ユング心理学と仏教 (岩波現代文庫 〈心理療法〉コレクション V) (岩波現代文庫 学術 224 〈心理療法〉コレクション 5)

著者 :
制作 : 河合 俊雄 
  • 岩波書店
4.21
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006002244

作品紹介・あらすじ

世界トップクラスのユング心理学者を招いて行われるフェイ・レクチャーに日本人として初めて招聘された著者の、好評を博した講演。ユング派の分析を深めるにあたって、日本人である著者がいかに仏教の力を意識するようになったか、自らの個人的経験をまじえて語る。著者が心理療法と仏教との関わりについて初めて本格的に論じた書。「現代人と宗教-無宗教としての宗教」を併録。

感想・レビュー・書評

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  • 世界トップクラスのユング心理学者を招いて行われるフェイ・レクチャーに日本人として初めて招聘された著者の講演が編集されている。本レクチャーは、テキサスのA&M大学の心理学科の分析心理学の講座と協力して行われたものである。

    本書は4回の連続講演に用意された原稿に加え、「プロローグ」「エピローグ」と付録的な要素の「フェイ・レクチャー紀行」で構成されていた。

    このレクチャーの企画の重要人物である、A&M大学の正教授・ローゼン博士(ユング派の分析家)の「まえがき」が本書(講演)の大まかなダイジェストと言えるだろう。以下、一部抜粋。

    第Ⅰ章「ユングか仏教か」
    本書の第Ⅰ章は、河合の個人的な公案-「私は仏教徒なのか、それともユング派なのか?」-である。
    ※公案とは、禅宗の修行僧が老師から与えられる課題のことである。

    第Ⅱ章「牧牛図と錬金術」で河合は、個性化のプロセスが、東洋と西洋の哲学的・芸術的な一連の絵画に象徴的に、また有意なかたちであらわれていることを解きあかす。
    ※個性化のプロセスとは、ユング心理学における、個々の人間の未分化な無意識を発達させるプロセスのこと。
    ※東洋の絵画:牧牛図
    ※西洋の絵画:賢者の薔薇園

    第Ⅲ章「「私」とは何か」
    本書の第Ⅲ章「「私」とは何か」は、西洋の自我概念を逆転させている。河合の自我ならびに自己観は、日本の文化に根差したものだが、日本の文化においては、西洋的な観点と対立する自我ならびに自己観がみとめられる。

    第Ⅳ章「心理療法における個人的・非個人的関係」
    最後の章「心理療法における個人的・非個人的関係」は、心理療法の考え方を拡大して、沈黙したまま坐っていること、矛盾に耐え、対立するものを包摂することをも心理療法の一部にせんとしている。

    ***

    西洋発の心理療法を最初に日本に持ち込んだのが著者であるが、文化的な背景の異なる西洋と日本では、当初そのまま西洋の形式で適応することに違和感を感じたようだ。

    最初のほうで、西洋人と日本人の自我観の違いを明確にしている。すなわち西洋人のそれは、「他と区別し自立したもの<分断と表現>」であり、日本人のそれは「他との一体感的なつながりを前提としたもの<包含と表現>」としている。

    これを起点として、求められる心理療法のやり方は、西洋と日本では異なるのであり、ユング派の基本的な理論は適用しつつも、自我観の差異を加味した治療を行う必要があると述べる。

    そして、この自我観の差異がどうして生じたかの分析として、日本が仏教国であることを述べていく。とりわけ仏教における「縁起」の思想に、大きな影響力があるという分析である。

    西洋での個性はindivisualという語で表現され、これは「分けられない」という意味であり、上記の「分断」とか「自立」に通じる語である。これに対し、著者は仏教の縁起思想から生じる個性をeachnessという語を使って区別している。様々な縁が絡み合って、個々の人に固有の個性が生み出されているという発想だ。

