質問する,問い返す――主体的に学ぶということ (岩波ジュニア新書)
- 岩波書店 (2017年5月20日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784005008544
作品紹介・あらすじ
各地の学校でアクティブ・ラーニングが積極的に導入されるなど、教育現場では「主体的・対話的な学び」のあり方に注目が集まっている。自ら問いを立て能動的に学ぶためには何が必要なのか。多くの学校現場を歩いてきた経験をもとに、主体的に学ぶことの意味を探る。
感想・レビュー・書評
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哲学的な対話の重要を感じる。
フランスのバカロレアには哲学の試験があることに驚いた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
主体的に学ぶとはどういうことか。
今までよりも色んな視点で物事を考えるきっかけを与えてくれた本でした。
子どもの中学受験過去問 国語で出題され、面白かったので図書館で借り読みました。再度読みたくなる、手元に欲しい一冊です。 -
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名古谷隆彦
東京都出身。同志社大学法学部卒。1994年共同通信社入社。本社社会部、福島支局、旭川支局を経て本社社会部。警視庁捜査一課や文部科学省を担当。大阪支社社会部デスクを経て、現在、本社社会部で教育担当デスク
「問う」という行為は、簡単なように見えてとても奥の深いものです。用意した質問 に順番に答えてもらうだけなら単純ですが、こちらが問えば相手から逆に質問を受け ることもあります。返ってきた言葉の真意を探りつつ、やり取りは続いていきます。 人間というのは複雑で、矛盾に満ちた生き物です。その本質に易々と近づくことはで きません。話を聞く、疑問に思う、尋ねる、もっと知りたいと思う、また尋ねる。 頭の中は常にフル回転しています。その積み重ねが、記者で言えば原稿の厚みとなって 現れてきます。
日本では、小さいころから健常者と障害者が日常的に机を並べる経験がほとんどありません。障害を持つ子どもを特別支援学級などに振り分けてしまうからです。欧米では障害児が特別支援学級ではなく、健常児と同じ教室で学ぶ共生(インクルーシブ)教 育が進んでいますが、日本では両者が共に学ぶことへの抵抗感が根強く残っていま す。幼少期から多様性に触れる機会を奪われ続けていることが、声かけを阻む原因に なっているのではないかという見方は、この問題に新たな視座を示してくれるもので した。
私は学齢期に視覚障害者と接する機会が一度もなく、先輩との出会いが人生で初めての経験でした。もちろん、彼一人に出会ったからといって、視覚障害者への見識が深まったとは思いません。ただ、生身の人間を具体的にイメージできるようになったことで、遠い存在ではなくなりました。
新しい発想の多くは、何もないところから創出されるのではなく、すでにあるものを足がかりとして生まれます。引用自体は恥ずかしいことではなく、先人の知恵を借りて新たな価値を生み出す手助けとなるものです。出典部分の責任を外部に委ねること で、知的な活動を効率化できる利点もあります。
若者の新聞離れが進んでいるので、少し宣伝をさせてもらいますと、新聞を読む行為は「嫌でも多様な情報に触れる」という点で、パクリレポートの作成と共通する部分があります。自分の興味のある記事を読んでいる時、少し視線を移せばすぐ隣に気になる見出しを見つけることがあります。それまで見向きもしなかった分野に、関心を持つチャンスが常に待ち構えているのです。ごった煮が新聞の最大の魅力であり、 クリッピングニュースのように、自分の関心のあるニュースだけを集めて読んでいて も、世界の幅は広がりません。
試験には歴史や文学など多くの科目がありますが、とりわけ哲学は難関と言われています。二〇一五年には「人は自らの過去が形作ったものなのか」というわずか一文の問題が出題されました。受験生は四時間かけてこの問いに答えます。バカロレアは国民的行事であり、哲学の出題は国民の関心事でもあります。担当の国民教育大臣の記者会見では、記者から「今回の哲学の問題にはどのような感想を持たれましたか」と所感を求める質問が出るそうです。
