証言 水俣病 (岩波新書 新赤版 658)

制作 : 栗原 彬 
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004306580

作品紹介・あらすじ

親しき者たちの壮絶な死、突き刺さるような差別と偏見、チッソ・行政との長き闘い、そして和解案受諾の選択…。心身を蝕む病苦を抱えながら、水俣病患者たちは、どのように生き、何を訴えてきたのか。事件の風化が危惧されている今、10名の患者がみずからの体験や思いを語り、時代の感受性を問う証言集。

感想・レビュー・書評

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  • 水俣病と言われても、今更感を持つ方が多いかもしれません。しか
    し、水俣病とは何だったのか、水俣という土地で何が起きたのか、
    は今こそ目を向けられるべき問題だと考えています。

    何故か。今、福島で起きていることと、水俣が過去に経験してきた
    ことが重なる部分が多いからです。有機水銀を放射能に、チッソを
    東電に替えれば、被害者、行政、企業という構図はびっくりするく
    らい似ています。また、ただでさえ辛い立場にある被害者(被災者)
    が、差別や迫害に苦しむという点でも共通しています。本書を読む
    と、水俣で起きたことが、そっくりそのまま福島で繰り返されてい
    るということに、戦慄すら覚えるでしょう。

    実は先週、生まれて初めて水俣を訪れてきました。有機水銀に汚染
    された海を埋め立てた土地にできた水俣病資料館に立ち寄り、展示
    内容を見て、資料館の人と話してきました。その上で本書を読んだ
    のですが、現場を見、本書を読んで知った中で最もショックだった
    のは、水俣病というものが、水俣市民一般ではなく、漁村部の貧し
    い人々に集中した病気だったということでした。

    また、チッソの強大さも想像以上でした。水俣病発生当時、チッソ
    関連の税収は市の税収の半分を占めていましたし、今も操業するチ
    ッソの工場は、水俣駅前の一等地にあります。当時も今も、チッソ
    あっての水俣であり、チッソの製品あっての日本経済なのです。そ
    ういう中では、自然と共に細々と生きてきた零細漁民達が切り捨て
    られていくのはいわば必然だったのでしょう。「腐った魚を食べる
    貧しい人々」の問題、しかも「殿様」であるチッソに唾するような
    問題だからこそ、一般市民にとっての水俣病は嫌悪の対象になりや
    すかったのです。

    おまけに、水産業に頼るしかない自治体や漁協も、魚が売れなくな
    ると困るので、病気の発生を隠蔽しようとしました。それが患者の
    発見を遅らせると共に、漁村内での差別や迫害につながったのです。
    さらに、患者認定された人に補償金が出るようになってからは、非
    患者達のやっかみが新たな差別や分断を生んでいったのです。

    本当に人間というものはどうしようもないものですね。経済の論理
    の前に生命や人間の尊厳は簡単にないがしろにされてしまうのです。

    水俣病資料館の人は、「水俣病の歴史を語り次ぐことで、二度と同
    じ過ちが起きないようにしたいと思っていたが、水俣の教訓が福島
    で全く生かされなかった。それが本当に悔しい」と話していました。

    不知火の海は本当に美しい海でした。美しく、安全な不知火の海を
    取り戻すまでに、水俣病患者の「公式発見」からは40年、チッソが
    廃液垂れ流しをやめてからでも30年の年月を要しています。福島で
    も同等の年月がかかるのかもしれません。既に遅きに失した感があ
    りますが、水俣や福島が投げかけている問いに答えを出していかな
    いと、本当に将来世代に申し訳が立たなくなってしまいます。

    3.11以後をどう生きるか、という個人にとっても企業にとっても大
    きなテーマを考える上で、水俣の問題は示唆に満ちています。水俣
    を知る上で本書は格好の一冊ですので、是非、読んでみて下さい。

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    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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    水俣病は社会病である。水俣病者はその歴史を通じて、身体と生命
    への加害に加えて、社会からの構造的で重層的な差別と排除にさら
    されてきた。最大の受苦は、差別され、侮辱されることだった。

    すべての水俣病者の闘い、水俣病闘争とは何だったのか。チッソと
    の自主交渉や裁判を通して水俣病者が言ってきたことは、ふたつの
    ことに尽きるのではないか。「死んだ子(親、兄弟、友人)を返せ」
    と、「人間として相対して謝れ」ということ。
    「死んだ子を返せ」とは、死者は甦らないが、開発優先のシステム
    を改めて、未生の命を奪わないような社会をつくってほしい、その
    ことによって死んだ子の魂も癒されるだろう、ということになる。
    「人間として相対して謝れ」という発語は、同じ人の子として永年
    の苦しみを受けとめて心から詫びてほしい、人間として正しくない
    ことをしたと認めて、責任をとってほしいということ。
    しかし、人間として相対してくれという問いかけに、チッソも行政
    もついに答えなかった。

