ジョブ型雇用社会とは何か: 正社員体制の矛盾と転機 (岩波新書 新赤版 1894)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (306ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004318941

作品紹介・あらすじ

前著『新しい労働社会』から12年。同書が提示した「ジョブ型」という概念は広く使われるに至ったが、今や似ても似つかぬジョブ型論がはびこっている。ジョブ型とは何であるかを基礎の基礎から解説した上で、ジョブ型とメンバーシップ型の対比を用いて日本の労働問題の各論を考察。隠された真実を明らかにして、この分析枠組の切れ味を示す。

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    本書『ジョブ型雇用社会とは何か』は、「ジョブ型」という言葉の生みの親である濱口桂一郎氏によって書かれた、雇用システム論についての一冊である。濱口氏は2009年に上梓した『新しい労働社会』で、メンバーシップ型雇用とジョブ型雇用を比較し、日本の労働社会の矛盾点を指摘するとともに解決方向を提示していた。
    令和の時代になり再び「ジョブ型」という言葉が流行し始めているが、メディアが喧伝する「ジョブ型」は、もはや筆者が最初に提示した概念とは似ても似つかない別物になっているという。そこで、名付け親である筆者が一からまとまった形で解説し、「ジョブ型論」の基礎を再度世の中に示していく。

    巷に氾濫する「勘違いジョブ型論」は以下のようなものだ。
    ・ジョブ型は労働時間でなく成果で判断する
    ・ジョブ型は能力に密接に結びついた雇用形態である
    ・ジョブ型は能力不足によるリストラが起こりやすい

    詳細は本文に譲るとして、そもそもどうしてこのような勘違いが生まれているのか。それは、日本人が想定している『能力』が、欧米で実際に導入されているジョブ型雇用の「能力」とは全く違う概念だからだ。

    ジョブ型雇用において要となるのは「ジョブディスクリプション(職務定義書)」である。これは、企業側が作成する、業務内容や範囲、必要なスキルなどをまとめた選考書類である。企業は職務定義書を基に求人をかけるため、そこに書かれている範囲から外れる職務を課すことは有り得ない。もし課されればそれは「職務範囲外の仕事をやらされている」という明確な契約違反である。やらされる仕事と必要なスキルを最初に伝えられているため、これに当てはまる技能を持った者だけが応募し、採用される。賃金は職務定義書に書かれた業務の難易度によって決まる。
    そのため、ジョブ型というのは基本的に、新しい仕事が発生する→それに必要な人員を募集する→仕事が終われば解雇する、というサイクルの中で労働を続けていくことになる。必然的に、採用は全て経験者(スキルを身に着けているという意味で)採用であり、業務分担の変更を目的とした異動も発生しない。

    対して、メンバーシップ型というのは「技能」を必要としない採用である。これは日本の新卒採用を見ればすんなり理解できるだろう。新卒者は大学を出たものの、具体的なビジネススキルは何も身に着けていない。就活では主に「やる気」「忠誠心」「ポテンシャル」といった定量化できない『情意』に投資を行うことになる。こうした『能力』が日本人がぼんやりと考えている「スキル」の正体であるが、ジョブ型を採用している国が定義する「スキル」とは似ても似つかないものだ。このジョブのこのスキルがある人、ということは全く考えずに採用し、素人として入ってから上司や先輩に鍛えられて、成長しスキルを身に着けていくことになる。そうした成長曲線ありきで採用するため、賃金は経験年数・年齢で決定されることになる。
    メンバーシップ型は、何でも屋を大量に採用→ランダムな部署に配置→その仕事が終われば/一定の経験を積めば別の部署に配置転換、というサイクルの中で労働を続けていくことになる。そのため「スキル」とは「その会社に特化したやり方」を汲み取る能力となり、必然的に一つの企業に長く居続けることになる。

    こうした「日本式能力」の誤認が様々なトンデモジョブ論を産む。
    ・ジョブ型は労働時間ではなく成果で判断する
    →ジョブ型では末端のヒラ社員は評価しない。評価は採用時の「職務定義書を満たすか」の時点で終了している。末端まで評価するのはメンバーシップ型。
    ・ジョブ型は能力に密接に結びついた雇用形態である
    →能力と結びついているのは正しいが、日本式の「情意」ではない「技能」のことである。
    ・ジョブ型は能力不足でリストラされやすい
    →解雇自由なのはアメリカだけである。そもそも採用時点でスキルの有無を見られているため、能力不足によるリストラはあまり起こらない。

