- Amazon.co.jp ・本 (152ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022516596
感想・レビュー・書評
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あなたは、出かけていった家族が何年ぶりかに帰ってきたものの、こんな事態に遭遇したとしたらどうするでしょうか?
『要はどう見ても別人が帰ってきた』
(*˙ᵕ˙*)え?
家族といってもさまざまな事情で離れ離れになることがあるでしょう。特に地方から都会に就職して忙しさの中に帰郷も叶わず何年も時が経ってしまった…これは普通にありうることだと思います。よく聞く話とすれば、帰郷すると、結婚の話を持ち出されることを避け、帰郷せずにズルズルと何年も経ってしまった、これも珍しくはないでしょう。さらには何らかの事情で姿を消す他なくなり、結果として長い時が経過してしまった、そんなこともあるかもしれません。本当は会おうと思えばいつでも会えるはずの環境、だからこそ逆に会うことがなくなる、残念ながらそんな皮肉な関係性は今の世だからこそ珍しくないのかもしれません。
一方で、本人たちの意思に反して会うことが叶わない、そんなことが過去にはありました。戦時中、赤紙によって召集された人たち、そんな人たちが出征していくその先の関係性です。居場所さえ伝えることの叶わない環境。戦場という過酷な環境の中においては、人はその顔立ちをも変えるような苦難の時間を過ごすこともあったのだと思います。それは、戦争を知らない私たちには想像だにできないこと、改めて平和の大切さを感じもします。
しかし、しかしです。そんな厳しい環境下にいたとしても整形するでもなければ人相というものが大きく変容することはないはずです。『要はどう見ても別人が帰ってきた』というようなことがあるはずがありません。
さてここに、そんな考え方を突き崩すような事態を描いた物語があります。出征して復員してきた男性の顔は、『以前の自画像を横に並べて十人に見せたらまず十人全員が別人であると言い切るであろうほどに、似たところなどひとつもない』という変容を見せます。『どこかがちがっている、なにかしら違和感がある、といった生易しいものではな』いというそんな男性に隠された真実を探る主人公が視点の主を務めるこの作品。そんな男性の生き様を知れば知るほどに困惑する主人公を見るこの作品。そしてそれは、そんな男性に見え隠れする真実の中に「如何様」という言葉の意味を噛み締める物語です。
『ああ、ごめんなさい、記者さんって伺いましたものですから、わたくし、榎田さんのようなかたがいらっしゃるんだとばっかり』と迎え入れられたのは主人公の『私』。『アトリエ・ヴェルデ』と看板のかかった『長屋じみた』建物でそんな『私』に微笑む平泉タエは、『そんなにお若くて、記者さんで、そのうえ探偵さんだなんて、大変でしょう』と続けます。『タエの夫である貫一の両親は外出をしていて家にいないようだ』と思う『私』は、『さっそく取材を始め』ました。『水彩画家である平泉貫一は先の大戦の末期に出征し、一度部隊に入ったのち体を壊してごく短い間のみ医療施設に入所』、『終戦後は一旦捕虜として収容され』、『復員』してきましたが、『他の復員者よりずいぶん月日がかか』りました。『各種証書を携え元気で戻ってきた貫一』のことを『そりゃ、まあ、帰ってきたのはもちろん、とても嬉しかったんですけど…』と『言葉を濁す』タエのことを『無理はない』と思う『私』。『出征前に一度だけ見合い』の場があったとはいえ、『当時十七歳で東京に来たばかりだったタエは、その際貫一の顔』を『ほとんど見ることができてい』ませんでした。そして、『タエがひとり上京してきた際すでに貫一は出征してしまっていた』という展開。『大変な申し訳なさ』を感じる義父母は『貫一の復員をしばらく待っても、希望が薄いと判断したら私たちのことは気にせず郷里に帰ってかまわない』と『ことあるごとに言って』きました。しかし、そんな申し出に『今更出戻ったとてどうなるものでもない…婿の探しなおしだと嫌味を言われるのも癪』とタエは『せいせいした様子で言』います。