- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003900017
作品紹介・あらすじ
「自由の理念は破壊不可能なものである」。純粋法学の創始者ハンス・ケルゼン(1881‐1973)の代表作。相対主義に立つ世界観と現実主義的知性から、議会制民主主義は「自由」の最大化を実現する国家形態であるとして擁護し、絶対的価値の想定にもとづく独裁を批判する。民主主義の危機が切迫した1929年刊。
感想・レビュー・書評
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純粋法学で有名なケルゼンの古典。現代にも通じる民主主義論。公務員の勉強会でも取り上げたいな。
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学生時代から岩波文庫の西島芳二訳に親しんできたが、一度改訳したとはいえ初訳昭和7年という訳文の「生硬」さは蔽い難かった。そのため、この度ケルゼンやシュミットの研究で名高い法哲学者長尾龍一と明治大学大学院植田俊一郎との共訳に改め、更に「民主主義の擁護」をも併録して上梓したものである。もともと長尾は別著で「民主制の本質と価値」と「民主制の擁護」を訳出しているが、今回は再度原著に当って訳文を再検討し、まさに「新訳」に相応しく読みやすい文章になっている。内容については今更蝶々する必要もないだろう。ワイマール共和国が終焉を迎えつつある時代に、相対主義的世界観に立脚する民主主義をいかに擁護するのか。苦悩するケルゼンと相見えることは、現代民主主義にとっても無意味ではあるまい。
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第2次大戦前に書かれた法学書ながら、これは掘り出し物の良著だった。
「民主主義」と「自由」「国家/国民」という、実際の経験上、なかなかすっきりと概念配置ができない問題に関して、ケルゼンは鋭い分析をしている。
「自由」は国家の統治とはほとんどの場合折り合いの悪い問題系だが、ケルゼンによると民主主義においてはこの「自由」概念が変容し、個人の自由というテーマは「国家の自由」にすり替えられるという。
もちろんそうすると、集団内諸個人が共有する「一般意志」が問題になってくる。代議制・多数決の手法によって、統計学的には個人の政治的意志が国家に委ねられるのかというと、実際にはそこには亀裂があるといつも感じている。
そもそも、私は「国民」なのか?「国民」という概念はあまりにも濫用されると、個人を圧殺するのではないか?
こうした私の日頃の疑問に、この本は答えてくれた。
「複数の人間が、この『国民』(概念)において統一体を形成することが、民主主義の基本前提であるように見える。」(P30)
しかし、
「国民は、民族的・宗教的・経済的対立によって引き裂かれており、社会学的には、均質の固形凝集体であるというよりも諸集団の束である。」(同)
そこでケルゼンは(統一体としての)「国民」概念を、「国家法秩序の統一性」という面のみに、いちじるしく狭く限定する。
「『国民』とはそのような統一体であって、素朴な観念が誤解しているような人々の総体・寄せ集めではなく、国家法秩序の規律対象となる個々の人間行為の体系に他ならない。
・・・
国家秩序が把握するのは、個人生活の特定の側面にすぎない。人間生活の相当部分は、国家秩序の外に在り、必然的に国家から自由な領域を留保されている。」(同)
したがって、「諸個人の多様な行為を国家法秩序によって統一化したにすぎないものを、『民衆の総体』としての『国民』であると賞するのは擬制」なのである。
先日読んだウィトゲンシュタインふうに考えても、「国家」「国民」などという、そもそもの実体が判然としない抽象語に関しては、それを語る文脈においてその内容も曖昧に変容する。最初に明示的な「意味内容」があるのではなく、最初にディスクールがあるのである。「意味」ではなく「文法」である。
国家だの国民だのと言う観念ごときに包含されうるほど、「人間」は単純なものではないと私は考える。個人はそれ自身が多様性をもち多義的な存在であって、それが何万人も集まればその多様性は爆発的なものにならなければおかしい。
にも関わらず、ことに最近の日本では「国家」をふりかざす論者が増殖し、あたかも鉄壁の統一体であるかのように「国民」が語られる。そこからはみ出した者は「非国民」であり「売国奴」とされてしまう。あげくのはてには、ISILに人質としてつかまったジャーナリスト後藤健二さんに対し「自己責任」だのと突き放すばかりか、「(国にとって)迷惑だ」とか「自決して欲しい」などという言表がまかりとおる有様だ。
明らかに、日本はいま、「国家」や「国民」の概念が熱狂的に強調されすぎて、「人間」が見失われようとしている時代にあるのだ。
ケルゼンが教えてくれるのは、「国民」という概念はそうそう拡張されるべきものではなく、一定の(法秩序という)観点に立った場合に「のみ」語られうるという、純粋論理的な思考である。