    というわけだ。

    さて、真の問題はここからだ。筆者は上記を前提として「本当にジョブ型を導入するつもりなのか?/できるのか?」という疑問を投げかけている。
    ジョブ型は「最初からスキルがあること」を基本としている。ジョブ型雇用が機能しているのは、日本以外の国が、あらかじめ職業訓練制度によって公教育を行っており、使える技能を身に着ける→実際にそれが必要とされる会社に就職する、という流れが確立されているからだ。一方で、日本の四年制大学に職業訓練校としての実態はなく、「何でもできる可能性のある素材を育てて企業に提供していく」というあり方に特化してきた。これはいい悪いということではなく、日本の雇用システムを前提とする教育システムとして最適化が進められてきた、ということだ。
    つまり、メンバーシップ型雇用と日本の大学制度は切り離せない関係にあり、片方を改革しただけでは絶対に上手く行かない。ところが、「ジョブ型雇用導入」を謳う企業・政府はそうした教育制度改革にまで踏み込むことはせず、ただ何となく「スキルを重視した採用に変えますよ」と言っているだけである。社会全体が片手落ちの状態で進むようでは、ジョブ型ともまた違う「日本式特殊雇用制度」が繰り返されていくだけである。その先に待っているのは、ただ「成果が上がっていないから質金を引き下げる」「年齢の割に能力の無い人間をクビにする」という理屈付けにジョブ型雇用が使われる未来だ。そうした現状を痛感し、筆者は「本当にジョブ型を導入するつもりなのか?」という問題提起を行っているのである。

    ――こうして1990年代から2000年代にかけての頃に一世を風靡したものの見事な失敗に終わった成果主義を、もういっぺん今度は成果を測定する物差しとしてのジョブを明確化することによって再チャレンジしようとしているのが、2020年以来の日本版ジョブ型ブームではないかというのが、私の解釈です。
    ですからその目的は成果主義によって中高年の不当な高給を是正するところにあり、それを正当化する限りにおいて成果測定の物差したるジョブの明確化を追求はしますが、とはいえ雇用システム全体のジョブ型化を目指すつもりはなく、少なくとも初めにジョブありきでそこに適合する労働者をはめ込むという意味における本来のジョブ型雇用を実践する気は毛頭ないと考えていいと思われます。
    ――――――――――――――――――――――――

    【まとめ】
    1 おかしなジョブ型論
    ジョブ型、メンバーシップ型というのは、現実に存在する各国の雇用システムを分類するための学術的概念である。学術的概念ということは、本来、価値判断とは独立のもの。つまり、先験的にどちらが良い、悪いという話ではない。
    ところが、各種メディアの報道を見ていると、商売目的の経営コンサルタントやそのおこぼれを狙うメディアは、もっぱら新商品として「これからのあるべき姿」としてのジョブ型を売り込もう、そのためのいいネタだと思っているのではないかと感じられる。そのために、そもそもジョブ型とは何か、メンバーシップ型とは何かという認識論的基礎が極めていい加減なまま、価値判断ばかりを振り回したがる傾向が見られる。

    ●ジョブ型について誤認されていること
    ・職務遂行能力と一体になる雇用体系である(日本と欧米とで想定している「能力」の定義が違う。日本式の職務遂行能力と対応するのはヒト基準であり、ジョブ基準ではない。ジョブ基準は特定の職務とそれに対応するスキルがあるだけ)
    ・労働時間ではなく成果で判断する(ジョブ型は一部の上澄み労働者を除けば仕事ぶりを評価されない。末端のヒラ社員まで評価するのはメンバーシップ型)
    ・ジョブ型は解雇されやすい(解雇自由なのはアメリカだけ。解雇については法律で解雇をどの程度規制しているのかだけではなく、雇用システムのあり方が大きな影響を及ぼす。日本とヨーロッパのどちらが解雇規制が厳しいか緩いかは、単純に答えが出る話ではない)