そんなタエのことを『さっぱりした強さと、それに由来するように思えるどこか愛嬌めいたものを持ち合わせてい』ると思う『私』。そんな『私が調べるよう頼まれている一連のことというのは、復員した貫一について』でした。『ただひとりで汽車に乗り歩いて帰ってきたという』こと自体は、『めでたい奇跡』とはいえ、『問題だったのは、帰ってきた貫一の姿』でした。『出征前の貫一の写真と現在の彼の姿は、普通に考えたらまったく似ても似つかぬ、むしろ完全な赤の他人であってもこれより似せることは簡単であろうというほどのちがいよう』でした。『要はどう見ても別人が帰ってきた』という状況は、『どこかがちがっている、なにかしら違和感がある、といった生易しいものではなく、なにひとつ似たところが』ありません。しかし、『復員詐欺が横行していた』という状況下にも関わらず、『家も財産も焼けてしまった、こんなすってんてんの家に来たところで詐欺のしようもない』という中に貫一は両親やタエの元に受け入れられます。しかし、『現在はふっつり、どこかに姿を消してしまっているらしい』というそれから。そして、『あれはもうまったくの別人』という、出征前から貫一と懇意にしていた榎田の依頼を受けて、『(彼が言うところの替え玉)事件』について調べる『私』の『取材』の日々が描かれていきます。
“敗戦後、戦地から復員した画家・平泉貫一は、出征前と同じ人物なのか。 似ても似つかぬ姿で帰ってきた男は、時をおかずして失踪してしまう…復員した貫一は「本物」なのか?そもそも「本物」とは何なのか?いま最も注目される作家が到達したミステリアスな傑作”と内容紹介にうたわれるこの作品。”まがい物あるいは偽物”という意味合いをもつ『イカサマ』という言葉。この作品の書名を見て、そんな言葉が漢字で「如何様」と書くんだ!と漢字の勉強をしてしまった私(笑)。そんな作品は書名そのままに怪しさ満点の物語が展開していきます。そして、一つのポイントはそんな物語の舞台が戦争を感じさせるところです。では、そんな時代感溢れる描写を見てみましょう。まずは、『出征』という如何にも戦争を思わせる事についてです。
・『終戦間際の兵員不足を受けて、当時基本的には十九歳の男性全員を対象とした検査がおこなわれ、そうして丙種合格までも召集が今とはかかった』。
→ 『初年兵の教育が主な目的である場では、数年目の兵卒が新兵の教育をするが、そのしごきはほとんど虐待とも呼ばれるほどのことがままおこなわれた』、『体の弱い新兵卒は、厳しい訓練に逃げようとする者、体調を崩す者が多かったという』。
これは、『私』による『取材』の中で貫一が一時期所属した部隊の部隊長による証言ですが、伝聞ではない戦後直後のリアルさを感じさせます。『丙種合格』といった表現含めあの時代を想起させます。また、そんな戦争というものが日本人の心にどんな影響を与えたか、高山さんは登場人物の言葉にこんな思いを重ねられます。
・『日本人の全員の精神が一度、大きい力で一個のぐちゃぐちゃにされてから玉砕してさ、そのあとまぜっかえされてまたバラバラの人間にされた』
→ 『なにが変わっただのなんだのと言っちゃいられないよね。頭数さえ合ってりゃまだましなほう』
これはかなり強烈な表現だと思います。『玉砕』という戦争ならではの表現を『精神』に重ねるというのも凄いですが、そうであるが故に本物か偽物などということ以前に『頭数さえ合ってりゃまだまし』という言葉の説得力。これは、舞台を戦争直後にしたからこそのものだと思います。
そして、次は今の世では考えられないタエの身の上に起こったことを取り上げてみましょう。
・『出征前に一度だけ見合いを通して軽く挨拶の席を設けていたものの』、『当時まだ十七歳で東京に来たばかりだったタエは、その際貫一の顔はもちろん、平泉家の人間の顔さえもほとんど見ることができていなかった』というタエ。『祝言にいたっては、その日どりの電報に行きちがいがあって、タエがひとり上京してきた際すでに貫一は出征してしまっていた』。
→ 『ほとんどなにもわからぬまま寡婦同然になり、嫁ぎ先で焼け出された』
顔をほとんど見ることもなく結婚に至り、『電報に行きちがい』で会うこともなく妻になったという展開は、今の世からは意味さえ通じない感覚です。しかし、逆に考えればそんなタエは出征前の貫一を知らないことになります。そこにこんな感覚が生まれていきます。
