- Amazon.co.jp ・本 (140ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000615402
作品紹介・あらすじ
死刑廃止の国際的な趨勢に反し、死刑を存置し続ける日本。支持する声も根強い。しかし、私たちは本当に被害者の複雑な悲しみに向き合っているだろうか。また、加害者への憎悪ばかりが煽られる社会は何かを失っていないだろうか。「生」と「死」をめぐり真摯に創作を続けてきた小説家が自身の体験を交え根源から問う。
感想・レビュー・書評
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本書は、タイトル通り、「死刑」について平野啓一郎さんが講演で語った内容をテキストにしたものです。
平野さんは死刑について、以前は存置派でしたが、いまは廃止派になったといいます。ヨーロッパの人々との出会いから変化していったのだそうです。
また、平野さんは小説家らしく、書くことで考えを深めて、存置派から廃止派になったとも語っています。犯罪被害者側の視点を究めた小説『決壊』を書く上での思索が、反対派になった理由でもあるそうです。
本書では、大きく三つの理由から反対を論じられています。ざっくりとご紹介すると、「冤罪の理由」「自己責任論の理由」「倫理上の理由」です。
ところで、一九九七年に、あるTV番組で「なぜ人を殺してはいけないのか」というテーマが高校生から出たそうなのですが、その場の大人はそれにうまく答えることができなかったそうです。
平野さん曰く、殺してはいけない理由は憲法があるから(基本的人権の尊重)だと書かれていますが、なぜか会場の大人にはそれを言う人がいなかったと。
それを、日本の人権教育の失敗につなげて書かれているのですが、このあたりは私も失敗かもなと思いました。
何故なら私は、「相手の立場にたって考えよう」という教育は受けたように思っていて、<共感>についてかなり刷り込まれたものがあると自覚しています。ですが一方で、私は<人権>についてかなり後追いで理解したところがあるからです。
実際に、私が「健康で文化的な最低限度の生活を送ること」などの人権があることを理解できたのは、20代半ばの独学でした。
私的なハナシに逸れてしまいましたが、本書では他に論じられていることとして、<被害者ケアの欠如の問題>にも踏み込んで書かれていました。また<メディアが強める勧善懲悪への共感>という小見出しのところも大変興味深かったです。
絶対的なモンスターとしての人間なんて存在しない。多面的で複雑な人間の、部分部分が見た角度によってモンスターに見える、そういうことなのかな?と思いました。
それが善い方に動けば、有名な大リーガーや天下統一の政治指導者、悪い方に動けば、殺人事件の犯罪者のような。
他の平野さんの著書でも語られている”分人主義”がここでは私のアタマの中を駆け巡りました。
予備知識的ですが、死刑を廃止した国は、(EUもそうですが)イギリスやフランス、ドイツ、イタリアなど108ヵ国が「すべての犯罪に対して廃止」との資料があります。(本書付録「死刑に関する世界的な趨勢と日本」より。)
本書は私が、ある殺人事件のことを思っていた時に、本屋さんで見つけて購入したものです。100ページほどの講演本ですが、非常に多角的ですので、「死刑について」考えること以外にも、「人権について」「被害者ケアについて」「冤罪について」「勧善懲悪について」などの考えを深めるきっかけになると思います。
「深刻で難しい問題を、粘り強く冷静に話し合うことは、民主主義社会に生きている私たちに負わされた課題です。」(p93)
という平野さんの言葉が、強く残って響いています。 -
人をなぜ殺してはいけないか、この問いに対して「憲法でそう定められているから」とかかれてあるのを読んだとき、目からうろこの思いがした。このことはとりも直さず、人を殺すことが許される社会が、理論上ありうることを意味する。しかし、我々は人を殺してはいけないとされる社会に生きている。社会がそういう前提である以上、国家も人を殺してはいけないのだとする筆者の論理は、非常に説得的だ。もし、死刑を認めるのならば、私人間での殺人も認められることになるのではないか。本書にはそこまで書かれていないが、突き詰めるとそういうことになるのではないだろうか。
「物事はそう単純に割り切れるものではない」という考えもあるだろう。「私人による殺人は否定するが、国家による死刑は、公正な裁判によって例外的に認められるのだ」と。死刑存置派の人の多くは、そう考えるのだろう。しかしこの考えは絶対に冤罪がないことを前提とする。裁判官も人間であり、そんなことは現実には相当無理がある。そう考えると、やはり死刑は廃止すべきなんだろう。
と、この本を読んで考えさせられた。ちなみに私はこの本を読むまでは死刑存置派だった。 -
社会は優しさを失ってしまう。
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読んでよかった!
平野さんの深みのある考察、被害者の感情を一括りにして決めつけていないか、いや、決めつけていたのではないかと気付かされました。
もちろん被害者の憎しみ、悲しみの感情は汲むべきであり、社会も共感して当然。でも、被害者の感情はもっと複雑で、それは生きていて家族や友人が殺されていない私たちの想像を遥かに超えるものであり、社会は想像力の限界があることをもっと謙虚に受け止めなければならない。
世界で死刑を廃止している国が先進国を中心に多い。
酷い目にあったのだから、加害者も苦しめというだけでは、罪に向き合う時間を奪っていることと同じである。 -
高校生の頃、「決壊」を読んだ。
「加害者家族の問題はあまり考えたこと無かったな…あくまでも尊重されるべきは被害者や被害者遺族だけど、加害者家族も在り人間や生活が存在するのも事実だ。それでも何よりも被害者や遺族がもっとも尊重されるべきだし、被害者遺族大なり加害者家族だろうよ」と感想を抱いた…ような気がする。印象は強かった。
あれから10年経ち、この本で久しぶりに平野啓一郎の文章に触れた。10年も経てば人の考え方は別人のように変わる。社会や様々な環境に翻弄される生身の人間に触れた、私の道程を思い起こす本だった。
平野氏の伝えたいことにふれるほど、とても個人的な自分自身のあゆみについて考えてしまうのだ。
それは平野氏がこの本のあとがきで伝えたように、私にとって「決壊」が、受動的な変化を残す種そのものだったからだと思う。
どんな人間でも一人一人に人生や背景があることを最初に教えてくれた小説だった。
種はあの本だけではなく、たくさんの本が私にほかの種や水を与えて育ててくれたのだけれど、それでも間違いなく植えられた種の一つは決壊だった。
この本を読む前と読む後で自分の意見は少しも変わらないのは、決壊という種がわたしの人生を経て結実したもののひとつだからです。ありがとう。
また他の小説も読みます。
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この様な重たいテーマを、この短い論考で述べられていることに、まず感嘆した。著者の誠実な考え方が短く凝縮された秀逸な書である。「死刑」という国家による暴力で、問題を解決する社会でいいのか。死刑問題を考えるにおいては、この社会のあり方も含めて、大きく捉えていることが必要と思う。著者は当初は死刑賛成論者であったが、小説を書く中で反対論になった。その理由として、冤罪の問題、加害者の生育環境の問題を挙げ、根本問題として、「人が人を殺していいのか」という根本問題まで至っている。被害者に対するケアが弱いという面もある。最後に、この問題は人権として考えてみるべきであると提起している。と同時に日本の人権教育が感情論に偏っているために、きちんとした議論ができにくいという指摘もされている。「すべての人間が、人権という権利主体であることを認めた上で議論していかなければ、人間による人間の選別が際限なく行われていくことになってしまいます」という著者の言葉で感想をしめたい。
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どっちとも考えたことがなかったのできっかけになった。オウム事件の執行時、テレビでカウントダウン的な中継をしていたのは異常だと思ったが。