    2 ジョブ型とメンバーシップ型の基礎の基礎
    日本以外の社会では、労働者が遂行すべき職務が雇用契約に明確に規定される。日本はそもそも職務が特定されていない。どんな仕事をするか、どんな職務に就くかが使用者の命令によって定まるのが日本の雇用システムの特徴である。

    ●メンバーシップ型の特徴
    ・職務が特定されていないため、ある職務に必要な人員が減少しても他の職務に異動させて雇用契約を維持する。(=人員募集のほとんどは新卒募集)
    ・ヒトで賃金が決まっている。(メンバーシップ型は異動があるため、ヒトで金を決めないと、異動時に賃金が下がって雇用が維持できなくなる。賃金決定の客観的な基準として、勤続年数や年齢を用いる)
    ・特定の職務の専門家になるのではなく、その企業に熟達していくため、他社への転職可能性が減少し、結果的に定年雇用制度が根付く。
    ・団体交渉や労働協約は企業別に総額人件費の増分を交渉する。
    ・素人を採用し、実際に作業をさせながら技能を習得させていく。
    ・末端労働者まで人事査定する。ただし、評価するのは業績ではない。末端部分の業績貢献など測定できるわけがないからだ。評価するのは『能力』であり、この『能力』とは特定ジョブの遂行能力ではなく、やる気、忠誠心といった「潜在能力」である。末端のヒラ社員まで評価する以上、潜在能力以外に評価しようがないからこの基準を用いている。

    ●ジョブ型の特徴
    ・職務を特定し、その職務に必要な人員のみを採用し、その必要な人員が減少すれば雇用契約を解除する。(=人員募集は全て欠員募集)
    ・職務によって賃金が決まっている。(同一の職種の中で上位に昇進していく)
    ・団体交渉や労働協約は職種ごとの賃金を決める。
    ・あらかじめ教育訓練でスキルを身につけておき、それをアピールすることで経験者として採用される。
    ・ごく一部の上澄みのエリート層の労働者を除けば、一般労働者には人事査定はない。査定は仕事に就く前の段階――ジョブディスクリプション(職務定義書)に書かれている職務をちゃんとやれるかで判定している。職務に値札がついているので、それによって労働者の賃金が決まる。

    日本の雇用において、本来の意味での「ジョブ型」を指すのは、契約社員や派遣社員といった非正規労働者の働き方が近い。


    3 ジョブ型採用の土台にある「技能以外の差別禁止」
    ジョブ型採用における採用基準は「当該ポストに最も適切なスキルを有する労働者を採用することが合理的であり、その一番適合する人の持っている属性——人種、性別、年齢、障害、あるいは最近であれば性的指向、そういった諸々の属性に対する差別感情から採用を拒否することは禁止する」という考えの上に成り立っている。
    ところが、日本にはこれとは相対する、メンバーシップ型に適合した日本型採用法理が存在する。「企業における雇傭関係が、単なる物理的労働力の提供の関係を超えて、一種の継続的な人間関係として相互信頼を要請するところが少なくなく、わが国におけるようにいわゆる終身雇傭制が行なわれている社会では一層そうであることにかんがみるときは、(新卒労働者を信条を理由に雇入れを拒否することは)企業活動としての合理性を欠くものということはできない」

    ジョブ型を導入する企業は、この日本型の採用の自由を捨てるという覚悟が本当にあるのか。つまり、採用判断の是非はそのジョブに適合する人を就けるという観点でのみ判断されるという事態を受け入れるつもりなのか。そのような覚悟のある企業があるとは思えない。


    4 職業訓練を軽視したアカデミズム
    ジョブ型が、雇用契約が具体的な職務を特定して締結するものであるならば、労働者は雇い入れられる前に当該職務についての一定の教育訓練を受けていることが前提になる。それに対して、メンバーシップ型が雇い入れられる前に特定の職務についての教育訓練を受けていることを要求するのは困難である。職務は企業の命令によって決まるため、その職務を遂行できるように教育訓練するのは企業の責務になるし、労働者の側はそれを受け入れなければならない。定期人事異動とローテーションによって、業務命令で仕事をすることが同時にOJTとして教育訓練になっているという仕組みは、この意味で大変効率的だった。

