つ)点はいっさいやらないほうがいい。
4 助詞の使い方
日本語は述語の言語である。
日本語に「主語」は存在せず、あるのは「主格」にすぎないと三上氏は主張している。
The man gave the boy the money.
日本語に訳すと「大人が子どもに金を与えた」だが、日本語の場合、「子どもに大人が金を与えた」でも、「大人が金を子どもに与えた」でも成り立つ。三者は平等な関係なのだ。しかし、英語の場合、三者は決して平等ではなく、必ず主語(the man)が発生する。逆に言えば、何かを強調してはならぬ関係のときでも、常にひとつを強引にひきたてざるをえない文法なのだ。
翻訳調のわかりにくさがここに生じる。
Aが私が震えるほど大嫌いなBを私の親友のCに紹介した。(翻訳調)
先に述べた修飾語の原理原則では、長い方を先に置くのが好ましい。しかし、翻訳調では「〇〇が〇〇を〇〇に〇〇した」という語順で固定されてしまう。
格の順序が別の原則からなっている日本語に、イギリス語の「主語」感覚の語順をそのまま移すから、このような問題が起こるのだ。
●増は鼻が長い――題目を表す係助詞「は」
「は」は必ずしも主語を表しているわけではなく、題目を表しているといえる。「は」は後に来る格だけではなく、前のものにもかかることができる。
突然現われた裸の少年を見て男たち「は」たいへん驚いた。
●カエルは腹にはヘソがない――対照の係助詞「は」
「は」が挿入される場所によって対照が変わる。
私は週末には本は読みません。
→私は週末には本を読みません。(週末と平日を対照)
→私は週末に本は読みません。(読書とその他娯楽を対照)
「は」の数が増えるほど潜在的な情報が幾何級数的にふえてゆくので、正確な日本語のためには、一つの文では3つ以上の「は」をなるべく使わないのがよい。
●来週までに掃除せよ――「まで」と「までに」
列車が名古屋につく「まで、までに、までで」雑誌を読むのをやめた。
まで→そのあいだずっとやめていた
までに→最終期限。名古屋につく以前に読むのをやめた
までで→ある点まで続けて辞める。名古屋につくまで読み続け、ついたときにやめた
●「そして」の意味の、単純接続の「が」
「が」は、順接にも逆接にも使えてしまうがゆえ、細心の注意を払って使わなければならない。基本的には逆接接続のときだけ「が」を使うこと。順接まで使ってしまっては読み手が混乱する。
5 段落
段落は思想のまとまりである。適当に改行してはならない。基本的文章を読んで、パラグラフの中の構成をどうしようかという感覚を持つことが大切だ。
6 無神経な文章
●紋切り型の文章
嬉しい悲鳴、そんじょそこらの、穴のあくほど見つめる……など、使い古されて手垢で汚れた表現を多用する文章のこと。紋切り型、つまり通念化をしていては、その奥にひそむ本質的なことを見のがしてしまう。
●繰り返し
語尾や接続詞のパターンに乏しい文章。です、である、だ、を多用する。
●体言止めの文章 -
「事実的」文章を書くうえで、読み手にとってわかりやすい文章を目的と定めた作文技術を説いている。1974年に市民講座で行われた講義が元になっている。
全九章のうち序文相当の第一章を除く第六章までが、修飾の配置・句読点・漢字とカナの配分・助詞の使い方といった一文単位で表れる基礎的な内容で構成される。第七章以降の終盤は、段落分けの考え方、六種の「無神経な文章」の例、「リズムと文体」といったように、対象が一文単位から文章全体へと広がり、徐々にやや上級者向けとも取れる内容に移行する。
服部文祥さんの『サバイバル家族』のなかで、著者が子どもたちに文章技術を理解させるために本書を利用しているというエピソードを目にしたことが読むきっかけになった。「名文」を書くには才能が必要だが、わかりやすい文章を書くことはあくまで技術の問題だとする筆者の主張に引きつけられた。
基礎的な項目のなかでは、序盤の二章が費やされる「修飾」「被修飾」を中心とした言葉の順序決めの基準が特に参考になる。それと関連して読点の使い方についてもより適切に改めたいと思わされた。終盤に示される、書くに当たって避けるべき悪しきパターンやあるべき考え方にもいちいち頷かされる。そのほか、「紋切型にたよることは本質を見のがしやすい」、「名落語家は自分では笑わない=筆者がいくら美しいと感嘆しても何もならない」、「わかりやすさと長短とは本質的には関係なく長文のほうが実力差が表れやすいだけ」などといった個別の忠告にも見所が多くあった。