ところが、日本の高校では社会科の倫理で哲学者の言葉や歴史に触れることはあっても、哲学の考え方にまで踏み込む授業はほとんどありません。高校で倫理を教える五十代の教員は「学校教育では倫理が軽視され、約三十年にわたって専門の教員が採用されていない。地理歴史の専門教員が代行するケースもあるが、倫理を開講できななげい学校もある」と嘆きます。国連教育科学文化機関(ユネスコ)が出している哲学に関する報告書にも「日本の哲学教育の日的は、生徒の批判的思考力や課題に対する合理的な議論をこしらえる能力の育成に置かれていない」と批判的に記されています。誰もが必要だと認める力なのに、日本ではその育成の場がなかなか見当たりません。
中央教育審議会の委員などを歴任した梶田叡一氏が示した「確かな学力の氷山モデ ル」は、海面から姿を現している氷の部分を「知識・技能」と定義し、これを見える 学力と呼びました。水面下には見えにくい学力として「思考力」があり、さらに氷山 の下部には、ほとんど見えない学力として「関心・意欲」が眠っています。思考力は 論述問題等で測定することはできますが、関心・意欲は計測できない力とされていま す。
文部科学省は、これからの時代を見据えた学力観として「学力の三要素」を掲げています。三要素というのは、①「基礎的・基本的な知識・技能の習得」、②「これらを活用して課題を解決するための思考力・判断力・表現力」、 ③「主体的に学習に取 り組む態度や人間性」と定義されています。暗記を中心とした受験学力は①に該当 し、その中でも思考力や判断力を必要とする問題に対処できる力は②、テストでは測りにくく、対人関係を円滑に結べる力や学習に向かう意欲のような力が③の主体的な態度に当てはまります。
それでは、少し想像力を膨らませてみましょうか。東内で物を食べる行為だったらいかがですか。食べこぼしやにおいがなければ「人に迷惑をかけてはいない」と強弁できるかもしれませんが、隣の座席で飲食されて気にならない人はほとんどいないはずです。同様に考えていくと、車内での化粧に多くの人が抵抗を感じるのは理解できるでしょう。年齢の高い方の中には「東内で化粧なんてとんでもない。議論の余地などまったくない」と、切って捨てる人もいるかもしれません。鉄道会社も、東内での化粧は道徳的に正しくない行為として利用者に理解を求めたのです。
「本を読んでいる時は筆者に対していろんな自分をさらけ出している気がする。筆者と対話している感じと言えば分かってもらえるだろうか。自分が読書好きなのは、そういう時間を大切にしているからだ と思う」
女子大に通う学生に、どうして哲学カフェに来るのか尋ねてみました。「大学の友達とはいつも軽い話しかしない。生産性のないことを言うと、迷惑がられるような雰囲気があるから。本当は真剣な話をしてみたいけど、つまらない人だと思われるのが怖くて、なかなか踏み込めない」。どうやら周囲の友人の感情にずいぶん気を遣っているようです。 参加する他の学生たちも「本当は友達やいろんな大人と語り合って、物事を深く考えてみたかった。でも、これまでの人生では突き詰めて一つのことを考える場がどこにもなかった」と口をそろえます。育ってきた環境にどこか不全感を抱えているような学生たちにとって、哲学カフェは自らの考えを表現できる数少ない場なのかもしれません。
かつては「教育の成果なんて、すぐに現れるものではないし、先生のよさもずっと後になって分かる」という学校へのおおらかな見方がありました。私の両親も、教育の本当の価値は、大人になってから分かると考えていました。評判の悪い先生が担任になった時も決して見放すことはなく、保護者が一緒になって育てていこうという。 雰囲気がありました。折り合いの悪い先生について私が愚痴を言うと、「反面教師と言ってね、どんな先生でも学ぶべきところはあるのよ」と言いくるめられた覚えもあります。
教室で行われている日々の教育活動は、きちんと検証される必要があります。しかし、限られた時間で成果を求められれば、安易に数値を上げる方向になびいてしまうのが人間というものです。学力テストで不正をした教員たちの動機を思い起こしてみてください。子どもの十年後、二十年後の成長よりも、日先の成果ばかりを追い求めるのは、一体誰のためなのでしょうか。誰に対する説明責任を果たそうとした結果、 ゆがみが生じ、過ちが繰り返されてきたのでしょうか。 企業の場合、それでも成果が上がれば多少のゆがみは利益が吸収してくれるのかもしれません。しかし、教育現場では、わずかであっても子どもたちの人間形成に暗い影を落とします。 -
刊行日 2017/05/19
「さまざまな学校でアクティブラーニングが積極的に導入されるなど,教育現場では「主体的・対話的な学び」の在り方に注目が集まっている.一方通行の学びではなく,自ら問いを立て主体的に学ぶためには何が必要なのか,そもそも「考える」とはどういうことなのか? 多くの学校現場を歩いてきた経験をもとに,主体的に学ぶことの意味を探る.」
はじめに
第1章 記者の仕事がなくなる?