    現在の大学は一般学術教育に偏し、職業という観点を軽視してきた。学校で具体的に何を学んだか、何を身につけたかは就職時に問題にされず、偏差値という一元的序列で若者が評価される社会が構築されている。教育の職業的レリバンスの欠如したシステムである。
    この現象の源にはアカデミズム思想がある。大学とは「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(学校教育法第八三条第一項)ものであるから、職業訓練校のようなものにしてはならない、という思想だ。

    日本型の雇用形態――ずぶの素人を新卒採用して上司や先輩が鍛えて育てるという仕組み――があるかぎり、職業訓練やリカレント教育による専門技能の前習得、というモデルは機能しない。


    5 ジョブ型社会の問題点
    ジョブとスキルが完全に結びついてしまっているということは、裏返せば、本当にその労働者がその仕事を「できる」のかどうかは、フォーマル学習で得られた修了証書だけで決まるようなものではないのではないか――という素直な疑問が、欧米でも当然のように提起されている。ノンフォーマル学習(企業内学習におけるパソコンスキルの上達やコミュニケーション能力の上達など、資格なき知識・スキル・ビジネス能力)を認定する仕組みを構築するよう、EUが求めている。


    6 解雇をめぐる誤解
    日本以外のすべての国はジョブ型社会だが、アメリカを除けば、すべての国に解雇規制がある。
    ジョブ型はジョブありきなので、仕事が無くなれば解雇されるのは当然であり、整理解雇(リストラ)は正当な理由である。ところが、日本人にとってはリストラはもっとも許しがたい解雇である。雇用契約で職務が限定されていないメンバーシップ型社員にとっては、会社の中に何らかの仕事があれば、それがいかなる仕事であれ、配置転換されなければならないからだ。

    ただ、ヨーロッパにおいては、中期的にジョブが存在し続けると見込まれる限り、雇用維持型の対応をすることも珍しくはない。

    ジョブ型には「能力不足解雇がある」と思われているが、いささか語弊がある。
    あらかじめその具体的内容と価格が設定されたジョブという枠に、そのジョブを遂行する能力がある人間をはめ込むのだから、能力不足か否かが問題になりうるのは、採用後の一定期間に限られる。採用面接では「私はその仕事ができます」と言っていたのに、実際に採用してやらしてみたら全然できないじゃないか、というような場合だ。そして、そのようなときに解雇できるようにするために、試用期間という制度がある。
    逆に、試用期間を超えて長年そのジョブをやらせていて、言い換えればそのジョブのスキルに文句をつけないでずっと労務を受領し続けておいて、5年も10年も経ってから能力不足だなどと言いがかりをつけて認められる可能性はほとんどない。

    対して、日本で能力不足解雇が問題となるのはむしろ、長年勤続してきた中高年労働者である場合が多い。そしてそういう事案では、会社側は多くの場合、当該労働者の具体的なスキル不足ぶりを示すことよりも、全然業績を上げていないとか、やる気が全くないという事実を並べたてることが多い。これは日本特有の『能力(意欲)』を雇用のベースにしており、加齢によって能力の低下が起こるからだ。
    もっともそれはある意味で当たり前だ。学習能力が年齢の逆関数であるのは洋の東西を問わない。ジョブ型社会であれば年齢とともに学習能力が低下したからといって、既に身につけたジョブのスキルが維持されている限り、スキル不足解雇だと言われる心配はない。ジョブはその労働者の固有財産であって、会社から勝手に奪われるべきものではない。もちろん、そのジョブ自体がなくなれば整理解雇されるし、新たに別のジョブに就こうとすれば、そのために慣れない教育訓練も受けなければならないが、それはスキル不足解雇とは別の話だ。