自分の文章の欠点に気付かされるだけでなく、読み手として何となく感じていた読みやすさ(読みにくさ)の理由を論理的に理解できた。半世紀近く前の著書だが古さを感じさせず、今後の指針となりうる情報を多く得られた。読み進めるとともに、作文は「建築技術と同じような意味での「技術」なのだ」とする筆者の主張を実感する。信頼に足る作文指南であるとともにモチベーションを向上させてくれる良心的な著書だと思える。 -
自分が普段から無意識に心がけていたことと一致していて、とてもうれしくなった。
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ポイントまとめ
・修飾語の離れすぎはNG
・節(一個以上の述語を含む復文)を先に、句(述語を含まない文節)を後に(横線の引かれた / 白い / 厚手の / 紙)
・長い修飾語は前に、短い修飾語は後に
・大状況から小状況へ、重要なものから重要でないものへ
・""(ヒゲカッコ)は「本当はそうではない」や「いわゆる」の意味で使われる(ex."進歩的"なジャーナリスト)
・長い修飾語が2つ以上ある時、その境界にテン(読点)を打つ(ex.本当の裁判所で裁判を一度も受けたこともないのに、/ 十五年もあるいは三十年以上もの長い期間に渡って / 投獄されているという〜)
・重要でないテン(読点)は打たない
・語順が逆順(長い順ではない)の場合にテン(読点)を打つ
・一つの文章の中では助詞の「ハ」は最大2つまでとするのがより良い
・段落は一つの思想のまとまり、単位である
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私の日本語は、どうも日本語らしいレベルで日本語のルールに沿っていない。まずテニオハがうまく使えなかった。ブログを書いていた時に、知らない間に「句読点」を打たずに「スペース」を文の区切りに使っていた。その方が句読点を打つかどうか悩まないでいい。
普通の文章をかけないかなぁと困っていたら、この本を勧められた。私はなんとなく本多勝一が好きではなく読んでない。好きではない理由が見当たらないが、波長が合わない。でもいつまでも、日本語らしくない日本語を書いていては様にならない。
とりあえず読んでみた。本多勝一は日本の教育で「作文の技術」について系統的に教育していないという指摘はなるほどと思った。そういえば、句読点をどうつけるかということは学ばなかった。
本多勝一は「目的はただひとつ、読む側にとってわかりやすい文章を書くこと、これだけである」
2つ目の句読点が、なんとも言えず渋い。私はつけないなぁ。
確かに「名文」や「うまい文章」は書く必要はない。わかりやすい文章を書きたい。
日本語が非論理的文章だということに対する本多勝一の反証はおもしろい。「西欧の論理で日本語を計測するという大過を犯した」と本多勝一はいう。英語的文脈で考えることで、日本語の文章を構成しようとしたというのはなるほどである。
修飾の順序は、大きいものから小さいものへ、重大なものから重大でないものへというのは、たくさん例があってわかった。それにしても、大江健三郎の文章は悪文だ。
句読点の打ち方は、大変参考になった。私はテンをうちすぎだった。「テンというものの基本的な意味は、思想の最小単位を示すものだと定義する」 うーん。なるほど。これを実践の中でどう生かしていくかだね。結局声を出して読んでみれば、わかるということだ。黙読ではわからない。
かならず理由のあるところ、それだけにうたれているのだ。
日本語には「主語」は存在せず、「主格」にすぎないという説もおもしろい。
この本では第3章、第4章が特にシャープでいい。第8章の「無神経な文章」が、本多勝一のこだわりかな。第9章の「文章のリズム」というのもなるほど。でも説明がくどく、ウザイ文章も多い。
漢字とカナの関係は、日本語とは視覚を大切にした文を書くことに適しているということだ。送りがなも美的感覚の中にある。いやはや、本多勝一はいいこと言っている。食わず嫌いはよくないなぁ。
確かに、この本は文章を書く人の必読本だ。さて、この文章の中のテンはうまく使えているだろうか。知らぬまについたクセは、治すのが難しいなぁ。 -
ちょっと気をつけて読んだ方がいい本だろう。
いいことを言っている部分も多いが、首をひねるところも多い。
語順の話はだいたい合っていると思うんだが、それは一つの文章だけを見たときのこと。複数の文が組み合わさったときはもう少し考えないと。