屈折から熱量を知る/枠組みを決めるのは人間/マニュアルはどこにもない/自動運転車のトロッコ問題/背後に潜む原因は何か/想像力に必要なのは
第2章 「正解主義」を超えて
グーグルに答えはあるのか/正しさは人それぞれか/投票するのはおこがましいか/哲学の試験は四時間/受験生に主導権を与える/その前提を疑え
第3章 何のために学ぶのか
零時間目から七時間目まで/平均点九十点超が続出/「負け組」になりたくない/見える学力、見えない学力/道案内ができない/「謙遜社会」の低い自己肯定感/超進学校の意外な結果
第4章 主体的な学びって何?
もう、授業は終わったよ/「だって」が大事/「お客さん」が減っていく/よきメンターって誰?/牛乳パックの不思議/「入口」まで連れて行く
第5章 未知なるものに会いに行こう
学生が留学したがらない/交換留学の意味/強い欲求が人を動かす/安全保障に資する仕事/ハンガリーで医師になる/医療への不信感が動機/こんな医師に診てほしい
第6章 「考え続ける」に意味がある
電車で化粧、気になりませんか/道徳への期待感/共有されなかった疑問/誰のためのあいさつ?/成熟度のバロメーター/生き方を模索する自由/「想定外」に備える道徳
第7章 哲学する、世界が変わる
考える場がどこにもない/何でゴキブリが嫌い?/「よい問い」って何だろう/責任を取るとはどういうことか/じっと待つ、誘導しない
第8章 そしてまた問い返す
抜き差しならない問い/覆い隠した傷あらわ/内なる声に気づいて/若手教員に向けた言葉/「え? 左手ですか?」/三十年後を支える仕事/ぶれない人は格好いいか/チャンスを逃さずに
参考文献
おわりに -
著者が取材した様々な事例を通じて主体的に学ぶとはどういうことか考えていく。
他人の力を気持ちよく借りれるかが重要な能力を示すという記述が刺さった。 -
著者の数々の取材経験を通して、タイトルよりも副題のテーマについて様々述べられていた。
道徳の授業の事例や哲学の紹介など、興味深い内容がたくさんあった。主体的に学ぶためには考えることは絶対に必要で、自分が思っていた以上に考えることには深さがあると感じた。
対話的で深い学びを実現するには、深く考えた上での活動が重要だと思った。 -
002-N
閲覧新書 -
2022年5月・6月期展示本です。
最新の所在はOPACを確認してください。
TEA-OPACへのリンクはこちら↓
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/opac_details/?bibid=BB00531577 -
頭にスッと入ってくる文章でサクサク読めました。
前半のバカロレアの話まで読んだところで、日本の教育は遅れている!!というありがちな展開かぁ〜と思いましたが、予想に反して後半は日本での特徴を押さえつつ現在行われている取り組みなどが多方面から丁寧に取材されており、結論に説得力がありました。
ただ、タイトルに惹かれて買ったので、「質問する」と「問い返す」そのものについてもう少し記述が欲しかったです。