    ハイエンドではない多くの労働者層についてみれば、ジョブ型よりもメンバーシップ型の方が圧倒的に人を評価しているのだが、その評価の中身が、「能力」や意欲に偏り、成果による評価は乏しい。問題があるとすれば、中くらいから末端に至るレベルの労働者向けの評価のスタイルが、それよりも上位に位置する人々、経営者に近い管理する側の人々に対しても、ずるずると適用されてしまいがちだということだろう。
    ジョブ型社会において、彼らのカウンターパートに当たるエグゼンプトやカードルと呼ばれる人々は、ジョブディスクリプションに書かれていることさえやっていれば安泰な一般労働者とは隔絶した世界で、厳しくその成果を評価されている。彼らは資格によって就職した瞬間から高給の管理職であり、労働時間規制が適用除外される。一方、普通の大学や高校等を卒業した若者はインターンシップ等で苦労してようやく就職しても、ずっとヒラ社員のままであり、管理職の募集に応募して採用されない限り管理職に自動的に昇進するということはない。
    つまり、管理職の存在形態がまるで違う。日本の管理職はぬるま湯に安住しているという批判はここから来るのである。

    またそもそも日本社会、特に中小企業においては、能力などの正当な理由ではなく「経営者や上司が怒って雇用契約終了」というケースが多々有り、メンバーシップ型のほうが解雇されにくいわけではない。


    7 賃金
    戦後確立した日本の賃金制度の基本的な思想は「生活給」にあった。生活給とは、賃金は労働者の家族も含めた生活を賄うべきものであるという考え方である。
    戦後、日本の労働組合が労使交渉の結果作り上げた賃金体系は、GHQが考えていたものとは全く違うものだった。最も典型的なのは電力産業における電産型賃金体系である。賃金表は、縦の列は年齢、横は本人、扶養家族1人、2人、3人、4人となっており、本人が何歳で扶養家族が何人かによって自動的に基本給が決まるという仕組みになっていたのだ。
    これに対して政府側は同一労働同一賃金による職務給を提唱するが、労働組合側は反発した。最終的に「年功制を認めはするが、能力を厳しく査定し、職務の要求する能力を有するものが適職に配置されるようにすること」という折衷案的な給与体系の導入で決着がついた。

    しかし、その制度を説明するための論理には矛盾が残ったままだった。結婚して妻を養うようになり、子どもが生まれてその養育に費用がかかるようになることと、職務遂行能力が上がっていくこととは、論理的にはつながりようがないからだ。
    ここで登場したのが日本式『能力』だ。あくまでも、定期人事異動によって様々な仕事を経験することによって、その時その時にあてがわれた仕事では必ずしも発揮されていないかもしれないけれども、潜在的な「能力」は上がり続けているのであって、それゆえにその「能力」に見合った賃金を支払っているのだ、と。これによって、経営側は労働側の生活給の主張に膝を屈したのではなく、職務限定的な欧米型の職務給とは異なる職務無限定にふさわしい「能力」に基づく賃金体系に進化したのだ、と説明することができた。

    とはいえ、この「能力」とは、ジョブのスキルとはほとんど関係のない不可視の概念であり、やる気を意味する情意と区別することも困難だった。そうした概念の曖昧さが悪用され、労働争議をする者への賃金差別、子育てする女性への賃金差別、年数を重ねた中高年社員たちの高給への批判が展開された。

    日本型成果主義は、ジョブ型社会のハイエンド労働者層に適用される成果給とは異なり、成果を測る物差しとなるべき職務が何ら明確ではなく、「上司との相談で設定」という名の下で事実上あてがわれた恣意的な目標でもって、成果が上がっていないから質金を引き下げるという理屈付けに使われただけだったと言える。つまり人件費抑制には効果はあったのだが、賃金決定の基本にある不可視の「能力」をそのままにして、それを恣意的に操作するためにジョブと関わりのない成果を持ち出してきてしまったために、労働者側における納得性が失われてしまい、結果としてモラルの低下につながったという評価が妥当だろう。

    企業側としても、職務無限定で様々な仕事に回していけるというメンバーシップ型のメリットを捨てる気持ちは毛頭ない。その目的は成果主義によって中高年の不当な高給を是正するところにあり、それを正当化する限りにおいて成果測定の物差したるジョブの明確化を追求はするが、とはいえ雇用システム全体のジョブ型化を目指すつもりはない。少なくとも初めにジョブありきでそこに適合する労働者をはめ込む、という意味における「本来のジョブ型雇用」を実践する気は毛頭ないと考えていいだろう。