    誰もが今日、組織の中で何らかの決定に遭遇しながら生きている。
    その決定が私の生命への感受性に抵触するもので、私も加害者にな
    るかもしれないとしたら、私はどうするか。私がチッソの幹部だっ
    たら、チッソと異なる決定をしていただろうか。

    「私たちは村八分にされて、買い物に行ってもお金を手渡しでは受
    け取ってもらえずに箸やザルで受け取られてたり、家の前を鼻つま
    んで通られたりして、誰からも声をかけらえなくなりました」

    「『水俣病に間違いないから認定申請しなさい』といわれたけれど
    も、私は『ちょっと待ってくれ。子どもの結婚に差し障るからだめ
    だ』といって、母と私で親父の申請を止めたっですよ。(…)
    役場が申請の手続きを手伝うようになったのはつい最近のことです。
    それまでは助役が真っ先に、『御所浦には水俣病患者はいない』と
    いっとった。それはなぜかといえば、御所浦は漁で生活を支えてい
    る島やけん、魚が売れんようになれば困るからです」

    「水銀の垂れ流しが昭和七年(1932年)から始まって、私はその
    翌年に生まれてますので、どっぷりと水銀の中につかって生きて来
    たんです。それでも、環境庁はずっと『保留』のまま放ったらかし
    てきました。二〇年も。二年じゃない、二〇年もですよ」

    「もし正しい知識と情報が伝わっていれば、この四〇年間、私たち
    はこんなにまで苦しみを受けないで済んだし、ここまで拡大しない
    で済んだはずで、私たちの運動は、水俣病についての正しい知識と
    情報を自分たちの手に取り戻す、そういうことではなかったかと思
    うわけですが、そうしきれなかった私たちの責任は重いんです」

    「海では大漁でもしたら、一晩で陸の一ヶ月分の収入をあげること
    ができるんですが、そんなことが何回もありました。だから海で生
    計を立てておる人が陸の仕事に切り換えるということは、よほどの
    ことがない限りできないわけです」

    「私が女島を出ていった当時はボロの家ばかりでした。それが一八
    年ぶりに帰ってみると、認定された人たちは補償金と年金でまった
    く違う生活をしていましたが、未認定の人たちは以前にも増して苦
    しい生活をしていました。そして、みんなが貧しい生活をしていた
    ときには全体が家族のようだった女島の雰囲気が、まったく崩れて
    しまっていたんです」

    「『仕方んなかがね。どうせ死ぬとなら、人ばいじめて死ぬよりい
    じめられて死んだほうがよかがね』ち。そして、『人様は変えなら
    んとやっで(変えられないから)、自分が変わっていけばよかがね』
    ち、父の答えがそげんだったです。だから、本当に悔しいことはい
    っぱいありましたが、人にやり返すことはしませんでした」

    「父が教えてくれたのは、『網の親方は、人を好きにならんば一人
    前にはならんとぞ。人様のおかげち思って魚は捕らんばんと。そが
    大家督の親方ぞ』ち、もう耳にタコんでくる如、毎日いうとったで
    す。ばってん水俣病になって人が変わっていくなか、どこまで信じ
    ればよかっかわからんかった。いろいろいじめを受けつづけて、人
    が好きになるには本当に長い歳月がかかりました。父は嘘ばいった
    っじゃなかろうかちゅうごて、歳月が過ぎました。でも今は、本当
    に病気のおかげだなって思っています。なぜならば、私たちは母が
    人様より早くに病気にかかったためにいじめにおおたけれども、そ
    うでなければ水俣ではいじめる側に立たされたです。だって、水俣
    ではチッソが殿様だったし、殿様を支えたのが国だったし、行政だ
    ったし、私たちは虫けら同然だったですから。でも、私たちはいじ
    める側に立たされなかった。だから、今があると思うとです」

    「父もいい遺してくれたように、『水俣病も”のさり”じゃねって
    思おい』と。自分たちが求めんでも大漁したことを”のさり”とい
    うんです。水俣病も、自分たちが求めんでも自分に来た”のさり”
    と思おいと。だから、本当につらかった水俣病でしたけれども、水
    俣病のおかげで私は、人としての生活が取り戻せたように思います」