    人はあらゆる縁の中で生きているのであり、依存関係の中で生きている。まさに、他との一体感的なつながりの中で生きている。これが日本人の生き方の発想であり、確かに西洋の自立的な個性に基づく発想とは大きく異なる。

    日本においては、不登校などの相談事例が多いと言われていた。また治療においても、クライアントの治療者に対する依存度は非常に強いともいわれていた。これらは、日本人全体の気質が西洋に比べて「依存が強い」傾向があるということの現象面であるともいえる。

    このような特徴の日本において、著者は心理療法に、仏教の手法を取り入れたようである。仏教では、意識レベルの下降(意識の深層部へ入っていくこと)を、注意力や観察力を失うことなく気力を充実したままで行う方法を、瞑想、読経、座禅などの修行として開発してきたということに着目した。

    「自分の意識を表層から深層まで、できる限り可働の状態にしていることによって、クライアントと共に自分の行く方向が見えてくるのです」と著者は述べている。

    ローゼン博士が前書きに記した、「沈黙したまま坐っていること、矛盾に耐え、対立するものを包摂することをも心理療法の一部にせんとしている。」の実践である。

    これらの方法の実践に関し、次の著者の言葉が印象的だ。
    ・「心理療法によって誰かを「治す」ことはできない」
    ・「二人(クライアントと治療者)でいる間に、副次的に「治る」という現象が生じることが多い。

    ***

    縁起観のベースがある文化の中で、依存が弱点とならない生き方、個性(eachness)をしっかりと持てる生き方、互いに認め合える生き方、あるいは一体感からの喪失などにより病んでしまった人に対する周囲の向き合い方などについて、著者の考えは非常に参考となる。

  • (読書メモ)
    ・太平洋戦争において、「日本的なもの」の欺瞞や恐ろしさを感じて、日本的なものや仏教に対して苦手意識があったユング派分析家の河合隼雄だが、ユングや精神分析に親しんでいくほどに、そこに仏教と通じるものを感じ、また自身は仏教徒であると自覚していく。

    ・近代人は、直線的な変化、つまり「進歩」が好きだが、そういう段階的変化ではなく、深く何もかもを蔵するところ、始めから全てがあるという考え方を、ユングや仏教は提示するという。

    ・「私とは何か」。
    それはユングでいうとegoと無意識であり、フロイトだとegoとidだ。しかしそもそも区分することはできるのか。
    今昔物語では、他人の夢に観音様としてあらわれた者が、それを受け入れ出家するという、
    「我思う、ゆえに我あり」ならぬ、「誰かが私の夢を見た、ゆえに我あり」な異端な例が紹介される。

    著者は、治療において、治療者でありながら患者でもあるこということ、また、すべてであるということが重要であり、著者はそこに仏教との共通点を見る。
    華厳教では、自性(それ自体の定まった本質)はなく、私の固有性などはないとする。その見方からすると私とは何かという質問それ自体がナンセンスだといえる。
    華厳教では、現実世界のことを「時法界」と呼ぶ。
    それは物事が区別される世界だが、そのように物事を区別してる境界線を取り外して世界をみることが、仏教や東洋思想全般においてなされている。それは、
    「限りなく細分されていった存在の差別相が一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する」
    ことだといい、それを華厳教では「理法界」という。そこでは、事物間の差異がなくなり自性も否定される。
    それを無や一切皆空と呼ぶが、無や空は何もないのではなく「無限の有」を含んでいる。
    自性がないならばそれぞれの違いがどこからきているかというと、それは仏教用語の「縁起」で説明される。縁起とは他との関係のことで、Aは相関関係によってAとなるのであり、それのみには自性がない。

    ・「縁起を見るものは空を見る」と龍樹はいう。
    縁起は、アリストテレスや近代社会のように物事を原因→結果という流れでは考えない。
    すべてを「原因と結果」で考えることから、近代の多くの問題が起きており、だからこそ縁起という考え方が今だからこそ大事だとする。
    また、ユングの「共時性」とも通じるところがあるという。
    (個人的には、数年前に話題になった「中動態」も縁起や共時性と通じるのではと思う)