  • メンバーシップ型と呼ばれる日本的雇用システムに対して、日本以外の国々では職務をベースとした雇用・処遇システムが一般的であり、それはジョブ型と呼ばれる。筆者は、その「メンバーシップ型雇用」「ジョブ型雇用」という概念の名付け親である。筆者がこの言葉を著書に書いたのは、2009年のことであり、今から10年以上前のことであるが、最近メディアでこの雇用システムの話題が取り上げられることが多い。ところが、そこで取り上げられる「ジョブ型」の概念が、筆者の提示した概念とは似つかない、事実に基づかないものであることが多く、それを正すことが、本書執筆の目的の1つであると筆者は本書中で述べている。
    「メンバーシップ型」「ジョブ型」等の雇用システムに関してのメディアでの取り上げられ方は、どちらかと言えば、ジョブ型に肩入れしたものが多いように感じる。日本企業の生産性が低いのは、ひいては、日本経済全体が振るわないのは、その雇用慣行に原因の一つがあるという主張である。
    1980-1990年代には、実は日本型雇用、それをベースとした日本型経営は世界でもてはやされた。「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」という本がベストセラーにもなった。当時の論調では、時代の変化に応じて仕事の内容は変わっていくが、欧米のジョブ型雇用ではそれに対応できず(雇用契約と異なる仕事はさせられない)、企業の中での能力開発を重視し、また、柔軟なローテーション・配置転換を通常の慣行としてきた日本企業は、そういったことに柔軟に対応できるというものであった。ただ、これは、主として製造現場での議論であったような気がする。
    ほんとうに、日本のメンバーシップ型の雇用が日本企業、ひいては、日本経済の低生産性の原因のひとつなのか、ということに対しての実証的な論文は読んだことがない。その因果関係を示したデータは見たことがないし、なぜそうなるのか、というきちんとしたロジックも見た記憶もない。それは、雇用システムだけの問題ではないのではないか。企業のガバナンスの方法や、事業開発の方法(例えばM&Aやベンチャー投資や大学・他機関との協業の巧拙など)等、日本的な「経営」システムが、トータルとしてどうなのか、という問題にような気がする。
    ただし、本書は、そこを突っ込んで考えている訳ではない。雇用システムに関しての議論の前提としての、メンバーシップ型、ジョブ型の雇用システムに対しての理解が(特に日本以外の国での標準的な雇用システムであるジョブ型に対しての理解が)正しくないために、議論そのものが成立していないことを憂いているのである。
    企業の人事や経営計画部署にいる企業スタッフの人たちや、実際に経営にあたられている方々、あるいは、日本の雇用システムに関する議論に関心をお持ちの方にとっては、非常に役に立つ雇用システムに関しての解説書だと思う。

  • 久々に書店をぶらぶら歩いて本著を購入したんですが、いま新書って1,000円以上するんですね。ページ数が多いのもあるんでしょうが、レジで軽く動揺してしまいました(笑

    さて、最近大企業でジョブ型雇用の導入が進んでいる、なんてニュースを踏まえ、勉強しておこうかな…と「ジョブ型」雇用という言葉を作った専門家たる著者の本を手に取った次第です。
    内容は、世の中にはびこる「間違いだらけのジョブ型」を糺し、本来こういうモノだよ、という説明をしてくれる1冊・・・と言うとアッサリしているのですが、本著を読み終えて感じたことは、日本の労働市場に横たわる大きくて深~い闇です。ワタシ、こんな法制下で働いてたのか。。
    説得力がありすぎるけど、同時にいきなり目の前に巨象が現れたような感覚もあって、「コレ本当なのか?」とすら思ってしまう。戦中の国家総動員体制から延々と場当たり的な対処をしてきた結果、紐はほどけないくらい絡まり、複雑怪奇なキメラが生まれ…
    ジョブ型云々以前にそもそもの土台がメチャクチャなのですが、ジョブ型雇用自身もなかなか無理があって、読んでいてスッキリしない、モヤモヤした気持ちを抱くこと必至です。
    パンドラの箱を開ける気分…は流石に言い過ぎてますが、小学校の裏庭の踏み石(ひっくり返すとダンゴムシとかいるヤツ)を持ち上げているような、そんな不安に駆られながら読み進めていました。。