    「私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っ
    ています。(…)
    この四〇年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するよう
    になり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラ
    スチックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工
    場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけで
    す。水道のパイプに使われている塩化ビニルの大半は、当時チッソ
    が作っていました。最近では液晶にしてもそうですけれども、私た
    ちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、
    水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれど
    も、時代の中ではすでに私たちも『もう一人のチッソ』なのです。
    『近代化』とか『豊かさ』を求めたこの社会は、私たち自身ではな
    かったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱していくのかと
    いうことが、大きな問いとしてあるように思います」

    「私の願いは、人としていきたい、一人の『個』に帰りたいという
    この一点だけです。水俣病事件の四〇年、戦後五〇年、私たちを支
    配し、まるで奴隷下に置くかのようなこの『システム社会』が肥大
    化してきて、自分の命の源がどこにあって、どういうふうに生きて
    いくのか、もうわからん如なってしもうたそのときに、生まれ育っ
    た不知火の海と、そこに連なる山々や天草の島々、その連なる命の
    世界の中に、自分がひとり連なって生かされているという実感をと
    もなって感じたとき、本当に生きているという気がするわけです」

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    ●[2]編集後記

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    先週は娘と二人旅をしてきました。熊本から入り、島原・雲仙→天
    草→水俣→阿蘇と回ってきたのですが、九州の雄大な自然に触れな
    がらの娘との時間は、本当にかけがえのないものになりました。

    身重の妻の休息と、娘の母離れの準備、という表向きのテーマに隠
    れた旅のテーマは、過去に大きく傷ついた場所がどのように再生し
    ているのかを確かめる、というものでした。43名の命を奪った火砕
    流から20年たった雲仙普賢岳と、水俣病の発生から55年たった水俣。
    この二つの土地を訪れるのが個人的な目的だったのです。

    二つの土地を訪れて印象的だったのは、どちらも土地の言葉を支え
    にしながら、再生への道を歩んでいるように見えたことでした。

    島原ではそれは「がまだす」という言葉でした。そこら中で見るの
    で何だろうと思って地元の人に聞いてみたら、両腕に力こぶを作り
    ながら「頑張る!」の意だと教えてくれました。その仕草と笑顔の
    明るさから、愛されている言葉なんだな、と思いました。

    水俣では「もやい直し」という言葉が使われていました。「もやい
    (舫い)」とは漁師言葉で、「船をつなぐ」という意味から転じて、
    人々が共同で何かをしたり、話し合ったりすることを意味するよう
    になったとのこと。水俣病で分断された人間関係を再生・創造する
    のに、その漁師達の言葉が使われているのです。

    傷ついた土地の再生や復興の過程は、その土地土地の固有の物語を
    紡ぎ出す過程であるはずです。それはやっぱりその土地の言葉に託
    して語られるべきものなのでしょうね。

  • 金大生のための読書案内で展示していた図書です。
    ▼先生の推薦文はこちら
    https://library.kanazawa-u.ac.jp/?page_id=18340

    ▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
    http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BA45312713

  • 難しいと敬遠していた水俣病のことが、この一冊でぐっと理解できたような気がする。「証言」の数々が特に心に刺さった。

  • 1996年に東京で開催された「水俣・東京展」での講演をもとにまとめられた患者さんたちの証言集。石牟礼さんの著作などを通して、患者さんたちの精神性の高さ、強さには感嘆していたが、本書でも改めてその思いを強くした。それにひきかえ、問題を早く終わりにするための和解や認定申請却下を押し通す国や県のやり方の汚いこと。この講演時からすでに30年近く経った今、状況はさらにひどくなっていると聞く。患者さんに犠牲を押し付けて終わりとしないためにも本書は読み継がれていくべき1冊だと思う。

  • ↓利用状況はこちらから↓
    https://mlib3.nit.ac.jp/webopac/BB00000269

  • 水俣病患者の証言により構成されている。本書をよんだ感触として、ただ水俣病患者の苦しみを伝えるだけでなく、水俣病という病理を生み出すような社会構造そのものを問題にしているように感じられた。

  • (2016.09.26読了)(2011.12.04購入)

    【目次】
    序章 死者と未生の者のほとりから―水俣病者が語るということ  栗原彬
    第一章 悲劇のはじまり
    幼い妹が「奇病」に  下田綾子
    一家全滅の淵から   荒木洋子
    第二章 隠された被害
    漁を奪われて     荒木俊二
    故郷をはなれて    大村トミエ
    第三章 みずから立ち上がる
    一人からの闘い    川本輝夫
    苦渋の選択      佐々木清登
    第四章 水俣病とともに
    水俣の海に生きる   杉本栄子
    部落に救われて    仲村妙子
    第五章 現代を問う
    故人たちとの再会   木下レイ子
    魂のゆくえ      緒方正人
    本書の成り立ち―あとがきにかえて  石黒康
    水俣病関連文献
    水俣病関連年表