『今になってその、前の平泉とやらが本物ですと帰ってきたところで、わたくしはとっても困るんだろうなあって思うんです』。
『替え玉』事件を『取材』する『私』からするとなんとも微妙な思いを抱かせるタエの思い。出征前の夫を知らず、今の夫を本物と信じるしかないタエの複雑な胸中を感じさせます。
そんなこの作品では、貫一という人物をさらにわからなくしていきます。それこそが、貫一が携わっていたとされる仕事の内容です。
『どんな国の旅券も証書も実にうまく作りましたよ』
しかもそんな貫一は、
『かつらや帽子、眼鏡など様々なものを身につけ、肌の色を塗り替え、時には女装もしながら、毎日別人のように姿を変えて作業にあたっていたらしい』。
というように、『肖像画の描き手がその顔をしている』という姿を見せます。
『なんにせよ、僕は貫一くんの本当の姿なんて、すっかり忘れちまっているんですよ』
戦地においてそんな姿をしていたという貫一。そんな貫一の姿、貫一の本当の姿を『取材』していく『私』の物語は、本物とはなんなのか?偽物とはなんなのか?そんな思いを読者に抱かせていきます。そして、物語はミステリアスな雰囲気を増していく中に終わりを告げます。そこには「如何様」という書名の意味を読者に問う物語が描かれていたのだと思いました。
『人は、まったく同じものがふたつ以上あると、ひとつを本物、残りを偽物と決めないと落ち着かない生き物なのかもしれませんね』。
私たちが日常を生きていく中では本物と偽物ということをどんな場面でも意識するように思います。本物が正義であり、偽物が悪であるというその感覚。この作品では、そんな単純な割り切りについてこそを問う物語が描かれていました。戦後の空気感が伝わってくるなんとも言えない時代感に魅了されるこの作品。帰ってきた貫一に隠された真相を追い求める『私』視点の物語に、ミステリアスな雰囲気感を楽しめるこの作品。
「如何様」という書名が形作っていく独特な雰囲気感の物語世界に次第に魅了されていく、そんな作品でした。 -
表題作の「如何様」と「ラピード・レチェ」の二篇を収めた一冊。
どちらも最後はなんだか気分がすっとする、爽やかとまでは言い難いが、表現しがたい喘ぎを、のめり込みすぎて呼吸が止まっているような苦しさを和らげてくれるようなお話でした。
何にしても「如何様」というタイトルが秀逸。
様々な意図が込められているのはもちろん、この物語で言いたいことを全て表しているかのような、それでいて、さあ、でもこの出来事ってイカサマかしら、どうでしょう?と問いかけられているような。そんな題。
とても読みやすくて一気に読めてしまうのに、いい意味でどっしりとした読み応えだった。
以下ネタバレを含むので、気になる方はご注意を。
舞台は戦後間もない日本、主人公の「私」は知り合いの榎本から、兵役から帰ってきた知人の画家・平泉貫一が別人なのではないか。調べてほしい。という依頼を受けた。
まずは手始めに貫一の家へ。
しかし貫一の両親も判然としない答えしかせず、妻のタエにいたっては戦争に行く前の貫一と会ったことすらない。
他の貫一と接触したことのある人物たちに話を聞くも、貫一の顔をまともに判別できる人間はいなかった。
そんな中で戦時中貫一が所属していた部隊の木ノ内が語る貫一像が、そしてその後の展開が、物語にますます深みを与えていく。
画家として、いや、人として、貫一、お前は何者だ。
それが気になって仕方ない。
作中では結局人物像しか分からず、一度も姿を表すことも声を発することも無かった貫一。影も形も見せることなく、読者である私を魅了する貫一。
最後のタエと主人公との語りはとても胸のすくものだった。
しかし、誰も戦争に行く前の貫一と現在の貫一が同一人物なのか判断できない中、貫一がタエにお札になぜ人の顔が描かれているかの理由を教えているところが印象的だ。
「人の顔というものは、人間がいちばん違和感に気がつきやすいものなんですって。特にその国の人間ともなると、元の顔を知らない場合でも、その人が不機嫌なのか、笑っているのかすらわかるようになっているんです」
なんという対比だろう。