    「ジョブ型」と「メンバーシップ型」の何がどう違って…というのは本著で詳説されているのですが、読んでいて感じたのは、著者が「ジョブ型社会とメンバーシップ型社会を隔てる深くて暗い断絶の川」と表現したとおり。
    本当に「ジョブ型社会」に転換するのであれば、今までの日本の常識(新卒採用、人事評価、"能力"の概念、大学教育等々…)を相当転換しないといけないはずだけど、「社会の上層部になればなるほどジョブ型感覚が希薄になるという日本社会のありよう」「大企業正社員型のメンバーシップの中で育てられてきた人の思い付きで政策が進められる傾向が強まってきている」というコトで話が進んでいないご様子…。

    特にゲンナリしたのは、昨今の日本版ジョブ型雇用ブームの目的は「中高年の不当な高給を是正する」ことで、「雇用システム全体のジョブ型化を目指すつもりはなく」というくだり。
    目先の問題に小手先で対処しようとして、長期的には泥沼にハマっていく…実に日本的だなぁと思ってしまいますが、どこの国も似たようなモノなんでしょうか。

    これらを踏まえ、本当に日本企業はジョブ型雇用を推し進めていくべきなのか?
    ジョブ型雇用と言うからには「こういうコトするジョブです」がキッチリ定義されていないといけないんですが、「余白を埋める」ことが職務になっているような日本の正社員の文化でそんな定義が可能なのか?
    (「その他」や「等」の方が主業務になる悪夢が何となく浮かびます…)
    また、これからDXが進んで作業内容が変わったり、取り組むビジネス自体が変わっていく世の中で、「定義」を今キッチリ固めるコトにどこまで意味があるか…

    そうすると、雇用制度を一度リセットでもできればスッキリするんじゃないか、とも思ったのですが、著者が労働組合の位置づけについて論じた解決策は「むしろ無理にすっきりさせないことが大事」と。
    シンプルに考えればこう、というのを進めても別の切り口で事態が悪化してしまう。深く実務に根差した専門家の矜持を感じました。

    ちなみに本著の筆致、もう還暦を回られているとは思えない若さと破壊力を感じます(笑
    労働関連法令を「ザル法」と断じたり、「日本特有の善意のパワハラ」と言ったり、微妙に文中に皮肉っぽいユーモアが含まれているような。
    難しい用語もちょいちょいあるのですぐ読み終わるタイプの本ではないですが、旧来型日本企業に勤めているのであれば、一度は読んでおいては良いのでは。

  • 「ジョブ型雇用」とは近頃、よく耳にするようになったワードだが、なんとなくのイメージはもっていたもののその内実はよくわからなかった。

    本書が新書大賞2022の第6位受賞作品ということを知り、ジョブ型を深堀してみようかなと思ったこと、また年功序列・終身雇用の生粋のTheニッポンビジネスパーソンにとってはちょっとした脅威なのではないか、などと思い軽い興味も手伝って本書を手に取ってみた。

    「ジョブ型」というワード自体、著書が十年以上も前に提唱していたとは初めて知った。

    本書で「ジョブ型」と「メンバーシップ型」の相違については口酸っぱくなる程、繰り返し述べられているので理解は出来た。
    「ジョブ型雇用」を平たく言えば、職務評価がヒトの評価ではなくジョブそのものの評価でありジョブに値札がついている、ということだ。

    少し注文をつけるとしたら、著者が当たり前の論理として述べられていることが私には論理が通らない箇所が散見され多少のわかりづらさがあった。
    著者の表現力の問題なのか私が理解力のなさなのか…

    また、カードル、レリバンス、アンビバレンツ、ミームなどの分かりづらいカタカナ言葉には辟易した。

  • 肌感覚として薄々感じている日本企業の就労文化。海外でも似たような傾向はあるし、それは時代によっても変わる。特にダブルインカムや転職が当たり前になり、労働の流動化が益々進みつつある今日。モヤモヤした感じを言語化してくれて、学びも多く、スッキリする。

    メンバーシップ型からジョブ型へ。必要なのはジョブディスクリプション、つまり職務記述書であり、職務経歴書ではない。能力を記載するのではなく、タスクを記載する。実はこのメンバーシップ型で得をしていたのは、職務遂行に未熟な若者。若者に価値のあるシステムだった。学校で専門的な事を学ばなくても、会社が育てるという文化。メンバーシップは会社内の職務を転々として、我が社の専門家となり、転職が難しくなる。就職ではなく、就社だ。そうして会社内での価値を高め、終身雇用、年功序列になっていく。