この本に書いてあることを盲目的に信じるのは危険だろう。自分の頭で判断して採るべきは採る、という姿勢でいかないと。
たとえば、後ろのほうにでてくる、谷崎潤一郎が素人の文章を直したものを「さらに私(本多)が改良すると」というところ。これは谷崎のもののほうがよい。(それぞれ主題のことなる文が連続しているのであるから、主題と述部を近づけるという原則を機械的に適用するのではなく、文の先頭に主題を起き、主題が変わっていることが読み手にすぐわかるようにするほうがよい)
あと、文意を変えることなく、語順を入れ替えたり、能動・受動を裏返したりということができる、と考えているような点も気になる。自分は、「彼は私にこう言った」と「私は彼にこう言われた」というのは、やはり意味が違うと思う。言い換えるとおかしくなるときもあるはずだ。
記号の使い方も自分には抵抗のある部分がある。特に、「外国語の単語を区切るには = を使う」というやつだ。昔、国語の教科書によく出てきていた「=」という記号、なるほど支持する人がいるからああいうことになっていたわけか。
しかし、
ホー=チ=ミン・ジョン=F=ケネディ・毛沢東の三人
などと書かれても、クラクラするだけだ。(これは、冒頭の註に書かれている例)
ホー・チ・ミン、ジョン・F・ケネディ、毛沢東の三人
の方がずっとよい。切れ目がわかりやすいので。
「、」を「並列」「列挙」の意味に使うのをやめ、その目的には「・」を使う、というのが彼の主張だ。「・」を「列挙」に使うため、「外国語の区切り」の目的には「・」ではなく「=」を使う、と。それはわかるが、読みやすいかどうかをよく考えろ、と言いたい。
逆に、全面的に信じてよさそうなのは、読点の打ち方の説明。変な点を打つと文の意味がとれなくなる、というところの説明はまったくそのとおりだ。
また、彼自身が「打ってはならぬテン」をまったく打っていないのはさすがだ。
ただ、彼の原則に従うと、テンが比較的少なめになるように思われる。(自分はもう少しテンが多い方が好きだ) 「打ってはならぬテン」については賛成だが、「打ってもよいテン」をどこまで打つかについては、意見が分かれるということか。
英語(彼の言うところの「イギリス語」)を貶めるような発言もどうかと思う。冒頭のほうでは、日本語が非論理的であるという巷の意見を否定して、どの言語がよくてどの言語がわるいということはない、と言っていたはずなのに。
「イギリス語のあげる悲鳴」などというくだりは噴飯ものと言うしかあるまい。(英語苦手だったんだろうねぇ、この人)
しかしまぁ、それをまた解説を書いているひとが賛同しちゃっているというところがバカバカしい。
しかし、いちばんいただけないのは、最後のところに出てくるレポートの書き方のところではなかろうか。
これは、人をはめるときの物の書き方だ。
全体として、よいことを書いてあるところも多いのだが、変な部分も多い。まったくダメであれば、誰も読まないだけなので、かえってそのほうがよかっただろう。
よい部分を読もうとしてこの本を手に取った人が、悪い部分まで真似してしまうとしたら、危険なことだ。そちらのほうがこわい。ましてや、日本語を勉強しようとしていただけなのに、ついでに「イギリス語」「合州国」なんていう変な思想まで学んでしまったら、それは害悪だと思う。
・・・なので、星1つを減じて、2つとした。 -
長い修飾語は前に、短い就職語は後ろに。
なじみの強弱による配置転換。
大状況から小状況へ。
長い修飾語が2つ以上あるとき、その境界にテンを打つ。
語順が逆順のとき、テンを打つ。
紋切り型とは、誰かが使いだし、それが広まった公約数的な便利な用語。ただし、古臭く手垢で汚れている言葉。
安易に使われやすい。マンネリな文章になる。
落語家は笑いのときは、自分は笑わない。まじめに、真面目を感じさせないほど自然にまじめに。
書く人が面白がっていては面白くない。美しい風景自体は美しいといっては美しいと感じない。
読者を怒らせたいとき、泣かせたいとき、感動させたいときも笑いと同様、書く人は淡々と素材を出すだけ、起こったり泣いたり感動してはいけない。
体言止めの多様は下品。 -
読む側にとってわかりやすい作文技術を示した本です。
第2〜第4章の内容は特に印象に残っています。
わかりにくい文章になる理由については、入れ子構造になっているから、と端的に書かれています。この入れ子構造を少なくするために各章を正しく理解することが大事だと感じました。