貫一はどんな気持ちでタエにそのような話をしたのだろう。表紙の、ぐちゃりと分厚く絵の具を重ねた肖像画を見ながら思う。
本物か、偽物か。
そもそも本物とは。
人間に関して言えば、人1人のうちにも多面的なその人なる性質があり、しかもそれは環境や時の流れによって様々に変化していく。貫一ほど極端でなくても。
それでは本物とは一体。
たとえモノでもヒトでも動植物でもなんでも、この世の物は生々流転としている。
著者である高山さんの答えは、物語の最後に表れているのかもしれない。
ちなみに私はこのラストのおおらかなシーンが好きだ。
もっと穿った見方をしようと思えばいくらでもできるのだろうが…だからこそ、いろんな人と感想を語り合いたくなる、胸に残る作品だった。
ラピード・レチェの方は、レチェで牛乳ということは、スペイン語圏の国を意識したのでしょうか。
スポーツに疎い私、途中で主人公が教えている競技が駅伝と気づき、ああ!!となる。
駅伝はチーム戦であるが故に、個人では味わえない喜びと苦しみがあるのだろうな…
何気なく、けれど自身で選び取ってかの国にやってきて、アレクセイと出会った主人公。
自分という漠然とした何かを、他にも大事な何かを、きっと日本に帰る頃にはもっとハッキリと掴み取って進んでいくのだろう。そう思わされる微笑ましい、素敵な終わり方でした。
高山さんの著作を読むのは2冊目だけれど、今のところどちらもとても心に残る。
他の作品もぜひ読んでいきたい。 -
タイトルは、如何にもな、ダブルミーニング。
更に、この表紙のデザインで、明らかなメッセージ性を感じる。
「如何様」は、本物と偽物についての問いを絶えず、投げかけられる。最初は、私自身が戦争を体験していないし、想像すら出来ないものであるだろう故の、それなのかと思ったのだが、読んでいくうちに、そうでは無い気もしてきた。
水彩画家の「平泉貫一」は物語の中で、所謂、贋作を姿形から志向まで、その本物の人そっくりに成りきって作るのだが、それに対する真剣さがどれだけあろうとも、贋作は贋作だと思う。
しかし、それを欲しいと心の底から思う人の視点に立てば、贋作ではなくなる可能性もあるのだろうか?戦後という時代設定も含めると、価値観も変わりそうだし。ただ、こう書くと、結局は人それぞれの受け取り方の違いだけであるようにも思える。
物語は、貫一が本物なのか偽物なのかを探ることを主体にしているのだが、妻の「タエ」の言動を読んで、これは主人公の「私」が、貫一の謎探しを通して、実は、本物の私自身を探しているのではないかと、思えました。
そこには、他人同士なのに、同じ心地よさ、雰囲気を感じられることで、本物であるような感覚をもって、そこに安心感を得る。それが私なのだと実感している様子は、見た目や外見はあまり関係が無いようにも思えてきて、それもちょっと違うような不思議で怖い感じがしました。ただ、個人的にはやや信じがたいが、スピリチュアルな感じも含めると、そういった繋がりもありそうで、興味深い。読む人それぞれに異なる考え方が出てくるような、自分の周りの世界観を覆される作品です。
それから、もう一つの作品「ラピード・レチェ」について。こちらも自分探しというテーマが似ているようにも感じる、異国を通しての視点が、また興味深いです。ただ、駅伝の情緒はなかなか伝わりづらいのかな・・ -
先日、芥川賞を受賞した高山羽根子の前作。高山羽根子の作品には、どこか不安にさせるような足元がぐらぐらした感じと、ぱっと広がる美しい情景、とこの二つが特徴。
たとえば、「オブジェクタム」の最後のでは不安ばかりが目立ち、
復員した画家の男が本物かどうか、というと、どうしても「犬神家の一族」のスケキヨを思い出してしまう。スケキヨも顔がアイデンティティを証明しえない場合、どうやって証明するか、という問題だったが、今回もまったく違った顔の人物をどうやって同一人物と証明するか、というのが、問題。
作風がまったく一緒だからということで同じである、と美術評論家は確信するが、そもそもその男が贋作を得意とし、どんな作品でも模写してしまう、のである。そうなると、そもそもその男は誰かを模写していたのではないか、本物ってなに?となり、ほら気持ち悪くなってくる……。このぐらぐら感は、PKディックと同じぐらぐら。 -