    他方、特定部署が採用する中途採用はジョブ型。ジョブ型では、学歴で地頭を測るのではなく、専門性を見る。その専門性を武器にして転職も可能。こうした就労志向が変化していく。

    どちらが良いというものではないが、会社に都合良く使われ、その前提となる契約は、メンバーシップ型なのだろう。ダブルインカムでは、夫婦いずれかが転勤に伴い家族離散。転勤当たり前、地域転々という業界ならば、配転、勤務地次第で即転職。そんな時代を迎えつつある。ジョブ型は、自己防衛にもなるし、少子化、介護、女性活躍という時代からすると、現実解になりそうだ。

  • ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用の違いがわかる本である。ジョブ型雇用は、特定の仕事の内容を決めて、それについて雇用する形態であり、職務遂行能力ではない、ということである。したがって職務遂行能力を査定したり、ヒラまで査定するものではない、としている。多くは間違いの理解が行われている、という。最初の部分だけ読んでも役に立つ。大学の場合は、ある科目を教えるための非常勤がジョブ型であり、その科目が無くなると職が無くなる、ということである。しかし、業績や教員歴を求めるのはおかしいことになる。

  • いろいろと勉強になった。
    ジョブ型とメンバーシップ型は本来どちらが上というものではなく制度として違うものであるというだけであるが、近年はジョブ型礼賛の風潮があり、しかもそれがジョブ型の趣旨を正しく理解していない言説になっていることを問題視して著されたもの。
    ジョブ型とは採用時に職務内容を規定し、その職務を行う能力があるかどうかで採用し、ジョブをこなせているかどうかで雇用継続するか否かを判断するものであり、自動的な昇進や、先輩や上司による教育というようなものが存在しないものである。これに対してメンバーシップ型は、明確な職務の約束がなく、時間も勤務場所も会社側に白紙委任する雇用契約を締結するが、その代わり、業績悪化などによる人員解雇をできる限り回避する制度であり、明確なスキルを持たない者を仲間として受け入れてOJTにより教育していく制度であるがゆえに、副産物として、情意評価や、やる気を見せるための長時間労働や、愛のムチとしてのパワハラや、部下の人事権を持たない管理職や、正社員が全員潜在的な幹部候補生であるという奇妙な状況が生まれているとのこと。

  • かねてから著者のブログはたまに読んでいたのだが、一冊の本にまとまっていると頭の整理になる

    日経新聞への恨み節など少しニヤリとしてしまうのだが、あまり長年にわたり主張が世間に曲解され続けており、ハマちゃん先生、チョッピリこじらせていないか気になるところ

  • 日本の労働問題を考える上で重要
    必読書

    だけどまじで読みにくい、一文が長すぎる

  • 難しいし読みづらいけど、すごくわかりやすかった

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著者プロフィール

1958年大阪府生まれ。東京大学法学部卒業、労働省入省、欧州連合日本政府代表部一等書記官、東京大学客員教授、政策研究大学院大学教授を経て、現在は労働政策研究・研修機構労使関係・労使コミュニケーション部門統括研究員。主な著書・訳書に、『日本の雇用と労働法』(日経文庫、2011年)、『新しい労働社会――雇用システムの再構築へ』(岩波新書、2009年)、『労働法政策』(ミネルヴァ書房、2004年)、『EU労働法形成過程の分析』(1)(2)(東京大学大学院法学政治学研究科附属比較法政国際センター、2005年)、『ヨーロッパ労働法』(監訳、ロジェ・ブランパン著、信山社、2003年)、『日本の労働市場改革――OECDアクティベーション政策レビュー:日本』(翻訳、OECD編著、明石書店、2011年)、『日本の若者と雇用――OECD若年者雇用レビュー:日本』(監訳、OECD編著、明石書店、2010年)、『世界の高齢化と雇用政策――エイジ・フレンドリーな政策による就業機会の拡大に向けて』(翻訳、OECD編著、明石書店、2006年)ほか。

「2011年 『世界の若者と雇用』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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