ユング心理学と仏教 (岩波現代文庫 〈心理療法〉コレクション V) (岩波現代文庫 学術 224 〈心理療法〉コレクション 5)
- 岩波書店 (2010年1月16日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006002244
作品紹介・あらすじ
世界トップクラスのユング心理学者を招いて行われるフェイ・レクチャーに日本人として初めて招聘された著者の、好評を博した講演。ユング派の分析を深めるにあたって、日本人である著者がいかに仏教の力を意識するようになったか、自らの個人的経験をまじえて語る。著者が心理療法と仏教との関わりについて初めて本格的に論じた書。「現代人と宗教-無宗教としての宗教」を併録。
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
(読書メモ)
・太平洋戦争において、「日本的なもの」の欺瞞や恐ろしさを感じて、日本的なものや仏教に対して苦手意識があったユング派分析家の河合隼雄だが、ユングや精神分析に親しんでいくほどに、そこに仏教と通じるものを感じ、また自身は仏教徒であると自覚していく。
・近代人は、直線的な変化、つまり「進歩」が好きだが、そういう段階的変化ではなく、深く何もかもを蔵するところ、始めから全てがあるという考え方を、ユングや仏教は提示するという。
・「私とは何か」。
それはユングでいうとegoと無意識であり、フロイトだとegoとidだ。しかしそもそも区分することはできるのか。
今昔物語では、他人の夢に観音様としてあらわれた者が、それを受け入れ出家するという、
「我思う、ゆえに我あり」ならぬ、「誰かが私の夢を見た、ゆえに我あり」な異端な例が紹介される。
著者は、治療において、治療者でありながら患者でもあるこということ、また、すべてであるということが重要であり、著者はそこに仏教との共通点を見る。
華厳教では、自性(それ自体の定まった本質)はなく、私の固有性などはないとする。その見方からすると私とは何かという質問それ自体がナンセンスだといえる。
華厳教では、現実世界のことを「時法界」と呼ぶ。
それは物事が区別される世界だが、そのように物事を区別してる境界線を取り外して世界をみることが、仏教や東洋思想全般においてなされている。それは、
「限りなく細分されていった存在の差別相が一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する」
ことだといい、それを華厳教では「理法界」という。そこでは、事物間の差異がなくなり自性も否定される。
それを無や一切皆空と呼ぶが、無や空は何もないのではなく「無限の有」を含んでいる。
自性がないならばそれぞれの違いがどこからきているかというと、それは仏教用語の「縁起」で説明される。縁起とは他との関係のことで、Aは相関関係によってAとなるのであり、それのみには自性がない。
・「縁起を見るものは空を見る」と龍樹はいう。
縁起は、アリストテレスや近代社会のように物事を原因→結果という流れでは考えない。
すべてを「原因と結果」で考えることから、近代の多くの問題が起きており、だからこそ縁起という考え方が今だからこそ大事だとする。
また、ユングの「共時性」とも通じるところがあるという。
(個人的には、数年前に話題になった「中動態」も縁起や共時性と通じるのではと思う)
・近代ヨーロッパでは個人を分けていく意識が基本となっているが、仏教では区分を取り払う。
どちらかいいとか悪いとかではなく、それぞれに学ぶところがある。
しかし他者との結びつきが弱くなってきた近年(1990年代の時点で)、仏教の「無」が文字通りの無として感じられ、生きる意味を失う日本人も多く、そこからどう道を見出していくかが課題となる。
・心理療法では禅宗の只管打座(ただ座っていること)のように、治療や解決に囚われず、ただ座ってることが大事だとする。
解消するもよし、解消しないもよし、である。
・仏教は基本的に言語に不信感があるという。
しかし仏教について書かれた書物が多いのは、悟りは言語化不能だがそれについて説明しようとすると百万言を費やしてもまだたりないからだ。
・ユングは象徴と記号を区別し、象徴は簡単に既知の内容に置き換えられない内容だとし、夢分析において、夢を理解する方向と理解しない方向とでは後者が大事だとさえいう。
・「中心に沈黙がありその沈黙のあらわれとして言葉がある」。
沈黙を基本とする著者の思想は、石やお花への憧れがあるのだと前書きで述べられている。
クライアントとの関係性において言語化することは、現象を対象化することになり、切断として感じられてしまうこともあったそうだ。
・無宗教が多い日本人は世界に驚かれるが、日本人においては宗教より美意識が考え方の根幹にあり、また、宗教が日常のなかに渾然一体となっているとした。
◆
ユングは、曼荼羅を知る前から曼荼羅のような図を描いていたそうで、そこからもユングと仏教の親和性の高さが伺えます。
また、そのことそのものが、ユングの「共時性(シンクロニシティ)」の存在の証左になっているのがとても面白いんです。
そんな訳で、非常に面白く読めた本で、「風であろう」とする著者の、あまり物事を言い切ることのない慎重で真摯な姿勢に好感が持てました。
仏教が怪しいとか危険とか思われるのは、近代社会の逆をいってるからだと著者は言いますが、
私個人的に、「進歩して足して」いこうとする「近代」の時代が終わって、「立ち返り、ただ居る」、そんな仏教とユングの時代がきています。 -
(1995年10月20日発売)の方を読みました
ほぼ、同じ内容です。
https://booklog.jp/item/1/4000023438
内容は、ほぼ同じようです。 -
仏教とは日本人の生活に根付いている、と。欧米のクリスチャンや、イスラム教とは違うと。
そして、ユング心理学と仏教や禅の世界は通じ合う部分もある、と。納得しました。 -
p125 「誰かが私の夢を見た、故に我あり」〜馬鹿げていると思う人もある〜
#デカルトの思う我と在る我は同一ではないと考えれば不思議はない。
p137 「無」とか「空」とか〜、何もないことを示しているのではなく、むしろ無限に「有」の可能性を秘めている〜
p156 自殺は本当は自我殺し(egocide)が企図されているのだが、〜それに気づかず、自分自身の命を断とうとしている。#我々は体験したことのない死によって自我が解消できると知っているのは何故だろうか。 -
19/04/18。
-
とても納得できる解説である。
-
100分で名著の河合隼雄特集から
-
河合隼雄著はだいぶ昔に読んだ「子どもと学校」以来。
-
著者は日本におけるユング心理学の第一人者である河合隼雄先生。
以下メモ
・西洋文化と東洋文化の違いと類似性
・分析において「答えを出さないこと」の重要性
・現代における物質的豊かさと精神的貧しさ
・日本の文化的営みそのものが宗教であり、それが崩壊しつつある現代社会は、本当の意味での無宗教状態に陥る→倫理観、道徳観の欠如