具を殆ど乗せずにスープと麺で勝負しに来てる支那そばみたいな一冊。
イカサマが抜群に面白かった。平泉何者よ?!っていうストーリー性の高さも去ることながら、とにかく文章に無駄がない。冷淡にすら感じる。ただ、展開や感情を客観的に説明してばかりいるわけでもなく…うまく言えないけどその匙加減がとても好み。賛否あるかもしれないけど、理系の男性好みの小説じゃないかな。 -
これで高山羽根子の現在出ている本はアンソロジー以外読んでしまった。
個人的には、オブジェクタムほどではないが、この本は悪くなかった。
高山羽根子はファンタジーあるいはSF的な要素を取り入れて書くことが多いが、この本に入っている2作品とも、状況も時代も比較的リアルに描かれている。
味わい的にはカムギャザーに近いような。
表題作は本物と偽物について書かれた物語。
復員してきた男が本当にその人物なのか?という話だとスケキヨさんを思い出してしまうが、そういうスケキヨさん的なおどろおどろしい話ではなく、本物と偽物ってホントに違いがあるの?ということを考えさせる話。妻のタエさんと語り手、タエさんと復員してきた夫の交流をもっと書いていたら、より大衆に訴える物語になっただろうが、それをしないのが高山羽根子というか。
もうひとつの「ラピード・レチェ」は外国(ロシア?)に「前にいるプレーヤーの首に、できるだけ速やかにスカーフを巻く、東洋で開発された競走」を教えに行った日本人女性と現地人男性との交流を描いて、なかなかあたたかい作品なのだが、その競技が何かとか、ちゃんと書いてないところが高山羽根子。読めばわかってくるところが面白い。
これは結構良かった。 -
戦時中の特殊部隊とか、どこかの国の駅伝?の指導者とか、どうも作者のフィクションっぽい。でも主人公の感覚は現代的で理解できる。
説明の足りないもどかしさ、ふわふわしてる感じが心地よい。 -
『人の顔というものは、人間がいちばん違和感に気がつきやすいものなんですって』―『如何様』
どこへ流れていくのか。手探りで読み進める内に主人公の輪郭が急にぼやけ、ミステリーの展開に終末の気配が漂ったところで物語は閉じる。人は何を他人に見て、他者を独立した存在として認識するのか。ひょっとして永遠に認識することなどないのではないか。訳もなくそんな疑問がわいてくる。
朝起きて、自分を自分と認識することの不思議さ。もしかすると人間は自己という認識を余りにも当たり前のこととして捉え過ぎていて、その確かさを無意識の内に他者の存在にも期待し過ぎるのではないか。他者が他者であることの証明を求めるのと同じ真剣さで、自分が自分であることの証明をしようと試みれば、自己というものの危うさに急に躓いてしまうだろう。
その時頼りになるものは記憶なのだろうか。その論理の展開の背景には記憶のデジタル化という考えが潜んでいるだろう。記憶はデジタル化された事実の塊に置き換えられ、照合されて真偽を問うことができる、という暗黙の考えが。しかし記憶はもっとずっとアナログなものであり、複合する入力情報を単に保存するというよりは、別の記憶の文脈の中で読み解いているだけに過ぎないとも言えるのではないか。よく言われるように記憶は容易に書き換えられる。しかし書き換えられても自己が自己であることに大した支障があるわけではない。そうであるならば他者が他者であることに何の証明が必要だというのか。
不思議な手触りのする短編を読みながら、空想科学小説にありがちな記憶の移植や書き換えということの裏に潜む、自己認識の傲慢さを沸々と考える。 -
「如何様(イカサマ)」(高山羽根子)を読んだ。表題作と「ラピード・レチェ」の二編収録。
「如何様」は、タエの飾らない明るさと芯の強さに救われる。
「ラピード・レチェ」はやっぱりアレクセイの押し付け感のない存在感につきる。
今回はどちらも高山さんの優しい目線がものすごく好き。
読みたい本登録させて頂きました。ありがとうございます✨
読みたい本登録させて頂きました。ありがとうございます✨
強い印象の残った一冊でした。是非どうぞ!
本物と偽物を区別するということを考えさせられます。
強い印象の残った一冊でした。是非どうぞ!
本物と偽物を区別するということを考えさせられます。