- Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004312079
作品紹介・あらすじ
敗戦直後、旧満州の日本人兵士ら約六〇万人がソ連軍に連行され、長期間の収容所生活を送った「シベリア抑留」。極寒・飢餓・重労働の中で約六万人が死亡したこの悲劇は、今も完結していない。衝撃的な史料の発見、日本政府への補償要求と責任追及…。過酷な無賃労働を強いられた帰還者らは、「奴隷のままでは死ねない」と訴える。
感想・レビュー・書評
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太平洋戦争終了後、捕虜としてソ連に抑留され、労働力として、資本主義に対抗するトロイの木馬として、過酷な環境下に置かれた人々の話。
関東軍、満州入植後の住民がソ連の至る場所にある収容所で労働に従事させられた。
実態はげき弱だが、関東軍は最強との適当な宣伝を鵜呑みにし、逃げ遅れた多くの民間人が捕虜になったこと、敗戦後、民間人を残して多くの軍人が引き上げていったこと書かれていた。
マイナス50度で、食べるものもろくにない環境で仲間がバタバタと倒れた。高いノルマで、とんでもない重労働。
反乱分子の積極的な密告を募ったソ連。反乱分子とみなされてリンチされて死んだ捕虜も。同胞の人間でさえ信頼できない最悪の環境だった。
そして引き上げた後も苦難は続く。
捕虜の取り扱いを決めた国際法に違反しまくったソ連には、戦後請求権の破棄をさだめた日ソの同盟を理由に未払い賃金を請求できない。
日本政府は南方の捕虜には補償をしたが、シベリア捕虜には補償をしなかった。
また後の資料から、捕虜を労働力として差し出すことで戦後の天皇制維持を画策したお偉いさんの文書も見つかった。
そんな中、かつての引揚者は高齢化し、なくなる人も絶えない。集団として語られることが多いが、抑留で亡くなった人も含めて全員がかけがえのない尊い命。
ずさんな扱いを受けた過去や、日本政府の対応など、このまま時間の経過とともに闇に葬られていいわけがない。
「窮地に立たされた時に人間の本質が明らかになる」と著者。それをどこまでも明らかにし、捕虜を見捨てようとした国家、補償をしない現在の日本国のあり方が浮かび上がった。
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文体がとっちらかってはいるがたくさん取材しきちんとまとめられている印象。
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1941年7月2日御前会議 情勢の推移に伴う帝国国策要綱 状況に応じてソ連と戦う
司馬遼太郎 学徒動員で関東軍に→本土防衛のために帰国
ジャリコーヴァ密約
マリノフスキーの脳裏には、日本によるかつてのシベリア出兵があったことは間違いないだろう。…ソ連にとってもっとも苦しい時期に干渉戦争を挑んだ日本への恨みは、深く残っていた。
日本側が兵士を労働力として差し出す?