特に「国民」概念に関して、この本は私の最近の戸惑いをすっきりさせてくれた。議会、行政、多数決原理など、本書にはもっとたくさんのことが語られており、そのすべてに同意することはできないかもしれないが、政治について考える上で、この本を読んでおくことはとても有意義だと思う。 -
日本におけるケルゼン研究の第一人者による新訳。表題の「民主主義の本質と価値」に加えて、「民主主義の擁護」という小論が訳出されている。ケルゼンの主張の骨子は、人間は本性的に自由を求めるものだというルソーを思わせる命題から出発しつつ、直接民主政の不可能性を指摘したうえで、議会制民主主義を擁護するというもの。しかし、シィエス流の議会主権論とは異なり、レファレンダムやイニシアティヴを議会制の補完政策として提言するなど、議会制のもとで可能な限り一般意志と全体意志の接合を具体化することを目標としている。そのため、ソ連については好意的な記述も見られるものの批判的であり、ファシズムも当然批判されている。加えて、「民主主義の本質と価値」では職能代表制に対する批判に紙幅が割かれているが、これについては村上淳一『ドイツ市民法史』などを参照するとよりケルゼンの標的を具体的にイメージできるだろう。民主主義は真理への到達不可能性(相対主義)を前提とするという最後のテーゼは、認識に捧げられた彼の「純粋法学」との関連でもまた興味深い。その一方でこれは、ケルゼンが戦間期や戦後の法学において嫌われてきたわけを窺わせるテーゼである。今回新たに収録されている「民主主義の擁護」は、ナチズムが席巻しつつあるなかですら、民主主義は反民主主義的政治信念も受け入れるものであり、多数者が独裁を選択するのであれば、民主主義者は自由の理念と一緒に沈没していくのである、という相対主義テーゼをケルゼンが一貫して擁護したことを如実に示している。
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あらゆる思想はそれが「主義」に淫する時、論理が現実から遊離して自壊する。いかに高潔な理想に導かれたものであってもだ。反発はあるだろうが敢えて言おう。ケルゼンの純粋法学が学としての純粋性を守ろうとして現実との接点を見失ったように、その民主主義論も価値相対主義の呪縛に飲み込まれた。
民主主義にせよ自由主義にせよ、決して「それ自体として」価値があるのではない。当然ながらそこにはプラスとマイナスがあり、現実の状況次第でいつでも反対物に転化する。本書でケルゼンは民主主義の「それ自体としての」価値を極限まで追求した。一言で言えばそれは自己決定ということだ。
もちろんケルゼンはシュミットのように「代表」概念を媒介として治者と被治者の同一性をアクロバティックに仮構したりはしない。本書はそのようなシュミットの形而上学への批判として書かれたものだ。ケルゼンは現実の政治において完全な自己決定などあり得ないことを理解していた。だからこそ政党政治を評価し、妥協を模索するプロセスの中で、自己決定からの乖離を最小化しようとした。その限りで彼は現実を見据えていた。
ただ自己決定そのものを疑うことだけは決してなかった。それは価値相対主義への強固な信念から来る。価値に絶対的な基準がないからこそ自らが価値を選択すべきであると。この場合自己決定という決定のプロセスが全てであり、決定内容の是非を問う超越的な視点は持ち得ない。それはシュミット以上に決断主義的である。その論理的帰結として民主主義が民主主義の名のもとに自らを否定することも許容する。良く言えば知的誠実さの表れだが、厳しく言えば学者の自己陶酔に過ぎない。国民の拍手喝采のもとに政権の座についたヒトラーがワイマール憲法を事実上停止したのが1933年、「民主主義の擁護」が書かれた翌年というのはなんとも皮肉である。しかしケルゼンは戦後本書を改訂しなかった。
価値相対主義を基礎にしたケルゼンの法理論や政治哲学にイデオロギー批判の意義があることは認めよう。日本では訳者の長尾龍一氏がその観点からケルゼンの延命を図った第一人者である。しかしそれは批判すべきイデオロギーとの現実の対抗関係の中で、どれだけ実践的な意味を持つかによって真価が問われる。イデオロギーが相対的なものであるように、イデオロギー批判も相対的であることを免れない。
公平を期すために付言しておくが、政治「哲学」としてではなく、政治「社会学」として本書を読めば、現代の政治状況に照らしても貴重な示唆が含まれることは確かだ。例えば比例代表制による小党分立は決して弊害なのではなく、小異を捨てて大同につく妥協を促すものとしてむしろ利点であるとケルゼンは説く。どこかの国で現実を無視した周回遅れの二大政党制を煽った政治学者に聞かせてやりたいものだ。 -
ワイマールドイツの法学者。議会制民主主義を擁護し、カール・シュミットらを批判する。「現代議会主義の精神史的状況」と合わせて読みたい。
①②自由(ルソー社会契約論を引用)/国民(創造の共同体など?)