    ☆関連図書(既読)
    「水俣病」原田正純著、岩波新書、1972.11.22
    「水俣病の科学 増補版」西村肇・岡本達明著、日本評論社、2006.07.15
    「新装版苦海浄土」石牟礼道子著、講談社文庫、2004.07.15
    「天の魚 続・苦海浄土」石牟礼道子著、講談社文庫、1980.04.15
    「谷中村滅亡史」荒畑寒村著、新泉社、1970.11.20
    「田中正造の生涯」林竹二著、講談社現代新書、1976.07.20
    「沈黙の春」カーソン著・青樹簗一訳、新潮文庫、1974.02.20
    「奪われし未来」T.コルボーン・D.ダマノスキ著、翔泳社、1997.09.30
    (「BOOK」データベースより)amazon
    親しき者たちの壮絶な死、突き刺さるような差別と偏見、チッソ・行政との長き闘い、そして和解案受諾の選択…。心身を蝕む病苦を抱えながら、水俣病患者たちは、どのように生き、何を訴えてきたのか。事件の風化が危惧されている今、10名の患者がみずからの体験や思いを語り、時代の感受性を問う証言集。

  •  原田正純さんの『水俣病(http://booklog.jp/item/1/4004111137)』を読んで患者の方々の言葉が聞きたいと思い、本書を手に取ってみた。(実ははじめからそのつもりで借りたのですが)

     本書は1996年の「水俣・東京展」での水俣病患者による講演をもとにしており、被害者の方々が全国に広くその問題を訴えるために、自分たちの苦しみをあえて言葉にして伝えるという覚悟の上に成り立っている本とも言える。

     その実態は『水俣病』で理解していた以上のものがあった。家族を失い、自分も病に倒れ、信頼していた親戚や近隣の人びとから疎まれ、役所も国も助けてくれなかった。家族、親戚、街の仲間。認定された患者と、認定されなかった患者。企業や行政の責任を追及すべく訴訟を起こした患者と、和解に応じた患者。結局のところ、海は汚され、街の人びとは引き裂かれていったのだということがよく分かる。

     彼らはそんな絶望のなかで生き続け、さまざまなきっかけでそれが「水俣病」であると知り、立場は違えども企業や県・国を相手に戦ってゆく。ここにどれほどの苦しみがあり、どれほどの覚悟があったことだろうか、と思う。

     1968(昭和43)年に水俣病が公害病とされてからも認定されない患者が多く存在し、水俣病認定をはじめ水俣病に関する裁判は繰り返されてきた。そして1996(平成8)年に、チッソと未認定患者集団のあいだで和解協定書が交わされ、公式的には和解は成立したものとされている。

     しかし本書では、未認定患者らが進んでこの和解に賛同したわけではないことがよく分かる。戦いの末に仲間の患者らは高齢とともにますます病状を悪化させてゆく。そのようななかで与えられた最後ともいえる和解の機会。それを彼らは泣く泣く受けいれていったという実態が、複数人の証言から明らかになる。

     公式認定から60年が経ち、水俣の海はきれいになったのかもしれない。けれど、そこにはまだ「水俣病」の被害者がいる。そう実感させられる本だった。

  • 1996年に東京都・品川で開催された「水俣・東京展」の期間中に
    行われた水俣病患者10人の講演をまとめている。

    悲惨であるとか、凄絶であるとか、言えば言えるのであろう。
    しかし、そんな言葉だけでは物足りないほどの苦しみと悲しみ、
    怒り、恐怖、絶望がある。

    熊本大学の調査で早々に有機水銀による汚染が原因であると
    判明していた水俣病は、原因企業であるチッソと産業を守ろう
    とする国が自国民を見殺しにしたのに等しい。

    「今後、チッソに対する一切の訴訟・請求はしない」ことを
    条件に見舞金をばらまき、工場排水が汚染原因であると分かっ
    ても垂れ流しは止めず、指定医以外の診断では認定を認めず、
    患者が増えれば認定基準を更に厳しくする。

    患者たちを苦しめたのはチッソ・国だけではない。当初は奇病だ、
    伝染病だと言われ、謂われなき差別を受け、一時金を受け取れば
    やっかみの目に晒される。

    足尾銅山鉱毒事件を引くまでもなく、産業界を優先させた国の
    責任も重いはずだ。それなのに裁判や認定申請を取り下げること
    を条件に、和解協定が結ばれる。

    医療費・年金の支給は受けられる。しかし、水銀に侵された体が
    元の健康を取り戻す術はない。

    日本にもこんな時代があった。これは国と産業界による自国民へ
    のジェノサイドである。日本人なら読んでおきたい◎な良書である。

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