捕虜→恥 行政文書でも抑留者
飢えが精神を破壊 馬糞の中の麦
第二シベリア鉄道と言われるバム鉄道の建設
スターリンへの感謝署名 署名しなければ帰国できないと信じ込まされていた抑留者
日本人同士の密告
帰国 前期1946年から1950年 後期1953年から56年
ソ連が連合国側であったため実態は伝わらず・プレスコード
引き上げ船内部の異様な雰囲気 アクチブ吊し上げ
赤い帰還者
1956年10月 日ソ共同宣言 人質外交
政治学者・岡本清一 帰国者はロシアの事情を知るはずもない。…平和がどうの、再軍備がどうのと言わせてみたところで何にもならないのである。
斎藤六郎 全国抑留者補償協議会 1981年提訴
池田幸一 蟷螂の斧(とうろう) カマキリの会
抑留者3団体の対立 与党側、野党と協力したもの
米英では捕虜は勇敢な戦士
ミズーリでの調印式に捕虜を招待 万年筆を与え、その労をねぎらった。
日本政府 補償、謝罪はしない。しかし慰めはする。
自然災害に遭った人への態度
モスクワに政治犯の犠牲者の墓苑 宇山禄郎
「もっと話を聞いておくべきだった」そう後悔する遺族は多い。
1991年 シベリアで遺骨収集開始
バム鉄道 枕木1本につき日本人1人
余りにも無関心、見捨てられた、薄情だ→日本政府に対する気持ち アンケート
窮地に立たされた時にどう振る舞うかによって、その人間の本質が現われる。国家も同じだろう。 -
シビアな内容ながらすいすい読めるやさしい新書。
シベリア抑留関連書籍の入門編という印象。
うちの曾祖父もシベリア抑留経験者。
直接話を聞く機会を持てないままに曾祖父が亡くなってしまったので、こういうたぐいの本から知識を集めていくしかないわけで。
とはいえ、読もうと思った一番の動機は、“MGSのリキッドが好きで、元工作員や捕虜体験記をぽつぽつ読んでいるからその一環として”。
シベリア抑留者の家族としても、液蛇好きとしても、たいへん興味深くたいへん勉強になる本でした。 -
満州引き揚げあたりから丁寧に追ってくれると思いきや、抑留の話はあまり掘り下げてなかった印象?!山崎豊子の不毛地帯の方が何倍も壮絶さが伝わった。
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戦争は色んな意味で終わっていないんだと感じた。
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祖父(2008年死去)がシベリア抑留経験者です。多くを語らなかった祖父の壮絶な人生の一部を少しでも知りたいと思って読みました。
終戦後の日ソ交渉やソ連による抑留計画など、手記の類では語られない歴史的事実に大変驚かされました。また、生きて帰国した抑留者が祖国日本にその後も苦しめられる姿に心を痛めました。祖父はどんな思いで帰国後の人生を過ごしたのか…、今となっては確かめる術などありませんが、その亡き祖父と「対話」するように、この戦後75年の今年を過ごしていこうと思っています。 -
2017/01/29
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抑留者数 日本政府推計 575,000人(うち民間人39,000人)、死者55,000人。
別に病気などで満洲や北朝鮮に送り返されたもの47,000人、そのうち23,000人が死亡。
計78,000人が満洲での抑留関係死亡者。
ほとんどの者が「ダモイ(帰国)」とだまされてシベリアへ連行される。ジャリコーヴァでの関東軍とソ連軍の密約説があるが著者は否定的。圧倒的に立場の強いソ連側に密約を結ぶ必要がないからだ。また労働力不足のソ連は、捕虜を働かせる計画を明らかに持っていたとされる。しかし、日本側は後に朝枝参謀の「実視報告」などであきらかになったように、捕虜や居留民による役務提供や、満洲への置き去りを容認しており、後の法廷闘争にもつながる。
死者は45−46年に集中。飢え、寒さ、重労働の三重苦に加え、民主化運動などの内輪揉めがあった。吊るし上げは連合赤軍を連想させる。ドイツ軍捕虜は日本軍捕虜に比べ毅然としていたとか。
最初の引き揚げは1946年12月8日舞鶴入港の「大久丸」「恵山丸」。祖父はほぼ第一陣で帰国できたのだろう。当初はシベリア抑留の過酷な様子は、プレスコードもあって国民につたわらなかった。赤化された引揚者もいた。マジメな人ほどソ連への協力を生き延びるための方便と割り切れずに(割り切った人も多かったみたいだが)、自己正当化したのではないか。日本軍の体質や、卑怯な上官への反発があった人も多かったであろう。進歩派知識人の時代でもあった。「戦犯」としてハバロフスクに抑留されていた1,025人が帰国できたのが1956年12月26日。
しかし、北朝鮮の拉致被害者と比べて、シベリア抑留者について世論は盛り上がらない。時間の経過か、やはり当時の関東軍参謀と同じく、やむをえない犠牲と捉えてしまいがちなのか。
二十一世紀になっても遺骨調査や法廷闘争が続く。本当の解決・決着というものはないように見える。合掌。