支配からの自由(無政府的)が人間の根源的欲求ではあるが、社会秩序形成においては現実的でなく、万人一致の集団的自律へと変遷する。ただそれも現実的でなく、可能な限り多くの人の自由を尊重する多数決(=民主制)が正当化される。擬制である国民は社会集団を統合する束である。すなわち現実問題として国民は実際には政党・職能集団に分化し、自由の範囲も有権者の枠内にまで縮小されている。
③④⑤議会
自由という民主制の要請と分業原理の妥協。合議制は進んだ社会では必須のもので、国民意志そのものではないが、社会技術的手段として正当化されるべきと述べている。改革としては国民投票、免責特権廃止、議員無答責廃止(国民からの疎遠性)、職能議会((専門知識)→筆者は議会の下位互換と一蹴)がある。
⑥多数決原理
国民意志を議会に反映し、多数派と少数派で分けるこの原理は平和的妥協を導く。社会意志形成において共通基盤のもと相互了解のもとで決定に服従する(法の支配)のは漸進的ではあるがマルクス主義と異なり利害調整できる。比例代表制が望ましい。
⑦民主主義的な立法を行政の枝葉末節に行き渡らせるには、執行部分は民主主義的になってはならない。そのため官僚制という合理的組織は民主主義とセットなのだという。
⑧統治者の選択
民主制は統治者の不在だからこそ、統治者の選定が鍵となる。権力分立の傾向もある(米国=民主皇帝制)が、それはとどのつまり統治者を複数選んでいるということである。そこでは専制国と違って統治者の責任や交替が存在し、広い基盤において選定を進めるということだ。そのためには教育が必要だが、プロレタリアはその準備ができてないので成功しないだろうといっている。
「被治者の団体から複数の統治者を選ぶ独自の方法」
⑨形式的民主主義と社会的民主主義
社会主義において本来は民主主義によって(圧倒的多数の労働者の支持を得て)経済平等が実現するはずなのに理論が破綻したという現実において、独裁制を指向する。
⑩民主主義と世界観
民主主義は国家形式を決めるもので中身を決めるものではない。民主主義を正当化する根拠に「国民が絶対的な真善美がわかるから」というものがあるが、それは絶対的権威が存在することを前提としているからで、政治的相対主義に立った上で粘り強く妥協していくことが求められていると語る。
民主主義の擁護
絶対的価値観を持つプロレタリアとブルジョアに攻撃されながら民主主義は没落を始めるが、その自殺行為を容認する悲痛な文章。
前提知識が圧倒的に足りてなかったので苦労した。特に前半はルソーが分かっていればよかったと思う。議会制民主主義者の肯定側の主張なので反対派を読まないと何とも言えないが、民衆が本当に自由を求めているのか、国家において国民としての一体感がないところ(対話不能)はどうなるのか、一般的に民主主義と立憲主義は対立するものだが、民主主義の中に少数者保護が内在しているという考え方だと憲法の捉え方も変わってくるのか、など疑問はつきない。一通り勉強した後に再度読むと文脈が理解できそう -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/708068 -
アメリカ大統領選挙や大阪都構想住民投票など何かと分断が話題になるが、今一度民主主義というものを根本から考えてみるために読んでみるのが良い。
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その昔、ゼミの先生から「ケルゼンは哲学が弱い」と言われた記憶あり。
読みもしないのに、横田喜三郎の『純粋法学』、清宮四郎の『一般原理』など購入して本棚に並べておりました。
鵜飼信成さんがケルゼンのハーバードでの講義を聴講されたとか、それも日米開戦でケルゼン手書きの講義案を贈られたそうな、ドラマですねぇ。