    ・近代ヨーロッパでは個人を分けていく意識が基本となっているが、仏教では区分を取り払う。
    どちらかいいとか悪いとかではなく、それぞれに学ぶところがある。
    しかし他者との結びつきが弱くなってきた近年(1990年代の時点で)、仏教の「無」が文字通りの無として感じられ、生きる意味を失う日本人も多く、そこからどう道を見出していくかが課題となる。

    ・心理療法では禅宗の只管打座(ただ座っていること)のように、治療や解決に囚われず、ただ座ってることが大事だとする。
    解消するもよし、解消しないもよし、である。

    ・仏教は基本的に言語に不信感があるという。
    しかし仏教について書かれた書物が多いのは、悟りは言語化不能だがそれについて説明しようとすると百万言を費やしてもまだたりないからだ。

    ・ユングは象徴と記号を区別し、象徴は簡単に既知の内容に置き換えられない内容だとし、夢分析において、夢を理解する方向と理解しない方向とでは後者が大事だとさえいう。

    ・「中心に沈黙がありその沈黙のあらわれとして言葉がある」。
    沈黙を基本とする著者の思想は、石やお花への憧れがあるのだと前書きで述べられている。
    クライアントとの関係性において言語化することは、現象を対象化することになり、切断として感じられてしまうこともあったそうだ。

    ・無宗教が多い日本人は世界に驚かれるが、日本人においては宗教より美意識が考え方の根幹にあり、また、宗教が日常のなかに渾然一体となっているとした。



    ユングは、曼荼羅を知る前から曼荼羅のような図を描いていたそうで、そこからもユングと仏教の親和性の高さが伺えます。
    また、そのことそのものが、ユングの「共時性(シンクロニシティ)」の存在の証左になっているのがとても面白いんです。
    そんな訳で、非常に面白く読めた本で、「風であろう」とする著者の、あまり物事を言い切ることのない慎重で真摯な姿勢に好感が持てました。

    仏教が怪しいとか危険とか思われるのは、近代社会の逆をいってるからだと著者は言いますが、
    私個人的に、「進歩して足して」いこうとする「近代」の時代が終わって、「立ち返り、ただ居る」、そんな仏教とユングの時代がきています。 

  • (1995年10月20日発売)の方を読みました
    ほぼ、同じ内容です。
    https://booklog.jp/item/1/4000023438

    内容は、ほぼ同じようです。

  • 仏教とは日本人の生活に根付いている、と。欧米のクリスチャンや、イスラム教とは違うと。

    そして、ユング心理学と仏教や禅の世界は通じ合う部分もある、と。納得しました。

  • p125 「誰かが私の夢を見た、故に我あり」〜馬鹿げていると思う人もある〜
    #デカルトの思う我と在る我は同一ではないと考えれば不思議はない。
    p137 「無」とか「空」とか〜、何もないことを示しているのではなく、むしろ無限に「有」の可能性を秘めている〜
    p156 自殺は本当は自我殺し(egocide)が企図されているのだが、〜それに気づかず、自分自身の命を断とうとしている。#我々は体験したことのない死によって自我が解消できると知っているのは何故だろうか。

  • 19/04/18。

  • とても納得できる解説である。

  • 100分で名著の河合隼雄特集から

  • 河合隼雄著はだいぶ昔に読んだ「子どもと学校」以来。

  • 著者は日本におけるユング心理学の第一人者である河合隼雄先生。

    以下メモ
    ・西洋文化と東洋文化の違いと類似性
    ・分析において「答えを出さないこと」の重要性
    ・現代における物質的豊かさと精神的貧しさ
    ・日本の文化的営みそのものが宗教であり、それが崩壊しつつある現代社会は、本当の意味での無宗教状態に陥る→倫理観、道徳観の欠如

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